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誤った結び目を解く方法
一度切れた糸でも
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San Francisco Bay Area Art & Performanceというイベントが12月1日に開催されるにあたって、フーゴの所属する広告代理店がそのプロモーション・プロジェクトをコンペで勝ち取ったらしい。イベント専用のHPの作成からビデオ、ポスターやイベントで販売される販促品全般を一括で仕切ることになり、今回のプロジェクトチームのアートディレクターとしてフーゴが指名されたという。この業界のことは詳しくは知らないが、フーゴの役割は美術表現、芸術表現をもちいた総合演出を手がけるというかなり大きな責任を持つポジションらしい。
新しい職場に就いて間もないことで驚いたが、今回のコンペに使用されたプレゼンにはフーゴが大きく関わっていたとのことで、先方の希望でその役割を担うことになったそうだ。
さらに、このプロジェクトでは、フーゴの独断で、イベントのHPに訪れる人が最初に目にするランディングページのイメージ画像と、ポスターに使用するイメージをなんと、アダムに依頼したという。
この間、フーゴがベルリンに来た時に、アダムの作品を保存してある倉庫に行って、様々な絵画を見たり、PCでコンピューターグラフィックの画像を見たりなどしたらしいが、フーゴの話だと、何かとても気になるところがあったらしい。アダムの作品は、サンフランシスコという、多種多様で自由な文化的風土に合う斬新さを持ちながら、何か人の心に訴える真摯なメッセージが表現されていると感じたそうだ。
アダムは最初、この話を断ったそうだが、フーゴが電話で交渉したところ、今現在作っている作品以外に他の作品を手がける余裕はないから、今作っているものを使用するということであればそれを出すと言ったそうだ。その条件にフーゴがOKを出し、アダムが正式に今回のプロジェクトに参加することになったらしい。
それにしても、スポーツバカだったフーゴがいまやアートディレクターとは驚いたものだ。
私はプロジェクトの成功を祈るという返信をして、アダムにも応援のメールを送った。
最初、この話をアナにも教えようかと思ったけれど、結局書かなかった。あれからアナから連絡がこないことを考えると、察するに、お父さんのお世話や通院で毎日忙しくしているのだろう。11月1日のイベントが終って落ち着けば、アダム自身が連絡するかもしれない。
「カノン?ラルフから3件、物件の連絡がきている」
夕暮れのテラスからクラウスの声が聞こえて、私は自分のラップトップを閉じてソファから立ち上がった。
すっかり日が暮れるのも早くなってきて、6時すぎて来るともう、空がしっかり夕方らしくなっている。
クラウスの隣の椅子に座って彼のラップトップを覗き込むと、アパートや家の物件情報に関するファイルがいくつかメールに添付されていた。
1枚の添付は、ベルリンの地図にそれぞれの物件の位置を示したもの。
あとの3枚の添付は、PDFにまとめられたそれぞれの物件の間取りや物件詳細に写真。
「まず手元にあった情報から選んで送って来たらしい」
クラウスがそう言って、PDFを開いて最初の物件内容を確認する。
「これは、新しい物件だ。市内でもかなり賑やかなエリアの最上階」
写真を見ると、まるでホテルのような真新しい広々とした空間だ。窓がたくさんあって日当りもよさそうだが、私達が求めているのとは少し違う。
顔を見合わせて、お互い同じことを感じたことを確認して笑う。
すぐに次のPDFを開くと、今度はアパートではなく、一軒家だった。煉瓦作りの3階建で、広い庭があり全面芝生で覆われていて、すっきりとしている。室内の写真は、現在改装中ということで壁の煉瓦や配管が剥き出しの状態なので、当分は工事が続きそうな感じだ。
次の物件は市外のペントハウスで、森の近くに位置しており、室内も真っ白い壁の面と、煉瓦の面といいバランスで組み合わせてあり、天井で交差している大きな木の梁がログハウスのように温かい雰囲気を作っていて、とてもいい感じだった。でも、残念ながら暖炉はついていなかった。
「なかなか難しい」
苦笑しながらラップトップを閉じたクラウスが、両腕を頭の後ろに回して四肢を伸ばした。
「でも、理想の物件を探す過程も楽しい!」
一緒に物件の写真を見ているってだけで、ドキドキしてしまう。
クラウスは苦笑して、私を見た。
「君が1人で探していたら、永遠に決まらないだろう」
「うーん、否定は出来ないかも」
探すことが楽しくて、永遠に探していそうな気がする。
「私のアパートも、なかなか決められなかったよ。でも、マリアが、最上階だと泥棒があまりこないって言うから、それが決定打だった」
「確かに、安全なエリアに住むというのは譲れない条件だ。ベルリンは地区によって治安も住人も変わって来る。特に旧東ドイツのほうには、場所によっては開発されて住み易いところもあるが、いまだに人種差別が残るところもあるから、外国人が住むには適さない地域も少なくない。ラルフには、犯罪の死角になりそうな場所があるエリアは選択肢から抜くように言ってある」
「そうだよね。ドイツ語のクラスのクラスメイトも言ってた。彼女は家族と旧東ドイツの地区に住んでいて、子供が行く学校にはナチの家族が居て、やっぱりそういうことを心配してた。彼女はベトナム人だから、やっぱりアジア人は差別の対象にはなるしね。今のところ、特に問題はないらしいんだけど……クラウスは、エリア以外にも、どういう場所に住みたいのか、もうイメージははっきりと決まっているの?」
そう聞くと、クラウスはにっといたずらっ子のように目を煌めかせて頷いた。
「具体的には?」
「それは、今は秘密、ということにしておく」
「えー?どうして、秘密なの?」
不満に思って文句を言うと、クラウスはクスッと笑い私の髪を撫でてじっと目を見つめた。
「これくらいの秘密はいいだろう?」
「ダメってことはないけど、暖炉以外になにか特別な理想があるなら知りたいなぁ、、、オフィスに近いとか?」
私も物件を見る時に、もっと注意して見る事が出来るのに、なんで秘密にするのかわからない。
「それは確かに条件のひとつだ。君は、これという希望はないのか?」
うまく話を逸らされた気がするが、聞かれてしばし考えてみる。
「日当りがいいのは外せないかな?あとは、貴方と一緒に料理が出来る使い易いキッチン!」
そう答えると彼もにっこり笑って頷いた。
「来週あたりからラルフも本格的に探すと言っていたから、やつの手腕に期待しておこう」
「うん!」
わくわくしながら大きく頷いた。
今のこのアパートで一緒に居るだけでも楽しくて幸せなのに、今度は二人で住む場所を選んだり、家具を準備したりするなんて、考えただけでドキドキしてしまう。クラウスが何冊かインテリア雑誌を買って来てくれたので、時々チェックしているけれど、ますます夢と想像が膨らんできて、まだ決まってもいない新しい住処の夢まで見るようになってきた。
私はあまりいかにもインテリア雑誌から出てきました!というように、すべてが完璧に配置された家よりも、居心地がよいことを重視したい。外から帰って来て、ほっと出来る、くつろぎの空間。読みかけの雑誌が無造作に置かれたテーブルや、編み掛けのセーターや毛糸のカゴが置かれたチェスト。キッチンのカウンターには、焼きたてのマフィンやクッキーが並ぶ三段のアフタヌーンティスタンド。連絡事項を書くメモ帳とペンが転がるダイニングテーブル。
普段の生活の様子が垣間みれるアットホームなお家がいい。
そんなことを思いながら隣の彼を見ると、携帯を開いて何かチェックしていた。クラウスも、あれからもう機内モードにすることはなくなり、普通に仕事や友人との電話をするようになった。もう、ニッキーとしての一面しか見せてくれなかった時とは違って、クラウスとしての本来の姿や事情も明かしてくれたので、私の前で何かを隠す必要がなくなったわけだ。でも、帰宅している時は、基本的に緊急でなければ仕事の電話は受け取らないようにしたという。そうしないと、プライベートとビジネスの境目が無くなってしまうので、可能な限りきちんとケジメを付けたいらしい。ただ、これまでいつでも仕事に関しては時間も週末も関係なく対応していただけに、夜と週末を完全にプライベートのみに費やすのは難しいため、メールだけはOFFの時間もチェックするようにしているようだ。
やがて携帯を消して、それをテーブルに置いた彼が私に目を向けて微笑む。
「明日の準備はもう済んだ?」
「うん、出来てるよ。宿題をどうしようか考え中」
「宿題?ドイツ語の?」
「そう。週末のことを、先生宛のメールに見立てて日記形式に書く作文。前もって終らせることが出来ないよね」
やるとしたら、週末が終る日曜日の夜になってしまう。
「オランダでやるしかないかなぁ……しかも、作文して、それを月曜日クラスで暗記して話さなくちゃいけないの」
日記形式で書いて、それを見ずにクラスで発表しなきゃいけないから、文法のややこしいところなどきちんと練習する必要がある。ドイツ語は、名詞に男性、女性、中性があって、それがまた格変化でそれぞれの冠詞「der」「die」「das」が変化するという難解な仕組みで、更にそれが冠詞だけでなく場合によっては名詞の語尾にまで変化を与えたりと、とにかく複雑極まりない。長い文章になってくるとさらに混乱して、どの名詞をどう変化させればいいのか考え込まないとわからないことも少なくはない。小さい頃から繰り返し使っていればもう自動的に格変化も使いこなせるだろうが、大人になってから理屈で学ぶとなると、完全に記憶するか、あるいは文法を100%理解するかしないと、なかなか習得できないと思う。
「カノンがもっとドイツ語を使いたいのなら、英語をやめてドイツ語だけにしても俺は構わない」
クラウスが少し意地悪そうにニヤニヤしてそう言う。
私は嫌な予感がして慌てて首を振った。
「いいよ!英語のままで!そこまで手伝ってくれなくていい!」
「なんでそう遠慮するんだ?俺が教えてやればきっと伸びも早い」
私はドキリとして彼を見た。
急にそうやってやる気を出すのは本当に止めて欲しい!
スパルタ教師、クラウスのことだ。ドイツ語のみにするなんてなったら、一日中、間違いを指摘され、繰り返し訂正と言い直しをさせられるに決まっている!!!確かに、伸びは早そうな気がするが、そんなスパルタに耐えられる自信がない。
今すぐにでも英語を止めてドイツ語に切り替えられるんじゃないかとビクビクしていると、クラウスがじーっと私を見て、それからぷっと吹き出した。
「まるで罠に掴まったウサギみたいにビクビクしてる」
「だって!クラウス、すっごい厳しそうだから」
クラウスが部下にものすごく厳しいことを言っているのを、何度か耳にしたことがある。私だったら泣きそうになるんじゃないかと思う様なつっこみ具合に、プレッシャーの与え方だ。勿論、それでもなにか有ればきちんと上司としてサポートして、最終的には頼りになる上司なのは間違いなさそうだが、彼の前ではダラダラと仕事をサボれないだろうと確信が取れるくらい、仕事モードのクラウスは怖い。手抜きとか適当なんてことは絶対に許さないタイプだ。
車の縦列駐車の練習の時だって、さすがに私相手に怒りはしないけど、そう簡単に妥協してくれないのは身を以て知った。ちょこっとごまかそう、なんてのは彼には通用しない。だから、ドイツ語だって、少し間違えたり、発音がおかしければ毎回言い直しをさせられるに決まってる。そしたら、もう、喋ること事体が怖くなってしまうかもしれない。
お願いだから、ドイツ語に切り替えるのだけは止めて欲しい。
必死の願いをこめて彼を見つめていると、クラウスは片手で顔を覆って笑い出した。
「冗談だ。カノン、そんな目で俺を見るのはやめてくれ」
「ほんとに?あぁ、よかった……ドイツ語だけにするなんて言われたらどうしようかと本気で不安だった」
ほっとして肩の力を抜いて椅子によりかかった。
クラウスは楽しそうに目を細めて私の肩を抱いて顔を覗き込む。
「でも、わからない事とかあればいつでも聞くんだ。自分で調べるより、聞いた方が早くわかることも多い。実際、君が努力しているのはわかっている。もう会話は問題ないし、雑誌なら苦労なく読めるくらいまで伸びているということも知っている。要は、筆記の文法をきっちりさせて、新聞が読めるくらいの語彙力をつけるというのが課題だろう。これは繰り返し練習し、読む量を増やせば自然と身に付くはずだ。気に病まずとも時間が経てば伸びる」
思いがけずポジティブな意見に嬉しくなったが、私が気がつかないうちにちゃんと私のドイツ語力をチェックしていたんだと驚く。
「どうやって私のドイツ語力を見てたの?」
「普段見ていればそれくらい気がつく。君が読んでいる雑誌を見たり、人と会話しているのを聞いていたら、どのくらい伸びてきたかはわかる。最初の頃に比べたら随分と発音も文法も正確になった」
「ほんと?」
まさか褒められるとは思ってなかったので更に驚く。
「俺達の会話もそのうち自然とドイツ語の割合が増えるだろう」
「えっ、そうかなぁ?ドイツ語の割合とか言っても、いつも英語だし……」
「カノンは気がついていないだろうとは思ってはいたが」
そこで言葉を切って、クラウスは楽しげに目を細めていたずらっ子のように微笑む。
「俺は時々、君にドイツ語で話しかけている。君はすっかり気がつかない様子で返事していた」
「えっ?!」
「大抵、君が何かに集中していたり、気を抜いている時だから、ドイツ語だと気がつかないんだろうとは思ってた」
「ほんとに?私、全然気がついてない……集中している時って、どんな時なの?」
まさか知らないうちにドイツ語で会話しているとは思えず、疑わしく思いながら聞くと、彼は可笑しそうにクスッと笑う。
「さっきもドイツ語で、『カノンがもっとドイツ語を使いたいのなら、ドイツ語で会話しよう』と言った」
「それを、ドイツ語で言ってた?ほんとに?」
「勿論。それに君はドイツ語で、『英語のままでいい、そこまで手伝わなくていい』と答えてた」
「えええっ?私が、ドイツ語で返してた?」
もう目が点だ。
知らないうちにドイツ語で会話をさせられていたとは……
本気で驚いてしまい、呆然とクラウスを見つめる。
「料理をしている時も、君は完全に気がついてなかったようだが、基本的にドイツ語で話していることが多い」
「料理?」
記憶をたぐり寄せてみる。
調理のことであれこれ喋っていたのは確かだ。
しかし、その会話が英語だったのかドイツ語だったのかまでは覚えていない。
必死で思い出そうとしていると、クラウスが笑って私の頭を撫でた。
「知らないうちに喋っていれば、学ぶというプレッシャーを感じないうちに伸びる。何も考えずに自然にまかせておけばいい」
笑っているクラウスを見て、私はすっかり感心してしまう。
彼は、本当に一流の指導者なんだろう。私が知らないうちに、自然とドイツ語力が伸びるように考えてさりげなくサポートしてくれていたんだ。私がストレスに感じないように日々、上手くドイツ語を取り入れてくれてたなんて。
「ありがとう、クラウス……なんだかもっと頑張ろうって気になった」
私は嬉しくて彼の左腕をぎゅっと抱きしめた。本当に、頼りになる人。そして、とても思いやりがあって、優しい。時には厳しいけれど、それも優しさがあってこそだ。彼さえ側に居てくれたら他には何もなくても幸せでいられる。
そんな気持ちでじっとその左腕にしがみついていると、クラウスが私の顔を覗き込んだ。
「そろそろ食事に出る時間だ」
「うん、そうだね」
私は顔を上げて頷いた。
明日の金曜日から二泊三日でオランダに行く予定なので、今晩、ヨナスとマリアと一緒に食事をする予定になっている。というのも、明日はクラウスの29歳の誕生日で、本来なら明日、何かお祝いをしようとしていたけれど、急にオランダ行きが決まってしまったので、ヨナスとマリアが前夜祝いとして一緒に食事をしようと提案してきたのだ。
明朝のフライトでアムステルダムのスキポール空港へ到着し、クラウスが現地のレンタカーを手配したので、空港からおばぁちゃん宅までは自分達で車で行くことにした。そして明日の晩は、海辺のLa Galleria Nordwijkでディナーをするつもりで、すでに予約も入れてある。
あの、マリアが撮ってくれた私の写真があるレストラン。
まさか、クラウスと一緒にそこに行くことにるなんて!
