暁に消え逝く星

ラサ

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第7章

夜明けの紫

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 涙が乾くには十分な時が過ぎた。
 気持ちも落ち着き、何事もなかったかのようにアウレシアは立ち上がった。
 その時。
 遠くから蹄の音が聞こえる。
 朝日に向かって駆けてくるその姿を、なぜかアウレシアは確信していた。

「グレン――」

 近づいてくるその姿は、身を飾る宝石も宝冠も宝剣も美しい着物も、高貴な身分を思わせるようなものは何も身につけていなかった。
 リュケイネイアスら戦士の着る、簡素な衣服に、細身の剣、使い古した革のフードのみ。
 アウレシアの前で手馴れたように馬を止めるその姿だけを見ると、とても皇子には見えない。
「――なんでここに」
「リュケイネイアスに聞いてきた」
 かすかに息を切らせながらも、一息に言い切った元皇子は、軽やかに馬から降りた。
 そのまま、大股でアウレシアのもとへ向かう。
「違う、あんた、公宮に行ったはずだろ。なんでそんなカッコでここにいるんだ!?」
「ああ――捨ててきたからだ、全部」
 こともなげに、イルグレンは告げた。
「もう何も要らないのだ。美しい着物も、身を飾る宝石も、豪奢な宮も、皇子という身分も、たくさんの家来も、美しい花嫁も」
 そっと、イルグレンはアウレシアの頬に触れる。
「お前以外の、何も」
 唖然としたアウレシアに構わず、イルグレンは言を継ぐ。
「お前は、私のために何も捨てない女だからな。だから、私が捨ててきた。リュケイネイアスにも許可をもらったぞ。お前も言ったろう? 私には皇子稼業をやめても食べていけるだけの腕があると。自惚れているわけではないが、お前の傍にいるには渡り戦士が一番都合が良いだろうと思ったので」
 笑って自分を見下ろす男を、アウレシアは怒りとも悲しみともつかぬ表情で見つめた。

 なんという愚かな男だろう。

 自分のような女の言葉を真に受けて、本当に何もかもを捨ててきたというのか。
「馬鹿だよ、あんた。後悔する」
 言った自分が、後悔したくなってきた。
 この天然な皇子様の代わりに。
「あんた、全然わかってないよ。捨ててきたものが、どんなに大事か。
 全部捨ててきたんだよ? 何不自由ない生活、これから先の幸せ、全部捨ててきたんだよ?
 悪いことは言わない。今ならまだ間に合う。まだ――戻れる」
 アウレシアの言わんとしていることは、イルグレンにもわかっていた。
 彼だとて、一時の感情でここまで来たわけではないのだ。
 心を決めてからでさえ、何度も考えた。
 何度も悩んだ。
 不安も、淋しさも、ある。
 もうどこにも戻れぬのだという孤独も、完全に振り捨てられるはずはなかった。
「ああ。後悔するかもしれない。だが――」
 真っすぐに見据える瞳。
 夜明けの紫だ。

「お前を失ったことを後悔し続けて生きていくよりは、ずっといいはずだ」

 強い眼差し。
 確かな言葉。
 アウレシアは泣きたいような気分になった。
 どうしてだろう。
 世間知らずで、甘ったれの、何もできない皇子様のくせに、本当なら、絶対選ぶはずのなかった種類の男のくせに、どうして、彼の言葉はこんなにも胸に響くのだろう。
 どうして、胸を震わせるのだろう。
 たくさんの男達と言葉を交わし、夜を過ごし、愛していると思った時もあったはずだ。
 それでも、こんなにも胸に響く想いを知らない。
 こんなにも胸を震わせる想いを知らない。
 応えぬアウレシアに、イルグレンはふと不安げに口を開いた。
「もしかして、今はもう別の誰かがいて、私はお払い箱というやつなのか? それならそれで、私はお前を取り戻すためにその男と戦わねばならんのだが」
「――」
 この見当外れな所もやはり皇子たる所以なのか。
 どこをどう考えたら、そういうことになるのだ。
 別れてから一週間、その間、自分は――認めるのも癪にさわるが、この男を忘れようと――砂漠越えまでしている。
 新しい男を作る暇などどこにあるというのだ。
「この――馬鹿が。新しい男なんて、いるわけないだろ!? どこにそんな暇があるってんだ!」
「だが、人の心は移ろいやすい。離れていれば、心もいつか離れていくだろう。私はお前に忘れてほしくなかった。思い出の中の一人にはなりたくない」
 イルグレンは、アウレシアの両手をとり、指先にくちづける。
「お前を愛している。捧げるものとて何も持たぬが、お前の傍にいることを許してくれ」
 その言葉は、偽りなく胸に響く。
 こんなにも真摯に愛を告げられたことなど、あっただろうか。
 こんなにも激しく己を求められたことなど、あっただろうか。
「――あたしはあんたのために何も捨ててやらなかったのに。あげられるものなんて、何もないのに」
「私は、お前に私のために何かを捨てろといいにきたのではないのだ。お前を縛ろうなどと思っているわけでもない。お前が自分のために何も捨てぬように、私は私のために全てを捨ててきただけだ」
 その言葉は、こともなげに、心さえ惑わせる。
 愛おしげに自分を見下ろすイルグレンに、アウレシアは更に問う。
「じゃあ、あんたはあたしにしてほしいことは何にもないってのかい」
 問われたイルグレンは、少し考えるように首を傾げ――
 それから、得心したように笑って両腕を広げた。
「そうだな――ただ、今のところはお前を抱きしめて、くちづけしたいのだが」



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