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四章
出口のない暗闇
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セイラがラベロアの王宮から姿を消して、既に数日が過ぎた。
エティグス王国との国交断絶による余波で、始末をつけなくてはならない問題が増え、カスピアンはその全責任を担わなくてはならない立場にあった。
両国と友好関係を結ぶ諸外国が、エティグス王国寄りに動かぬよう、自国との関係を強化する必要がある。国交のある国々を回っていた兄ユリアスに書状を認め、事の次第の報告と協力を要請した。
エティグス王国と共有していた海域には巡視船を派遣するなど、平和だった海岸沿いの港町も緊迫感が漂っている。国民の不安を煽るような噂が不要に広まらぬよう、監視や取り締まりも強化しなくてはならない。
王宮内では、セイラがエティグスの間者であり、カスピアンに取り入って王宮に入り込んでいたなどという噂まで流れている。
ルシアがラベロア王国に入国したのと時を同じくして王宮に入り、ルシアの帰国に合わせて王宮を去ったというタイミングが、その噂に信憑性を持たせてしまうのは確かだった。明らかに誰かが意図的に流している噂であるものの、出所が掴めない限りはその噂を消す事は出来ない。
誰しもカスピアンを恐れ、当人の前で口にすることはなかったが、事態の収束の如何によっては、カスピアンの王位継承権が剥奪されるなどという噂さえも流れている。
眠れぬ夜を過ごす間、カスピアンの脳裏に浮かぶのは、膨大な量の事後処理のことでも、不快極まりない噂のことでもなかった。
ルシアの手中にあるセイラを想い、何故このような事態に陥ることを未然に防げなかったかと激しく悔やむ。
自分は、何を誤ったのか。
セイラが姿を消した直後は、怒り以外の何も感じなかった。
理性を取り戻すにつれ、思い出すのはセイラの、怒った顔や、泣き出しそうな顔、そして悲しそうな顔ばかりだった。
セイラを王宮に連れ帰ってからのことを思い返してみる。
あの娘の言葉に耳を傾けてやった記憶もない。
ただの一度も、向き合って話をすることさえしなかった。
自分は一方的に物を与え続け、決定事項を申し渡しただけだ。
自分が力で無理矢理繋ぎ止めようとしたばかりに、セイラは逃げ出したのだ。
遥か昔、似たようなことがあったと、記憶をたぐり寄せる。
そしてカスピアンは、自分がまだ幼かった頃のことを思い出した。
それはまだ、自分が7、8歳の頃だったはずだ。
ある日、毎日のように追いかけていた、歌声の美しい野鳥をついに捕らえ、金色の籠に入れたことがあった。
しかし、餌を与えても食べず、さえずる事も無くなり、日に日に弱っていった。
ある日、籠が落ちた拍子に開いた扉から青空に飛び立ち、二度と見る事はなかった。
ひどく憤慨し諦めきれず、その空に向かい、今すぐ帰ってこい、と叫んでいた。
その様子を見かねた母シルビアは、悔しさに涙ぐむ自分を抱きしめ、優しく諭してくれた。
貴方が、あの鳥を心から慈しみ可愛がれば、きっと自分から貴方に会いに来て、その美しい歌を聴かせてくれる。大空を舞う鳥を捕らえて、小さな籠に閉じ込める必要はないのだと。
思い返せば、母の住む正妃の間のバルコニーには、よく小鳥がやってきて歌を歌っていたものだった。自分が近づくと必ず逃げてしまうのを、いつも不思議に思っていたが、今になってその理由がわかった。
カスピアンは自分の両手をきつく握りしめた。
この手は、セイラを束縛するために使うのではなく、慈しみ、守るために使わなければならないのだ。
