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四章
燃える大河ヴォルガ
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その日の夕方も、洗い場で皿洗い担当の女の子を手伝っていた。肘まで泡だらけになって笑いながら、料理に使った調理器具を洗っていると、がやがやと賑やかだった厨房が、突然、水をうったように静まり返った。
不思議に思って手を止め振り返ると、厨房の入り口にルシア王子が立っていた。
両手で扉を大きく広げ、こちらを見ている。
もう二度と帰ってこないんじゃないかと淡い期待をして、存在を忘れようとしていたルシア王子が、ついに首都から帰ってきたのだ。
戻って来たばかりなのか、まだ、濃紺のマントを羽織り、大きな剣を腰に携えたままだ。
「セイラ。ここにいたのか」
私のつま先から頭までを眺め、呆然としたように目を見開いたルシア王子。
厨房に居た皆が一斉に、端に寄り頭を下げる。
さっきまでの楽しかった気分が急降下し、がっくりと肩を落としてしまう。
ルシア王子がまっすぐにこちらにやってくると、泡だらけになっている私の手を掴み、目の前に持ち上げた。
泡が腕を伝い落ち、やがて、ぽとり、ぽとりと床に落ちる。
何を言われるかと身構えていると、王子は、しばらく私の手を眺めた後、クスクスと笑い出した。
「なんとも、皿洗いに精を出す姫君とは……」
まさか笑い出すとは思っていなかったので、今度はこちらがびっくりしてしまう。
「気が済んだらサロンに来い」
泡だらけの手を離すと、ルシア王子はあっさりと厨房を後にした。
サロンに行く気は全然なかったが、厨房の皆に、もう後はいいから早々に王子の元へ行ってくれと、無理矢理追い出されてしまう。調理場の外で待ち構えていたジョセフィと他の女官に引きずられるようにして客室へ戻る。汚れた女官用の衣類の代わりに、また煌びやかなドレスを着せられてしまった。
「ジョセフィ……今、行かなきゃだめなの?少し後でもいい?」
心の準備が出来ておらず、少しでもいいから考える時間が欲しいと思いそう聞いたが、ジョセフィは、とんでもない、というように大きく首を左右に振った。
「殿下をお待たせする訳にはいきません。本当は明日お戻りの予定だったんですよ。セイラ様のことを気にされて、予定を早めてお戻りになられたのですから」
「気にしてって……どうせ逃げたり出来ないってわかってるのに」
「それは違います。もちろん、早くセイラ様のお顔が見たいからですよ。でなければ、お戻りになられて、お召し替えもせずにセイラ様を探されたりしません」
「どうして、そういう考え方をするの?!」
「セイラ様、あなたはお妃様になられる方ですよ。殿下がご自分でお選びになられた、初めての姫君でいらっしゃいます」
「……」
これまでの詳しい経緯やルシア王子の思惑など知らないジョセフィには、到底、本当の状況は分かってもらえない。
ここしばらくの間、頭の片隅に押しのけていた暗い現実を突きつけられ、一気に落ち込む、
仕方なく、嫌がる足を引きずるようにして、のろのろとサロンへと向かう。
囚われの身の自分が、あの王子に逆らうなんて、殺してくれというようなものだ。
まだ、死にたいとも思わないのなら、必要以上に逆らうのは得策じゃない。
サロンへ入ると、すぐに、臣下や女官は退室してしまった。また、このだだっ広いサロンに二人きり。
居心地悪く、黙って入り口の壁側に立っていると、ルシア王子がゆっくりと歩み寄ってきた。
前回、突然首を絞められた恐怖が蘇り、今度は何をされるかと身構えると、意外にもただ、片手を取られる。
不審に思って顔をあげると、王子は真っ青な目を細めて僅かに微笑んだ。
