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誤った結び目を解く方法

行方を阻む嫉妬と蘇る慕情

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ユリウスの検査に数時間かかるというので、私達はその間、ミュンヘン市内へ朝食と買い物に出た。駅前の大通りからやや外れた路地に、Seit 1988という名前の少し古めかしいカフェを見つける。あまり時間に余裕はないので、そこで朝食を取ることにして店内へ入ってみると、中世の街らしい歴史観が漂う煉瓦の壁に、エレガントでモダンな家具並べられて、古風で落ち着きのある場所だった。テーブルとテーブルの間隔がゆったりと取られていて、ローカルの人が多いのか、新聞を広げた紳士や、朝食を取りながらラップトップを見ている出勤前の大人が多い。観光客らしい人は殆ど見かけないせいか、とても静かだった。
高い天井からはどっしりとした深紅のカーテンが大きな窓の半分くらいを覆い、室内は朝なのに薄暗く、ここだけ時間がゆっくりと流れているようだ。案内された窓際の丸いテーブルに着席すると、黒いロングエプロンを付けたウエイターがテーブルのキャンドルに火を付けて、重々しい革カバーがついたメニューを配ってくれた。
「なんだか声を潜めないといけない雰囲気よね」
マリアが辺りを見渡しながらそう私に囁く。
「ほんとに。それに、スーツ姿の人が多いし、おしゃべりしている人もあまりいないよね」
私も声を潜めてマリアに囁き返す。
こそこそと話していると、向いに座っているヨナスとクラウスがメニューから顔を上げた。
「君たちはもう決めた?」
長男ヨナスが仕切るらしい。私達はまだ決めていなかったので、急いで「朝食メニュー」に目を走らせる。ゴシック文字で印刷されていて若干読みにくかったが、一番無難そうなセットに決めた。スクランブルエッグ、サラダ、ハム、チーズにパンが付いて来て、温かい飲み物が選べるやつだ。
それぞれ注文を済ませて、ほっと一息をつく。
「検査が終ってみないとなんとも言えないが、症状が重くはないところを見れば、手術まではしなくてもいいかもしれない」
ヨナスがそう言って、小さく溜め息をついた。
「手術なしですんだとして、問題は今後のことだ。体調を厳しく監視する必要があるし、仕事の負担も減らすべきだろう」
クラウスがそう言うと、ヨナスが腕組みをしながら考え込む。
「俺はもうSommerfeldを戸籍上は出た人間だから、父の件に関してはお前に負担がかかることになる。お前が舵取りをしないと、ダニエラが主導権を握ろうとするだろう」
「それだけは避けるべきよ!」
マリアが断固許さぬ、と言うように意見する。
クラウスは黙ってヨナスとマリアを見た後、私の方へ目を向けて、それから一度大きく息をついた。
「さっきは仕事や今後の話をするほど時間もなかったが、検査が終った後に様子を見て父と話すことにしよう。ヨナス、お前もSommerfeld家を出たとはいえ長男であることには変わりはないし、一族会議が開かれるとしたら出席してもらうつもりだ」
「それは勿論だ。お前ばかりに背負わせるつもりはない」
ヨナスが目を細めて微笑むと、その目元がクラウスとよく似ていることに気がついて思わずじっと見てしまった。二人が兄弟だと知るまでどうして気がつかなかったんだろうと時々不思議に思う。こういう微笑み方や、冗談の言い方などは本当によく似ているし、髪や肌のトーンが違うくらいで、背丈や体格もほぼ同じ。多分、ヨナスのほうが中身はともかくとても上品な外見で物腰が優雅に見えるのに対し、クラウスはアメリカ生活が長いせいか、どこか洗練された振る舞いがやや自由奔放な印象を与えるせいだろう。あくまで、印象がそうだというわけであって、中身がその通りだというわけではない。ヨナスのほうがどちらかというと短気だと思うし、あのマリアと言い合いしているところなんて、ラテンの血が入っているんじゃないかと思うくらい熱い。その点、クラウスが感情を剥き出しにすることは逆に少ないと思うので、割と我慢強い性格なんだろう。
周りが静かなので私達もなんとなく口数少ないまま朝食を終え、マリアと私は先に表に出て、これから買い物に行くプランを調べるべく、携帯であたりのお店をチェックする。



「この近くに、お店がたくさん並んでいるKaufingerstrasseがあるわ。とりあえず3日分の着替えを準備するにはここでいいんじゃないの?ZaraとかH&M、Mangoなら可もなく不可もなくって感じでしょ。今日はスピードと効率重視ってことで」
マリアが携帯スクリーンの地図を拡大しながらそう呟く。
「うん、賛成。そこならあまり悩む事無く無難な普段着が買えそうだよね」
私も一緒に地図を覗いていると、支払をすませたヨナスとクラウスが出て来た。
「もう店も開いている時間だ」
ヨナスがそう言って携帯を覗き込んだ。
マリアがKaufingerstrasseのツーリスト情報を見せながら、辺りを見渡した。
「あっちのほうみたい。早く行きましょう」
マリアが私と腕を組み、先頭に立って歩き出すと、男性陣はその後ろから付いて来る。割と観光客が多い通りのようで、道幅が広いにも関わらず気をつけないとはぐれて迷子になりかねない。私達はZARAとH&Mをすぐに連続で見つけたので、各自で買い物をして、30分後に表で集合することにした。
時間にはあまり余裕がないので、とりあえず無難なものだけを選ぶ。黒のパンプスに合うように、ZARAではブラウンやブラック、ホワイトでトップスとボトムスを選び、H&Mで下着などを選んだ。どれも試着はしなかったけれど、薄手のセーターなどは収縮もする生地なので問題ないだろう。
予定された時刻に全員が集合し、急いでホテルへと戻る。あと2時間くらいでユリウスの検査が終る予定だ。
フロントで鍵を受け取りながらヨナスが腕時計を見る。
「1時間後にロビーで合流だ」
「了解」
「マリア、俺達は少しコンシェルジュに寄って行こう」
ヨナスがマリアの手を取って私達を振り返った。
「俺達は部屋に戻る。じゃぁ1時間後に会おう」
同じくフロントから鍵を受け取ったクラウスはそう言うと、私から紙袋を取り手を繋いだ。
「また後でね」
マリアが私に手を振って微笑み、ヨナスと一緒にコンシェルジュのほうへと向ったので、私達は先にエレベーターホールへ行く。このSofitel Munich Bayerpostは遺産登録されているだけあって外観は19世紀の建築様式の重厚な造りだが、内装はかなりモダンで色合いも明るい。広々としたフロントは全面ブラウン一色で統一され、ふかふかのゴールドカーペットで足音もしない。ロビーも大広間のように広く、近代的な階段と磨き上げられたフロアは、ガラスばりの壁を通して注ぎ込む薄紫色の明かりに照らされて、幻想的なラベンダー色に染まっている。天井とソファーの背後に設置されているランプは暖色系。ここは紫と黄色で二色に分断された不思議な空間になっていた。
カールが予約してくれたラグジュアリールームは高層階にあり、緑豊かな中庭とミュンヘン市街を一望出来る大きな窓があった。ネスプレッソマシンにiPad ステーションもあって設備も充実している。