セイラを誘き出しまんまと連れ去ったルシアの思惑は、容易に想像出来るだけに、カスピアンの苛立ちは日を追うごとに増していく。
あの男がセイラに触れているのかと思うだけで、胸が張り裂けんばかりに痛み、やりどころのない怒りが全身を暴れ回る。
セイラが自ずから望んでエティグスへ向かったはずはない。
ルシアに追われ、逃げ惑うセイラの姿が脳裏に浮かぶ。
自分はもう二度と、あのように追い回しはしないと、固く心に誓う。
必ずもう一度、全てをやり直すのだ。
なんとしてもルシアの懐からセイラを取り戻さなければならない。
一刻も早く。
苦悩するカスピアンの眠れぬ夜が更けていく。
エティグスの離宮に軟禁されたまま、時間だけが無情に過ぎていく。
ルシア王子は数日前に首都へ発ち、私はこの離宮で悶々とした日々を過ごしていた。
自由に歩き回っていいと言われてはいるものの、離宮の周りにあるのは、橋が崩れた国境を流れる巨大な河と、首都へ向かう道が敷かれた深い森。
森のほうは大きな城門があり、常に閉まっている状態だから、出歩くと行っても城内と河岸だけだ。
一人で外の空気を吸いたいと思って河岸に出たが、護衛が数人ついて来たため、さして気分転換にならなかった。
これからのことを考えれば考えるほど、鬱々として、本当に病気になりそうだった。
いや、すでに鬱病になりかけているに違いない。
夜はろくに眠れず、時折動悸がする。
空腹も感じず、食欲もない。
ライアーを抱いてみても、思うように指が動かない。
ぼんやりと外の景色を見たり、ベッドの上に大の字になり天井の唐草模様の装飾を眺めているうちに、気がつけば一日が終わっている。
アンリやヘレンと過ごした平和な日々が懐かしくて、あれはもしかしていい夢だったのかと、記憶さえ怪しい。
自分の軽はずみな行動が、どれだけ大きな問題となったかという後悔が、繰り返し押し寄せる。
ここをうまく脱走出来たとして、一人で生き延びる自信もないし、きっとすぐに捕まる。
逃げ出せなければ、当分は、ルシア王子の思うがまま。
ラベロアに戻れば死刑。
どちらにせよここから身動きが出来ない。
しかも、カスピアンを脅かす人質扱いという最悪の状況。
私のせいで、カスピアンが辛い立場に追い込まれているのかと思うと、胸が痛んだ。
無力で何も出来ない自分が歯痒い。
ルシア王子の話だと、カスピアンはまだ、私を取り返そうと動いているらしい。
それが事実なら、カスピアンの立場はさらに悪くなってしまう。
いや、あのカスピアンが、私の事なんかで国の存亡を脅かすような愚かな行動は取らないはずだ。
なんの特別な価値もない、ただ見目が珍しいだけの私。
誰も彼も、大きな勘違いをしているだけ。
ある日きっと皆が、私が珍しくもない、ただの人間だと気づく。
そしたら、きっと、おもちゃに飽きたように解放し、忘れてくれないだろうか……
ベッドで大の字になってそんなことを繰り返し考える。
起きているのか眠っているのかわからない、廃人状態。
魂の抜けた人形になった気がして、自分の感情さえも掴めなくなってくる。
すべてが白昼夢じゃないかと思ったり。
ある朝目が覚めたら、自分の世界に戻っているのじゃないかと考えたり。
「ため息ばかりつかれていては、お体によくないですよ」
ずっと世話をしてくれている女官のジョセフィが、いつの間にか部屋に入ってきていて、バルコニーのカーテンを開けた。
ふと、あのバルコニーから飛び降りたらどうなるだろうなんて考えて、ハッとする。
身投げなんか考えるようになっている自分にぞっとする。
それだけは、ダメだ!
