竪琴の乙女

ライヒェル

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一章

エランティカの乙女

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恐らく20分くらいは山道を歩いただろうか。ようやく、崖の下の大木に隠れるように建てられた煉瓦作りの家に到着する。蔦が煉瓦を覆うように成長しているから、ここに家があると知らなかったら気がつかないくらいひっそりと建っていた。薄暗い中でその外観をもっとよく見ようと近寄ると、尖った小石を踏み足の裏に痛みが走る。
「……っ」
裸足で長々山道を歩いたせいで、足には、落ちていた木の枝や石ころで擦り傷がいくつも出来てしまった。
「ここに座っておいで」
お婆さんに言われて、木の根っこに腰をかける。お爺さんが室内に入り、あちこちの明かりを灯し始めたのか、暗闇の中に窓がぼんやり明るく浮かび上がった。
やがて、桶に水を汲んだお婆さんが戻って来ると、遠慮する私の足を丁寧に洗ってくれて、傷をアルコール消毒してくれた後、革底の短い網あげ靴を履かせてくれた。
「こんな綺麗な足に擦り傷がついてしまって、可哀想に」
独り言のようにお婆さんがそう呟いた。
白雪姫の小人の家とはこういう感じだろうかと思いながら、やや天井の低い家の中に入る。木の匂いが温かな、とても心地いい作りだったけど、予想していた通り、電化製品たるものは一切なく、灯りはすべてキャンドルだった。
やっぱりタイムスリップ?
いや、でも見た感じ世界が異なる気がする。
ピンで柱に留めてあるメモ書きのような紙を見てみると、私が知っている数字や文字とは全然違う。
でも、なぜか言葉だけは普通に通じているという不思議。
これはもう、魔法にかかったとしか思えない状況だ。
若干理性を取り戻し事態を分析していると、少し冷静になってきた。
しかし、どうしてこんなことになったんだろう。
いや、それより、どうやって戻ればいいんだろう。
そんな当たり前の疑問が頭に浮かぶけど、誰も答えてくれはしない。
お婆さんに連れられて、奥の部屋に行くと、お婆さんが、着替えなさいと言って、棚から大きな白い一枚布を取り出した。素直にウェディングドレスを脱ぐと、爪先立ちしたお婆さんは手慣れた様子で、細かいドレープをつけながらその布を私の体に巻きつけていく。最後に革紐を腰の高めの位置で縛ってくれた。ギリシャやローマの古代人が着用していたワンピースのようにうまく体にフィットし、あつらえのワンピースの形になっているのに感心していると、お婆さんが嬉しげに私を眺めた。
「明日にでも何枚か服を仕立ててあげるからね。今晩はこれで我慢しておいで」
「いえ、本当に有難うございます」
その晩、温かいスープとパンを頂きながら、二人にこれまでの経緯と、私が推測してる状況ーーーつまり、異世界に来てしまったらしいことーーーを話した。
多分、話した内容の半分くらいしか伝わらなかったらしく、二人は食べることも止めてただじっと私の顔を眺めていた。
恐らく、撮影だの、ヘアサロンだの、日本だの言ったところで、単語自体が理解不能だったのだろう。
アンリとヘレンーーーそれがこの夫婦の名前だーーーは、しばらく二人でヒソヒソと話をしていた。
怪しい人間だと思われてしまって、ここから追い出されてしまうのかと不安になり、落ち着かない気持ちで空になったスープ皿を見下ろしていると、そっとヘレンが私の肩に触れた。
のろのろと顔を上げると、なにかとてもいいことがあったかのように嬉しそうに微笑んでいる。アンリのほうを見ると、同じくニコニコとご機嫌な様子だ。
「セイラ、大丈夫。なにも心配することはないからね」




翌朝、小鳥のさえずりと何やら美味しそうな甘い匂いで目が覚める。
目を開けた瞬間、視界に飛び込んできたのが、天井から吊るされたいくつもの、色とりどりのドライフラワーの束。
一瞬、何が起きたのか分からず頭の中が真っ白になり、ガバッと起き上がる。
そうだった。
昨日、わけのわからないうちに、この、ラベロア王国っていうところに来てしまったのは、やはり夢じゃなかったらしい。
どうしよう!
