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第3章
夢見ること
しおりを挟む「これでどれほどのものが買えるのだ?」
市場はたくさんの人間でごったがえしていた。
客寄せの声がいたるところでかかる中、二人は歩く。
問われて、アウレシアは頭の中で計算する。
「そうだな。贅沢さえしなければ、いいとこ十日働かずに暮らせるってとこかな」
「それは多いのか? それとも少ないのか?」
「まあ、多くはないかな。あんたの賞金はあたしらが生活で使う銅銭のアンブル200枚と銅貨のリブル3枚だから、ものの売り値を見ながら、買い物してごらんよ」
イルグレンは市場に並ぶ品物を熱心に眺める。
しかし、すぐに気づいた。
自分が身に着けていたものや、食べたり飲んだりしていたものが、いかに豪勢であったか。
質のよいものもあるにはあったが、それでも、イルグレンが普段着ていた絹は、市場では金貨でなければ買えなかった。
今来ている、渡り戦士と同じ衣服は、銅銭で簡単に賄えるのに。
食べるものも、皇宮での一度の食事に及ぶ量を得るには、銅貨など自分の持つ分では到底足りない。
しかも、ほとんどは食べ切ることもなく、残されたまま片付けられていた。
宴席ともなると、想像もできぬほどの食べ物が無駄になっていたことになる。
「こんなにも、生きるためには金を使わなくてもいいのか? 皇族とは、何と無駄な金を使うのだ。その金は、どこから出ているのか知っていただろうに? 皇族とは、働きもせぬのに、なぜ当然のようにその金を得て生きているのだ?」
勿論、イルグレンも一通り皇宮で教育を受けたのだから、国庫が国営の産業と国民から納められている税金で潤っていたことは知ってはいた。
港もあるために、貿易をしていたことも、関税をかけて利益を得ることも、知っていた。
だが、どれだけ国民が税金を取られているのか、それがどのように使われているかなど、全く知らなかった。
知ろうとも、しなかった。
「――」
結局、イルグレンは何も買うことができなかった。
初めて自分で金を稼いだという喜びも、すでになかった。
アウレシアは軽くイルグレンの肩をたたき、帰り道を促した。
「別に、買いたいものがないのなら無理をして買うことはないさ。使う時までとっておけばいい。あたしらは自分で稼いで金を得る、そうして生きていくと、それがわかったのなら、上出来さ」
市場を出て、アウレシアは小路を抜けて、宿屋までの最短距離を歩く。
道幅が狭いので、自然とアウレシアが前に、イルグレンが後ろになる。
「レシア――」
「ん?」
振り返るアウレシア。
イルグレンは立ち尽くし、じっと乾いた土を見つめていた。
その上に立っている自分の脚を見つめていた。
旅人用の軽い革紐を編んで作った履物は薄汚れ、剥出しの肌もすでに埃塗れだった。
もしも普段彼の着ているもので出歩いたのなら、床まで届く長い衣服の裾は、きっと同じように埃塗れだったろう。
舗装もされない道では、これは当然のこと。
だが、美しい大理石を敷き詰めた故国の宮殿内しか知らなかった彼は、今初めて、自分が過ごしてきた偏った生活を虚しく思い知る。
「グレン?」
「レシア。働かねば、金はもらえんのだな」
抑揚のない声だった。
「ああ」
優しく、返る声。
「金をもらわねば、欲しいものは手に入らんのだな」
「ああ」
「手に入らねば、餓えて死ぬんだな」
「ああ」
たったそれだけのことでさえ、自分は知らずに十七年も生きて来たのだ。
そして、きっと自分にはわからずに通り過ぎていくだけのことが、これからもあるのだろう。
アウレシアが教えてくれなければ、そして、自分で気づこうとしなければ、これからもたくさんの大事な何かを知らないまま、生きていくのだ。
それでも、生きていけるのだ。
「グレン?」
訝しげなアウレシアの顔が視界に入る。
彼女とて、全知ではないのだ。
自分より遥かに物事を知っている彼女とて、知っているのはやはり一部分なのだ。
世界はたくさんのもので溢れているのに、人間は、自分は、ほんの一部分しか知らずに生きて、死んでいく。
なんて恐ろしいことなのだろう。
人間とは、なんと無知で、愚かな生き物になれるのだろう。
行き着く考えに、イルグレンは身震いした。
今はただ、恐ろしかった。
無知なるゆえの純粋な慄きに、ただ言葉もなく立ち竦むだけだった。
小路の角に、小さな人影が見えた。
「――」
アウレシアが、小さくした打ちする。
「さあ、戻ろう。途中で止まるんじゃないよ。振り返っても駄目だ」
腕を引かれて、イルグレンも動き出す。
小路の角を通り過ぎると、ちらりと小さな子供の姿が見えた。
思わず、振り返って見てしまう。
「グレン」
気配を感じて、アウレシアが咎める。
「レシア、あの子供達は何なのだ」
もう一度振り返ると、小走りに後をついて来る。
「旅人を見かけると寄ってくる親のない子達さ。ものごいをするために」
「なぜものごいをするのだ」
「働けないからさ」
「なぜ働けんのだ」