今回はクラウスを同行するので、ホテル宿泊にしようかと思っていたのだけど、おばぁちゃんが家に泊まれと何度も言うし、当のクラウスがそうさせてもらおうと快諾したので、おばぁちゃん宅に二泊することになった。まさか、自分の彼氏を連れておばぁちゃん宅へ行くことになるなんて思ってもいなかったけれど、おばぁちゃんの感覚的には、クラウスもフーゴと似た様なものらしい。どうしてもクラウスに会いたいと主張したその意図はよく分らないというのが現状だけど、あの後、改めて電話で話した時には、単にどんな人か知りたいだけ、と言うので、根掘り葉掘り彼を質問攻めにしないことだけを念入りにお願いしておいた。
クラウスは、自身にはもう祖母が居ないので、かなり楽しみにしている様子だし、もう、なるようにしかならないと思って私も深く考えるのは止めることにした次第だ。
クローゼットを開けてどれを着ようか考えていると、後ろからクラウスが手を伸ばし、1枚のドレスを取った。それは、Giorgio ArmaniのNavy Blueの膝丈のドレス。七分袖で艶やかな光沢と胸元のドレープがとても上品な1枚だ。しばらく前に街に出かけた時にお店に入って、クラウスが選んだものだった。今晩は少し落ち着いた雰囲気のフレンチレストランだと聞いていたので、ちょっぴりフォーマルな感じがいいのかもしれない。振り返れば彼も同じくGiorgio Armaniのブラックのスーツを着ている。青みがかかったグレーのシャツを中に着て、ネクタイは閉めずにボタンを二つはずしたまま、ドレスダウンしていた。いつもより随分とクラシックな装いで、少し伸びた髪もスタイリングした彼は、ものすごく上品で優雅。貴族出身だと知った時には驚いたけれど、こうして見るとやはり、生まれ持った気品が溢れている。普段仕事でスーツを着ている時は、いかにもやり手ビジネスマンという感じだから、今晩みたいにしっとりと大人びた美しい彼とはまた雰囲気が全く違う。
こんな素敵な人が自分の恋人だなんて!
彼の美しいブルーグレーのふたつの瞳が優しく煌めいて私を見下ろしている。
麗しすぎるクラウスに見惚れていると、彼が笑いながら私の背中に触れた。
「立ち尽くしてどうしたんだ?さぁ、着替えを手伝ってやろう」
「えっ、いいよ、自分でやるからっ」
慌ててそのドレスを受け取って、私は後ずさりした。
この人はどこまでが冗談だかわからないのだ。
「何を恥ずかしがっているんだ?俺に隠す必要はないだろう」
妖しい微笑みを浮かべてじりじりと近づいて来る。私をからかって遊ぼうという魂胆だとその楽しそうな目を見れば分る。
「自分で出来ます!」
はっきりとそう言ったのに、気がつけば壁に追いつめられて逃げ場を無くして、完全に相手の思うつぼにはまってしまった。クラウスが至近距離まで迫って来て、両手で私の肩を掴むと、身を屈めて私の顔を覗き込む。彼の熱っぽい目がまっすぐに私を捕らえ、ドキンとして身動きが出来ず彼を見つめる。
「……もう少し暗い時は、あんなに素直なのに」
からかうようにそう囁かれ、不覚にもドキリとして頬が熱くなり、落ち着かない気持ちで瞬きを繰り返した。
そんなことを引き合いに出すなんてズルすぎる。
どうやって切り替えそう?!
なんと言えばいいのか思いつかない。
エレガントな装いで外出準備万端のクラウスに、手取り足取り着替えさせられるなんて、想像しただけで恥ずかしさで頭がおかしくなりそうだ。
いい理由が思いつかず焦っていると、クラウスの手が私の背中に回ってもうジッパーに手をかけた。
「……っ、私だけっていうのは不公平!」
そう慌てて言うと、クラウスの手が止まった。
ほっと息ついて彼を見ると、何やら楽しげに目を細めて小さく頷き、それから私の背から手を離した。
「……なるほど。それは正論だ」
「そ、そうでしょう」
普段は絶対にこれほどすんなりと引き下がらないのに、妙に素直なクラウス。流石に出かける直前にこれしきのことでもめるつもりはないのだろう。
安堵して思わず笑顔でクラウスを見上げたら、妖しく目を光らせてじっと私を覗き込み、なぜか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「いいだろう。帰宅してから公平に、ということにしておく」
「えっ」
「君がそう言ったんだろう?不公平は嫌だと」
「それは、そうかもだけど、でも、少し言いたかったこととは違う気が」
公平に、と言う事は、私がクラウスを着替えさせるということにもなるわけだ。
それはそれでかなり恥ずかしい!
いや、もしかしたら自分が着替えさせられるよりもっと緊張するかもしれない!
切羽詰まって苦し紛れに口走ったとはいえ、結果的には墓穴を掘ったらしい。
もっとましな逃げ口上を考えつかなかったのかと悔やむ。
「着替えの合間に一緒にシャワーへ行くという案もある。君の希望に合わせてやろう」
からかうように楽しげにそう言うと、クラウスが私を引き寄せてキスをした。息が止まるほど情熱的に激しく圧倒されたかと思うと、まるで深い眠りに落とされるように優しく穏やかな口づけ。荒れ狂う感情と包み込むような甘い想いが大きな波となって繰り返され、彼は私の意識を完全に支配する。両手で持っていたドレスがもう手から滑り落ちそうになるくらい全身の力が抜けかけた時、ようやく彼が私を解放した。
目眩を感じつつゆっくりと目を開くと、目の前に彼の美しい瞳が二つ、まっすぐに私を見つめていた。なんの汚れも迷いもない光を含んだ、熱っぽく潤んだ目だ。お互い言葉なくただじっと見つめ合う。言葉が無くても心の中が読めるようだ。
こんなにも愛している。
自分の気持ちがこれほどはっきりと分るということが、どれだけ不思議なことか。
彼に出会えたという奇跡。
幸せという言葉の意味を知ったこの出会い。
彼のことを思い浮かべるだけで気持ちが昂る。
熱くなる胸を押さえながら、思わず微笑むと、彼も目を細めて幸せそうに微笑んだ。
「車の準備をしてくる。夜風が冷えるから、ドレスの上になにか羽織るものを忘れないように」
彼はそういってもう一度私の頬にキスをするとにっこりと微笑み、部屋を出て行った。
その華麗な後ろ姿を見送りながら、私は大きく深呼吸をした。
それにしても、彼が自分はプレイボーイじゃないと言うのがやっぱり信じられない。
彼の一挙一動、一語一句。
そのすべてが、あんなに私をドキドキさせるのに!
そんなことを考えながら、Giorgio ArmaniのNavy Blueのドレスに着替え、靴も同じくArmaniの黒のパンプスにして、髪はくるくると巻いてピンで止めた。カシミヤの黒いストールを肩に羽織り、鏡をチェックした。化粧はあまりしないようにしているが、ダークブルーのアイラインを入れて、バーガンディブラウンのリップを薄く乗せてみると、ナチュラルメイクではあるものの、少しフォーマルなお出かけという大人な雰囲気が出た気がする。ホワイトのスパンコールが一面についたパーティバッグを手に持って、急いで部屋を出ると、アパートを一周して戸締まりをして、リビングのランプだけは防犯用にオンにする。玄関から出て鍵を締め、階段を降り始めるともうその少し先にクラウスが車を停めて待っていた。彼は私が出て来たのを見るとすぐに運転席から出て来て、にっこりと微笑んで私の手を取る。
「カノン、とても奇麗だ」
そう囁いてウインクする。
彼のお茶目な表情が愛しくてたまらない。
「ありがとう……」
照れながら助手席のほうへ回ると、彼がドアを開けてくれる。
すっかり、レディ扱いされるようになったけれど、未だにそれがくすぐったくてどうしても頬が緩んでしまう。
こうして大事にしてくれる相手が、クラウスだからだろう。
どこかのホテルのドアマンやタクシーのドライバーが同じようにドアを開けてくれても、照れることはない。
私が乗り込むと、彼がゆっくりとドアを閉める。
続けて運転席に乗り込んだクラウスを見ると、彼がもう一度じっと私の顔を覗き込んだ。
「どうかしたの?なにか、変?」
メイクがおかしいのかと思ってそう聞くと、彼が首を振ってにっこりと微笑んだ。
「俺を虜にしたその目を見ていただけだ」
「……」
耳が熱くなった気がする。
私がこのクラウスを虜にするなんて!