「恐れることはない。さぁ、こちらに来い」
ゆっくりと私の手を引いて、バルコニーのほうへと歩く。
手を振り払って怒らせてもなんの得にもならないので、とりあえず黙って従う。
何を考えているのか。
注意深くその横顔を見上げる。
アンジェ王女をエスコートしていた時のような、貴公子然とした態度。
整いすぎた美しい顔はポーカーフェイスで、その心は全く読み取れない。
いつでも逃げ出せるよう十分な距離を取りながら、導かれるままに歩く。
広々としたバルコニーの手すりの向こうに、夕焼けに染まり始めたヴォルガの河が見えた。
「厨房は楽しいか」
あまりにも唐突でごく普通の問いに、拍子抜けする。
「……はい」
怪訝に思いながら素直に答えると、ルシア王子は可笑しそうに微笑んだ。
「ラベロアの市場で有名な焼き菓子を作る、小人の娘、だったな」
「……はい」
当たり障りのない話題に気抜けしながら、頷く。
ルシア王子は、こんな気さくな話をする人間だったのか。
いや、これには何か裏があるに違いない。
「おまえの気が済むのなら、何をやっても構わぬぞ」
「え」
「望みを言ってみるがいい」
「……それなら、このまま、ここで働かせてもらえますか?」
この数日ずっと考えていたことを、すぐに口にしてみる。
一縷の望みをかけて、じっとルシア王子を見上げた。
ルシア王子は私の必死の眼差しに、飽きれたかのように苦笑した。
「明日にはここを出て、おまえを連れ王都へ戻る。片道1日半はかかるが……」
私の質問には答えず、話題を変えた王子。
首都に移動。
落胆して下を向く。
「王都に到着したら、おまえの望みを叶えてやろう」
「……本当に?」
驚いて顔を上げた。
そんな物わかりのいい親切な人だったのか。
聞き間違いではないかと、すぐには信じられず、もう一度確認する。
「本当に、調理場の仕事をさせてくれるの?」
はなから無理だと思っていた希望が、叶えてもらえるかもしれないと思い、急に未来が明るくなった気がした。
しかし同時に、またもや、欺かれるのではないかという疑いが戻ってきて、ふっと不安になる。
ルシア王子は油断ならない。
そう簡単に信じてはダメ。
絶対に裏があるはず。
注意深く王子の目を見上げる。
この、真っ青な目の奥に何を企んでいるか怪しいものだ。何かしらよからことを考えているに違いない。
疑いの目を向けていると、ルシア王子が静かに苦笑した。
「夕日に染まるヴォルガの河を見せてやろう。今晩で見納めだ」
私の質問には明確に答えず、ルシア王子はサロンから河岸へと続く中庭へ下りた。
小石が敷き詰められた河岸をゆっくりと歩く王子は、相変わらず紳士的に私の手を引いている。
派川の流れに沿って歩くと、本流の巨大なヴォルガ河が見えてくる。夕日で赤く染まるその河の勢いはうねりも強く、その凄まじい水流の勢いはずっと向こうの下流まで続いている。だだ、濁流ではなく、水は極めて透明度が高いため、夕日に反射して赤く染まっているのだ。
一歩進む度に足下の小石がカタカタと小さな音をたてるのが聞こえていたが、やがて、激しく流れる河の轟音があたりに響き始めた。
ヴォルガ河の遥か向こうに、断崖絶壁の陰が見える。
あの絶壁の向こうが、ラベロア王国。
崩れかけたという岩の橋は水流に押され、さらに崩れ落ちてもう、橋であった面影さえなくなっていた。
あの晩のことを思い出し、言いようのない胸苦しさに立ち止まる。
大きな間違いを犯してしまったという後悔が、どうしても拭いきれない。
私のせいで、どれだけ多くの人に迷惑をかけたか。
まったく無関係な兵士達を巻き込み、カスピアンまでも窮地に立たされる羽目に追い込んでしまったのは、この私なのだ。
押し寄せる悲しさと憤りをどうにか収めようと唇を噛み締め、ラベロア王国のほうを見つめる。
「過ぎ去ったことは、忘れるのだ」
