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第4章
果てしなく遠く
しおりを挟む空になった杯に酒が注がれるのを視界の片隅にとらえ、我に返る。
同時に、馴染み深い酒場の雰囲気も戻ってくる。
男衆達の鼾。
煙草と香辛料と酒の交じり合った臭い。
口の中に残る度数の強い酒の心地よい後味。
「――」
とても永い時が、経ったようにも思える。
それとも、今までのことは、全て夢だったようにもか。
あそこを離れてから、なにもかもがめまぐるしく変わった。
だから、全てのことが現実離れして感じるのだろうか。
リュマは死なず、皇国は滅びず、女の絶望になす術もなく立ち尽くす無力な自分を知らずにすんだ頃に今もまだいられるような、そんな錯覚に襲われる。
だが。
「何でだろうな。あんなに華奢で、俺がちょっと力を入れて殴ろうものならたやすくふっとびそうなほど脆く見えるのに、決してなにものにも屈しない」
痛みは現実だ。
弟のように可愛がっていたリュマはもういない。
あの日からずっと、男は悔いている。
もし、もう少しはやく戻っていたなら、リュマを救えたはずなのだ。
女は自分を責めていたが、自分とて同罪だ。
救える力があったのに、間に合わなかった。
あの国の情勢が混迷しているのを知っていながら、リュマと結び付けられなかった自分の腑甲斐なさが、救える生命を死に追いやったのだ。
リュマに会いたかった。
自分の話を瞳を輝かせて聞いてくれた、自分の身を案じてくれた、育ててくれた優しい姉を何より愛していたあの少年が、あんなにも痛ましい死を迎えたことを忘れ去りたかった。
それでも、自分は生きていける。
リュマを失っても生きている自分を、いつか許すこともできるだろう。
だが、女にはできない。
血の絆か、それ以上の愛か、それとも後悔なのか、いずれにせよ、女は結果として弟を見捨てた自分が生きているのを許すことができないのだ。
自分自身を許してやることもできず、傷ついたままの女を見ているのはつらかったが、死んでしまうよりはいいと思った。
生きていれば、いつかきっとやりなおせる日が来る。
そうと信じて男は死を望む女を引き止めたが、それを復讐で補ったことで、女はさらに傷ついていくだけなのではないだろうか。
いっそ死なせてやればよかったのか。
そんな思いが胸をよぎる。
「あいつが憐れでしかたがない」
明け方近く、部屋へ戻った男は、扉の前で小さな歌声を聞いた。そっと扉を開けて中へと入る。
それは、子守歌だった。
女は、男が部屋に入ってきたことにも気づいていなかった。
否、気づいていてもどうでもいいことなのだ。
ただ、静かに、子守歌を繰り返す。
リュマに歌ってやった、あたたかで幸福だった日々を思い起こす、そしてもう二度と戻らぬ日々を呼び起こすためだけに。
「――」
失った過去に囚われ続ける女を見ているのは胸が痛む。
その感情は確かに憐れみだが、それ以上に、男は女を愛しく思っていた。
リュマが語る姉の話を聞いて、いつしか会いたいと願っている自分に気づいた。
笑った顔が何より綺麗だと、大好きだと言っていた、その笑顔を、心から笑った顔を、いつか見てみたいとずっと思っていたのだ。
しかし、女はもう心から笑わない。
男には何も出来ない。
強い拳も、剣も、目の前の女を救うことは出来ないのだ。
「お前が何をしても、リュマは戻ってこない」
低い男の呟きに、子守歌が止まった。
女がそっと振り返る。
わかっているのだ、女にも、本当は。
それでも、こうすることでしか生きていられない。
「弟を見殺しにしたあたしは、すでに堕ちている。
これ以上堕ちたって、どんな違いがあるっていうの?」
目を決して逸らさず、じっと男を見据える。
最後に言葉を無くすのは、いつも男のほうなのだ。
たくさんの気休めの言葉なら、いくらでも言うことができたが、それこそ意味がなかった。
どんな気休めも、女には届かない。
通り過ぎる風のように、ただ、告げられるだけ。
女の絶望は、言葉では救えない。
失った痛みが強すぎて、失くしたものをあまりにも愛していすぎたから、それ以外の何も見えなくなっている。
そして、何より、女は絶望していたいのだ。
死ぬはずだった自分をつかの間引き止めているのは紛れもなくその絶望だから。
胸の内に絶望が在る限り、まだ、生きていられる。
この世界で生きる意味がある。
皇族の全てを滅ぼすまで、その苦痛は女を生かしてくれるのだ。
「――」
笑わない女を、男はそっと抱きしめる。
リュマ。
そっと男は呟いた。
姉を救ってやれ。お前にしかできない。
リュマ。
そっと女は呟いた。
待っていて。もうすぐいく。あんたの所へ、もうすぐいけるわ。
身体はこれ以上ないほど近くにあっても、心は果てしなく遠かった。
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