部屋に戻って私は先にもう一度シャワーを浴びて買って来た服に着替える。ブラウンカラーのパンツに白いシャツ、そしてグレーの薄手のセーター。Armaniのドレスを脱いで、カジュアルに着替えたら、ようやくリラックス出来た気がする。クラウスはiPadで仕事関係のメールなどをチェックしたり、電話で部下と連絡を取ったりしていたが、私が出て来ると交代でバスルームへ行く。
やはり、父親が脳梗塞の検査を受けているせいか、表情は柔和なものの、普段より口数も少なく静かだ。
クラウスがバスルームに入っている間、私はレオナ・ローサのことを考えていた。彼女を探してみようということは、誰にも言わないつもり。まず第一に、彼女が見つかる保証はないし、見つかったとして、果たして今現在、彼女がどういう環境にいるのかもわからない。もしかしたら再婚して幸せになっていることだってありえるし、その他の事情でユリウスとは会える状況にない可能性だって考えられる。
唯一はっきりとしていることといえば、私の心の奥底にある、彼女が見つかって欲しいという切実な想いだけだ。
来週後半から、美妃が彼氏を連れてベルリンに遊びにくるので、美妃に相談してみようと思った。私がほとんどクラウスのところに居るので、結局私のアパートを二人を滞在場所として提供することにしたので、何かと便利だろう。
やがてクラウスも着替えて出て来た。グレーのパンツにブラックのセーターで彼もどこかリラックスしたような表情になっている。
「ZARAの服は着たことがなかったけれど、意外と着心地は悪くない」
そう言いながら、デスクの上に置かれたiPadに指を走らせてメールをチェックする。
「似合ってる!もうセーターの季節になったね。ドイツの秋は駆け足でやってきたみたい」
本当に急に朝夕がかなり冷え込むようになったと思う。今朝見たミュンヘンの街も、通りの木々からの落ち葉が目につくようになっていた。
私は大きな窓に置かれているカウチに座り、外の景色に目をやる。
街を歩く観光客や、大通りに並ぶお店やカフェ、レストランなど、とても活気のある街並みだ。
しばらくiPadでメールを読んだり書いたりしていたクラウスが、デスクチェアから立ち上がりiPadの電源を落とすと、私の側にやってきて外を見下ろした。
「Sofitel Munichはとてもいいホテルだ。利便もいいし、設備もかなり良い。今回は急だったから自分達で部屋を選ぶことも出来なかったけれど、次回、長めに滞在することがあればもっと良い部屋に宿泊しよう」
「この部屋もとっても居心地いいよ」
「ここのスイートはテーマによって部屋のインテリアが違う。アトリエタイプだとホワイトで統一されていたり、ナチュラルタイプは、室内がほぼ全部木製家具だったりする。俺はまだ泊まったことはないが、メゾネットタイプもあるらしい」
「メゾネットタイプ?階段が中にあるの?」
「人数が多い時などに利用するんだろう」
「すごいね。まるでアパートみたい」
もしかすると、ホテルに住んで生活している人もいるのかもしれない。でもよく考えたら、クラウスだってかなり長い間、週毎に違う街に泊まっていたようだから、実際本当にスーツケースひとつで街から街へ移動してジプシーみたいな生き方をしている人が居たって不思議じゃないだろう。
そんなことを思いながらデスクの上にある時計を見ると、あと15分くらいで待ち合わせの時間だ。ユリウスの検査もそろそろ終わりが近づいている。診断の結果が気になるが、こればかりはただ祈るしかない。ヨナスが言ったように、手術する必要がない軽症でありますように……!クラウスと、ヨナスのためにも、彼らの父が健康と幸せを取り戻せますように……!
そう強く願いながら、外を見ていたクラウスに目を向けると、彼はもう外ではなく私を見ていた。いつになく真剣な顔で私を見ていたので思わずびっくりしていると、クラウスがはっとしたように瞬きをして、くすりと小さく笑う。
「何か随分と真剣な考え事をしている目をしていた」
「あ、、、うん、そう、、、お父さんが早く元気になってほしいなと思って」
ごく当たり前のことだけど、それを言葉にするとやっぱり不安が戻って来て、私は両手を伸ばしクラウスの背をぎゅっと抱きしめた。肉親が病に倒れているのはクラウスのほうで、私より彼のほうが辛いはずだ。私が彼を支えるべきなのに、自分が弱くなっていてはダメ。
「ありがとう」
クラウスが落ち着いた声でそう答えて、ぎゅっと私を抱きしめる。しばらく彼の温かな胸の中で目を閉じてぬくもりに抱かれていると、不安が和らいで心が落ち着いて来る。彼は今どんな気持ちなんだろうと気になって見上げると、いつもと同じ澄んだ瞳が二つ、優しい光を秘めて私を見下ろしていた。視線が重なると彼がその目を細めて微笑み、身を屈めてキスをする。私も彼の首に両手を回して背伸びをした。穏やかで割れ物に触れるような優しいキスの後、クラウスはクスッと笑って突然私を抱き上げた。
「Meine Liebe」
いつものように耳元で囁かれたその言葉にドキンと胸が弾む。
何度聞いても幸せな気持ちで満たされて、彼が愛おしくてたまらなくなる瞬間だ。手を伸ばしてその精悍な頬に触れると、クラウスが私の手のひらに唇を寄せる。
彼は私をベッドにゆっくりとおろし、左右に両手をついて真上から私の目をじっと見つめた。
「愛してる、カノン」
優しい微笑みを浮かべてそう囁いてくれるクラウス。私は微笑みながら両手を伸ばして彼の首を抱き寄せ、その耳に囁き返した。
「私も。愛してる、クラウス」
彼の頬にキスして、その柔らかな髪に触れた。クラウスの熱い唇が私の首から鎖骨のあたりに滑っていく。
私の胸に頬を寄せると、そっと目を閉じたクラウス。きっと私の胸の高鳴りが聞こえているだろう。私が呼吸するたびにゆっくりと上下する彼の頭をそっと抱きしめて、静かな時間をしばらく過ごす。やがて、待ち合わせの時間の5分前でセットした私の携帯アラームが小さく鳴り響いた。
抱きしめていたクラウスを見下ろすと、彼は目を開いて何か考え事をしているようだったが、やがてゆっくりと身を起こし、少しだけ照れたように微笑んだ。
「心地良すぎて、起きるのが億劫になってしまった」
「ほんとに!でも私、気持ちが落ち着いたみたい」
それに、冷静さも戻って来て、すべてに対してポジティブに考えられそうな気がする。
ベッドから起き上がり、デスクに置いてあった携帯のアラームを消し、それをバッグに入れて出かける準備をする。病院に行くのでメイクも控えめにして、下ろしていた髪をくるくると捻ってピンで止めた。冷蔵庫のミネラルウォーターをグラス一杯飲んで、部屋の出口へ行くと、クラウスがドアを開けて待っていた。
「お待たせ!」
そう言って見上げると、クラウスが私の髪に手を伸ばしピンを外した。
「あっ」
まとめていた髪がまた広がって私の背を覆う。思わず髪に手をやってびっくりしていると、クラウスがにっこり微笑んで片手で私の髪をそっと梳いた。
「これでいい」
「でも」
病院に行くのだから、まとめていた方がいいんじゃないかと言おうとしたら、彼が私の首を引き寄せてキスをした。何か異論を唱えようとするとこうして口封じという強硬な態度に出るクラウス。彼の情熱的なキスで、私の意識が遠のいて、何を言おうとしてたのかさえ忘れてしまうのを知っているのだ。ようやく解放された時には息が乱れて、唖然として彼を見上げると、クラウスが勝ち誇ったように目を煌めかせて私をじっと見下ろした。
「君はどうしてそんなに俺の心をかき乱してしまうんだ?」
「私じゃない!貴方が」
かき乱されているのはこっちだ!