頭上からルシア王子の静かな声がしたかと思うと、背後から抱きすくめられる。
「離してください」
反射的にその腕を振りほどこうとしたが、もがいたところで到底敵わないことは既に知っている。
「セイラ。こちらを見ろ」
せめてもの抵抗のつもりで身を固くし顔を背けた。
「なんとも強情な姫君だ。あのカスピアンが手こずるだけのことはある」
頭上から独り言のように呟くルシア王子の声が聞こえた。
「王都に戻れば、おまえを妃に迎える」
「……っ、また、その話ですか?!お断りします!それに、さっき、調理場で仕事をさせてくれると言ってたのに、どういうことですか!?」
「宮殿ではおまえの気の済むように過ごせばよい」
「えっ?」
「おまえの自由は約束しよう」
混乱して言葉を失い、呆然とルシア王子を見上げる。
「おまえが、妃としての務めを怠らぬならば」
「……ルシア王子」
必ず言っておかねばと思っていたことを、この際、はっきりと言う事にする。
「私は、人質になる価値もない、ただの庶民です。この離宮におかせてもらうのも見合わない、下々のものです。どんなことでも構いませんから、さきほどお願いしたように、何か仕事をさせていただきたいのです」
「おまえの価値は私が決めるのだ。おまえは私の妃に相応しい。すでに父王の許しも得て、婚儀を執り行う手はずを整えているところだ」
婚儀、という言葉に怯むが、あえて動揺を隠し、ルシア王子を睨んだ。
「王子にはすでにお二人のお妃様がいると聞きました。今いるお妃様を大事になさったらどうですか?!」
ルシア王子は私の言葉に目を丸くし、くすりと笑いを漏らした。
何が可笑しいのだ。
不可解な王子の反応に、それ以上、何を言えばいいのか、言葉が出ない。
「他の妃の存在が気に食わぬか」
何を言っているのだ、この人は。
「そんなこと、言ってません!」
「おまえが望むのなら、あやつらを離縁し、おまえ一人を妃にすることも厭わぬぞ」
「えっ?!」
唖然としていると、王子は、鋭い光を含めた真っ青な目で、まっすぐに私を見つめた。
「おまえにはそれほどの価値がある。いずれ、富めるラベロアを手に入れるためにも、この身も心も、我が手に入れておかねばならぬ」
「な……」
ラベロアを手に入れるために?
どうしてこの私にそこまでの価値があると思い込むのか、到底理解出来ない。
この人、頭おかしいんじゃないか。
「私を使ってラベロアを手に入れるなんてありえない!絶対にありえないから!」
「さぁ、それはどうか、しばらく様子を見ねばならぬ。だが、例えカスピアンを揺るがすことにならずとも、おまえを手放すつもりはない」
「どうして!?」
茫然自失になっている私の背を抱いていたルシア王子の大きな手が、髪に巻き付いた。
「何よりも、私がおまえを気に入っているからだ」
驚いて顔をあげると、私の髪に指を絡めたルシア王子が、苦々し気に眉をひそめて私を見下ろす。
「離宮を離れている間、四六時中おまえのことが頭から離れなかった」
それは、どういう意味だ。
言葉の意味を計りかね、混乱のあまり返す言葉も出ない。
「この私の心を捉えて離さぬとは、おまえは何者だ」
探るように私の目を覗き込むルシア王子。
「何者、って、先ほども言ったように、ただの人間です!」
嫌な予感がして、もう一度、背に回る腕を振り解こうとしたが、びくともしない。
「おまえの纏う、その類い稀な美しさは、この世のものとは思えぬ何かがある」
「な、何を言って……」
「この私を前にして物怖じせぬその気の強さも、心惹かれるものがある」
驚きで絶句している私を射るように見つめていたルシア王子が、指に絡めていた私の髪に口づけた。
「……っ!」
とっさに、思いっきり王子を突き飛ばしてその腕の中をすり抜け、一目散に駆け出した。
冗談じゃない!