生きて、なんとか耐えていかねば。
このままではいけない、と自分に言い聞かせてベッドから身を起こす。
「なにか、気が紛れることがないかな……」
独り言のように呟いて、ふと、思いつく。
そうだ、何もせずに一日過ごすから鬱々としてしまうんだ。
「ジョセフィ、何か仕事ない?」
「えっ、仕事ですか?」
驚いたジョセフィが目を丸くして、首を左右に振る。
「何をおっしゃるんですか!ルシア様のお妃様になられるお方が、お仕事など」
「妃になるとか、そんなの私は同意してないから!」
毎回のように繰り返し訂正するが、周りはすっかり、私を王子の婚約者と思い込んでいて埒が明かない。
「セイラ様がそうおっしゃっていても、殿下がお決めになったことですから」
「もう……」
何度否定しても、堂々巡りが続くだけなので、諦めてその話をするのをやめる。
「とにかく、体を動かしたいの。庭仕事でも、厨房の手伝いでも、何でもいいから。なにかやらないと、気が変になりそうなの。お願い!」
必死でそう訴えると、さすがにジョセフィも折れた。
ずっと私が病人のように臥せって、部屋に引きこもっているばかりで、食事もろくに取らないのは知っている。
ジョセフィに連れられて、厨房に向かったところ、最初は料理長も、とんでもない話だと断り続けていたが、やがて、しつこい私に負けて、手伝わせてくれることになった。
王族が滞在していない時は、離宮をメンテナンスしている管理責任者や警備にあたっている兵士達のシンプルな食事をこしらえているだけらしいが、今は、私がいるので、凝った料理も作っていたらしい。でも、私が食べやしないので、せっかく作った御馳走もすべて無駄になっていたようだ。
申し訳ない気持ちになって、食欲がないことを説明して謝罪すると、皆が慌てて恐縮する。
汚れないようにエプロンをつけて、久しぶりに調理場に立つと、鬱々とした気持ちが少しずつ薄れていった。
気の良い彼らと一緒に、ヘレンと一緒に焼いたケーキやクッキーを焼いてみたり、肉料理のこしらえ方を教えてもらったりと、厨房での時間はあっという間に過ぎていく。料理したものを、皆でテーブルを囲んで食べるのも楽しい。
つくづく、じっとしているのは性に合わないなと実感する。
軟禁されている事実を忘れるかのように、朝から晩まで城内の仕事に精を出し過ごしていると、それなりに充実していて、このままの日々が続けばいいのにとまで思い始める自分がいた。
セイラが姿を消しておよそ一週間が過ぎた頃。
ラベロアの王宮では夜半過ぎ、カスピアンのもとへ、斥候の報告が届いていた。
岩壁の橋が崩れ落ちてしまった国境に流れるヴォルガの河の対岸、エティグス側である遠い河辺で、セイラらしき人影があったという。
ヴォルガの河はその幅の広さと激しい流れから、人為的に橋を築くことが出来ない場所だ。
遥か古代は繋がっていたこの二国。長い年月を経て巨大化したヴォルガの河が岩壁を削り、かろうじて残っていた部分を橋と呼んではいたが、あまりにも危険であるため、実際に使われることはほぼ皆無だった。
しかも、ラベロア側はほぼ断崖絶壁であり、河岸はない。
エティグス側は人為的に作られたなだらかな河岸があるのだが、滅多に使われないエティグスの離宮と繋がっており、庶民が立ち寄る場所ではなかった。
星を読むために作られた天体望遠鏡を配備し、向こう岸の様子を見張らせていたところ、ある夕べ、河辺を歩いているセイラらしき姿が捉えられたとのこと。
「複数の従者が後ろにいたとのことです。恐らく、常に監視されている状態であるかと。ルシア王子の姿はなかったようです」
セイラはしばらくの間、あの離宮に捕われているだろうというカスピアンの読みは正しかったようだ。いずれ首都の王宮に連れて行かれるはずだが、ルシアは恐らくまず、国王に事の次第を報告せねばならぬはずだからだ。
寸断されてしまった岩壁の橋。
荒れ狂う巨大なヴォルガの河。
その向こうに囚われているセイラがいる。
ともかく、早急に策を練って、セイラがあの離宮にいる間に取り戻さなければならない。
手遅れになる前に。
ルシアに対する憎悪で腹が煮えくりかえったカスピアンは、報告書をぐしゃぐしゃに丸めると、床に投げつけ激しく踏みつけた。
「間者の調査はどうなっている!」
「セイラ様を快く思わない何者かが、ルシア王子の手引きをしたのは確実です。流星群の式典が始まる直前に、新入りとして身元不明な女官が配置されていました。実際誰が雇い入れたのかは調査中ですが、間も無く足がつくかと」
カスピアンは憤りを押さえようと歯ぎしりをした。
「ルシアめ、よくもこの俺を欺きおって……!」