マリアも言っていた。
彼女が撮った写真に写った私の目にクラウスが釘付けになっていたと。
私の目に何が見えたんだろう?夕暮れのお日様が目に反射して、まるで炎のように燃えているようだと彼女が言っていた。私が時々フーゴの目に見ていた、鋭く熱い光が、私の目にも映ることがあるのだろうか。
自分で毎日鏡で見ているけれど、そんな特別な魅力なんてなさそうに見えるのに。
私の思惑を気にする事もなく、クラウスは車を発進させた。
いつものように滑らかに街を走るシルバーのBMW。
彼の運転は本当にスムースで無駄がなく、カーブの曲がり方から加速減速も、まるで芸術のようだ。
日が暮れて街がヨーロッパらしく街灯で照らされて夕暮れから夜へと移り変わった。幻想的でロマンティックな雰囲気に包まれつつあるその景色に見とれる。
東京の摩天楼は豪華で美しい大都会そのものだが、ベルリンの夜はしっとりと落ち着いた大人の世界。電柱や大きな電光掲示板がないから、昔ながらの古い街並みが街灯に照らされて、時々まるでタイムスリップしたような景色を目にすることもある。
ギアを変えるクラウスの手を見つめる。
大きな手は、骨張って強そうに見えるけれど、すらりと伸びた指は美しく優雅さがある。彼自身がそのままに現れた美しくも力強さが漲る手だ。
前方を見つめる彼の美しい横顔は、うっすらと微笑みを浮かべてとてもリラックスした表情だ。私が見ていることに気がついたのか、ちらりと横目でこちらを見て、クスッと笑いをこぼす。そのしぐさもまたドキンとするくらい魅力的だ。
天は二物を与えず、なんて言うけれど、二物どころかそれ以上与えられる人だっているらしい。
信号が赤に変わり、クラウスがゆっくりと停車した。その時、彼の携帯が鳴り始めた。
クラウスは信号から目を話さず、ジャケットのポケットから携帯を出して私に渡した。この呼び出し音は、ヨナスだからだ。
「ヨナスだから、君が出てくれ」
「うん」
運転中なので、私が代わりに応答した。
「ハロー?カノンです。今、車で向かっているところ」
『カノン?』
いつもより低いヨナスの声。普段とは様子が違う。
私は少し不安になって、黙ってヨナスの言葉を待った。
何かあったのだろうか。
『悪いが、クラウスに言って停車して電話を変わる様に言ってくれ』
「……わかった」
嫌な予感に胸を押さえながら、私は運転しているクラウスを見た。
「ヨナスが、貴方と話したいから車を停めてって」
クラウスが眉を潜めてちらりと私を見ると、前方に目をやり、次の交差点で左に曲がると路肩に停車した。私から携帯を取りながら、心配するなというように小さく微笑む。
そして携帯を耳にあてた。
「ヨナス?」
やがて、電話先でヨナスが何か言っているのが聞こえた。なんといっているのかまでは分らないが、クラウスは沈黙し、眉間に皺を寄せて前方を睨みながら、ヨナスの話を聞いている。
「わかった……今、方向転換する。15分後」
低い声でそう言うと、電話を切って無言でハンドルに手を乗せ、しばし前方をじっと見ている。
話しかけていいのか分りかねて黙っていたものの、やはり様子が普通じゃないので不安になって私は口を開いた。
「クラウス?なにか……なにかあったの?大丈夫?」
「……」
クラウスは黙って私に目を向けると、やがて小さく溜め息をした。
「父が、入院した」
「えっ」
「ダニエラを説得しようとミュンヘンに行き、到着した空港で倒れたらしい」
驚いて目を見張る。同時に、心配と不安で寒気がして、祈る様な気持ちでクラウスを見つめた。
まさかと思うが、命に関わる重大事ということなのだろうか。
クラウスは私の顔色が変わったのを見たのか、急に強ばった顔を緩めて小さく微笑んだ。
「命には問題ない。病院が父の妻であるダニエラに真っ先に連絡したらしいが、付き添いを拒否したらしい。現在、ドレスデンから駆けつけた執事が到着して、ヨナスへ連絡してきたそうだ」
「……命には別状ないのね」
少しだけほっとして、詰まりそうだった息を吐いて、数度、呼吸を繰り返した。
「入院って、どういう症状で?」
「急なしびれや目眩で倒れ救急車で病院に搬送されて、軽度の脳梗塞との診断がおりたそうだ。これからCTやMRIで更に詳しく検査をして、手術の必要性があるかどうかを判断することになったらしい」
「脳梗塞……?!それでも、ダニエラは会いに来ないの?!」
「……どこまでも薄情な女だ!」
怒りを押さえたクラウスの低い声。彼は眉間に深い皺を寄せたまま、車のエンジンをかけた。
私も、彼女への不信感でいっぱいになっていた。
クラウスの父の妻である彼女は、夫が緊急入院してこれから検査を受けるというのに、側に行くつもりはないのだ。それもこれも、クラウスやヨナスが、ダニエラの願いである彼女の娘との結婚を拒否しているから。彼女の野望と、クラウス達の父の命と、どちらが大事だと思っているんだろう?!
仮にも、愛していたから結婚して連れ添って来たのではないだろうか?
「とりあえず、ヨナスとマリアのところに行く。残念だが、食事のほうは取りやめだ」
私はしっかりと頷いた。
食事なんて別にたいしたことじゃない。
勿論、これがクラウスの誕生日の前夜を祝うものだったというのは悲しいけれど、誕生日よりももっと重要なことがある。
クラウス達の父は今頃、冷たい病棟で1人、何を思っているのだろうか。
寒々しい雰囲気の病室に横たわる、まだ見ぬ彼らの父親を想像して、胸が痛んだ。
誰か、側に居て上げて欲しい。こういう時に、側に誰もいないなんて、自分だったら悲しくて不安で胸が張り裂けてしまうだろう。
私は両手を膝の上でぎゅっと握りしめて前方を見ていた。
やがて、ヨナスのアパートの近くへ付くと、二人も表のベンツの前で立って何かを話していて、私達が到着したのに気がついて振り返った。
私達もすぐに車から降りる。
「クラウス」
ヨナスも今晩の為にドレスアップしていたらしく、普段とは違ってとてもエレガントなスモーキーグレーのスーツを着ていたし、マリアも光沢のある美しいチョコレートブラウンのワンピースドレスを着ていた。
「今付き添っているのは、ドレスデンからさっきミュンヘンに到着した執事のカールと、身の回りの世話をするイーナの二人らしい」
ヨナスはイライラしたようにそう言って眉を潜めた。
「カールは引き続きダニエラに連絡を取ろうとしているらしいが、父が直接連絡をするまでは電話には出ないと言って、電話口まではこないらしい」
「あの女、鬼だわ!すぐ近くの病院に夫が入院したってのに、顔も出さないなんて!」
マリアが吐き捨てるようにそう言う。
私も本当にそう思った。
緊急入院している相手が、直接電話してくるまで電話口には出ないだなんて、薄情者以外の何者でもない。
「あの女のことだ、これを機によからぬことを考え始めていてもおかしくはない」
クラウスが独り言のようにそう呟いた。ヨナスが小さく溜め息をして苦々しく同意した。
「確かに、くだらない策略を思いついている可能性も否定出来ないだろう」
「誰か、探りにいかせればいいのに!あの女がくだらないことを思いつく前に、阻止しないと」
マリアがそう小さく叫ぶ。
探りに行かせる?ダニエラが何を企んでいるか……?
いや、違うだろう。
探りに行くことよりも、大事なことがある。
今は、ダニエラのことなんかより、もっと重要なことがある。
「あのね」
私は3人に近寄った。
皆が黙って私を振り返る。
最も重要なこと。
それは、今しか出来ないことだ。
「お父さんの所に行くべきだと思う。今、1人でいるお父さんのところへ」
私がそう言うと、3人が目を見開いた。
「だって、これから検査があるんでしょう?そんな怖いことをする前に、家族が誰も側にいないなんて、心細すぎる。ダニエラが居なくても、ヨナスとクラウスが居る。本当の、家族が」
「カノン……」
マリアが独り言のようにそう呟いて、それからにっこりと微笑んでヨナスを見上げた。
「行きましょう」
ヨナスとクラウスが顔を見合わせ、数秒お互いを見ていたが、やがて二人は目を細めて微笑み合って肩を抱き合った。
「先に俺が運転しよう。途中で交代だ、クラウス」
「わかった」
ヨナスがすぐにベンツの運転席に乗り込み、助手席のほうにクラウスが乗り込んだ。後部座席のドアを開けたマリアが私の腕を掴んだ。
「さぁ、そうと決まれば、飛ばすわよ!カノン、乗って」
私は急いで乗り込み、ドアを引いて閉めると、もうエンジンがかかった車の発進と同時にシートベルトを閉めた。ヨナスの大型のベンツは大きなエンジン音を立てて一気に大通りへ走りだす。
数分もするともう、高速に入って、ヨナスがギアを変えてどんどん加速を上げて行く。隣のクラウスがカーナビを操作しながら言った。
「今、ハンブルグ、ライプチヒ方面のA100に入った。早ければ6時間以内で着くだろう。到着は午前2時前あたりか」
「クラウス、カールに電話を入れておけ。病院の近くの宿泊場所を確保するように」
横からヨナスが指示をすると、クラウスが携帯を取り出した。
とりあえず病院に向かっている。
少しだけほっとして座席の背もたれに寄りかかると、隣のマリアがにっこりとして私の手を握った。
「カノン、さすがだわ」
「さすがってなにが?」
びっくりして聞き返すと、マリアがくすっと笑った。
「危うく時間の無駄をするところだった。ダニエラへの怒りで頭が一杯になっちゃって、私達が行くっていう発想にならなかったわ」
「うん、そうだね。でも、ダニエラが行くのを待っているより、息子達が行くほうが早そうだし、お父さんも喜びそう」
「ほんとにそうね。私達、病院に行くって感じの服装でもないし、手荷物も全くないけど」
マリアは面白そうにそう言って笑いながらチョコレートブラウンのドレスの裾に触れる。
「……そんな細かいこと、お父さんの状態を考えたらどうでもいいって感じね」
私は笑顔で大きく頷いた。
きっと、お父さんはヨナスとクラウスの顔を見たら元気づくだろう。本当に血を分けた息子達なんだから。検査が始まる前には顔を見せれるのが不幸中の幸いだ。
そこで私ははっとあることを思い出して、携帯を取り出した。
明朝はオランダに行く予定だった。
もう、この状況では行けるはずはない。
私は助手席に座るクラウスに声をかけた。
「クラウス?今から、フライトのキャンセルは出来るの?」
彼が振り返って頷いた。
「今回は残念だが、キャンセルするしかなさそうだ。君のおばぁちゃんには申し訳ないと伝えてくれ」
「うん、大丈夫だよ!」
私はすぐにおばぁちゃんに電話を入れた。
状況を説明すると、おばぁちゃんは勿論、私達が病院に向かっていることを喜んでくれて、オランダに来るのはまたの機会で全然問題ないし、クラウスのお父さんが早く元気になって無事退院出来ることを心から願っているから、とのことだった。
きっと、おじぃちゃんが入院していた時のことを思い出したんだろうと思う。
おじぃちゃんは何年も入院していたけれど、おばぁちゃんはほぼ毎日付き添ってあげていた。おじぃちゃんはそのことをとても幸せに思っていたのを知っているし、おばぁちゃんもおじぃちゃんの笑顔を見に、あれこれ手みやげを持って病院へ通うことを欠かさなかった。だからこそ、おじぃちゃんがついに亡くなる時、おじぃちゃんは満たされた様子で静かにこの世を去ったし、おばぁちゃんも泣いてはいたけれど、後悔は全くない様子でしっかりと別れを受け入れていたように思う。本当に愛し合っていたら、相手がどんな状況にあろうとも、側に居たいと思うはずだ。私はやっぱり、クラウス達がいうように、ダニエラは彼らの父を幸せにすることは出来ないし、また逆に、ダニエラが幸せになることもないだろうと感じ、そのすれ違いに切なさを感じた。
本当に愛し合える相手に巡り合うなんて、本当に奇跡。そういう相手に恵まれないというダニエラも言ってみれば可哀想な人なのだ。
夜の10時すぎ。
ライプツィヒを過ぎた辺りで一度、ガソリンスタンドに寄った。
給油している間にヨナスとクラウスがスタンド内のお店に入り、私とマリアは車外に出て背伸びをする。
もう冷気で冷えて来て、少しだけ霧が出て来た。
ヨナスの車はかなり大きいせいか、ゆったりとしているので後部座席に座っているとだんだん眠くなって来てしまう。
「こういうのも、楽しいといえば楽しいわね」
マリアがそう独り言にように言って、両手を腰にあてて背筋を伸ばす。
「4人で車に一緒に乗るっていうの、初めてだしね!飛行機で行くのと時間的にはさして変わらないし、車の運転が得意な人が二人も居てよかったよね」
そう言うと、マリアが少し不満げに口を尖らせて私を睨んだ。
「カノン!どうして二人なの?私を忘れてるわよ」
「あっ、ごめん、そうだった、車の運転が得意な人、三人だったね」
慌てて訂正すると、マリアがクスクスと笑い、首を振る。
「冗談よ!私、高速はあまり好きじゃないの。ひたすら直線コースだと眠くなって集中できないし」
それを聞いて本気でびびる。
絶対に、マリアに高速を運転してもらわないほうがいいだろう。
いや多分、ヨナスも知っているだろうから、マリアにハンドルを持たせることはないはずだ。
「しかも、夜って街灯と車のランプで視界がぼやっとしてスピードの感覚もなくなるしね」
「うん、暗いとスピードの感覚がなくなるってのは本当にそうかも、、、緑が多いところは夜は真っ暗だもんね」