翻弄されてドキドキしているのは私のほうなのに!
いつもそうやって彼のペースに巻き込まれてしまう。
なんだか悔しくなってクラウスをじっと見つめる。
彼は楽しげに目を細めると、不敵な微笑みを浮かべ私の耳もとで囁いた。
「どちらが本当に主導権を握っているか、後でゆっくり確認する」
「……っ」
耳にかかる彼の息づかいにびくっとしてしまい、動揺してしまったのがバレる。
バレた事実に恥ずかしくなって頬が熱くなり、恨めしげにクラウスを睨むと、彼はクスクスと笑いながら私の手を取った。
「さぁ、行こう。あの二人を待たせるとこっぴどく叱られてしまう」
時計を見ると、約束の時間からもう5分も過ぎていた。
私は驚いて彼の手をひっぱった。
「遅れてる!早く、早く行こうっ」
二人でエレベーターへ急ぐのを、通りかかった他の宿泊客が笑いながら通路を空けてくれた。


今朝とは違う裏道を通って病院へ歩いて行く。
並木通りにはいくつもの木の実が落ちていて、本当に秋らしくなっている。まだ色が緑色のどんぐりに混じって、見た事の無い木の実があるのに気がついた。
「これ、なんていう木の実?」
立ち止まってその実を手に取って拾ってみた。やや小さめで三角形のどこかで見た記憶のある、薄い茶色の実だ。
「カノン、これはヘーゼルナッツだ」
前を歩いていたヨナスが振り返ってそう言ったので、びっくりする。
「食べられるヘーゼルナッツ?」
思わずそう聞き返すと、それを聞いたクラウスが吹き出した。
「食べられないヘーゼルナッツがあったら教えてくれ」
マリアもヨナスも笑って私を見たので、変な質問をしてしまったと思わず赤面する。でも、日本ではこんな風にヘーゼルナッツが道ばたに落ちているのを見た事がないので、食べられるのかどうか疑問に思ってしまった。
クラウスが笑いながら私の手のひらに乗っているヘーゼルナッツに触れて、にっこりと微笑む。
「君の目と同じ色だ」
そう言って彼がじっと私の目を探るように覗き込んだ。
フーゴの目の色はこういう黄味がかかった茶色だけど、もう少しグリーンが強かったなと思い出す。ヘーゼルカラーの目は、純日本人でも地域によっては存在する色だと聞いたことがある。ライトグリーンとライトブラウンが混ざった中間色だから、陽のあたり具合や環境によって複数の色に見えることがある。私の目はフーゴの目よりグリーンが弱いため、夕焼けの日差しだと濃いオレンジ色に見えるらしい。ヨーロッパではそう珍しい色でもないのだけれど、私の顔立ちがエキゾチックなことや、肌の色が白人のように赤みがかった白い肌ではないためか、どこか不思議な感じがするとアナが言っていた。
私は青い空に浮かぶ雲と、色づきが美しい木々を見上げた。
秋は一年の中で、最も心が豊かになる季節だと思う。
ドイツの秋は日本より早く、9月の終わりにはやってきた。
木々が美しく紅葉し、風に吹かれてその葉がゆっくりと舞い落ちる。それらが煉瓦の道に重なるように落ちて行く様子も美しいし、こんなふうに、どんぐりやトチの実、ヘーゼルナッツなどいろんな木の実があちこちに散らばっているのを見て歩くのも楽しい。
トチの実の殻はまるで針が短いウニみたいな形。ヘーゼルナッツの殻はイソギンチャク形。こんな面白い発見もある。
クラウスとヨナスのお父さんが、早く退院出来て、この秋の季節を楽しめるといいなと思いつつ、いくつか木の実を拾って、先を行くヨナスとマリアを追いかけようと顔をあげると、クラウスが立ち止まって私を待ってくれていた。
病院に向かう途中で小さい花屋さんがあり、マリアと私で花を選び、ブーケを作ってもらうことにした。深いボルドー、オレンジ、イエローのダリアに、秋が旬のピンクの薔薇。アクセントとして、ペッパーベリーの実とクリームホワイトの胡蝶蘭を混ぜ、緑の葉を控えめに足してもらうと、優しい秋の風情が漂う素敵な花束になる。籐のバスケット型のカゴにアレンジしてもらうと、まるで森の中で作った花籠のようだ。
お店の人も、とっても奇麗なブーケが出来たと喜んで、花かごの持ち手にボルドー色のリボンをあしらってくれた。
病院が近づくと少し緊張が戻って来て皆言葉が少なくなる。ロビーにはカールが私達を待っていて、私達に気がつくと笑顔で立ち上がった。
「お待ちしておりました。少し前に検査が終りました。ヨナス様、クラウス様がいらしたら担当医のほうから説明があるとのことです」
「父の様子はどうだ?」
「検査が終ってお疲れになったようで、先ほどから休みになられております」
カールがそうヨナスに答えると、クラウスが時計を見た。
「担当医のところへ行こう」
「そうしよう。マリアとカノンは先に病室へ行って待っていてくれ」
ヨナスに言われて、マリアが頷いてカールに微笑みかけた。
「カール、それじゃぁ悪いけど、私達を案内してもらえるかしら。病室がどこだったか、はっきり覚えてなくて」
「勿論でございます。こちらへどうぞ」
カールが目尻の皺を深くしてにっこりと微笑む。
きっと、ヨナスもクラウスも、カールとは長い付き合いなのだろうと思う。まるで、二人のおじぃちゃんのような存在みたいな、そんな親しい関係であることは一目で分る。
ヨナスとクラウスが受付のほうへ向かうのとは反対に、私達はカールと一緒にエレベーターホールへ向かった。
病室の前まで来て、カールがそっとドアをノックして中へ入ると、ユリウスは反対のほうを向いて眠っていた。それを見たマリアがカールを振り返って、声を潜めて言う。
「カール?貴方も疲れているでしょう。しばらくロビーのカフェテリアかどこかでゆっくりしてきて。私達がここにいるから、ね?」
カールがびっくりしたような顔でマリアを見た。私もそこまで気が回らなかったけれど、よく考えたら、カールはこちらに来てからずっとユリウスの側に付き添っていたのだ。疲れているに違いない。
「いや、ですが」
遠慮しようとしてか、カールが困ったように口を濁した。
「マリアの言う通りだと思います。ユリウスさんが目覚めてなにかあれば、私がすぐにカールさんのところに行きますから、ちょっとだけ息抜きされてください」
私も声を潜めてそう言うと、マリアがオリーブ色の瞳を煌めかせて私にウインクした。
すると、表情が固かったカールが、少しほっとしたように頬を緩めて微笑んだ。
「そうですか。では、少々時間を頂いて参ります。下のカフェテリアにおりますので、何かあればいつでもおっしゃってください。イーナは今、外に買い物へ出ておりますので、30分ほどで戻るはずです」
「わかったわ。ゆっくりしてね」
マリアにそっと背中を押されたカールが、足音を立てないようゆっくりと部屋を出て行った。
「部下を見れば上司が分るって、真実だと思うわ。カールがお父さんにあれほど忠実に尽くすところを見れば、お父さんがそれだけの人間だと証明されているようなものよね」