本当に夢じゃない!
パニックが戻って来て、ベッドの中に潜り込み、ブランケットを頭までかぶった。
なるべく冷静になろうと呼吸を整えながら、昨日の出来事を反芻した。
何度かブランケットから顔を出してあたりを見回したが、やっぱりこれが今の現実らしい。
昨晩、親切なアンリとヘレンは、当分は私をここに置いてくれると約束してくれた。そして、ここがラベロアという王国であり、二人が住むこの山の中には殆ど人は居ないけれど、万が一誰かに見られて、異国人と通報されると即刻捕らえられるため、ともかく人目につかないように、決して勝手に出て回らないようにと念入りに注意された。そして、私が異国人だと一目で分かるのが、この黒髪らしいので、これは常に隠す必要があるとのこと。
昨晩寝付く前に考えて気付いたことがある。
恐らく、ワイングラスでグラスハープの音をたてたことが引き金となって、この国へ飛ばされたのは間違いないだろう。
その時、大変なことに気がついた。
あの湖畔に、ライアーを置きっぱなしだ!
昨日は気が動転してたのか、すっかり忘れていた。
大切な宝物を放置したままここへ来てしまうなんて!
大慌てでベッドを飛び出してキッチンのほうへ駆け込む。
「大変!」
思わずそう叫ぶと、ロッキングチェアに腰掛けていたアンリが目を丸くして私を見る。
「ライアーを忘れてきたの!」
「ライアー?」
私はそれが、いわゆる竪琴であり、自分の宝物であることを説明し、急いで取りに行きたいことを伝えると、アンリが首を横に振った。
「わたしが後で取りに行くから、セイラはここにいなさい」
「でも……」
困惑していると、ホカホカに湯気をたてるパンケーキの皿をテーブルに置いたヘレンが、興奮気味の私をなだめるように優しく背を撫でる。
「あの辺りは滅多に人は来ないから無くなってはいないよ。今日はあなたの服を仕立てたりしたいから、外に出てはだめ。アンリにまかせておきなさい」
言われてみれば確かに、この一枚布を巻きつけて服がわりにしている状態で外に出ることは出来ない。
潔く諦めて、反論することをやめた。




アンリは小柄で指先が器用なのを生かして、鍛冶屋の仕事をしていた。家の裏に作業のための小屋がある。ヘレンは裁縫が得意で、主に衣類を仕立てる仕事をしていた。
アンリが週に2、3回、ロバの荷車に乗って山を下りて麓の街へ行き、出来上がった部品とヘレンの仕立てた衣類を納品する。時折、ヘレンも一緒に街へ出向き、青空市場で手作りのジャムや焼き菓子を売っているそうだ。その帰りに、小麦粉やチーズ、山では手に入らない野菜や布などを仕入れて山へ戻ってくる。
文明の発達した世界でしか生活をしたことのない私からしたら、田舎暮らしというよりさらに原始的な日常で戸惑いの連続だ。
この現実を受け入れるのが難しくて、時折猛烈な不安や焦りに襲われ泣いてしまう事もあったけれど、人間、時間が経てば恐怖や痛みは薄れていくらしく、この国に迷い込んでちょうど1ヶ月がたつころ、私も日々の生活に慣れ始めていた。
私の朝はまず、湯浴みから始まる。
アンリが鍛冶屋の仕事で使う釜の上に大きな金属製の水瓶がある。ここに貯めた水がお湯になり、必要な時に裏のバスタブに流し込むことが出来るという便利な作りだった。夜のうちに水瓶いっぱいの水を入れておけば、釜の種火がゆっくり水を温めて、朝になるとちょうどいいお湯になっている。このお湯に、ヘレン特製のローズウォーターを足すと、薔薇の甘い香りが瞬く間に広がる。小鳥のさえずりを聴きながらの優雅な朝のバスタイムだ。