アンジェとの婚姻を約束し、いかにも友好的であるかのように振る舞い、何事もなく帰国の途についたかのように見せかけた後、セイラを誘き出し連れ去ってしまった。
切れ者と名を馳せるルシア王子の狡猾さを見抜けなかった己を呪う。
油断ならぬ相手と警戒し始終監視していたにも関わらず、帰国の途についた後にまさか、行動に出るとは。
セイラが姿を消し数日も立たぬうちに、アンジェとの婚姻を辞退する書状が届き、正式に国交は断絶されている。
「必ず手引きした者を探し出せ。後で俺がじっくり切り刻み、心ゆくまで料理してやる」
「仰せの通りに」
斥候と腹心の臣下が静かに王子の間から下がると、入れ替わりでエイドリアンが入ってくる。
真夜中を過ぎても、すべての報告は即時に届けられることになっていた。
「よくない知らせです」
顔色を悪くしたエイドリアンが王子の前に跪き、報告をあげる許可を待つ。
「言ってみろ」
既に怒りの頂点に達しているカスピアンが仁王立ちのままエイドリアンに指示した。
一瞬、言葉を選ぶように息をのんだエイドリアンが、下を向いたまま、押し殺した声で報告する。
「陛下より、これよりセイラ様の捜索を禁ずる、とのご命令です」
「なに?」
カスピアンが目を剥き、エイドリアンを問いただした。
「何故父がそのような命を出すのだ!」
「それは……」
エイドリアンが言葉に詰まるように息をのんだ後、苦々しい顔をカスピアンに向けた。
「ルシア王子が、エティグス国王の許可を得て、近々婚姻式を執り行うとの知らせが入りました。新しく妃になるのは、外国より王子が連れ帰った姫君とのことです。セイラ様のことであることは、間違いございません」
カスピアンが石像のように固まり、エイドリアンを見下ろした。
「ルシア王子にはすでに、2人の妃がおりますが、まだ正妃はおりません。噂では、今度の婚儀で正妃を迎えるのでは、と」
「黙れっ!!!」
カスピアンの怒号が飛び、エイドリアンが床にひれ伏した。
「それ以上、口を開くと首を跳ねるぞ!下がれっ」
カスピアンの絶叫とともに、物が立て続けに壊れ飛び散る激しい音が奥宮に鳴り響いた。
「馬を出せ!今すぐにだ!」
怒りのあまりに、手当たり次第家具を破壊しまくった後、カスピアンは、なだめようと近づく臣下を蹴散らし、馬に飛び乗り宮殿を飛び出した。エイドリアンが必死でその後を追いかけていく。
エティグス王国との国交断絶による余波で、始末をつけなくてはならない問題が増え、カスピアンはその全責任を担わなくてはならない立場にあった。
両国と友好関係を結ぶ諸外国が、エティグス王国寄りに動かぬよう、自国との関係を強化する必要がある。国交のある国々を回っていた兄ユリアスに書状を認め、事の次第の報告と協力を要請した。
エティグス王国と共有していた海域には巡視船を派遣するなど、平和だった海岸沿いの港町も緊迫感が漂っている。国民の不安を煽るような噂が不要に広まらぬよう、監視や取り締まりも強化しなくてはならない。
王宮内では、セイラがエティグスの間者であり、カスピアンに取り入って王宮に入り込んでいたなどという噂まで流れている。
ルシアがラベロア王国に入国したのと時を同じくして王宮に入り、ルシアの帰国に合わせて王宮を去ったというタイミングが、その噂に信憑性を持たせてしまうのは確かだった。明らかに誰かが意図的に流している噂であるものの、出所が掴めない限りはその噂を消す事は出来ない。
誰しもカスピアンを恐れ、当人の前で口にすることはなかったが、事態の収束の如何によっては、カスピアンの王位継承権が剥奪されるなどという噂さえも流れている。
眠れぬ夜を過ごす間、カスピアンの脳裏に浮かぶのは、膨大な量の事後処理のことでも、不快極まりない噂のことでもなかった。
ルシアの手中にあるセイラを想い、何故このような事態に陥ることを未然に防げなかったかと激しく悔やむ。
自分は、何を誤ったのか。
セイラが姿を消した直後は、怒り以外の何も感じなかった。
理性を取り戻すにつれ、思い出すのはセイラの、怒った顔や、泣き出しそうな顔、そして悲しそうな顔ばかりだった。
セイラを王宮に連れ帰ってからのことを思い返してみる。
あの娘の言葉に耳を傾けてやった記憶もない。
ただの一度も、向き合って話をすることさえしなかった。
自分は一方的に物を与え続け、決定事項を申し渡しただけだ。
自分が力で無理矢理繋ぎ止めようとしたばかりに、セイラは逃げ出したのだ。
遥か昔、似たようなことがあったと、記憶をたぐり寄せる。
そしてカスピアンは、自分がまだ幼かった頃のことを思い出した。
それはまだ、自分が7、8歳の頃だったはずだ。