マリアがそう呟いて、真っ白いベッドに横たわっているユリウスに目を向け、少しだけ悲しそうに瞬きをした。点滴を付けた手が痛々しく、疲れた様子で眠っているユリウスを見ると、日頃の心労が重なって今回の脳梗塞という事態になったのではと考えてしまう。その心労の原因というのが、妻のダニエラと、そし息子達の間で板挟みだというユリウスの立場、というわけだから、私達も心が痛い。
言ってみれば、マリアや私も原因の一部ではあるわけなのだから。
私達は顔を見合わせて思わず溜め息をした。
窓際のカウチとソファの前にあるローテーブルの上に、持って来た花かごを置いた。そこだけが少し秋めいて病室の雰囲気が明るくなる。思い出してバッグの中から、拾って来た木の実を取り出すと、花かごの周りに飾ってみた。
「うん、いいわね」
マリアが木の実を見て微笑む。
私達はカウチに座って、静かにユリウスの寝顔を見ていた。20分か30分が経って、ドアのノックの音がすると、静かにドアを開けてヨナスとクラウスが入って来た。顔を見ると、二人ともどこか安堵したような柔らかい表情だったので、私もマリアも顔を見合わせてほっとする。どうやら、大事には至らない結果だったらしい。
二人は、眠っている父の様子を確認すると、静かにソファに腰を下ろした。
「手術の必要は現段階では必要はないらしい。2週間弱、入院してコレステロール値を下げる治療を受ける必要はあるが、その後は退院して投薬を続けながら予後経過を見ることになる。定期的にチェックをする必要はあるが、今回の脳梗塞ではこれという強い後遺症はなさそうだ。多少、しびれや頭痛が残る可能性もあるとのことだったが……」
ヨナスの説明を受けながら、私達は黙って頷く。
「コレステロール値って、ストレスでも上がるっていうから、生活の質も見直す必要があるわね」
マリアがそう独り言のように呟いた。
日々の生活からストレスを減らす。
それがどれだけ難しいことかは全員がわかっていることだ。
同じことを考えてか、皆、沈黙する。
ユリウスがくつろげる場所なんて、今はどこにもないのだ。
本来なら、自分の家庭でリラックスすべきなのに、妻は彼を置いて別居しているし、彼女と息子達は対立していて、どちらも一歩も引き下がらないのだから……
しばらくして、ユリウスの手が動いたかと思うと、ゆっくりと目を覚ました。彼はうっすらと目を開くと、目の前に居る私達のほうを見る。そして少し困った様な、それでいて照れた様な微笑みを浮かべて呟いた。
「起こしてくれてもよかったんだが……これでは私が本当の病人のようじゃないか」
「今は、正真正銘、病人だ」
ヨナスがそう言ってにこやかに微笑む。
その言葉にユリウスが舌打ちをして、気まずそうに瞬きをすると、私とマリアを見た。
「自分の寝顔をずっと見られてたのかと思うと、なんとも恥ずかしいものだ」
その言葉に思わず私達はクスクスと笑い出した。
こんなことを言うくらいだから、割と気分も良いのだろう。少し安心して皆、表情が和らぐ。
その時、ノックの音がして、カールとイーナが入って来た。
「お目覚めになられましたか。皆様にお飲物を持って参りました」
どこまでも気が利くカールだ。彼はイーナと一緒に、コーヒーやアップルパイなど差し入れを運んで来て、テーブルに並べた。私達が持って来たブーケを囲むように、湯気が経つコーヒーやケーキが並ぶと、ユリウスが少し身を乗り出してその様子を眺める。
「随分と楽しそうなテーブルだ。しかし、残念ながら私の分はないらしい」
「恐れ入りますが、ご主人様の食事はすべて、担当医の指示に従うことになっておりますので」
カールがはっきりとそう言うと、ユリウスが残念そうに溜め息をしてベッドに寄りかかる。そして、恨めしそうにカールを横目で見た。
「おまえは、医者と俺のどちらに仕えているんだ?」
すごい質問をするなと思って驚いていると、カールは全く動じる様子はなく、にっこりと微笑んだ。
「勿論、ご主人様です。貴方様のお体のためということですから、ご主人様の命令であっても、お医者様の指示に背く事は出来ません」
「あぁ、そういうのをバカ正直というんだ」
ユリウスがそう言って苦笑いする。
そのやりとりを見ていると、ヨナスやクラウスが皮肉っぽく悪態をつく様子と似ていた。どうやら、甘いものが好きらしい。ヨナスの甘味好きは、間違いなく甘党の父親のDNAを受け継いだということだろう。
その様子を微笑ましく思いながら、私は口を挟んだ。
「お加減がよくなるまでのご辛抱ですから。どんなケーキがお好きなのか、前もってお伺いしてもいいですか?」
すると、ユリウスが少しびっくりしたように目を丸くして私のほうを見た。それから、ベッド脇のランプのところに置いてあった銀縁のメガネを取ってかけると、手招きをする。
なんだろうと思って近くによると、ユリウスが不思議そうな顔をしてじっと私の顔を眺めた。それからちょっと可笑しそうに笑って、カウチに座っているクラウスを振り返る。
「不思議な偶然があるものだ。彼女は明らかに私が知っている人とは違う娘なのに、あの人と同じ事を言ったものだからびっくりしてしまった」
その言葉にクラウスが笑いながら私の隣に来て、カフェラテのカップを渡してくれた。
同じ事とは、さっき私が言った事らしい。あの人とはまたあの、レオナ・ローサのことだろうか。
温かいラテを一口飲んでクラウスを見上げると、彼が目を細めて微笑む。
ベッドの横に居たカールが何度か頷きながらユリウスに話しかけた。
「私も驚きました。ご主人様が昔、過労で風邪をこじらせ肺炎で入院された時のことですね。病院食が嫌だと我が侭をおっしゃって、随分と私を困らせている時にいらしたあの方が、ペンと紙を取り出して、退院時の食事のメニューをお決めになった。それでやっと、我慢して病院食を召し上がられたのを覚えています」
「そうだったな。あの時はまだ私も若かった。今はきちんと、病院食を食べている」
そう言ってユリウスが可笑しそうに目を細めて私を見た。
「君があの人の娘ということはないと分っているけれど、久しぶりに懐かしい思い出が蘇ったよ」
その言葉に私は少し胸が痛み、そうやって思い出すことで逆に辛い思いをさせてしまったのではないかと罪悪感を感じてしまったけれど、ユリウスの表情はとても穏やかだった。
テーブルについてそれぞれ飲み物やケーキをいただきながら、和やかな会話が弾んで、あっと言う間に外は夕暮れで赤く染まり始めていた。
今後の段取りについても話し合いがなされ、ユリウスの体調が落ち着くまではヨナスがバックアップとして動くことになり、今現在進行中の案件や懸案事項について3人が話をしていた。ヨナスは空間デザイナーではあるけれど、リスクマネージメントや契約関連についても詳しいので、父が休養を取っている間、メインでプロジェクトを回すことになるクラウスのサポートとしては他の誰よりも適任らしい。