身だしなみを整えた後は、夏期に冷蔵庫代りとして使うという裏の洞穴の奥深くに行って、貯蔵している野菜や果物、バターなど、その日に使う分だけを運んでくる。朝食は大抵、新鮮なベリーが入ったパンケーキを焼く。日中はヘレンを手伝って、山の奥にベリーやアプリコットを摘みに行ったり、ジャムを煮込んだり洗濯をしたり、たまには裁縫を教えてもらったりする。時計がないからはっきりした時間はわからないが、多分、午後3時くらいに遅めの昼食。野菜や豆をたっぷり煮込んだスープとジャガイモを食べる事が多い。夜は街で仕入れていた燻製の肉に固めの自家製パンやスープを食べる。夏季で日が長いせいか、感覚的にはおそらく夜9時頃に夕食が終わり、片付けをしていると外もようやく暗くなり始める感じだ。
週に二度、山道を徒歩30分くらい離れたところにあるという牧場の人が、早朝に牛乳瓶を届けに来てくれるが、家の前に置いてくれるだけなので会って話す事も無い。郵便や宅配が来るわけでもないから、本当に誰にも会わない。たまに山のずっと向こうの斜面で羊を追う人影を遠くに見かけるくらいで、この山に住む人が本当に少ないことは確かだ。
アンリが鍛冶屋の技術を生かして、ライアーの調弦用のレンチを作ってくれたのが本当にラッキーだった。夜、暗くなり始めた頃にライアーを取り出して調弦し、しばらく奏でるのが日課になっていた。山奥深いということもあってか、夜は冷え込むこともあり、夏だというのにたまに暖炉の火をつけたりもする。窓際に腰掛けてライアーを奏でていると、ほぼ毎晩、暖炉前のロッキングチェアに座っているアンリが居眠りを始めるのだ。隣のソファに腰掛けるヘレンもあくびを噛み殺しながら編み物をする。
ライアーから紡ぎ出される安らぎの音色は私を癒やし、未来への希望を持たせてくれる不思議な力がある。
もっとも、ライアーの音浴が癒やしとして認められているからこそ、私は音楽療法を学んでいた。更に知識と技術を極めようと、ライアーの音楽療法の第一人者に個人レッスンを受けようとして訪れたドイツの黒い森で、こんな事態になっているというのが本当に残念だ。
日本の家族や友人も心配しているに違いない。
日本のニュースでも失踪者と報道され世間で騒がれているんだろうなぁ。
現地の警察が、もしかすると、私は湖に落ちたと思って湖底を調べたりしているのかもしれないし、森の中を捜索しているのか、もうそれも時間切れで打ち切りになったか……
私が、電話もメールも手紙も届かない場所に来てしまったなんて、誰も知らない。
唯一、運命を共にしてくれているのが、私の宝物のライアー。
いつか自分の世界に戻れる時までは、毎晩、ライアーと共に過ごすだろう。
せめてこの宝物と離れ離れにならなかったことを神様に感謝しなくては。



ある晩、ヘレンが夜の湖畔に連れていってくれることになった。
なんでもそこには、この時期、たった三夜しか見ることができない特別な花があるそうだ。
「エランティカ、古代言語で妖精の落し物、という意味の花だよ。それはとても可憐な姿で薔薇よりも香りがいいんだけど、他の花のように香水を作ったりすることが難しい種類だから、誰も摘んだりもしないんだけどね」
「うわぁ、楽しみ!」
「エランティカには魔力があるという伝説もあるんだよ。数が少ないし摘むとすぐに枯れてしまうから、幻の花とも呼ばれてるくらい希少でね」
「そうなんだ、じゃぁその時だけ見て楽しむものだね」
どんな花なのかと想像してドキドキしてくる。