「そうよ。街の中だと明るいし、頻繁に信号で止まったり変化もあるし、他の車や歩行者を気にして眠くはならないけど、高速って車だけで基本的に直線だし、退屈よね。ヨナスもクラウスも平気で高速を何時間も走るけど、私は30分が限界」
マリアはそう言うと、大きなあくびをした。
「レディのおふたりさん」
ヨナスの声がして二人で振り返ると、彼がコーヒーをふたつ持ってにっこり微笑んでいた。
「ガソリンスタンドのカウンターで買ったが、味はまずまずだ」
「ありがとう!」
私達も温かいコーヒーを受け取って笑顔になる。
ほろ苦さで眠気も消えて行くようだ。
少し遅れてクラウスが戻って来て、クロワッサンのサンドイッチやプリッツエルの袋を私達に差し出してくれた。車のボンネットにコーヒーを置いて、それぞれサンドイッチを食べながら話をする。夜中の高速で、車のボンネットをテーブル代わりに軽い夕食なんて、初めての経験だ。お父さんが入院しているという状況にも関わらず、私達は笑顔になっていた。
「こういうのも悪くない。昔に戻ったみたいだ」
ヨナスがココアを飲みながらそう言って笑った。
「昔は、思いつきで遠出したりしたこともあったな」
クラウスも懐かしそうに目を細めた。
「さて、そろそろ出発しよう。もうあと3時間ほどで着くだろう」
「ヨナス、残りは俺が運転する」
クラウスがそう言って、クロワッサンのサンドイッチの残りを一口で食べると、残っていたボトルの水を飲み干した。
「了解。さっきカールからメールが来て、Sofitel Munichに二部屋、三泊で確保したらしい。中央駅側で病院は徒歩15分という近さだ。今晩は遅いからまっすぐにホテルへ行って、明日の朝、検査が始まる前に病院へ行くことにしよう。幸い、明日は金曜日だ。全く手ぶらで来てしまったから、必要なものは病院に行った後に街で買うとする」
ヨナスはそういうと、携帯をポケットに仕舞う。
私はボンネットに置いてあった空のカップやボトルを急いで集めて、ガソリンスタンドのゴミ箱へ運び、駆け足で車に戻ると後部座席へ戻った。
シートベルトをはめていると、運転席のクラウスが振り返って私に微笑みかけた。
「カノン、無理せずに寝ていればいい。着いたら起こすから」
「うん、わかった。ありがとう」
私は一応そう言って頷いた。
本当は、眠るつもりはない。
それに、私はコーヒーを夕方4時以降に飲むと、真夜中まで目が覚めていることが多い。だから夕方以降は基本的にカフェイン抜きのハーブティばかり飲む。
でも今晩は、たった今飲んだコーヒーで眠気も吹っ飛んだから多分大丈夫。
車はゆっくりとガソリンスタンドから高速へ戻り、そしてまた一気に加速した。
夜中の12時を過ぎたところで、マリアがHappy Birthdayの歌を歌いだし、日付が変わったことに気がついたヨナスと私も一緒に歌い、クラウスが照れて笑っていた。
クラウスは29歳になった。
その時知ったのだが、ヨナスは31歳、マリアは30歳だというので、私が28歳と、皆1歳違いで数字が奇麗に並んだことに気がついて大笑いする。
最初は緊迫した雰囲気だった道中も、ミュンヘンへの道中にだんだんと落ち着きを取り戻して、穏やかな雰囲気のまま無事に1時40分、ミュンヘンのホテルへ到着したのだった。
ホテルのほうはカールが気を利かせてラグジュアリールームを二部屋、隣り合わせで予約していてくれた。着いた時は流石にもうぐったりで、ドレスは皺にならないようにハンガーに掛け、バスローブを羽織って眠る。
そしておよそ5時間の睡眠の後、それぞれシャワーを浴びてホテルのロビーで集合し、朝食は後回しでミュンヘン大学中央病院へ歩いて向かう。15分ほどで明るいイエローカラーの壁が印象的な大病院へ到着し、ヨナスとクラウスが受付のほうへ行った。
私とマリアは入り口のロビーあたりで待つことにし、病院内のカフェでラテやエスプレッソを買い、ソファに座った。
やがて受付に執事らしい初老の男性が現れて、ヨナスとクラウスがこちらを振り向いた。どうやら今からお父さんのところへ行くらしい。私とマリアは手を上げて合図をして彼らを見送った。
「これだけ設備が整った大病院なら、まず心配なさそうね」
マリアが辺りを見渡してそう呟いた。
「病院と聞くと寒々しい空間をイメージしてたけど、意外と落ち着いた雰囲気」
私も周りを見渡した。大病院なんて聞くと、常に救急隊員が患者を運び込むような切羽詰まった雰囲気かと思ってしまうけれど、恐らくそういった救急患者の搬送口は別にあるわけで、このロビーには、花束や風船を持って見舞いに来ている人達や、会いに来てくれた人とお茶を飲んでいる患者が居たりと、割とのんびりとしている。
「親子3人で会うのなんて、多分かなり久しぶりだと思うわ。クラウスは先月一週間、実家に行ってたんでしょう?ヨナスはもう半年以上はお父さんとは会ってないと思う」
マリアがそう言いながら飲み干したエスプレッソのカップを指で弄ぶ。
「マリア、この間、ダニエラが娘さんを連れて来たって話をしたでしょう?あのことで、お父さんとクラウスの関係が以前より複雑になっていなければいいんだけど……お父さんがわざわざダニエラに会いにミュンヘンまで来たってことは、やっぱりお父さんはダニエラの願いは叶えたいって思っているんだよね……」
気がかりだったことを打ち明けると、マリアがにっこり微笑んで私の手を取りぎゅっと握りしめる。
「心配するのはやめなさいよ。今回のことで、ダニエラがどんな人間かなんてきっとお父さんもわかったと思うわ。結局、こういう時に人間の本性は露呈するものなの」
「うん……でもそれはそれで、お父さんもショックだよね。一応、ダニエラを信頼していたからこうして説得に来たのに、冷たい仕打ちを受けてかなり傷ついたんじゃないかな……」
「それはそうね。でも、その傷を癒せる息子が二人揃って駆けつけたんだから、きっと大丈夫よ」
「うん。そういえば、マリアはお父さんに会った事はあるの?」
そう聞くと、マリアはちょっと考えるように黙って、それから苦笑した。
「会ったといえば会ったかも。でも、話してないの」
「えっ?」
意味がよく分らない。会ったのに話さなかったということだろうか。
「違うわね、会ったんじゃなくて、遠くから見たって感じ」
マリアが受付のほうを眺めながら話を続ける。
「もう4、5年くらい前かな。お父さんがダニエラと一緒にベルリンに来たの。丁度、クラウスがアメリカからドイツへ帰って来て、ベルリンにアパートを借りることになって、ダニエラが場所をチェックしたいとか言って二人で来たの。いずれ娘も住む場所だから、とか言って」
「そうなの」
急に納得する。ご近所さんが、挙式したら奥様もここへ住むと聞いた、と言っていたのは、もしかしたらダニエラがアパートを確認に来ていた時にそう話したのかもしれない。
「それで、ヨナスと私も同じ時間にアパートへ行ったの。ヨナスが私をお父さんに会わせようとしたんだけど、それに気がついたダニエラが、お父さんをさっさと車に乗せて私を無視して立ち去ったってわけ」
「……すごいね」
ダニエラの行動に驚かされて、衝撃のあまり言葉が出ない。
「だから少ししか見えなかったけど、やっぱり息子と似てたわ。でも、どっちかというとクラウスがよく似ている気がする」
マリアがそう言った時、1人の女性が私達の所へ近づいて、遠慮がちに声をかけてきた。
「マリア様とカノン様?」
びっくりして私達が立ち上がると、女性がにっこりと微笑んだ。
「Sommerfeld様にお仕えしておりますイーナでございます。ご主人様が、お二人にもお会いしたいとおっしゃっておりますので、お迎えに参りました」
イーナの言葉に、私とマリアは顔を見合わせた。
まさか、私達が呼ばれることになるとは思っていなかったので、驚くと共に急に緊張が走る。マリアは美しいオリーブ色の瞳を瞬かせて、心配げにイーナに聞いた。
「お加減はどうなの?ヨナスやクラウスも、私達が呼ばれていると知っているのかしら?」
「ご主人様の状態は安定しております。ヨナス様も、クラウス様もお二人をお待ちしていらっしゃいますので、どうぞご安心ください」
「そう、二人が反対していないというのなら……」
マリアが注意深くそう言いながら、私を見た。
彼女も私同様、突然二人で病室に現れて、お父さんにショックを与えるとか、ストレスになるような結果になっては困るから慎重に考えているのだ。
「ご主人様も、ヨナス様やクラウス様がいらっしゃるとはご存知なかったので大変喜ばれています。検査が始まるまで後15分ほどしかないので、少しだけでもお話したいとのことですから」
イーナに先導されて、私達は病室のほうへ向かう。
エレベーターに乗って上階に行くと、人が少ない階に到着した。どうやら、この階は相部屋でなくて、いわゆる個室病棟になっているようだ。
しーんと静まり返った廊下に、私達のパンプスのヒールの音が静かにこだまして、少しずつ緊張が高まって行く。気のせいか、空気が肌寒く感じた。
ひとつの扉の前でイーナが立ち止まり、ノックする。
待っているとドアが開き、少し前に見た執事のカールが出て来て、私達を見るとにっこりと微笑んで、扉を大きく開いた。
「どうぞ、お入りください」
3、4歩、中に入ると、カールは入れ替わりに病室から出た。
「イーナと私はしばらく失礼いたします。検査時間になりましたら参りますので、それまでごゆっくり」
そしてイーナとカールがにっこりと微笑み、静かな音を立てて扉を閉めた。
曇りガラスのスクリーンの向こうに、クラウス達が居る。
マリアが私ににっこりと微笑んで、私と腕を組むと一歩、前へ踏み出した。
ゆっくりと歩いてスクリーンの向こうへ足を進めると、広々とした病室の奥に、ベッドに横たわるお父さん、そしてその向こうのカウチにそれぞれ腰掛けているヨナスとクラウスが視界に入った。私は最初、クラウスを見た。落ち着いた優しい微笑みを浮かべて私達を見ている。ヨナスも同じく、穏やかな微笑みを浮かべていた。そして、二人の父親を見た。
そこに居たのは、私達のほうを眩しそうに見つめ、優しげな表情を浮かべた人だった。
「よく来てくれたね。私がこの子らの父、ユリウスだ」
オペラのバリトンのような、威厳のある低い響きのその声は、どこかクラウスの声と似て、温かく包み込むような柔らかさがあった。
私とマリアはユリウスの近くへ寄ると、差し伸べられた左手を交互に握りしめた。大きなその手の甲には、点滴の針。見れば、心電図のケーブルが胸元から見え、酸素濃度を調べる機器が右手の指にはめられていて、壁のほうにはそれぞれの数字を表す電子スクリーンがいくつもかかっていた。
ユリウスはやっぱり、息子達によく似ていた。50代後半の彼は、グレーがかったブロンドの髪に、ヨナスとそっくりな真っ青な目をしていて、やや痩せたその頬も息子達と同じように精悍な頬骨のラインを描き、憂いを見せる表情はどこか悲哀を帯びて力なく見えたけれど、その目に宿る光は決して冷たいものではなく、温かで感情深い柔らかさを秘めていた。
「君がマリアで、そして」
ユリウスがマリアを見て、そして私に目を移した。
「そして君が、カノン」
何故かその瞬間、私は自分の目が熱くなって視界が歪むのに気がつく。説明出来ない気持ちの昂りが私の感情を突き動かす。悲しさというものではなく、何かもっと神聖なものを見たような不思議な感覚。私は微笑みながら頷いた。
いきなり泣き笑いになっている私に、ユリウスが目を丸くして言葉を失って、それからクスッと笑いをこぼしてクラウスのほうを見た。
「おまえはどうして、彼女のことをこの間きちんと話さなかったんだ」
クラウスは父親のその言葉に少し困ったように眉を潜めた。
「ダニエラの話に片がついた後に話すつもりだったからだ。そこまで辿り着くことが出来なかったのは、俺のせいじゃない」
「おまえは物事の順序にこだわりすぎる。時には理屈で優先順位を考えず、自分の優先順位で物事を見ることも必要だ」
ユリウスはそう静かに言うと、私とマリアに微笑みかけた。
「今回予定外に入院したのも、こうやって君たちに会えた事を思えば無駄にはならなかったようだ。いや、こういうきっかけを作らなかったのには私に責任がある。息子達にも、君たちにも謝らなくてはならないな」
マリアがにっこりと微笑んで首を振った。
「出会いには、大事なタイミングというものがあるわ。時が満ちた時、自然と起こるべき瞬間が訪れる。すべては、神様の思し召しによるもの。私達に与えられたこの機会に、とても感謝しているわ」
その言葉に私も大きく頷いた。
いつかアダムが言っていたように、同じことでも、タイミングが違えば全く別の結果を導く。私達には、こうやってクラウス達の父に会える機会が与えられた時に、それが実現出来たという幸運に恵まれたのだ。
「でも、危うくこのチャンスを逃すところだったわ。カノンが、貴方の所へ行こう、と言った時に初めて、今がその時なんだって気がついた」
マリアがそう言うと私の肩をぎゅっと抱いた。
こうして皆が笑顔で集まれたことが嬉しくて私も笑顔で頷く。その弾みで目尻に溜まっていた涙が頬を伝って落ちた。
ユリウスが懐かしそうに目を細めて僅かに微笑みを浮かべ、じっと私の顔を見つめて、やがて小さく溜め息を漏らした。
「不思議なものだ。君を見ていると、思い出す人がいる」
思い出す人?
それは誰なんだろう?