「子供は力も弱い。ましてやあんな小さな子は役には立たないんだよ。ここでは、子供を売ることだけは禁止されているから、あの子らにできることは、ものごいをするか、盗むか、身体を売るかだ」
驚いて、イルグレンは立ち止まる。
「あんな子供がか!?」
アウレシアが大きく息をついて振り返る。
「養ってくれる親を持たない子は、自分で自分の身を護るんだ。他に方法はないよ」
立ち止まったイルグレンの背後に、小さな兄弟が追いついた。
まだ十にもならぬ、保護を必要とするいたいけな子供達だ。
身なりは、ぼろと言うほどではないが、家もなく路上で寝ているのか、土に汚れていた。
兄と思われる、少し背の高いほうが、自分より小さな弟の手をしっかり握っていた。
「悪いけれど、あんたたちにやれるようなものは何もないんだよ」
冷たい口調でアウレシアは告げた。
そうでもしないとこの子らはいつまでも離れない。
愛情に餓えた子供は同情に敏感だ。
「いや――ある」
「グレン!?」
イルグレンは先程の賞金の包みを、背の高い兄のほうに渡した。
「これを持っていけ。これで、しばらくは大丈夫なはずだ」
しゃがみこみ、目線を合わせると、イルグレンは兄のほうに、できるだけ優しく、ゆっくり話した。
「その金は、少しずつ使うのだ。決して見つからぬよう分けて隠すか、いつも身につけているがいい。大金があることを決して他の連中に悟られぬようにするのだ。できるな」
兄弟は、最初訝しげにイルグレンを見つめていたが、渡された袋の重みと真摯な彼の眼差しににわかに現実に立ち返る。
「あ、ありがとう!!」
イルグレンの気が変わるのを恐れたのか、兄弟は二人に背を向け、あっという間に走り去った。
アウレシアは眉根を寄せ、苦い表情で彼を見ていた。
「グレン、その場しのぎの金を恵んでも、次からはまた餓えるんだよ。気まぐれの優しさや施しなら、最初から、しないほうがいい」
「そうだ。お前が正しい――」
苦しげに、認めたくないように、返る答。
「だが、今日生き延びられれば、明日も生きられるかもしれない。
明日は、彼らが餓えなくてすむかもしれない。
誰かが彼らを雇ってくれるかもしれない。
私のように金や食物を恵むかもしれない」
イルグレンはアウレシアに向き直る。
その表情も苦痛に満ちていた。
「私に彼らの全てを救うことはできない。私には、私自身ですら救えないのに。
だが、それでも、彼らも私も明日を夢見てもいいはずだ。
生きるというのは、そういうことではないのか」
真っすぐに向けられるひた向きな眼差しに、アウレシアは暫し言葉を失った。
この世間知らずの皇子は、今日一日で、あまりにも多くのことを学んだのだと、彼女の方も理解したのだ。
「いいや――その通りだよ」
今日の一日がイルグレンにとって実りあるものだった事を、アウレシアは静かに喜ぶ。
この皇子なら、決して道を踏み外すことはない。
同時に、残念にも思う。
もしも、このまま、国が滅びず、太子として立てられていたら、麗しの皇国は、あのような結末を迎えることはなかっただろうに。
こんなにも、素直に心を開いて理解しようとしてくれる者が、上に立つ者であったのなら。
「――私は、何者なのだ、レシア?」
静かに、イルグレンは問う。
「あんたは――皇子様だよ」
静かに、アウレシアは答える。
「では、皇子とはなんだ? この身分に、一体何の意味があるというのだ。意味は、あの国にいて、あの宮で暮らしていたときにしかなかったのではないか?
今の私には何もない。何も持たずに、この失われた身分一つを頼りに、絵姿でしか顔を知らぬ婚約者の庇護のもとで生き長らえようとしている私は何なのだ――?」
虚しさが胸を去来する。
あるのは現実を思い知った痛みと、己の無知と、後悔だった。
宿屋に戻ると、イルグレンは自分にあてがわれた部屋で、エギルディウスとウルファンナに告げた。
「イルグレン様、どういうことですか?」
「聞こえなかったのか? 売れといったのだ。私のものは、全て」
「売ってどうなさるのですか?」
「旅の旅費にでもせよ。ファンナ、欲しいなら、そなたに全部やる。西に着いたら、アルギルスと婚儀を挙げるのだろう? 祝儀代わりだ」
「そのようなものは、頂けません!!」
戸惑うウルファンナは、おろおろとイルグレンと主人のエギルディウスを交互に見上げている。
「美しい着物も、宝石も、全て売るがいい。私には渡り戦士と同じ衣服を用意せよ。私の馬車も要らん」
「なぜ、いきなりそのようなことを? 西へ着いた時にそのような身なりで大公宮に入ることはできません。私は、剣術を学び、腕を鍛えることは賛同しましたが、渡り戦士になれと言ったのではありません。皇族としての誇りをお持ちくださいませ、イルグレン様。失われたとはいえ、御身は暁の皇国の皇子なのです」
エギルディウスの諭すような言葉に、イルグレンは首を横に振った。
「誇り? 身を取り繕うだけの誇りならば、捨て去るがよい。
誇りとは、着飾った美しい姿に宿るのではない。
破れ、薄汚いぼろを纏おうとも、己を卑下せず顔をあげて生きていけるその心に、宿るのだ」
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