「ヘレン、ライアーも持って行っていい?」
ヘレンが頷きながら、私の肩に大判のチョコレート色のショールをかけて、背中に流している私の髪に触れた。
朝いつもヘレンが綺麗に結い上げてくれて、頭には短いベールを被り髪は隠しているのだが、もう夜になったのですべて解いてしまっていた。
「もう一度、髪をまとめたほうがいいかな?」
そう聞くとヘレンは腕組みして少し考える素ぶりをみせたが、やがて笑顔で首を振った。
「もう外も暗いし、誰かに見られることはないからそのままでいいね」
「うん、わかった」
夜に幻の花を見に出かけるなんて、ドキドキする。
会社の同僚や友達と夜桜を見に行った時のような高揚感で眠気も吹っ飛んだ。
あまり長居をしないように、と心配気に眉をひそめるアンリに見送られて、暗がりの山道へと向かう。ヘレンが手に持つランプの明かりと、生い茂る木々の隙間から差し込む月光を頼りに、静かな山道を進む。熊やキツネなども生息しているけれど、人間には近寄らないので、余程のことがなければ襲われることはないらしい。山の豊かな大自然に恵まれ、彼等が飢えることはまずないそうだ。彼等は人間の近づかない、もっと山の深くに生息していて、わざわざ人里近くまで下りてこないということだろう。
アンリもヘレンも、小人症だから背が低い。多分、アンリが140センチあるかどうか、ヘレンはおそらく130センチはないだろう。私は155センチだけど、体格的には彼等のほうががっちりしていて、服のサイズも丈以外のところは彼等のほうが大きい。彼等は子供に恵まれなかったことをずっと残念に思っていたらしく、突然振って湧いたような私のことを、本当の娘のように大事に扱ってくれる。彼等の温かい思いやりにどれだけ慰められたことだろう。
もし自分の世界に戻ることが叶わなかったとしたら。
彼等を本当の親と思って、恩返し出来るようになりたい。
そんなことを考えられるくらい、最近は精神的に落ち着いてきた。
薄暗い山道を黙々と歩いていたら、もう湖が見えて来た。
良く見ると、月が映り込む水鏡のような湖の周りが、あちこちぼんやりと白く輝いている。
「ヘレン、あの白い光がエランティカ?」
「そうだよ、良く見てごらん、銀白色の花だよ」
白い輝きを踏まないように気を付けて歩きつつ湖のそばにある、光が密集している場所に行くと、身を屈めてその光の群れを覗き込む。
甘く爽やかな香りがあたりを覆っている。星の形にも似た、小さくて丸っこい可愛らしい花だ。
可憐なエランティカの花は、湖を囲むように咲き乱れ、ゆらゆらと光り輝いていた。
「綺麗!まるで天国にいるみたい!」
一年のうちたったの三夜で消えてしまう夢の世界。
言葉を失うほどのエランティカの神秘的な美しさにすっかり心を奪われ、幻想的な夜の湖のほとりで、時を忘れたようにただただ立ち尽くす。
「セイラ、あまり長居は出来ないよ」
ヘレンに声をかけられてハッと我にかえる。
そうだった、今晩の調弦はここでやるつもりだったのだ。
エランティカを踏まないよう注意を払いながら、チョコレート色の大判のショールを芝生の上に敷くと、ゆっくりと膝を折って座る。夜露が降りてきたのか、草むらも少しだけしっとりと濡れているようだった。
ライアーを抱いて、注意深く調弦をする。
少しだけ音を鳴らすと、柔らかな音色が夜空に舞い上がるように響いた。
エランティカの妖精達が湖の周りを滑るように舞う姿が見えるような気がした。
弦に指を走らせると、いつもよりもっと、美しく響く音色が流れだす。