仕事の話が一段落した頃、ノックの音がして看護士が入って来た。彼女がユリウスの体温を計りながら私達を見渡した。検温を終えた看護士さんが、ユリウスの点滴の交換をしながらにっこりする。
「息子さん方がいらっしゃると、賑やかでよろしいこと。この階で一番楽しそうなお部屋ですよ」
ユリウスも検査直後の時よりも顔色がよくなっており、気分が良さそうにみえた。
「まもなく夕食の時間になるので、配膳のものが参りますから」
看護士がそう言って部屋を出て行った。
「コレステロール値を下げるメニューかしら」
マリアがそう呟いた。その言葉に、私は和食の伝統的な料理が、洋食とは違ってコレステロールを下げる効果があったことを思い出した。
「和食はコレステロール値を下げるのに良い食材を使われるメニューが多いんです。豆類や魚介類、海草などが使われるので、、、塩分さえ控えめに調理すれば、効果は期待できるそうです。もし、和食がお嫌いでないのなら、お食事を作られる方におすすめのメニューをご連絡します」
「和食?寿司や鉄板焼き、天ぷらくらいなら時々食べに行っていたが」
「いえ、そういうメニューでなくて、家庭料理的なものです。一汁三菜といって、お米に汁物、おかずは主菜を一品、副菜を二品という昔ながらの献立で、多くの食材を使用し様々な栄養分が混ざり合って、消化や吸収を良くし、余分な脂肪分、糖分や塩分を排出するそうです。塩分だけは通常よりも控えめにしないといけないですけれど」
クラウスが思い出した様に口を挟んだ。
「和食文化がユネスコ無形文化遺産に登録されたという話もあったな」
「それは興味深い話だ。和食の家庭料理とはどんなものか知らないが、是非、教えていただくことにしよう」
ユリウスが頷いてカールを振り返った。
「カール、頼んだぞ」
「はい、承知いたしました」
カールがにこにこと微笑んで頷いた。
「おばぁちゃんが、オランダで入手出来る食材で和食を作るのが上手なの。だから、こちらで揃う材料とか教えてもらえるし、調理方法なんかもアドバイスしてもらえると思う」
私がそう隣のクラウスに言うと、彼がにっこりと微笑んで私の手を取った。
「ありがとう、カノン」
お礼を言われるようなことでもないのに、と少し照れて肩をすくめて笑う。少しでも役に立てたら嬉しい。
その時、またノックの音がした。
夕食の配膳に来たのかと思って入り口を見ると、ゆっくりとドアが開いて、そこに思いがけぬ姿を目にして皆が固まった。
鮮やかな赤いワンピーススーツを来た、ダニエラが立っていたのだ。眩しいゴールドのロングネックレスが胸元にキラキラと輝き、スーツと同じ深紅の口紅が強烈なインパクトを与える。
彼女の登場に驚いて言葉を無くし、呆然とする。
皆の視線を一身に受けているにも関わらず、ダニエラは全く動揺する様子もなく、まるで私達が完全に視界に入っていないかのように無視して部屋を横切りベッドに近寄った。
「あなた、お久しぶりね」
「ダニエラ……」
明らかに違和感を感じた様子のユリウスが、いぶかしげに彼女を見つめた。ダニエラは薄いブラウンカラー目を細めて微笑み、ユリウスの肩に手をやってその頬にキスをすると、点滴の針や心電図のスクリーンを見上げて大きな溜め息をした。
「さっき担当医に伺って来たわ。軽症で済んでよかったこと」
そう言ってユリウスの手に触れて、労るように撫でた。
私達4人はその様子を沈黙して見守る。ユリウスは何も言わない。しばらくの沈黙が続いて、またノックの音がした。
「Sommerfeld様、ご夕食をお持ちしました」
声と同時に、配膳の係が入って来る。ダニエラがベッドの脇から立ち上がると、係の人がテキパキと食事用のテーブルを組み立て、ベッドの傾斜を食事用の角度へ動かした。すぐに、別の係の人が夕食のプレートを運んで来て、テーブルに置いた。
「お飲物はどうされますか?温かい紅茶でしたらすぐにお持ちします」
「有り難う。お茶をいただこう」
ユリウスがそう答えると、係の人がドアの外のワゴンからポットを持って来て、テーブルの上の白磁のカップにお茶を注いだ。
テーブルに置かれた食事は、特別メニューなのか、野菜をミキサーで滑らかにしたらしい緑色のスープに、マッシュポテト、柔らかく煮込まれたレンズ豆など、色合い的にもあまり食欲をそそるものではなかったが、弱っている胃腸には消化が良さそうなメニューだった。
「まぁ」
ダニエラが眉間に皺を寄せてその食事を見下ろして、まだ、係の人が廊下に居るというのに、遠慮もなく不満げな声をあげた。
「こんなまずそうなもの、貴方に食べさせるわけにはいかないわ。すぐに、知り合いのシェフに体力が付くものを作らせて運ばせましょう」
腕に掛けていた茶色のエルメス・バーキンから携帯を取り出し、電話を掛け始めるダニエラ。だがその手を、ユリウスが掴んだかと思うとその携帯を取りあげた。
「……あなた?どうなさったの」
ダニエラが驚いたように目を見開いてユリウスを見つめた。ユリウスはうっすらと微笑みながら首を左右に振り、その携帯をバッグの中へ戻すと、彼女を諭す様な静かな声で言った。
「病院食はそれぞれの症状に合わせて調理されているはずだ。これで十分だ」
「あなた、でもこんな食事とも呼べないものを召し上がるの?」
「ダニエラ、口を慎め」
ユリウスが彼女の言葉を遮るようにそう言って、廊下で向いの病室へ配膳をしている係の人達へ目を向けた。
「ダニエラ様、Sommerfeld様は今後、体調を整えるためにいままでとは違う食事を召し上がる必要がございます」
カールが遠慮がちにそう言ったが、ダニエラは振り向きもせず、不快感を露に眉を潜めながらテーブルの食事を見て、独り言のように呟いた。
「こんなもので病気が治るとは思えないわ」
バタン、と音が聞こえて見れば、配膳の係が部屋のドアを閉めたところだった。
皆、再び沈黙する。
物音もしないこの空間はとても居心地が悪く、私はマリアをちらりと見た。マリアは全く動じる様子もなく、まっすぐにダニエラの様子を見ている。だが、いつもは美しく活き活きと輝くオリーブグリーンの瞳が悲しげな影を帯びて曇っている。クラウスは私の右手を握りしめたまま無表情な顔で父とダニエラの様子を見ていたし、ヨナスは腕組みをしたまま眉間に深い皺をよせ、とても難しい顔をしていた。
やがて、再びノックの音がする。
ゆっくりとドアが開くと、白衣を来た担当医らしい医師が顔を覗かせた。
「Sommerfeldさん、調子はどうですか」
人の良さそうな声に、なんとなくほっとして医師のほうを見る。頭が少し薄いけれど人の良さそうな60代の医師は、私達の異様な雰囲気には気がつかないらしく、ご機嫌な様子でにこにこすると、ドアを大きく開けた。
「息子さんのフィアンセが受付にいらしたから、ついでにお連れしましたよ。滅多に見ないくらいお奇麗なお嬢さんでびっくりしました」
フィアンセ?