ある日、毎日のように追いかけていた、歌声の美しい野鳥をついに捕らえ、金色の籠に入れたことがあった。
しかし、餌を与えても食べず、さえずる事も無くなり、日に日に弱っていった。
ある日、籠が落ちた拍子に開いた扉から青空に飛び立ち、二度と見る事はなかった。
ひどく憤慨し諦めきれず、その空に向かい、今すぐ帰ってこい、と叫んでいた。
その様子を見かねた母シルビアは、悔しさに涙ぐむ自分を抱きしめ、優しく諭してくれた。
貴方が、あの鳥を心から慈しみ可愛がれば、きっと自分から貴方に会いに来て、その美しい歌を聴かせてくれる。大空を舞う鳥を捕らえて、小さな籠に閉じ込める必要はないのだと。
思い返せば、母の住む正妃の間のバルコニーには、よく小鳥がやってきて歌を歌っていたものだった。自分が近づくと必ず逃げてしまうのを、いつも不思議に思っていたが、今になってその理由がわかった。
カスピアンは自分の両手をきつく握りしめた。
この手は、セイラを束縛するために使うのではなく、慈しみ、守るために使わなければならないのだ。
セイラを誘き出しまんまと連れ去ったルシアの思惑は、容易に想像出来るだけに、カスピアンの苛立ちは日を追うごとに増していく。
あの男がセイラに触れているのかと思うだけで、胸が張り裂けんばかりに痛み、やりどころのない怒りが全身を暴れ回る。
セイラが自ずから望んでエティグスへ向かったはずはない。
ルシアに追われ、逃げ惑うセイラの姿が脳裏に浮かぶ。
自分はもう二度と、あのように追い回しはしないと、固く心に誓う。
必ずもう一度、全てをやり直すのだ。
なんとしてもルシアの懐からセイラを取り戻さなければならない。
一刻も早く。
苦悩するカスピアンの眠れぬ夜が更けていく。
エティグスの離宮に軟禁されたまま、時間だけが無情に過ぎていく。
ルシア王子は数日前に首都へ発ち、私はこの離宮で悶々とした日々を過ごしていた。
自由に歩き回っていいと言われてはいるものの、離宮の周りにあるのは、橋が崩れた国境を流れる巨大な河と、首都へ向かう道が敷かれた深い森。
森のほうは大きな城門があり、常に閉まっている状態だから、出歩くと行っても城内と河岸だけだ。
一人で外の空気を吸いたいと思って河岸に出たが、護衛が数人ついて来たため、さして気分転換にならなかった。
これからのことを考えれば考えるほど、鬱々として、本当に病気になりそうだった。
いや、すでに鬱病になりかけているに違いない。
夜はろくに眠れず、時折動悸がする。
空腹も感じず、食欲もない。
ライアーを抱いてみても、思うように指が動かない。
ぼんやりと外の景色を見たり、ベッドの上に大の字になり天井の唐草模様の装飾を眺めているうちに、気がつけば一日が終わっている。
アンリやヘレンと過ごした平和な日々が懐かしくて、あれはもしかしていい夢だったのかと、記憶さえ怪しい。
自分の軽はずみな行動が、どれだけ大きな問題となったかという後悔が、繰り返し押し寄せる。
ここをうまく脱走出来たとして、一人で生き延びる自信もないし、きっとすぐに捕まる。
逃げ出せなければ、当分は、ルシア王子の思うがまま。
ラベロアに戻れば死刑。
どちらにせよここから身動きが出来ない。
しかも、カスピアンを脅かす人質扱いという最悪の状況。
私のせいで、カスピアンが辛い立場に追い込まれているのかと思うと、胸が痛んだ。
無力で何も出来ない自分が歯痒い。
ルシア王子の話だと、カスピアンはまだ、私を取り返そうと動いているらしい。
それが事実なら、カスピアンの立場はさらに悪くなってしまう。
いや、あのカスピアンが、私の事なんかで国の存亡を脅かすような愚かな行動は取らないはずだ。
なんの特別な価値もない、ただ見目が珍しいだけの私。
誰も彼も、大きな勘違いをしているだけ。
ある日きっと皆が、私が珍しくもない、ただの人間だと気づく。
そしたら、きっと、おもちゃに飽きたように解放し、忘れてくれないだろうか……
ベッドで大の字になってそんなことを繰り返し考える。
起きているのか眠っているのかわからない、廃人状態。
魂の抜けた人形になった気がして、自分の感情さえも掴めなくなってくる。
すべてが白昼夢じゃないかと思ったり。
ある朝目が覚めたら、自分の世界に戻っているのじゃないかと考えたり。
「ため息ばかりつかれていては、お体によくないですよ」
ずっと世話をしてくれている女官のジョセフィが、いつの間にか部屋に入ってきていて、バルコニーのカーテンを開けた。
ふと、あのバルコニーから飛び降りたらどうなるだろうなんて考えて、ハッとする。
身投げなんか考えるようになっている自分にぞっとする。
それだけは、ダメだ!