普通と違うのなんて当たり前だ!
私が異世界から来たと知らないだけじゃないか!
物珍しさに興味持たれて付きまとわれるのはもう、うんざり!
しかも、ルシア王子はカスピアンよりタチが悪い。
私を利用して、ラベロア王国を手に入れようと企むなんて。
最低最悪な策略家の言いなりになんか、絶対になりたくない!
逆らって殺されるくらいなら、このまま消えてしまいたい!
絡みつくドレスをたくし上げ、無我夢中で走る。
誰か、助けて!
絶望の中、心の中で叫ぶ。
勢い余って小石の敷き詰められた河原でバランスを崩し、派手に転んだ。
「……いたっ……」
砂利と小石の上に打ち付けた膝と手の平に鋭い痛みが走った。手の平を見ようと視線を上げた時、私は心臓が止まったかと錯覚するほどの驚きに息を飲んだ。
派川の向こうに見えるもの。
目を凝らし、焦点を合わせ、もう一度確認する。
あれは……まさか。
不思議に思って手を止め振り返ると、厨房の入り口にルシア王子が立っていた。
両手で扉を大きく広げ、こちらを見ている。
もう二度と帰ってこないんじゃないかと淡い期待をして、存在を忘れようとしていたルシア王子が、ついに首都から帰ってきたのだ。
戻って来たばかりなのか、まだ、濃紺のマントを羽織り、大きな剣を腰に携えたままだ。
「セイラ。ここにいたのか」
私のつま先から頭までを眺め、呆然としたように目を見開いたルシア王子。
厨房に居た皆が一斉に、端に寄り頭を下げる。
さっきまでの楽しかった気分が急降下し、がっくりと肩を落としてしまう。
ルシア王子がまっすぐにこちらにやってくると、泡だらけになっている私の手を掴み、目の前に持ち上げた。
泡が腕を伝い落ち、やがて、ぽとり、ぽとりと床に落ちる。
何を言われるかと身構えていると、王子は、しばらく私の手を眺めた後、クスクスと笑い出した。
「なんとも、皿洗いに精を出す姫君とは……」
まさか笑い出すとは思っていなかったので、今度はこちらがびっくりしてしまう。
「気が済んだらサロンに来い」
泡だらけの手を離すと、ルシア王子はあっさりと厨房を後にした。
サロンに行く気は全然なかったが、厨房の皆に、もう後はいいから早々に王子の元へ行ってくれと、無理矢理追い出されてしまう。調理場の外で待ち構えていたジョセフィと他の女官に引きずられるようにして客室へ戻る。汚れた女官用の衣類の代わりに、また煌びやかなドレスを着せられてしまった。
「ジョセフィ……今、行かなきゃだめなの?少し後でもいい?」
心の準備が出来ておらず、少しでもいいから考える時間が欲しいと思いそう聞いたが、ジョセフィは、とんでもない、というように大きく首を左右に振った。
「殿下をお待たせする訳にはいきません。本当は明日お戻りの予定だったんですよ。セイラ様のことを気にされて、予定を早めてお戻りになられたのですから」
「気にしてって……どうせ逃げたり出来ないってわかってるのに」
「それは違います。もちろん、早くセイラ様のお顔が見たいからですよ。でなければ、お戻りになられて、お召し替えもせずにセイラ様を探されたりしません」
「どうして、そういう考え方をするの?!」
「セイラ様、あなたはお妃様になられる方ですよ。殿下がご自分でお選びになられた、初めての姫君でいらっしゃいます」
「……」
これまでの詳しい経緯やルシア王子の思惑など知らないジョセフィには、到底、本当の状況は分かってもらえない。
ここしばらくの間、頭の片隅に押しのけていた暗い現実を突きつけられ、一気に落ち込む、
仕方なく、嫌がる足を引きずるようにして、のろのろとサロンへと向かう。