えっと驚いて医師の背後に目をやると、仕立てのよいシルクサテンのベージュ色のワンピースを来たクララが、美しい大輪の薔薇のブーケを抱いてそこに立っていた。目の覚める様な真っ赤な薔薇や、太陽のように鮮やかなオレンジのとても豪華なブーケは両手で抱えられないほど立派なものだった。
「クララ、いらっしゃい」
ダニエラがにっこり微笑むと、クララが静かに微笑んで中に入って来る。担当医師は片手をあげて軽く挨拶をすると、バタンと扉を閉めてしまった。
思い掛けないクララの登場で更なる不安を煽られ、私は全身から血の気が引いて息が詰まりそうになった。ユリウスはクララのことを知っているのか、クララが近づくと先ほどまで固かった表情を緩ませ、点滴の針の付いていない手で彼女の肩をそっと抱いて挨拶をした。
「わざわざ来てくれたんだね。ありがとう」
その言葉に、ダニエラが満足げに微笑みを浮かべ、娘のクララから花束を受け取り、それをベッドの上に置く。真っ白なベッドの上に無造作に置かれた豪華なブーケの存在感は大きく、この状況がただ事でない雰囲気を醸し出していた。
突然、バシンと音がしてはっとすると、ヨナスが手に持っていた雑誌をテーブルに叩き付け、怒りもあらわに立ち上がった。
「これはどういうことなんだ」
見れば、今までに見た事がないくらい目が怒りを帯びている。真っ青な目が燃えるように爛々と鋭く光り、彼がどれほど激高しているのかは明らかだ。マリアが驚いたように目を見開いてヨナスを見上げている。
「どういうこととは何かしら。大体、Sommerfeld家を出た貴方には関係ないわ」
ダニエラは全く動じることもなくちらりとヨナスを一瞥すると、クラウスがその声を遮るように冷たい声で言い放つ。
「名字が違うだけでヨナスはSommerfeld家の長男には変わりはない」
ダニエラは完全にその言葉を無視して鼻で笑うと、その目をちらりと私に向けて、そして再度、クラウスを見た。
「それはそうとクラウス。この間は会えて良かったわ」
不意にそんなことを言われ、クラウスが訝しげに眉を潜め彼女を見返した。良かったとはどういうことなのか私にも理解出来ない。こちらの動揺と驚きを明らかに感じ取ったで有ろうダニエラは、とても満足そうに微笑んでユリウスを振り返った。
「この間、ベルリンにお邪魔して、やっとクララとクラウスを引き合わせたのよ」
その言葉に、ユリウスがとても驚いた様子でダニエラを見た。そのことを今まで知らなかったのかと私達も驚いていると、ダニエラはくすっと小さく笑いをこぼし、隣に立つクララに目をやった。
「娘もやっとクラウスに会えたことを喜んでいるわ」
喜んでいる?
あの時のホテルのラウンジでの会話を思い出すが、どう考えても喜ばしいことはひとつも無かった。
緊張と同時に一気に膨れ上がる正体不明な不安で、全身から血の気が引く。
わずかに微笑みを浮かべているクララの表情からは、彼女が一体何を考えているのかは察しきれない。ユリウスが黙ってクララのほうを見つめると、彼女は感情が読み取れないほどに澄んだ青い目を細めユリウスに微笑みかけた。
「Sommerfeld様、私がドレスデンのお屋敷に参ります。ご退院されましたら、お世話させていただきたいと思います」
「君が……?」
ユリウスが驚きに目を見開いた。クララは凛とした態度で微笑みを崩さない。
「結婚式はまだ済んでおりませんが、Sommerfeld家のしきたりなどを学ぶのにもよい機会になるでしょうし、お料理のほうも調理を学んでおりますから、私がお体によい食事を作らせていただこうと思います」
驚きのあまり、もはや彼女が何言っているのか理解できないくらい混乱する。
隣にいたクラウスが突如立ち上がり、怒りを帯びた低い声で言った。
「俺は結婚などしないと言ったばずだ!」
鋭利な矢のような厳しい視線をまっすぐにクララに向けた彼を見上げ、私は自分の心臓が激しく暴走し始めたのを感じた。
ベッドの側に立っていたクララがユリウスから目を離し、クラウスを見た。そして、ゆっくりと歩いてこちらにやってくると、クラウスの目の前で足を止め、落ち着いた微笑みを浮かべたまま彼を見上げた。
「この間お会いした時に、貴方はとても尊敬出来る方だと感じました。貴方は、私の幸せを願うと言われました。私は例え貴方に愛されることがなくても、貴方のお側に居ることを望みます」
一気に膨れ上がった緊張と絶望感で心臓がドキンドキンと激しく鼓動し、だんだん意識が朦朧としてくるのを感じた。堂々と立つクララを目の前に、クラウスまでが言葉を失い呆然として彼女を見下ろしている。彼女はまっすぐにクラウスを見つめ、彼の右手を取ると両手でその手をそっと包み込んだ。にっこりと微笑むクララの手首には、大粒の真珠のブレスレットが清らかに煌めいている。
私はその繋がれた手を目を見て、頭の中の何かが切れた様な感覚に襲われ、ふらりとカウチの背もたれによりかかった。もう、まっすぐに座っていることは出来ない。かろうじて意識を保っているというだけで、寒気のあまり自分の体の感覚さえ消えてしまう。
「ふざけた芝居はいい加減にしろ!」
ヨナスが激高し荒々しい声を上げた瞬間、クラウスがはっとしたように、繋がれていた右手を一瞬で振りほどいた。荒々しく手を振りほどかれても、全く動揺する様子もなく微笑みを浮かべているクララ。彼女の目に宿る熱い光は本物だった。私にはわかる。クララは、本当に彼に惹かれているんだ。
そう確信すると、恐怖で息が詰まり、なんとか呼吸を整えようと必死で集中する。
クラウスは自分を見つめるクララから視線を外し、ダニエラを見る。その目は先ほどの動揺も消え、冷静さを取り戻していた。だが、ものすごく冷たく氷のように冷徹な光を秘め、その凄然とした顔は若干青ざめているようにさえ見える。同じく仁王立ちしているヨナスは怒りで目元が赤く染まり、明らかな軽蔑を含んだ視線をダニエラに向けていた。
それまで黙っていたユリウスが大きな溜め息をつく。
「クララ」
緊張の走る病室にユリウスの低い声が響き、皆が彼を振り返る。
「気持ちは有り難いが、君にドレスデンにまで来てもらうことはない」
「あなた!」
ダニエラが咎めるように声を荒げてユリウスを睨む。刺すように鋭い彼女の視線をじっと見つめ返し、ユリウスは少し皮肉めいた微笑みを浮かべた。
「本来なら、妻のお前が私の世話をするべきだろう。何故、娘にやらせようとする。その発想自体が不自然極まりない」
その言葉にダニエラがぐっと言葉に詰まり、怒りを押さえたような固い表情になった。
「私はミュンヘンで式の手配を始めたいと思っているのよ。ドレスデンに戻る時間はないわ!式はミュンヘンで、と決めてあるの」
「私の体調と、式の手配とどちらを優先するつもりなんだ?」
ユリウスが静かにそう言って、じっとダニエラを見つめた。何かを試すような厳しい視線を向けられたダニエラが、ユリウスから目を逸らし、忌々しそうににテーブルの病院食を睨みつけた。
「……わかったわ。貴方が退院したら一緒にドレスデンに戻ることにしましょう。そのかわり」
そのかわり?