生きて、なんとか耐えていかねば。
このままではいけない、と自分に言い聞かせてベッドから身を起こす。
「なにか、気が紛れることがないかな……」
独り言のように呟いて、ふと、思いつく。
そうだ、何もせずに一日過ごすから鬱々としてしまうんだ。
「ジョセフィ、何か仕事ない?」
「えっ、仕事ですか?」
驚いたジョセフィが目を丸くして、首を左右に振る。
「何をおっしゃるんですか!ルシア様のお妃様になられるお方が、お仕事など」
「妃になるとか、そんなの私は同意してないから!」
毎回のように繰り返し訂正するが、周りはすっかり、私を王子の婚約者と思い込んでいて埒が明かない。
「セイラ様がそうおっしゃっていても、殿下がお決めになったことですから」
「もう……」
何度否定しても、堂々巡りが続くだけなので、諦めてその話をするのをやめる。
「とにかく、体を動かしたいの。庭仕事でも、厨房の手伝いでも、何でもいいから。なにかやらないと、気が変になりそうなの。お願い!」
必死でそう訴えると、さすがにジョセフィも折れた。
ずっと私が病人のように臥せって、部屋に引きこもっているばかりで、食事もろくに取らないのは知っている。
ジョセフィに連れられて、厨房に向かったところ、最初は料理長も、とんでもない話だと断り続けていたが、やがて、しつこい私に負けて、手伝わせてくれることになった。
王族が滞在していない時は、離宮をメンテナンスしている管理責任者や警備にあたっている兵士達のシンプルな食事をこしらえているだけらしいが、今は、私がいるので、凝った料理も作っていたらしい。でも、私が食べやしないので、せっかく作った御馳走もすべて無駄になっていたようだ。
申し訳ない気持ちになって、食欲がないことを説明して謝罪すると、皆が慌てて恐縮する。
汚れないようにエプロンをつけて、久しぶりに調理場に立つと、鬱々とした気持ちが少しずつ薄れていった。
気の良い彼らと一緒に、ヘレンと一緒に焼いたケーキやクッキーを焼いてみたり、肉料理のこしらえ方を教えてもらったりと、厨房での時間はあっという間に過ぎていく。料理したものを、皆でテーブルを囲んで食べるのも楽しい。
つくづく、じっとしているのは性に合わないなと実感する。
軟禁されている事実を忘れるかのように、朝から晩まで城内の仕事に精を出し過ごしていると、それなりに充実していて、このままの日々が続けばいいのにとまで思い始める自分がいた。
セイラが姿を消しておよそ一週間が過ぎた頃。
ラベロアの王宮では夜半過ぎ、カスピアンのもとへ、斥候の報告が届いていた。
岩壁の橋が崩れ落ちてしまった国境に流れるヴォルガの河の対岸、エティグス側である遠い河辺で、セイラらしき人影があったという。
ヴォルガの河はその幅の広さと激しい流れから、人為的に橋を築くことが出来ない場所だ。
遥か古代は繋がっていたこの二国。長い年月を経て巨大化したヴォルガの河が岩壁を削り、かろうじて残っていた部分を橋と呼んではいたが、あまりにも危険であるため、実際に使われることはほぼ皆無だった。
しかも、ラベロア側はほぼ断崖絶壁であり、河岸はない。
エティグス側は人為的に作られたなだらかな河岸があるのだが、滅多に使われないエティグスの離宮と繋がっており、庶民が立ち寄る場所ではなかった。
星を読むために作られた天体望遠鏡を配備し、向こう岸の様子を見張らせていたところ、ある夕べ、河辺を歩いているセイラらしき姿が捉えられたとのこと。
「複数の従者が後ろにいたとのことです。恐らく、常に監視されている状態であるかと。ルシア王子の姿はなかったようです」
セイラはしばらくの間、あの離宮に捕われているだろうというカスピアンの読みは正しかったようだ。いずれ首都の王宮に連れて行かれるはずだが、ルシアは恐らくまず、国王に事の次第を報告せねばならぬはずだからだ。