目を丸くして、ユリウスが次に何をいうのかとじっと見つめると、彼は少しだけ辛そうに目を伏せ、そしてまたもう一度目を開いて何かを確認するかのように私の顔をじっと見つめた。
その憂いを帯びた深い青い目を見つめ返す。何かを探しているような真剣な眼差しだ。
やがて、ユリウスは表情を緩め、なにやら可笑しそうに笑みをこぼした。
「レオナ・ローサ。彼女も、そうやって泣きながら笑って、困った私はよく右往左往したものだった」
その言葉に、ヨナスとクラウスが顔を上げてお互いの視線を交差させる。
レオナ。
それは、もしかすると、ユリウスがずっと後悔しているという、離婚した最初の妻のことなのだろうか。
彼はどんな時も、彼女の影を追っているのかもしれない。
だから、誰かにちょっとした共通点を見つけると、すぐにレオナのことを思い出し切なくなるのだろう。
私の感情を強く揺さぶっている何かが、一体なんなのか、突然はっきりとその姿を表し、私の脳裏に浮かび上がった。
すべてはこれからなのかもしれない。
私は鳥肌が立つ程の熱い感情の煽りを受けて、じっとユリウスのその目を見つめた。
彼女を、探さなければならない。
私ははっきりとそう何かが告げるのを聞いた気がした。
ユリウスの後悔は取り返せるはずだ。
何十年経っても色あせることのないその想い。もう十分に苦しんだ。取り返しがつかないのは過去。でも、新たな始まりはこれから切り開ける未来にある。
きっと、彼女もユリウスを忘れる事はなく今も想い続けている。彼女は、ユリウスが後悔していることも知っていて、でも、彼の為を思って影を潜め、どこかで静かに暮らしているのに違いない。
新たな始まりを切り開く。
これは、私達に与えられた神様からの贈物だ。
レオナ・ローサ。
貴女を探し出してみせる。
その時ノックの音がして、カールが入って来た。
「ご主人様。検査の時間です。看護士達が迎えに参りました」
新しい職場に就いて間もないことで驚いたが、今回のコンペに使用されたプレゼンにはフーゴが大きく関わっていたとのことで、先方の希望でその役割を担うことになったそうだ。
さらに、このプロジェクトでは、フーゴの独断で、イベントのHPに訪れる人が最初に目にするランディングページのイメージ画像と、ポスターに使用するイメージをなんと、アダムに依頼したという。
この間、フーゴがベルリンに来た時に、アダムの作品を保存してある倉庫に行って、様々な絵画を見たり、PCでコンピューターグラフィックの画像を見たりなどしたらしいが、フーゴの話だと、何かとても気になるところがあったらしい。アダムの作品は、サンフランシスコという、多種多様で自由な文化的風土に合う斬新さを持ちながら、何か人の心に訴える真摯なメッセージが表現されていると感じたそうだ。
アダムは最初、この話を断ったそうだが、フーゴが電話で交渉したところ、今現在作っている作品以外に他の作品を手がける余裕はないから、今作っているものを使用するということであればそれを出すと言ったそうだ。その条件にフーゴがOKを出し、アダムが正式に今回のプロジェクトに参加することになったらしい。
それにしても、スポーツバカだったフーゴがいまやアートディレクターとは驚いたものだ。
私はプロジェクトの成功を祈るという返信をして、アダムにも応援のメールを送った。
最初、この話をアナにも教えようかと思ったけれど、結局書かなかった。あれからアナから連絡がこないことを考えると、察するに、お父さんのお世話や通院で毎日忙しくしているのだろう。11月1日のイベントが終って落ち着けば、アダム自身が連絡するかもしれない。
「カノン?ラルフから3件、物件の連絡がきている」
夕暮れのテラスからクラウスの声が聞こえて、私は自分のラップトップを閉じてソファから立ち上がった。
すっかり日が暮れるのも早くなってきて、6時すぎて来るともう、空がしっかり夕方らしくなっている。
クラウスの隣の椅子に座って彼のラップトップを覗き込むと、アパートや家の物件情報に関するファイルがいくつかメールに添付されていた。
1枚の添付は、ベルリンの地図にそれぞれの物件の位置を示したもの。
あとの3枚の添付は、PDFにまとめられたそれぞれの物件の間取りや物件詳細に写真。
「まず手元にあった情報から選んで送って来たらしい」
クラウスがそう言って、PDFを開いて最初の物件内容を確認する。
「これは、新しい物件だ。市内でもかなり賑やかなエリアの最上階」
写真を見ると、まるでホテルのような真新しい広々とした空間だ。窓がたくさんあって日当りもよさそうだが、私達が求めているのとは少し違う。
顔を見合わせて、お互い同じことを感じたことを確認して笑う。
すぐに次のPDFを開くと、今度はアパートではなく、一軒家だった。煉瓦作りの3階建で、広い庭があり全面芝生で覆われていて、すっきりとしている。室内の写真は、現在改装中ということで壁の煉瓦や配管が剥き出しの状態なので、当分は工事が続きそうな感じだ。
次の物件は市外のペントハウスで、森の近くに位置しており、室内も真っ白い壁の面と、煉瓦の面といいバランスで組み合わせてあり、天井で交差している大きな木の梁がログハウスのように温かい雰囲気を作っていて、とてもいい感じだった。でも、残念ながら暖炉はついていなかった。
「なかなか難しい」
苦笑しながらラップトップを閉じたクラウスが、両腕を頭の後ろに回して四肢を伸ばした。
「でも、理想の物件を探す過程も楽しい!」
一緒に物件の写真を見ているってだけで、ドキドキしてしまう。
クラウスは苦笑して、私を見た。
「君が1人で探していたら、永遠に決まらないだろう」
「うーん、否定は出来ないかも」
探すことが楽しくて、永遠に探していそうな気がする。
「私のアパートも、なかなか決められなかったよ。でも、マリアが、最上階だと泥棒があまりこないって言うから、それが決定打だった」
「確かに、安全なエリアに住むというのは譲れない条件だ。ベルリンは地区によって治安も住人も変わって来る。特に旧東ドイツのほうには、場所によっては開発されて住み易いところもあるが、いまだに人種差別が残るところもあるから、外国人が住むには適さない地域も少なくない。ラルフには、犯罪の死角になりそうな場所があるエリアは選択肢から抜くように言ってある」
「そうだよね。ドイツ語のクラスのクラスメイトも言ってた。彼女は家族と旧東ドイツの地区に住んでいて、子供が行く学校にはナチの家族が居て、やっぱりそういうことを心配してた。彼女はベトナム人だから、やっぱりアジア人は差別の対象にはなるしね。今のところ、特に問題はないらしいんだけど……クラウスは、エリア以外にも、どういう場所に住みたいのか、もうイメージははっきりと決まっているの?」
そう聞くと、クラウスはにっといたずらっ子のように目を煌めかせて頷いた。
「具体的には?」
「それは、今は秘密、ということにしておく」
「えー?どうして、秘密なの?」
不満に思って文句を言うと、クラウスはクスッと笑い私の髪を撫でてじっと目を見つめた。
「これくらいの秘密はいいだろう?」
「ダメってことはないけど、暖炉以外になにか特別な理想があるなら知りたいなぁ、、、オフィスに近いとか?」
私も物件を見る時に、もっと注意して見る事が出来るのに、なんで秘密にするのかわからない。
「それは確かに条件のひとつだ。君は、これという希望はないのか?」
うまく話を逸らされた気がするが、聞かれてしばし考えてみる。
「日当りがいいのは外せないかな?あとは、貴方と一緒に料理が出来る使い易いキッチン!」
そう答えると彼もにっこり笑って頷いた。
「来週あたりからラルフも本格的に探すと言っていたから、やつの手腕に期待しておこう」
「うん!」
わくわくしながら大きく頷いた。
今のこのアパートで一緒に居るだけでも楽しくて幸せなのに、今度は二人で住む場所を選んだり、家具を準備したりするなんて、考えただけでドキドキしてしまう。クラウスが何冊かインテリア雑誌を買って来てくれたので、時々チェックしているけれど、ますます夢と想像が膨らんできて、まだ決まってもいない新しい住処の夢まで見るようになってきた。
私はあまりいかにもインテリア雑誌から出てきました!というように、すべてが完璧に配置された家よりも、居心地がよいことを重視したい。外から帰って来て、ほっと出来る、くつろぎの空間。読みかけの雑誌が無造作に置かれたテーブルや、編み掛けのセーターや毛糸のカゴが置かれたチェスト。キッチンのカウンターには、焼きたてのマフィンやクッキーが並ぶ三段のアフタヌーンティスタンド。連絡事項を書くメモ帳とペンが転がるダイニングテーブル。
普段の生活の様子が垣間みれるアットホームなお家がいい。
そんなことを思いながら隣の彼を見ると、携帯を開いて何かチェックしていた。クラウスも、あれからもう機内モードにすることはなくなり、普通に仕事や友人との電話をするようになった。もう、ニッキーとしての一面しか見せてくれなかった時とは違って、クラウスとしての本来の姿や事情も明かしてくれたので、私の前で何かを隠す必要がなくなったわけだ。でも、帰宅している時は、基本的に緊急でなければ仕事の電話は受け取らないようにしたという。そうしないと、プライベートとビジネスの境目が無くなってしまうので、可能な限りきちんとケジメを付けたいらしい。ただ、これまでいつでも仕事に関しては時間も週末も関係なく対応していただけに、夜と週末を完全にプライベートのみに費やすのは難しいため、メールだけはOFFの時間もチェックするようにしているようだ。
やがて携帯を消して、それをテーブルに置いた彼が私に目を向けて微笑む。
「明日の準備はもう済んだ?」
「うん、出来てるよ。宿題をどうしようか考え中」
「宿題?ドイツ語の?」
「そう。週末のことを、先生宛のメールに見立てて日記形式に書く作文。前もって終らせることが出来ないよね」
やるとしたら、週末が終る日曜日の夜になってしまう。
「オランダでやるしかないかなぁ……しかも、作文して、それを月曜日クラスで暗記して話さなくちゃいけないの」
日記形式で書いて、それを見ずにクラスで発表しなきゃいけないから、文法のややこしいところなどきちんと練習する必要がある。ドイツ語は、名詞に男性、女性、中性があって、それがまた格変化でそれぞれの冠詞「der」「die」「das」が変化するという難解な仕組みで、更にそれが冠詞だけでなく場合によっては名詞の語尾にまで変化を与えたりと、とにかく複雑極まりない。長い文章になってくるとさらに混乱して、どの名詞をどう変化させればいいのか考え込まないとわからないことも少なくはない。小さい頃から繰り返し使っていればもう自動的に格変化も使いこなせるだろうが、大人になってから理屈で学ぶとなると、完全に記憶するか、あるいは文法を100%理解するかしないと、なかなか習得できないと思う。
「カノンがもっとドイツ語を使いたいのなら、英語をやめてドイツ語だけにしても俺は構わない」
クラウスが少し意地悪そうにニヤニヤしてそう言う。
私は嫌な予感がして慌てて首を振った。
「いいよ!英語のままで!そこまで手伝ってくれなくていい!」
「なんでそう遠慮するんだ?俺が教えてやればきっと伸びも早い」
私はドキリとして彼を見た。
急にそうやってやる気を出すのは本当に止めて欲しい!
スパルタ教師、クラウスのことだ。ドイツ語のみにするなんてなったら、一日中、間違いを指摘され、繰り返し訂正と言い直しをさせられるに決まっている!!!確かに、伸びは早そうな気がするが、そんなスパルタに耐えられる自信がない。
今すぐにでも英語を止めてドイツ語に切り替えられるんじゃないかとビクビクしていると、クラウスがじーっと私を見て、それからぷっと吹き出した。
「まるで罠に掴まったウサギみたいにビクビクしてる」
「だって!クラウス、すっごい厳しそうだから」
クラウスが部下にものすごく厳しいことを言っているのを、何度か耳にしたことがある。私だったら泣きそうになるんじゃないかと思う様なつっこみ具合に、プレッシャーの与え方だ。勿論、それでもなにか有ればきちんと上司としてサポートして、最終的には頼りになる上司なのは間違いなさそうだが、彼の前ではダラダラと仕事をサボれないだろうと確信が取れるくらい、仕事モードのクラウスは怖い。手抜きとか適当なんてことは絶対に許さないタイプだ。
車の縦列駐車の練習の時だって、さすがに私相手に怒りはしないけど、そう簡単に妥協してくれないのは身を以て知った。ちょこっとごまかそう、なんてのは彼には通用しない。だから、ドイツ語だって、少し間違えたり、発音がおかしければ毎回言い直しをさせられるに決まってる。そしたら、もう、喋ること事体が怖くなってしまうかもしれない。
お願いだから、ドイツ語に切り替えるのだけは止めて欲しい。
必死の願いをこめて彼を見つめていると、クラウスは片手で顔を覆って笑い出した。
「冗談だ。カノン、そんな目で俺を見るのはやめてくれ」
「ほんとに?あぁ、よかった……ドイツ語だけにするなんて言われたらどうしようかと本気で不安だった」
ほっとして肩の力を抜いて椅子によりかかった。
クラウスは楽しそうに目を細めて私の肩を抱いて顔を覗き込む。
「でも、わからない事とかあればいつでも聞くんだ。自分で調べるより、聞いた方が早くわかることも多い。実際、君が努力しているのはわかっている。もう会話は問題ないし、雑誌なら苦労なく読めるくらいまで伸びているということも知っている。要は、筆記の文法をきっちりさせて、新聞が読めるくらいの語彙力をつけるというのが課題だろう。これは繰り返し練習し、読む量を増やせば自然と身に付くはずだ。気に病まずとも時間が経てば伸びる」
思いがけずポジティブな意見に嬉しくなったが、私が気がつかないうちにちゃんと私のドイツ語力をチェックしていたんだと驚く。
「どうやって私のドイツ語力を見てたの?」
「普段見ていればそれくらい気がつく。君が読んでいる雑誌を見たり、人と会話しているのを聞いていたら、どのくらい伸びてきたかはわかる。最初の頃に比べたら随分と発音も文法も正確になった」
「ほんと?」
まさか褒められるとは思ってなかったので更に驚く。
「俺達の会話もそのうち自然とドイツ語の割合が増えるだろう」
「えっ、そうかなぁ?ドイツ語の割合とか言っても、いつも英語だし……」
「カノンは気がついていないだろうとは思ってはいたが」
そこで言葉を切って、クラウスは楽しげに目を細めていたずらっ子のように微笑む。
「俺は時々、君にドイツ語で話しかけている。君はすっかり気がつかない様子で返事していた」
「えっ?!」
「大抵、君が何かに集中していたり、気を抜いている時だから、ドイツ語だと気がつかないんだろうとは思ってた」
「ほんとに?私、全然気がついてない……集中している時って、どんな時なの?」
まさか知らないうちにドイツ語で会話しているとは思えず、疑わしく思いながら聞くと、彼は可笑しそうにクスッと笑う。
「さっきもドイツ語で、『カノンがもっとドイツ語を使いたいのなら、ドイツ語で会話しよう』と言った」
「それを、ドイツ語で言ってた?ほんとに?」
「勿論。それに君はドイツ語で、『英語のままでいい、そこまで手伝わなくていい』と答えてた」
「えええっ?私が、ドイツ語で返してた?」
もう目が点だ。
知らないうちにドイツ語で会話をさせられていたとは……
本気で驚いてしまい、呆然とクラウスを見つめる。
「料理をしている時も、君は完全に気がついてなかったようだが、基本的にドイツ語で話していることが多い」
「料理?」
記憶をたぐり寄せてみる。
調理のことであれこれ喋っていたのは確かだ。
しかし、その会話が英語だったのかドイツ語だったのかまでは覚えていない。
必死で思い出そうとしていると、クラウスが笑って私の頭を撫でた。
「知らないうちに喋っていれば、学ぶというプレッシャーを感じないうちに伸びる。何も考えずに自然にまかせておけばいい」
笑っているクラウスを見て、私はすっかり感心してしまう。
彼は、本当に一流の指導者なんだろう。私が知らないうちに、自然とドイツ語力が伸びるように考えてさりげなくサポートしてくれていたんだ。私がストレスに感じないように日々、上手くドイツ語を取り入れてくれてたなんて。
「ありがとう、クラウス……なんだかもっと頑張ろうって気になった」
私は嬉しくて彼の左腕をぎゅっと抱きしめた。本当に、頼りになる人。そして、とても思いやりがあって、優しい。時には厳しいけれど、それも優しさがあってこそだ。彼さえ側に居てくれたら他には何もなくても幸せでいられる。
そんな気持ちでじっとその左腕にしがみついていると、クラウスが私の顔を覗き込んだ。
「そろそろ食事に出る時間だ」
「うん、そうだね」
私は顔を上げて頷いた。
明日の金曜日から二泊三日でオランダに行く予定なので、今晩、ヨナスとマリアと一緒に食事をする予定になっている。というのも、明日はクラウスの29歳の誕生日で、本来なら明日、何かお祝いをしようとしていたけれど、急にオランダ行きが決まってしまったので、ヨナスとマリアが前夜祝いとして一緒に食事をしようと提案してきたのだ。
明朝のフライトでアムステルダムのスキポール空港へ到着し、クラウスが現地のレンタカーを手配したので、空港からおばぁちゃん宅までは自分達で車で行くことにした。そして明日の晩は、海辺のLa Galleria Nordwijkでディナーをするつもりで、すでに予約も入れてある。
あの、マリアが撮ってくれた私の写真があるレストラン。
まさか、クラウスと一緒にそこに行くことにるなんて!