ライアーと心を通じあわせるために、ゆっくりと目を閉じてみる。
エランティカの甘い香りの中、私の魂が、まるで羽を得たかのように放たれ、妖精達と共に湖の周りをふわり、ふわりと舞っているような感覚がした。
魔法にかかったかのように私の指はひとりでに弦の上を流れ、柔らかで澄んだ音を奏で始める。
澄み渡る夜空に舞い上がっていくその音色は、恐らくどのコンサートホールで奏でた時よりも美しく響き渡った。
魂を震わせるような音色。
柔らかな夜風に吹かれ、湖に映る月が時折波打ち揺れるのを見つめながら、時が経つのを忘れてライアーの生み出す神秘的な音色に抱かれる。
「まるで神がかりだよ。あぁ、なんて美しい音色だろうね」
うっとりしたように目を閉じて、ヘレンがそう呟いた。
緊張の抜けた柔和な顔で微笑んでいるヘレン。
私は手を止めた。
どれくらい時間が経っただろう。
「ね、ヘレン、もう眠くなったんじゃない?」
「そうだねぇ、じゃぁ、そろそろ……」
その時、どこからかガサッと木の茂みから音が聞こえた気がして、ハッとして顔をあげると、湖畔の向こう側の暗闇にぼんやりと浮かぶ白馬の姿が見えた。
反射的にヘレンと私が同時に立ち上がったその時、白馬が小さな嗎をあげたかと思うと、突然こちらへと駆け出した。
白馬の上に人影があり、空に翻ったマントが月光に反射してキラリと光る。
人がいたんだ!
見られた!
ヘレンはランプの明かりを消し、私はショールで身を覆うと、大急ぎで山道へと走る。すぐに、山道を外れて私達しか使わない獣道へと逃げ込んだ。
「馬に追われたら到底敵わないから、追っ手が居なくなるまでここで静かにね」
ヘレンが苦し気にはぁはぁと息切れしながら、私の小耳に囁く。
ドキドキする胸を押さえ、暗闇でも目につく白いナイトドレスを着ていたことを激しく後悔しつ、全身をチョコレート色のショールでしっかりと覆い隠した。生い茂る木々のそばにあった岩の裏にしゃがみ込み息をひそめる。あまりにも驚いたせいか、冷や汗で寒気がし、ぶるっと武者震いしてしまった。
ともかく気配を消すことに意識を集中する。
すぐに馬の駆ける足音が聞こえ、馬が小さく嘶いて止まった。
「クソッ……見失ったか」
舌打ちをした男の声が聞こえた。
あたりの様子を伺っているらしく、周辺を歩き回る馬の蹄の音が時折聞こえる。
息を潜めてじっとしていると、今度は複数の馬が駆けつける騒々しい音が聞こえてきて、思わずヘレンと顔を見合わせた。
一体どういう集団なんだろう?!
こんな山奥に、しかも夜遅くに!
もしかして、山賊?
不安のあまり、私達はぴったり寄り添いお互いの手を握りしめ、息を殺す。
「殿下!そろそろ宮殿にお戻りください!」
「黙れっ!」
あたりに響いた激しい怒鳴り声にビクッとして思わず身をすくめる。
殿下?
殿下って?
つまり王家の?
いや、王家の人間のはずないだろう。
気品のカケラもない暴君にしか聞こえないけど。
横にいるヘレンを見ると、しー、というように指を口にあてている。
さっき殿下と呼ばれた男の声が山中に響く。
「この辺りで見失った、お前達も探せ!」
「見失ったとは、どんな獲物で?」
チッと舌打ちをするのが聞こえ、続けて、苛立った声が聞こえた。
「湖畔に居たのだ!娘が……」
「娘が?」
「湖畔で竪琴を奏でていた娘……まさにエランティカの乙女のような」
「なんですと?」
「エランティカの……?!」
複数の驚きの声があがった。
エランティカの乙女とは一体?