一体何を言い出すのだろうと恐怖でいっぱいになる。
「クララも連れて行くわ。Sommerfeld家に嫁ぐ準備を整える良い機会になるでしょうし、料理の腕は確かですから、貴方の食事の準備をさせましょう。クラウス、貴方も一度帰って来なさい。式の招待客について話さないといけないわ」
「何度言えばわかるんだ!俺は認めないと言ったはずだ」
クラウスが苛立ちを隠せないというように声を荒げると、ダニエラが呆れたように首を振り苦笑した。
「その娘なら愛人として認めてあげるといったでしょう?我が侭もいい加減になさい。貴方、Sommerfeld家に相応しい妻を迎えるのも跡取りとして重要な役目だと分らないほど、こんな小娘にのぼせているのかしら」
そう憎々しげに言ってちらりと私に目を向け、軽蔑するように鼻で笑った。
堂々と侮辱された私はショックの余り瞬きさえ出来ず、顔色を変えたクラウスが目を見開いて怒りも露わに何かを言おうとした瞬間、ユリウスの厳しい声があたりに響いた。
「ダニエラ、いい加減にするんだ」
ユリウスは険しい表情でダニエラをまっすぐに見た。
「私の息子達を侮辱するのは断じて許さない」
叱責を受けたダニエラは憤慨したようにきつく唇を噛み締めて押し黙り、じっとユリウスを見つめた。険しい表情のユリウスはしばらく黙っていたが、やがて大きな溜め息をついてベッドの背もたれによりかかった。
「結婚の話は凍結する。なぜなら、この婚姻に関して、1人たりとも幸福になる人間が存在しないからだ」
その言葉にダニエラが目を剥いた。
「あなた!話が違うじゃありませんか!約束されたことをお忘れになったの?!」
「忘れたのではない。気が変わった。時がたてば状況も変わる。そして、人間も変わる」
「なんですって!」
悲鳴にも似たダニエラの声が病室に響くと、ユリウスは悲しそうに眉を潜めて彼女を見つめた。
「上辺だけの幸福は、時とともに崩れてしまう。お前も、私も、それを認めざるを得ない時期が来たのかもしれない。人間の心を永遠に偽り続けることは不可能なのだろう。幸福とは自分を騙すことで得るものではない。私は、真実とは、どのような環境にあっても揺るがない永久的なものだと知った。光あるうち光の中を歩めといわれるように、目の前の光を失ってはもう二度と、その光の中には戻れないのだ」
その言葉は、重々しく悲壮感が漂っていたけれど、どこか安らぎを感じる響きがあった。ユリウスは目の前に立つ、ヨナスとクラウスに目を向けると、満足そうに微笑みを浮かべた。
「私は自分の息子達を失いたくはない。彼らこそ、今の私にとって目の前にある光だ」
そしてダニエラとクララに目を向けると、諭すようにゆっくりと言葉を続けた。
「ダニエラ。お前も自分の娘のことをよく考えるべきだ。二度と取り返しがつかない過ちを冒す前に」
その言葉を聞いたダニエラがぶるっと震え、きつく唇を噛み締めてユリウスを見つめた。
それから、掠れた様な声で呟いた。
「あなた。私はあなたを愛していますわ」
その言葉にユリウスは目を細めて悲しげに微笑んだが、何も答えなかった。ダニエラはぎりっと歯を噛み締めると、ツカツカとクララの側へ寄り彼女の腕を掴み、慌ただしく部屋を飛び出して行った。
バタンと大きな音を立てて扉が閉まると、カールが心配げにユリウスに駆け寄った。
「ユリウス様、お疲れになったのでは」
「いや、そうでもない」
ユリウスは苦々しく微笑んで、私達のほうへ目を向けた。
「クラウスの誕生日だというのに、全く相応しくない思いをさせてしまった」
その言葉にヨナスとクラウスが表情を和らげて首を振った。父親にとって何が一番大切なのかを目の前で知った彼らにとっては、これ以上はないほど気持ちが昂る瞬間だっただろう。
「私は弱い人間だ」
ユリウスが吐き捨てるようにそう呟いた。
私の記憶の中で、その言葉が蘇る。クラウスが、同じことを言っていた。辛い思いから逃げようとしていた自分を自嘲したクラウスの言葉だ。
ユリウスはずっと、レオナ・ローサを失った辛さから逃げようと自分を騙し続けて来たんだろう。その悲しみを癒せるのは、実の子供達だけなのかもしれないと気がついたのかもしれない。
「俺達がいる」
ヨナスがクラウスの肩を抱いてそう言って笑うと、ユリウスが目を細めて微笑み頷いた。
「それに、弱くない人間なんていないわ」
マリアがにっこりと微笑んで明るい声でそう言うと、クラウスが少し可笑しそうに肩をすくめる。
「マリアは十分に強いと思うが?例外ってやつかもしれないが」
「あら、やだ、クラウス!失礼ね!これでもか弱い女性なのに」
ちょっぴり憤慨したように眉を潜めるマリアに、皆が笑い出した。
「俺はヨナスが激怒した君に追われて、町中を走って逃げているのを見た。しかも、一度や二度じゃない」
「ほう、それは面白い」
ユリウスが目を丸くしてマリアを見たので、さすがに彼女も恥ずかしくなったのか頬を赤らめて困惑気味に首を潜め、横目でクラウスをじろりと睨んだ。
「自分のことを棚に上げて、よく人の事言えるわね。そういうクラウスだって、逃げるカノンを追って街を暴走したことあるわよね。この間もカノンに逃げられそうになって真っ青になってたわ」
「なんだって、クラウスが?」
ユリウスの興味の対象がクラウスに移って、今度はクラウスが居心地悪そうにふてくされて黙った。マリアがその様子に満足げに頬を緩めて微笑む。
私とヨナスは目を合わせ、笑い出したいのを必死で堪えた。
それを見たユリウスとカールが可笑しそうに笑い出した。
「私の息子達が、片や女性に追われ、片や女性を追うとは、一体どういうことだ。そのうちゆっくりと話を聞く必要があるな」
病室は先ほどとは一転して笑いの渦に巻き込まれ、和やかな雰囲気が戻る。カールが配膳係に連絡をして、食事を温めてもらうように依頼をし、すぐに新しい食事と取り替えに係の人が戻って来てくれた。これから食事をしたら後はゆっくりと過ごしたいとのことだったので、私達は失礼することになった。
「また明日の午前中に来る」
ヨナスがそう言うと、ユリウスがとても穏やかな表情で頷いた。
「本来ならば、クラウスの誕生日に皆で食事でもしたかったが、生憎私はこのざまだから諦めるしか無い。お前達だけでも楽しい夕食を取るように。クラウス、誕生日お目出度う。時が経つのは早いものだ」
「有り難う」
クラウスが少し照れたように微笑んだ。
ヨナスの腕を取りながらマリアが楽しそうに声をあげた。
「退院されたら、皆でドレスデンに伺うわ。カノンに和食を作ってもらいましょう!ね、カノン?」
私は笑顔で大きく頷いた。
「もちろんです!あっ、それから、お好きなケーキを伺うのを忘れていました」
思い出してそのことを聞くと、ユリウスが楽しそうに微笑んで、腕組みをした。
「カスタードケーキや、アップルパイなどはよく食べる」
それを聞いて私はちょっとレシピを思い出してみた。