今回はクラウスを同行するので、ホテル宿泊にしようかと思っていたのだけど、おばぁちゃんが家に泊まれと何度も言うし、当のクラウスがそうさせてもらおうと快諾したので、おばぁちゃん宅に二泊することになった。まさか、自分の彼氏を連れておばぁちゃん宅へ行くことになるなんて思ってもいなかったけれど、おばぁちゃんの感覚的には、クラウスもフーゴと似た様なものらしい。どうしてもクラウスに会いたいと主張したその意図はよく分らないというのが現状だけど、あの後、改めて電話で話した時には、単にどんな人か知りたいだけ、と言うので、根掘り葉掘り彼を質問攻めにしないことだけを念入りにお願いしておいた。
クラウスは、自身にはもう祖母が居ないので、かなり楽しみにしている様子だし、もう、なるようにしかならないと思って私も深く考えるのは止めることにした次第だ。
クローゼットを開けてどれを着ようか考えていると、後ろからクラウスが手を伸ばし、1枚のドレスを取った。それは、Giorgio ArmaniのNavy Blueの膝丈のドレス。七分袖で艶やかな光沢と胸元のドレープがとても上品な1枚だ。しばらく前に街に出かけた時にお店に入って、クラウスが選んだものだった。今晩は少し落ち着いた雰囲気のフレンチレストランだと聞いていたので、ちょっぴりフォーマルな感じがいいのかもしれない。振り返れば彼も同じくGiorgio Armaniのブラックのスーツを着ている。青みがかかったグレーのシャツを中に着て、ネクタイは閉めずにボタンを二つはずしたまま、ドレスダウンしていた。いつもより随分とクラシックな装いで、少し伸びた髪もスタイリングした彼は、ものすごく上品で優雅。貴族出身だと知った時には驚いたけれど、こうして見るとやはり、生まれ持った気品が溢れている。普段仕事でスーツを着ている時は、いかにもやり手ビジネスマンという感じだから、今晩みたいにしっとりと大人びた美しい彼とはまた雰囲気が全く違う。
こんな素敵な人が自分の恋人だなんて!
彼の美しいブルーグレーのふたつの瞳が優しく煌めいて私を見下ろしている。
麗しすぎるクラウスに見惚れていると、彼が笑いながら私の背中に触れた。
「立ち尽くしてどうしたんだ?さぁ、着替えを手伝ってやろう」
「えっ、いいよ、自分でやるからっ」
慌ててそのドレスを受け取って、私は後ずさりした。
この人はどこまでが冗談だかわからないのだ。
「何を恥ずかしがっているんだ?俺に隠す必要はないだろう」
妖しい微笑みを浮かべてじりじりと近づいて来る。私をからかって遊ぼうという魂胆だとその楽しそうな目を見れば分る。
「自分で出来ます!」
はっきりとそう言ったのに、気がつけば壁に追いつめられて逃げ場を無くして、完全に相手の思うつぼにはまってしまった。クラウスが至近距離まで迫って来て、両手で私の肩を掴むと、身を屈めて私の顔を覗き込む。彼の熱っぽい目がまっすぐに私を捕らえ、ドキンとして身動きが出来ず彼を見つめる。
「……もう少し暗い時は、あんなに素直なのに」
からかうようにそう囁かれ、不覚にもドキリとして頬が熱くなり、落ち着かない気持ちで瞬きを繰り返した。
そんなことを引き合いに出すなんてズルすぎる。
どうやって切り替えそう?!
なんと言えばいいのか思いつかない。
エレガントな装いで外出準備万端のクラウスに、手取り足取り着替えさせられるなんて、想像しただけで恥ずかしさで頭がおかしくなりそうだ。
いい理由が思いつかず焦っていると、クラウスの手が私の背中に回ってもうジッパーに手をかけた。
「……っ、私だけっていうのは不公平!」
そう慌てて言うと、クラウスの手が止まった。
ほっと息ついて彼を見ると、何やら楽しげに目を細めて小さく頷き、それから私の背から手を離した。
「……なるほど。それは正論だ」
「そ、そうでしょう」
普段は絶対にこれほどすんなりと引き下がらないのに、妙に素直なクラウス。流石に出かける直前にこれしきのことでもめるつもりはないのだろう。
安堵して思わず笑顔でクラウスを見上げたら、妖しく目を光らせてじっと私を覗き込み、なぜか勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
「いいだろう。帰宅してから公平に、ということにしておく」
「えっ」
「君がそう言ったんだろう?不公平は嫌だと」
「それは、そうかもだけど、でも、少し言いたかったこととは違う気が」
公平に、と言う事は、私がクラウスを着替えさせるということにもなるわけだ。
それはそれでかなり恥ずかしい!
いや、もしかしたら自分が着替えさせられるよりもっと緊張するかもしれない!
切羽詰まって苦し紛れに口走ったとはいえ、結果的には墓穴を掘ったらしい。
もっとましな逃げ口上を考えつかなかったのかと悔やむ。
「着替えの合間に一緒にシャワーへ行くという案もある。君の希望に合わせてやろう」
からかうように楽しげにそう言うと、クラウスが私を引き寄せてキスをした。息が止まるほど情熱的に激しく圧倒されたかと思うと、まるで深い眠りに落とされるように優しく穏やかな口づけ。荒れ狂う感情と包み込むような甘い想いが大きな波となって繰り返され、彼は私の意識を完全に支配する。両手で持っていたドレスがもう手から滑り落ちそうになるくらい全身の力が抜けかけた時、ようやく彼が私を解放した。
目眩を感じつつゆっくりと目を開くと、目の前に彼の美しい瞳が二つ、まっすぐに私を見つめていた。なんの汚れも迷いもない光を含んだ、熱っぽく潤んだ目だ。お互い言葉なくただじっと見つめ合う。言葉が無くても心の中が読めるようだ。
こんなにも愛している。
自分の気持ちがこれほどはっきりと分るということが、どれだけ不思議なことか。
彼に出会えたという奇跡。
幸せという言葉の意味を知ったこの出会い。
彼のことを思い浮かべるだけで気持ちが昂る。
熱くなる胸を押さえながら、思わず微笑むと、彼も目を細めて幸せそうに微笑んだ。
「車の準備をしてくる。夜風が冷えるから、ドレスの上になにか羽織るものを忘れないように」
彼はそういってもう一度私の頬にキスをするとにっこりと微笑み、部屋を出て行った。
その華麗な後ろ姿を見送りながら、私は大きく深呼吸をした。
それにしても、彼が自分はプレイボーイじゃないと言うのがやっぱり信じられない。
彼の一挙一動、一語一句。
そのすべてが、あんなに私をドキドキさせるのに!
そんなことを考えながら、Giorgio ArmaniのNavy Blueのドレスに着替え、靴も同じくArmaniの黒のパンプスにして、髪はくるくると巻いてピンで止めた。カシミヤの黒いストールを肩に羽織り、鏡をチェックした。化粧はあまりしないようにしているが、ダークブルーのアイラインを入れて、バーガンディブラウンのリップを薄く乗せてみると、ナチュラルメイクではあるものの、少しフォーマルなお出かけという大人な雰囲気が出た気がする。ホワイトのスパンコールが一面についたパーティバッグを手に持って、急いで部屋を出ると、アパートを一周して戸締まりをして、リビングのランプだけは防犯用にオンにする。玄関から出て鍵を締め、階段を降り始めるともうその少し先にクラウスが車を停めて待っていた。彼は私が出て来たのを見るとすぐに運転席から出て来て、にっこりと微笑んで私の手を取る。
「カノン、とても奇麗だ」
そう囁いてウインクする。
彼のお茶目な表情が愛しくてたまらない。
「ありがとう……」
照れながら助手席のほうへ回ると、彼がドアを開けてくれる。
すっかり、レディ扱いされるようになったけれど、未だにそれがくすぐったくてどうしても頬が緩んでしまう。
こうして大事にしてくれる相手が、クラウスだからだろう。
どこかのホテルのドアマンやタクシーのドライバーが同じようにドアを開けてくれても、照れることはない。
私が乗り込むと、彼がゆっくりとドアを閉める。
続けて運転席に乗り込んだクラウスを見ると、彼がもう一度じっと私の顔を覗き込んだ。
「どうかしたの?なにか、変?」
メイクがおかしいのかと思ってそう聞くと、彼が首を振ってにっこりと微笑んだ。
「俺を虜にしたその目を見ていただけだ」
「……」
耳が熱くなった気がする。
私がこのクラウスを虜にするなんて!
マリアも言っていた。
彼女が撮った写真に写った私の目にクラウスが釘付けになっていたと。
私の目に何が見えたんだろう?夕暮れのお日様が目に反射して、まるで炎のように燃えているようだと彼女が言っていた。私が時々フーゴの目に見ていた、鋭く熱い光が、私の目にも映ることがあるのだろうか。
自分で毎日鏡で見ているけれど、そんな特別な魅力なんてなさそうに見えるのに。
私の思惑を気にする事もなく、クラウスは車を発進させた。
いつものように滑らかに街を走るシルバーのBMW。
彼の運転は本当にスムースで無駄がなく、カーブの曲がり方から加速減速も、まるで芸術のようだ。
日が暮れて街がヨーロッパらしく街灯で照らされて夕暮れから夜へと移り変わった。幻想的でロマンティックな雰囲気に包まれつつあるその景色に見とれる。
東京の摩天楼は豪華で美しい大都会そのものだが、ベルリンの夜はしっとりと落ち着いた大人の世界。電柱や大きな電光掲示板がないから、昔ながらの古い街並みが街灯に照らされて、時々まるでタイムスリップしたような景色を目にすることもある。
ギアを変えるクラウスの手を見つめる。
大きな手は、骨張って強そうに見えるけれど、すらりと伸びた指は美しく優雅さがある。彼自身がそのままに現れた美しくも力強さが漲る手だ。
前方を見つめる彼の美しい横顔は、うっすらと微笑みを浮かべてとてもリラックスした表情だ。私が見ていることに気がついたのか、ちらりと横目でこちらを見て、クスッと笑いをこぼす。そのしぐさもまたドキンとするくらい魅力的だ。
天は二物を与えず、なんて言うけれど、二物どころかそれ以上与えられる人だっているらしい。
信号が赤に変わり、クラウスがゆっくりと停車した。その時、彼の携帯が鳴り始めた。
クラウスは信号から目を話さず、ジャケットのポケットから携帯を出して私に渡した。この呼び出し音は、ヨナスだからだ。
「ヨナスだから、君が出てくれ」
「うん」
運転中なので、私が代わりに応答した。
「ハロー?カノンです。今、車で向かっているところ」
『カノン?』
いつもより低いヨナスの声。普段とは様子が違う。
私は少し不安になって、黙ってヨナスの言葉を待った。
何かあったのだろうか。
『悪いが、クラウスに言って停車して電話を変わる様に言ってくれ』
「……わかった」
嫌な予感に胸を押さえながら、私は運転しているクラウスを見た。
「ヨナスが、貴方と話したいから車を停めてって」
クラウスが眉を潜めてちらりと私を見ると、前方に目をやり、次の交差点で左に曲がると路肩に停車した。私から携帯を取りながら、心配するなというように小さく微笑む。
そして携帯を耳にあてた。
「ヨナス?」
やがて、電話先でヨナスが何か言っているのが聞こえた。なんといっているのかまでは分らないが、クラウスは沈黙し、眉間に皺を寄せて前方を睨みながら、ヨナスの話を聞いている。
「わかった……今、方向転換する。15分後」
低い声でそう言うと、電話を切って無言でハンドルに手を乗せ、しばし前方をじっと見ている。
話しかけていいのか分りかねて黙っていたものの、やはり様子が普通じゃないので不安になって私は口を開いた。
「クラウス?なにか……なにかあったの?大丈夫?」
「……」
クラウスは黙って私に目を向けると、やがて小さく溜め息をした。
「父が、入院した」
「えっ」
「ダニエラを説得しようとミュンヘンに行き、到着した空港で倒れたらしい」
驚いて目を見張る。同時に、心配と不安で寒気がして、祈る様な気持ちでクラウスを見つめた。
まさかと思うが、命に関わる重大事ということなのだろうか。
クラウスは私の顔色が変わったのを見たのか、急に強ばった顔を緩めて小さく微笑んだ。
「命には問題ない。病院が父の妻であるダニエラに真っ先に連絡したらしいが、付き添いを拒否したらしい。現在、ドレスデンから駆けつけた執事が到着して、ヨナスへ連絡してきたそうだ」
「……命には別状ないのね」
少しだけほっとして、詰まりそうだった息を吐いて、数度、呼吸を繰り返した。
「入院って、どういう症状で?」
「急なしびれや目眩で倒れ救急車で病院に搬送されて、軽度の脳梗塞との診断がおりたそうだ。これからCTやMRIで更に詳しく検査をして、手術の必要性があるかどうかを判断することになったらしい」
「脳梗塞……?!それでも、ダニエラは会いに来ないの?!」
「……どこまでも薄情な女だ!」
怒りを押さえたクラウスの低い声。彼は眉間に深い皺を寄せたまま、車のエンジンをかけた。
私も、彼女への不信感でいっぱいになっていた。
クラウスの父の妻である彼女は、夫が緊急入院してこれから検査を受けるというのに、側に行くつもりはないのだ。それもこれも、クラウスやヨナスが、ダニエラの願いである彼女の娘との結婚を拒否しているから。彼女の野望と、クラウス達の父の命と、どちらが大事だと思っているんだろう?!