囚われの身の自分が、あの王子に逆らうなんて、殺してくれというようなものだ。
まだ、死にたいとも思わないのなら、必要以上に逆らうのは得策じゃない。
サロンへ入ると、すぐに、臣下や女官は退室してしまった。また、このだだっ広いサロンに二人きり。
居心地悪く、黙って入り口の壁側に立っていると、ルシア王子がゆっくりと歩み寄ってきた。
前回、突然首を絞められた恐怖が蘇り、今度は何をされるかと身構えると、意外にもただ、片手を取られる。
不審に思って顔をあげると、王子は真っ青な目を細めて僅かに微笑んだ。
「恐れることはない。さぁ、こちらに来い」
ゆっくりと私の手を引いて、バルコニーのほうへと歩く。
手を振り払って怒らせてもなんの得にもならないので、とりあえず黙って従う。
何を考えているのか。
注意深くその横顔を見上げる。
アンジェ王女をエスコートしていた時のような、貴公子然とした態度。
整いすぎた美しい顔はポーカーフェイスで、その心は全く読み取れない。
いつでも逃げ出せるよう十分な距離を取りながら、導かれるままに歩く。
広々としたバルコニーの手すりの向こうに、夕焼けに染まり始めたヴォルガの河が見えた。
「厨房は楽しいか」
あまりにも唐突でごく普通の問いに、拍子抜けする。
「……はい」
怪訝に思いながら素直に答えると、ルシア王子は可笑しそうに微笑んだ。
「ラベロアの市場で有名な焼き菓子を作る、小人の娘、だったな」
「……はい」
当たり障りのない話題に気抜けしながら、頷く。
ルシア王子は、こんな気さくな話をする人間だったのか。
いや、これには何か裏があるに違いない。
「おまえの気が済むのなら、何をやっても構わぬぞ」
「え」
「望みを言ってみるがいい」
「……それなら、このまま、ここで働かせてもらえますか?」
この数日ずっと考えていたことを、すぐに口にしてみる。
一縷の望みをかけて、じっとルシア王子を見上げた。
ルシア王子は私の必死の眼差しに、飽きれたかのように苦笑した。
「明日にはここを出て、おまえを連れ王都へ戻る。片道1日半はかかるが……」
私の質問には答えず、話題を変えた王子。
首都に移動。
落胆して下を向く。
「王都に到着したら、おまえの望みを叶えてやろう」
「……本当に?」
驚いて顔を上げた。
そんな物わかりのいい親切な人だったのか。
聞き間違いではないかと、すぐには信じられず、もう一度確認する。
「本当に、調理場の仕事をさせてくれるの?」
はなから無理だと思っていた希望が、叶えてもらえるかもしれないと思い、急に未来が明るくなった気がした。
しかし同時に、またもや、欺かれるのではないかという疑いが戻ってきて、ふっと不安になる。
ルシア王子は油断ならない。
そう簡単に信じてはダメ。
絶対に裏があるはず。
注意深く王子の目を見上げる。
この、真っ青な目の奥に何を企んでいるか怪しいものだ。何かしらよからことを考えているに違いない。
疑いの目を向けていると、ルシア王子が静かに苦笑した。
「夕日に染まるヴォルガの河を見せてやろう。今晩で見納めだ」
私の質問には明確に答えず、ルシア王子はサロンから河岸へと続く中庭へ下りた。
小石が敷き詰められた河岸をゆっくりと歩く王子は、相変わらず紳士的に私の手を引いている。
派川の流れに沿って歩くと、本流の巨大なヴォルガ河が見えてくる。夕日で赤く染まるその河の勢いはうねりも強く、その凄まじい水流の勢いはずっと向こうの下流まで続いている。だだ、濁流ではなく、水は極めて透明度が高いため、夕日に反射して赤く染まっているのだ。
一歩進む度に足下の小石がカタカタと小さな音をたてるのが聞こえていたが、やがて、激しく流れる河の轟音があたりに響き始めた。