「わかりました。それでしたら、カスタードクリーム入りアップルパイに挑戦してみますね。牛乳でなくて、豆乳を使ったり、バターの代わりに森のバターと呼ばれるアボカドを使うレシピもありますから、お体の負担にならないように考えます」
「マクロビ?」
マリアが興味深げに横から聞いて来た。
「卵は使うから、マクロビまではいかないと思うけど、コレステロール値を下げる材料でも美味しいケーキが焼けるよ」
「アボカドがバター代わりなんて、美容にも良さそう!」
「じゃぁマリア、今度一緒に練習してみよう」
「もちろんよ」
二人で顔を見合わせて頷いていると、ユリウスが面白そうに私達の顔を眺めて笑った。
「君たちを見ていると退屈しないな」
テーブルのコーヒーやお皿を片付けていたイーナが手を止めて笑顔で私達を見た。
「本当に、若い方が4人もいらっしゃると賑やかで、私達も若返りますね」
カールもイーナの言葉に笑顔で頷く。
「また明日」
私達が病室を出て扉を閉める時、ユリウスもカールも、イーナも笑顔で見送ってくれた。


あんな修羅場になってしまい、ユリウスの体調が悪化するのではと危惧したけれど、最終的には笑顔で病室を出れたことに心からほっとする。静かな廊下からエレベーターに乗り込むと、皆がそろって溜め息をついた。
「とんだ災難だった」
ドアが締まるとヨナスがそう言って、疲れたように笑い、マリアがにっこりして彼を見上げた。
「一時はどうなるかと思ったけれど、結果的にはうまく収まったと思うわ」
「確かに」
ヨナスが頷いて隣にいたマリアをぎゅっと抱きしめ、二人はそっとキスを交わして微笑み合った。ヨナスがあれほど激怒した様子を見たことなかったので、今ここにいる穏やかな彼とさっきの彼が同一人物なのかと疑いたくなる。マリアさえ呆然として彼を見上げていたくらいだから、彼女にとってもあれほど怒りに震えていたヨナスを見た事はなかったのかもしれない。
「俺達が来たと聞いて、ダニエラが急に押し掛けて来たんだろう。まさか娘まで登場とは、流石に驚いた」
クラウスがそう言うと、大きく溜め息をした。
「クララだったかしら?妖精みたいに美人だけど、マネキンのようだったわ」
マリアの歯に衣を着せない言い方に、ヨナスとクラウスが苦笑した。エレベーターのドアが開いてホールへ出ると、ヨナスが足を止めて私達を振り返った。
「実は、今晩のディナーの場所を予約している。ホテルのコンシェルジュで、おすすめのメキシカン料理を教えてもらった。El Gordo Locoという店で、ここから歩いて10分くらいだろう」
「メキシカン?」
魅力的な言葉に思わず声がうわずってしまい、病院という場所柄を思い出し慌てて口を閉じた。
マリアがキラキラと目を輝かせて頷き、私の腕を取り太陽のように明るく微笑む。
「ミュンヘンで一番と評判のお店よ。陽気な音楽とリズム、美味しい料理!ぱぁっと盛り上がりましょう!」
「わぁっ、楽しみ!」
久しぶりのメキシカンだ。
ドキドキして興奮を沈めるのが難しくなる。
マリアが私と腕を組むと何やらスペイン語で歌いだすと、クラウスがヨナスと目を見合わせて笑う。
明るいラテンの雰囲気とリズミカルな音楽を想像し、思わず頬が緩む。マリアが私と腕を組んで歩きながら鼻歌まじりにリズミカルに体を動かすので、笑いながら引っ張られていると危うく躓きそうになる。
後ろからクラウスが私の腕を掴んで、マリアに話しかけた。
「oiga senorita, ella es mia」
するとマリアがくすっと笑って私と組んでいた腕を外す。
「perdón」
クラウスが笑いながら私を引き寄せて手を繋いだ。
スペイン語は分らないものの、状況は理解して私も可笑しくなって笑う。
「さぁ、久しぶりにテキーラといくか」
ヨナスが嬉しそうにそう言うと、マリアと肩を組んで笑い合い、私達の前を歩き出した。
病院の外へ出るともう薄暗くなってきていた。金曜日の夜ということもあり人通りも多くなってきて、これから街が盛り上がりを見せる時間に入る。
街灯の灯りに照らされたミュンヘンの中世の街並みがまるで美術館のように荘厳さを増し、並木道りに連立した秋色の木々も、その歴史の一部のごとく厳かに佇んでいるように見えた。あちこちに居並ぶレストランやカフェ、ブティックもこの中世の景観を損なわない雰囲気を守り、クラシック且つ豪華だ。
信号が赤になり立ち止まると、ひんやりとした夜風が吹いて、薄手のセーターに冷気を感じ思わず体が固くなる。
「寒い?」
気がついたクラウスがそう聞いたので、私は笑って答えた。
「ちょっとだけ。風が吹く瞬間だけだから、平気」
「セーターだけだと夜は冷えそうだ。明日、何か羽織るものを探そう」
クラウスは優しく微笑んでそう言うと、繋いでいた手を離し私の肩を抱き寄せた。彼の温かい腕が肩を覆うと、寒さで緊張し強ばっていた体が緩みほっとする。
「ありがとう、クラウス」
笑顔で見上げると、クラウスの澄んだ瞳がまっすぐに私を見つめていた。群青色の夜空に溶け込むその瞳に、いくつもの街灯りが反射して美しく輝いている。その光に見とれていると、ふっと彼が身を屈めてキスをした。唇に感じる、すべての傷を癒す様な慈しみが籠った温かさ。目を閉じると、クラウスが私の首を引き寄せて更に深く口づける。優しさと情熱に溢れた熱を感じると、もう消滅したと思っていた先ほどの緊張と不安が一瞬で蘇り、そしてそれはすぐに氷が溶けるように融解していく。私の心の中に潜んでいた痛みのすべてが解放されて、安らぎと幸福で胸がいっぱいに満たされて行くのを感じた。ゆっくりと唇が離れて目を開くと、優しく微笑んで私を見つめている彼が見えた。
愛しさで胸がいっぱいになり、思わずぎゅっと彼を抱きしめて彼を見上げると、幸せで笑顔になっているはずなのに、また視界が歪んでしまう。クラウスがクスッと笑いながら、私の頬を伝った涙に指を走らせ、慰めるように額にキスをした。
「愛してる。何があっても君を離したりはしない」
そう囁いて彼が微笑んだ。熱い想いで胸が破裂しそうなくらいいっぱいになる。両手を思い切り伸ばし、微笑む彼を引き寄せてキスすると、彼の温かい頬を両手で包んだ。まっすぐにその美しい群青色の瞳を見つめて、溢れる想いを言葉に乗せる。
「貴方がいない世界では生きて行けない」
噛み締めるようにそう言うと、クラウスが幸せそうに目を細めて頷き、じっと私を見つめた。
「貴方を愛してる」
そう言うと、気持ちが昂ってまた涙が溢れてしまい、クラウスがそれを見て少し照れたように微笑んだ。
顔を見合わせて思わず笑い合うと、通りの向こうからマリアの声が聞こえて来る。
「二人とも、いつまで待たせるつもり?」
「また信号が赤になっているぞ」
からかうように大げさに両手を広げて叫ぶヨナス。
彼らを見ると二人が私達のほうに笑顔で手を振った。顔を見合わせて私達も手を上げると、丁度信号が青に変わる。
手を繋いで、急ぎ足で通りを渡りながら空を仰ぐと、赤く染まった満月が群青色の空に浮かんでいた。
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