仮にも、愛していたから結婚して連れ添って来たのではないだろうか?
「とりあえず、ヨナスとマリアのところに行く。残念だが、食事のほうは取りやめだ」
私はしっかりと頷いた。
食事なんて別にたいしたことじゃない。
勿論、これがクラウスの誕生日の前夜を祝うものだったというのは悲しいけれど、誕生日よりももっと重要なことがある。
クラウス達の父は今頃、冷たい病棟で1人、何を思っているのだろうか。
寒々しい雰囲気の病室に横たわる、まだ見ぬ彼らの父親を想像して、胸が痛んだ。
誰か、側に居て上げて欲しい。こういう時に、側に誰もいないなんて、自分だったら悲しくて不安で胸が張り裂けてしまうだろう。
私は両手を膝の上でぎゅっと握りしめて前方を見ていた。
やがて、ヨナスのアパートの近くへ付くと、二人も表のベンツの前で立って何かを話していて、私達が到着したのに気がついて振り返った。
私達もすぐに車から降りる。
「クラウス」
ヨナスも今晩の為にドレスアップしていたらしく、普段とは違ってとてもエレガントなスモーキーグレーのスーツを着ていたし、マリアも光沢のある美しいチョコレートブラウンのワンピースドレスを着ていた。
「今付き添っているのは、ドレスデンからさっきミュンヘンに到着した執事のカールと、身の回りの世話をするイーナの二人らしい」
ヨナスはイライラしたようにそう言って眉を潜めた。
「カールは引き続きダニエラに連絡を取ろうとしているらしいが、父が直接連絡をするまでは電話には出ないと言って、電話口まではこないらしい」
「あの女、鬼だわ!すぐ近くの病院に夫が入院したってのに、顔も出さないなんて!」
マリアが吐き捨てるようにそう言う。
私も本当にそう思った。
緊急入院している相手が、直接電話してくるまで電話口には出ないだなんて、薄情者以外の何者でもない。
「あの女のことだ、これを機によからぬことを考え始めていてもおかしくはない」
クラウスが独り言のようにそう呟いた。ヨナスが小さく溜め息をして苦々しく同意した。
「確かに、くだらない策略を思いついている可能性も否定出来ないだろう」
「誰か、探りにいかせればいいのに!あの女がくだらないことを思いつく前に、阻止しないと」
マリアがそう小さく叫ぶ。
探りに行かせる?ダニエラが何を企んでいるか……?
いや、違うだろう。
探りに行くことよりも、大事なことがある。
今は、ダニエラのことなんかより、もっと重要なことがある。
「あのね」
私は3人に近寄った。
皆が黙って私を振り返る。
最も重要なこと。
それは、今しか出来ないことだ。
「お父さんの所に行くべきだと思う。今、1人でいるお父さんのところへ」
私がそう言うと、3人が目を見開いた。
「だって、これから検査があるんでしょう?そんな怖いことをする前に、家族が誰も側にいないなんて、心細すぎる。ダニエラが居なくても、ヨナスとクラウスが居る。本当の、家族が」
「カノン……」
マリアが独り言のようにそう呟いて、それからにっこりと微笑んでヨナスを見上げた。
「行きましょう」
ヨナスとクラウスが顔を見合わせ、数秒お互いを見ていたが、やがて二人は目を細めて微笑み合って肩を抱き合った。
「先に俺が運転しよう。途中で交代だ、クラウス」
「わかった」
ヨナスがすぐにベンツの運転席に乗り込み、助手席のほうにクラウスが乗り込んだ。後部座席のドアを開けたマリアが私の腕を掴んだ。
「さぁ、そうと決まれば、飛ばすわよ!カノン、乗って」
私は急いで乗り込み、ドアを引いて閉めると、もうエンジンがかかった車の発進と同時にシートベルトを閉めた。ヨナスの大型のベンツは大きなエンジン音を立てて一気に大通りへ走りだす。
数分もするともう、高速に入って、ヨナスがギアを変えてどんどん加速を上げて行く。隣のクラウスがカーナビを操作しながら言った。
「今、ハンブルグ、ライプチヒ方面のA100に入った。早ければ6時間以内で着くだろう。到着は午前2時前あたりか」
「クラウス、カールに電話を入れておけ。病院の近くの宿泊場所を確保するように」
横からヨナスが指示をすると、クラウスが携帯を取り出した。
とりあえず病院に向かっている。
少しだけほっとして座席の背もたれに寄りかかると、隣のマリアがにっこりとして私の手を握った。
「カノン、さすがだわ」
「さすがってなにが?」
びっくりして聞き返すと、マリアがくすっと笑った。
「危うく時間の無駄をするところだった。ダニエラへの怒りで頭が一杯になっちゃって、私達が行くっていう発想にならなかったわ」
「うん、そうだね。でも、ダニエラが行くのを待っているより、息子達が行くほうが早そうだし、お父さんも喜びそう」
「ほんとにそうね。私達、病院に行くって感じの服装でもないし、手荷物も全くないけど」
マリアは面白そうにそう言って笑いながらチョコレートブラウンのドレスの裾に触れる。
「……そんな細かいこと、お父さんの状態を考えたらどうでもいいって感じね」
私は笑顔で大きく頷いた。
きっと、お父さんはヨナスとクラウスの顔を見たら元気づくだろう。本当に血を分けた息子達なんだから。検査が始まる前には顔を見せれるのが不幸中の幸いだ。
そこで私ははっとあることを思い出して、携帯を取り出した。
明朝はオランダに行く予定だった。
もう、この状況では行けるはずはない。
私は助手席に座るクラウスに声をかけた。
「クラウス?今から、フライトのキャンセルは出来るの?」
彼が振り返って頷いた。
「今回は残念だが、キャンセルするしかなさそうだ。君のおばぁちゃんには申し訳ないと伝えてくれ」
「うん、大丈夫だよ!」
私はすぐにおばぁちゃんに電話を入れた。
状況を説明すると、おばぁちゃんは勿論、私達が病院に向かっていることを喜んでくれて、オランダに来るのはまたの機会で全然問題ないし、クラウスのお父さんが早く元気になって無事退院出来ることを心から願っているから、とのことだった。
きっと、おじぃちゃんが入院していた時のことを思い出したんだろうと思う。
おじぃちゃんは何年も入院していたけれど、おばぁちゃんはほぼ毎日付き添ってあげていた。おじぃちゃんはそのことをとても幸せに思っていたのを知っているし、おばぁちゃんもおじぃちゃんの笑顔を見に、あれこれ手みやげを持って病院へ通うことを欠かさなかった。だからこそ、おじぃちゃんがついに亡くなる時、おじぃちゃんは満たされた様子で静かにこの世を去ったし、おばぁちゃんも泣いてはいたけれど、後悔は全くない様子でしっかりと別れを受け入れていたように思う。本当に愛し合っていたら、相手がどんな状況にあろうとも、側に居たいと思うはずだ。私はやっぱり、クラウス達がいうように、ダニエラは彼らの父を幸せにすることは出来ないし、また逆に、ダニエラが幸せになることもないだろうと感じ、そのすれ違いに切なさを感じた。
本当に愛し合える相手に巡り合うなんて、本当に奇跡。そういう相手に恵まれないというダニエラも言ってみれば可哀想な人なのだ。
夜の10時すぎ。
ライプツィヒを過ぎた辺りで一度、ガソリンスタンドに寄った。
給油している間にヨナスとクラウスがスタンド内のお店に入り、私とマリアは車外に出て背伸びをする。
もう冷気で冷えて来て、少しだけ霧が出て来た。
ヨナスの車はかなり大きいせいか、ゆったりとしているので後部座席に座っているとだんだん眠くなって来てしまう。
「こういうのも、楽しいといえば楽しいわね」
マリアがそう独り言にように言って、両手を腰にあてて背筋を伸ばす。
「4人で車に一緒に乗るっていうの、初めてだしね!飛行機で行くのと時間的にはさして変わらないし、車の運転が得意な人が二人も居てよかったよね」
そう言うと、マリアが少し不満げに口を尖らせて私を睨んだ。
「カノン!どうして二人なの?私を忘れてるわよ」
「あっ、ごめん、そうだった、車の運転が得意な人、三人だったね」
慌てて訂正すると、マリアがクスクスと笑い、首を振る。
「冗談よ!私、高速はあまり好きじゃないの。ひたすら直線コースだと眠くなって集中できないし」
それを聞いて本気でびびる。
絶対に、マリアに高速を運転してもらわないほうがいいだろう。
いや多分、ヨナスも知っているだろうから、マリアにハンドルを持たせることはないはずだ。
「しかも、夜って街灯と車のランプで視界がぼやっとしてスピードの感覚もなくなるしね」
「うん、暗いとスピードの感覚がなくなるってのは本当にそうかも、、、緑が多いところは夜は真っ暗だもんね」
「そうよ。街の中だと明るいし、頻繁に信号で止まったり変化もあるし、他の車や歩行者を気にして眠くはならないけど、高速って車だけで基本的に直線だし、退屈よね。ヨナスもクラウスも平気で高速を何時間も走るけど、私は30分が限界」
マリアはそう言うと、大きなあくびをした。
「レディのおふたりさん」
ヨナスの声がして二人で振り返ると、彼がコーヒーをふたつ持ってにっこり微笑んでいた。
「ガソリンスタンドのカウンターで買ったが、味はまずまずだ」
「ありがとう!」
私達も温かいコーヒーを受け取って笑顔になる。
ほろ苦さで眠気も消えて行くようだ。
少し遅れてクラウスが戻って来て、クロワッサンのサンドイッチやプリッツエルの袋を私達に差し出してくれた。車のボンネットにコーヒーを置いて、それぞれサンドイッチを食べながら話をする。夜中の高速で、車のボンネットをテーブル代わりに軽い夕食なんて、初めての経験だ。お父さんが入院しているという状況にも関わらず、私達は笑顔になっていた。
「こういうのも悪くない。昔に戻ったみたいだ」
ヨナスがココアを飲みながらそう言って笑った。
「昔は、思いつきで遠出したりしたこともあったな」
クラウスも懐かしそうに目を細めた。
「さて、そろそろ出発しよう。もうあと3時間ほどで着くだろう」
「ヨナス、残りは俺が運転する」
クラウスがそう言って、クロワッサンのサンドイッチの残りを一口で食べると、残っていたボトルの水を飲み干した。
「了解。さっきカールからメールが来て、Sofitel Munichに二部屋、三泊で確保したらしい。中央駅側で病院は徒歩15分という近さだ。今晩は遅いからまっすぐにホテルへ行って、明日の朝、検査が始まる前に病院へ行くことにしよう。幸い、明日は金曜日だ。全く手ぶらで来てしまったから、必要なものは病院に行った後に街で買うとする」
ヨナスはそういうと、携帯をポケットに仕舞う。
私はボンネットに置いてあった空のカップやボトルを急いで集めて、ガソリンスタンドのゴミ箱へ運び、駆け足で車に戻ると後部座席へ戻った。
シートベルトをはめていると、運転席のクラウスが振り返って私に微笑みかけた。
「カノン、無理せずに寝ていればいい。着いたら起こすから」
「うん、わかった。ありがとう」
私は一応そう言って頷いた。
本当は、眠るつもりはない。
それに、私はコーヒーを夕方4時以降に飲むと、真夜中まで目が覚めていることが多い。だから夕方以降は基本的にカフェイン抜きのハーブティばかり飲む。
でも今晩は、たった今飲んだコーヒーで眠気も吹っ飛んだから多分大丈夫。
車はゆっくりとガソリンスタンドから高速へ戻り、そしてまた一気に加速した。
夜中の12時を過ぎたところで、マリアがHappy Birthdayの歌を歌いだし、日付が変わったことに気がついたヨナスと私も一緒に歌い、クラウスが照れて笑っていた。
クラウスは29歳になった。
その時知ったのだが、ヨナスは31歳、マリアは30歳だというので、私が28歳と、皆1歳違いで数字が奇麗に並んだことに気がついて大笑いする。
最初は緊迫した雰囲気だった道中も、ミュンヘンへの道中にだんだんと落ち着きを取り戻して、穏やかな雰囲気のまま無事に1時40分、ミュンヘンのホテルへ到着したのだった。
ホテルのほうはカールが気を利かせてラグジュアリールームを二部屋、隣り合わせで予約していてくれた。着いた時は流石にもうぐったりで、ドレスは皺にならないようにハンガーに掛け、バスローブを羽織って眠る。