寸断されてしまった岩壁の橋。
荒れ狂う巨大なヴォルガの河。
その向こうに囚われているセイラがいる。
ともかく、早急に策を練って、セイラがあの離宮にいる間に取り戻さなければならない。
手遅れになる前に。
ルシアに対する憎悪で腹が煮えくりかえったカスピアンは、報告書をぐしゃぐしゃに丸めると、床に投げつけ激しく踏みつけた。
「間者の調査はどうなっている!」
「セイラ様を快く思わない何者かが、ルシア王子の手引きをしたのは確実です。流星群の式典が始まる直前に、新入りとして身元不明な女官が配置されていました。実際誰が雇い入れたのかは調査中ですが、間も無く足がつくかと」
カスピアンは憤りを押さえようと歯ぎしりをした。
「ルシアめ、よくもこの俺を欺きおって……!」
アンジェとの婚姻を約束し、いかにも友好的であるかのように振る舞い、何事もなく帰国の途についたかのように見せかけた後、セイラを誘き出し連れ去ってしまった。
切れ者と名を馳せるルシア王子の狡猾さを見抜けなかった己を呪う。
油断ならぬ相手と警戒し始終監視していたにも関わらず、帰国の途についた後にまさか、行動に出るとは。
セイラが姿を消し数日も立たぬうちに、アンジェとの婚姻を辞退する書状が届き、正式に国交は断絶されている。
「必ず手引きした者を探し出せ。後で俺がじっくり切り刻み、心ゆくまで料理してやる」
「仰せの通りに」
斥候と腹心の臣下が静かに王子の間から下がると、入れ替わりでエイドリアンが入ってくる。
真夜中を過ぎても、すべての報告は即時に届けられることになっていた。
「よくない知らせです」
顔色を悪くしたエイドリアンが王子の前に跪き、報告をあげる許可を待つ。
「言ってみろ」
既に怒りの頂点に達しているカスピアンが仁王立ちのままエイドリアンに指示した。
一瞬、言葉を選ぶように息をのんだエイドリアンが、下を向いたまま、押し殺した声で報告する。
「陛下より、これよりセイラ様の捜索を禁ずる、とのご命令です」
「なに?」
カスピアンが目を剥き、エイドリアンを問いただした。
「何故父がそのような命を出すのだ!」
「それは……」
エイドリアンが言葉に詰まるように息をのんだ後、苦々しい顔をカスピアンに向けた。
「ルシア王子が、エティグス国王の許可を得て、近々婚姻式を執り行うとの知らせが入りました。新しく妃になるのは、外国より王子が連れ帰った姫君とのことです。セイラ様のことであることは、間違いございません」
カスピアンが石像のように固まり、エイドリアンを見下ろした。
「ルシア王子にはすでに、2人の妃がおりますが、まだ正妃はおりません。噂では、今度の婚儀で正妃を迎えるのでは、と」
「黙れっ!!!」
カスピアンの怒号が飛び、エイドリアンが床にひれ伏した。
「それ以上、口を開くと首を跳ねるぞ!下がれっ」
カスピアンの絶叫とともに、物が立て続けに壊れ飛び散る激しい音が奥宮に鳴り響いた。
「馬を出せ!今すぐにだ!」
怒りのあまりに、手当たり次第家具を破壊しまくった後、カスピアンは、なだめようと近づく臣下を蹴散らし、馬に飛び乗り宮殿を飛び出した。エイドリアンが必死でその後を追いかけていく。
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「シーク様…」
どうして貴方がここに?
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※カクヨムさんにも掲載中
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※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
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