ヘレンを見ると、目を見開いて驚愕の表情で固まっている。
「殿下、それは確かなのですか?」
しばらくの沈黙。
「……見たのだ、この目で。純白の衣を身に纏った漆黒の髪の娘が、竪琴を奏で……」
押し殺したような低い声で独り言のように呟く男。
「あたりをくまなく探し、必ず捕らえろ!ただし、傷はつけるな!」
「ハッ、御意!」
一斉に散らばる人の気配に、恐怖で縮み上がる。
私を捕らえる?
その、エランティカの乙女と勘違いされて?
恐ろしさにますます寒気がして、必死で息を潜める。
ここで見つかるわけにはいかない。
大丈夫、というようにヘレンが私の背を抱き寄せた。
なんとかこの危機的状況を切り抜けなければならない。
2人で身を寄せ合い、目を閉じて息を殺す。
見つかりませんように!
しばらくの間、複数の人間の足音や馬の蹄の音が聞こえていたが、およそ30分くらい経ったころ、騒々しさが遠のいていった。
「やれやれ……あちらの方へ行ったようだね」
疲れ切ったようにヘレンが呟き、ゆっくりと立ち上がった。
獣道を通り、いつもより時間をかけてようやく帰宅したら、案の定、アンリがひどく心配しており寝ずに私達を待っていた。
その晩、ヘレンとアンリが「エランティカの乙女」について話をしてくれた。
このラベロア王国で信仰されている神々の中で、最も重要な神が、この国を作ったという太陽神テグロス。
太陽神テグロスの妻、大地の女神ディアナから生まれた一人娘が、音楽を司る女神、通称、エランティカの乙女。
「太陽神テグロスが悪魔に呪われ病に倒れた時、エランティカが美しい竪琴の音色で癒したという伝説から、ラベロア国では最も敬愛される女神の一人なんだよ。幻の花、エランティカが咲く夜に生まれたという女神だから、エランティカが咲く夜の湖畔には、女神エランティカが現れるという伝説がある。神殿の国宝には、乳白色に紺色の瑪瑙で彫られたエランティカの乙女の彫刻があるらしいが、これは王族しか目にする事が出来ない、歴史的にも貴重なものらしい」
アンリはそう言いながら、渋い顔をして私の顔をじっと眺めた。
「古書に描かれているエランティカの姿はどれも、純白の衣を着て、長い黒髪で、竪琴を奏でているんだよ。それも、今晩のセイラのように、エランティカの咲く夜の湖畔に座っているものばかりだからね」
「長い黒髪の娘なんて一人もいないことを考えたら、セイラが、エランティカの乙女と思われてもおかしくはないね。私らから見ても、そう見えるくらいだから」
ヘレンが困惑気味にそう呟いて、私の頭を撫でた。
「そうなんだ……でも、私は、ただの人間なのに」
いやはや、そんな大層な女神様と勘違いされたとはびっくりだ。
「ますます気をつけないといけないよ」
ヘレンが心配そうに私の顔を覗き込んだ。
私は首をすくめた。
「大丈夫。もう失敗しないから。それにしても、仮にも女神と思ったくせに、捕らえろ!だなんて酷すぎない?バチが当たる物言いよね」
まるで狸か狐でも引っ捕らえるような勢いだったじゃないか。
見つかってたら、縄で縛り上げられ、ずるずる引きずって行かれてたとしか思えない。
「王家の人間って、神に対する冒涜としか思えない言動が許されるような地位にいるの?」
疑問に思ってそう聞くと、アンリが首を振り眉をひそめる。
「恐らくカスピアン王子だったんだろうよ」
「カスピアン王子?」
「暴れん坊で有名だからね。きっと夜狩りに来ていたんだろう」
「暴れん坊ね……なんだか納得」
そんな荒くれ者に捕まったら何されるかわからない。
これからは本当にもっと気をつけて行動しなければ。
やっと異世界での生活に慣れてきたかと思ったのに、前途多難な状況であるのは間違いないらしい。
ライアーを抱きしめて、ぐっと唇を噛んだ。
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