そしておよそ5時間の睡眠の後、それぞれシャワーを浴びてホテルのロビーで集合し、朝食は後回しでミュンヘン大学中央病院へ歩いて向かう。15分ほどで明るいイエローカラーの壁が印象的な大病院へ到着し、ヨナスとクラウスが受付のほうへ行った。
私とマリアは入り口のロビーあたりで待つことにし、病院内のカフェでラテやエスプレッソを買い、ソファに座った。
やがて受付に執事らしい初老の男性が現れて、ヨナスとクラウスがこちらを振り向いた。どうやら今からお父さんのところへ行くらしい。私とマリアは手を上げて合図をして彼らを見送った。
「これだけ設備が整った大病院なら、まず心配なさそうね」
マリアが辺りを見渡してそう呟いた。
「病院と聞くと寒々しい空間をイメージしてたけど、意外と落ち着いた雰囲気」
私も周りを見渡した。大病院なんて聞くと、常に救急隊員が患者を運び込むような切羽詰まった雰囲気かと思ってしまうけれど、恐らくそういった救急患者の搬送口は別にあるわけで、このロビーには、花束や風船を持って見舞いに来ている人達や、会いに来てくれた人とお茶を飲んでいる患者が居たりと、割とのんびりとしている。
「親子3人で会うのなんて、多分かなり久しぶりだと思うわ。クラウスは先月一週間、実家に行ってたんでしょう?ヨナスはもう半年以上はお父さんとは会ってないと思う」
マリアがそう言いながら飲み干したエスプレッソのカップを指で弄ぶ。
「マリア、この間、ダニエラが娘さんを連れて来たって話をしたでしょう?あのことで、お父さんとクラウスの関係が以前より複雑になっていなければいいんだけど……お父さんがわざわざダニエラに会いにミュンヘンまで来たってことは、やっぱりお父さんはダニエラの願いは叶えたいって思っているんだよね……」
気がかりだったことを打ち明けると、マリアがにっこり微笑んで私の手を取りぎゅっと握りしめる。
「心配するのはやめなさいよ。今回のことで、ダニエラがどんな人間かなんてきっとお父さんもわかったと思うわ。結局、こういう時に人間の本性は露呈するものなの」
「うん……でもそれはそれで、お父さんもショックだよね。一応、ダニエラを信頼していたからこうして説得に来たのに、冷たい仕打ちを受けてかなり傷ついたんじゃないかな……」
「それはそうね。でも、その傷を癒せる息子が二人揃って駆けつけたんだから、きっと大丈夫よ」
「うん。そういえば、マリアはお父さんに会った事はあるの?」
そう聞くと、マリアはちょっと考えるように黙って、それから苦笑した。
「会ったといえば会ったかも。でも、話してないの」
「えっ?」
意味がよく分らない。会ったのに話さなかったということだろうか。
「違うわね、会ったんじゃなくて、遠くから見たって感じ」
マリアが受付のほうを眺めながら話を続ける。
「もう4、5年くらい前かな。お父さんがダニエラと一緒にベルリンに来たの。丁度、クラウスがアメリカからドイツへ帰って来て、ベルリンにアパートを借りることになって、ダニエラが場所をチェックしたいとか言って二人で来たの。いずれ娘も住む場所だから、とか言って」
「そうなの」
急に納得する。ご近所さんが、挙式したら奥様もここへ住むと聞いた、と言っていたのは、もしかしたらダニエラがアパートを確認に来ていた時にそう話したのかもしれない。
「それで、ヨナスと私も同じ時間にアパートへ行ったの。ヨナスが私をお父さんに会わせようとしたんだけど、それに気がついたダニエラが、お父さんをさっさと車に乗せて私を無視して立ち去ったってわけ」
「……すごいね」
ダニエラの行動に驚かされて、衝撃のあまり言葉が出ない。
「だから少ししか見えなかったけど、やっぱり息子と似てたわ。でも、どっちかというとクラウスがよく似ている気がする」
マリアがそう言った時、1人の女性が私達の所へ近づいて、遠慮がちに声をかけてきた。
「マリア様とカノン様?」
びっくりして私達が立ち上がると、女性がにっこりと微笑んだ。
「Sommerfeld様にお仕えしておりますイーナでございます。ご主人様が、お二人にもお会いしたいとおっしゃっておりますので、お迎えに参りました」
イーナの言葉に、私とマリアは顔を見合わせた。
まさか、私達が呼ばれることになるとは思っていなかったので、驚くと共に急に緊張が走る。マリアは美しいオリーブ色の瞳を瞬かせて、心配げにイーナに聞いた。
「お加減はどうなの?ヨナスやクラウスも、私達が呼ばれていると知っているのかしら?」
「ご主人様の状態は安定しております。ヨナス様も、クラウス様もお二人をお待ちしていらっしゃいますので、どうぞご安心ください」
「そう、二人が反対していないというのなら……」
マリアが注意深くそう言いながら、私を見た。
彼女も私同様、突然二人で病室に現れて、お父さんにショックを与えるとか、ストレスになるような結果になっては困るから慎重に考えているのだ。
「ご主人様も、ヨナス様やクラウス様がいらっしゃるとはご存知なかったので大変喜ばれています。検査が始まるまで後15分ほどしかないので、少しだけでもお話したいとのことですから」
イーナに先導されて、私達は病室のほうへ向かう。
エレベーターに乗って上階に行くと、人が少ない階に到着した。どうやら、この階は相部屋でなくて、いわゆる個室病棟になっているようだ。
しーんと静まり返った廊下に、私達のパンプスのヒールの音が静かにこだまして、少しずつ緊張が高まって行く。気のせいか、空気が肌寒く感じた。
ひとつの扉の前でイーナが立ち止まり、ノックする。
待っているとドアが開き、少し前に見た執事のカールが出て来て、私達を見るとにっこりと微笑んで、扉を大きく開いた。
「どうぞ、お入りください」
3、4歩、中に入ると、カールは入れ替わりに病室から出た。
「イーナと私はしばらく失礼いたします。検査時間になりましたら参りますので、それまでごゆっくり」
そしてイーナとカールがにっこりと微笑み、静かな音を立てて扉を閉めた。
曇りガラスのスクリーンの向こうに、クラウス達が居る。
マリアが私ににっこりと微笑んで、私と腕を組むと一歩、前へ踏み出した。
ゆっくりと歩いてスクリーンの向こうへ足を進めると、広々とした病室の奥に、ベッドに横たわるお父さん、そしてその向こうのカウチにそれぞれ腰掛けているヨナスとクラウスが視界に入った。私は最初、クラウスを見た。落ち着いた優しい微笑みを浮かべて私達を見ている。ヨナスも同じく、穏やかな微笑みを浮かべていた。そして、二人の父親を見た。
そこに居たのは、私達のほうを眩しそうに見つめ、優しげな表情を浮かべた人だった。
「よく来てくれたね。私がこの子らの父、ユリウスだ」
オペラのバリトンのような、威厳のある低い響きのその声は、どこかクラウスの声と似て、温かく包み込むような柔らかさがあった。
私とマリアはユリウスの近くへ寄ると、差し伸べられた左手を交互に握りしめた。大きなその手の甲には、点滴の針。見れば、心電図のケーブルが胸元から見え、酸素濃度を調べる機器が右手の指にはめられていて、壁のほうにはそれぞれの数字を表す電子スクリーンがいくつもかかっていた。
ユリウスはやっぱり、息子達によく似ていた。50代後半の彼は、グレーがかったブロンドの髪に、ヨナスとそっくりな真っ青な目をしていて、やや痩せたその頬も息子達と同じように精悍な頬骨のラインを描き、憂いを見せる表情はどこか悲哀を帯びて力なく見えたけれど、その目に宿る光は決して冷たいものではなく、温かで感情深い柔らかさを秘めていた。
「君がマリアで、そして」
ユリウスがマリアを見て、そして私に目を移した。
「そして君が、カノン」
何故かその瞬間、私は自分の目が熱くなって視界が歪むのに気がつく。説明出来ない気持ちの昂りが私の感情を突き動かす。悲しさというものではなく、何かもっと神聖なものを見たような不思議な感覚。私は微笑みながら頷いた。
いきなり泣き笑いになっている私に、ユリウスが目を丸くして言葉を失って、それからクスッと笑いをこぼしてクラウスのほうを見た。
「おまえはどうして、彼女のことをこの間きちんと話さなかったんだ」
クラウスは父親のその言葉に少し困ったように眉を潜めた。
「ダニエラの話に片がついた後に話すつもりだったからだ。そこまで辿り着くことが出来なかったのは、俺のせいじゃない」
「おまえは物事の順序にこだわりすぎる。時には理屈で優先順位を考えず、自分の優先順位で物事を見ることも必要だ」
ユリウスはそう静かに言うと、私とマリアに微笑みかけた。
「今回予定外に入院したのも、こうやって君たちに会えた事を思えば無駄にはならなかったようだ。いや、こういうきっかけを作らなかったのには私に責任がある。息子達にも、君たちにも謝らなくてはならないな」
マリアがにっこりと微笑んで首を振った。
「出会いには、大事なタイミングというものがあるわ。時が満ちた時、自然と起こるべき瞬間が訪れる。すべては、神様の思し召しによるもの。私達に与えられたこの機会に、とても感謝しているわ」
その言葉に私も大きく頷いた。
いつかアダムが言っていたように、同じことでも、タイミングが違えば全く別の結果を導く。私達には、こうやってクラウス達の父に会える機会が与えられた時に、それが実現出来たという幸運に恵まれたのだ。
「でも、危うくこのチャンスを逃すところだったわ。カノンが、貴方の所へ行こう、と言った時に初めて、今がその時なんだって気がついた」
マリアがそう言うと私の肩をぎゅっと抱いた。
こうして皆が笑顔で集まれたことが嬉しくて私も笑顔で頷く。その弾みで目尻に溜まっていた涙が頬を伝って落ちた。
ユリウスが懐かしそうに目を細めて僅かに微笑みを浮かべ、じっと私の顔を見つめて、やがて小さく溜め息を漏らした。
「不思議なものだ。君を見ていると、思い出す人がいる」
思い出す人?
それは誰なんだろう?
目を丸くして、ユリウスが次に何をいうのかとじっと見つめると、彼は少しだけ辛そうに目を伏せ、そしてまたもう一度目を開いて何かを確認するかのように私の顔をじっと見つめた。
その憂いを帯びた深い青い目を見つめ返す。何かを探しているような真剣な眼差しだ。
やがて、ユリウスは表情を緩め、なにやら可笑しそうに笑みをこぼした。
「レオナ・ローサ。彼女も、そうやって泣きながら笑って、困った私はよく右往左往したものだった」
その言葉に、ヨナスとクラウスが顔を上げてお互いの視線を交差させる。
レオナ。
それは、もしかすると、ユリウスがずっと後悔しているという、離婚した最初の妻のことなのだろうか。
彼はどんな時も、彼女の影を追っているのかもしれない。
だから、誰かにちょっとした共通点を見つけると、すぐにレオナのことを思い出し切なくなるのだろう。
私の感情を強く揺さぶっている何かが、一体なんなのか、突然はっきりとその姿を表し、私の脳裏に浮かび上がった。
すべてはこれからなのかもしれない。
私は鳥肌が立つ程の熱い感情の煽りを受けて、じっとユリウスのその目を見つめた。
彼女を、探さなければならない。
私ははっきりとそう何かが告げるのを聞いた気がした。
ユリウスの後悔は取り返せるはずだ。
何十年経っても色あせることのないその想い。もう十分に苦しんだ。取り返しがつかないのは過去。でも、新たな始まりはこれから切り開ける未来にある。
きっと、彼女もユリウスを忘れる事はなく今も想い続けている。彼女は、ユリウスが後悔していることも知っていて、でも、彼の為を思って影を潜め、どこかで静かに暮らしているのに違いない。
新たな始まりを切り開く。
これは、私達に与えられた神様からの贈物だ。
レオナ・ローサ。
貴女を探し出してみせる。
その時ノックの音がして、カールが入って来た。
「ご主人様。検査の時間です。看護士達が迎えに参りました」
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