ヴォルガ河の遥か向こうに、断崖絶壁の陰が見える。
あの絶壁の向こうが、ラベロア王国。
崩れかけたという岩の橋は水流に押され、さらに崩れ落ちてもう、橋であった面影さえなくなっていた。
あの晩のことを思い出し、言いようのない胸苦しさに立ち止まる。
大きな間違いを犯してしまったという後悔が、どうしても拭いきれない。
私のせいで、どれだけ多くの人に迷惑をかけたか。
まったく無関係な兵士達を巻き込み、カスピアンまでも窮地に立たされる羽目に追い込んでしまったのは、この私なのだ。
押し寄せる悲しさと憤りをどうにか収めようと唇を噛み締め、ラベロア王国のほうを見つめる。
「過ぎ去ったことは、忘れるのだ」
頭上からルシア王子の静かな声がしたかと思うと、背後から抱きすくめられる。
「離してください」
反射的にその腕を振りほどこうとしたが、もがいたところで到底敵わないことは既に知っている。
「セイラ。こちらを見ろ」
せめてもの抵抗のつもりで身を固くし顔を背けた。
「なんとも強情な姫君だ。あのカスピアンが手こずるだけのことはある」
頭上から独り言のように呟くルシア王子の声が聞こえた。
「王都に戻れば、おまえを妃に迎える」
「……っ、また、その話ですか?!お断りします!それに、さっき、調理場で仕事をさせてくれると言ってたのに、どういうことですか!?」
「宮殿ではおまえの気の済むように過ごせばよい」
「えっ?」
「おまえの自由は約束しよう」
混乱して言葉を失い、呆然とルシア王子を見上げる。
「おまえが、妃としての務めを怠らぬならば」
「……ルシア王子」
必ず言っておかねばと思っていたことを、この際、はっきりと言う事にする。
「私は、人質になる価値もない、ただの庶民です。この離宮におかせてもらうのも見合わない、下々のものです。どんなことでも構いませんから、さきほどお願いしたように、何か仕事をさせていただきたいのです」
「おまえの価値は私が決めるのだ。おまえは私の妃に相応しい。すでに父王の許しも得て、婚儀を執り行う手はずを整えているところだ」
婚儀、という言葉に怯むが、あえて動揺を隠し、ルシア王子を睨んだ。
「王子にはすでにお二人のお妃様がいると聞きました。今いるお妃様を大事になさったらどうですか?!」
ルシア王子は私の言葉に目を丸くし、くすりと笑いを漏らした。
何が可笑しいのだ。
不可解な王子の反応に、それ以上、何を言えばいいのか、言葉が出ない。
「他の妃の存在が気に食わぬか」
何を言っているのだ、この人は。
「そんなこと、言ってません!」
「おまえが望むのなら、あやつらを離縁し、おまえ一人を妃にすることも厭わぬぞ」
「えっ?!」
唖然としていると、王子は、鋭い光を含めた真っ青な目で、まっすぐに私を見つめた。
「おまえにはそれほどの価値がある。いずれ、富めるラベロアを手に入れるためにも、この身も心も、我が手に入れておかねばならぬ」
「な……」
ラベロアを手に入れるために?
どうしてこの私にそこまでの価値があると思い込むのか、到底理解出来ない。
この人、頭おかしいんじゃないか。
「私を使ってラベロアを手に入れるなんてありえない!絶対にありえないから!」
「さぁ、それはどうか、しばらく様子を見ねばならぬ。だが、例えカスピアンを揺るがすことにならずとも、おまえを手放すつもりはない」
「どうして!?」
茫然自失になっている私の背を抱いていたルシア王子の大きな手が、髪に巻き付いた。
「何よりも、私がおまえを気に入っているからだ」
驚いて顔をあげると、私の髪に指を絡めたルシア王子が、苦々し気に眉をひそめて私を見下ろす。
「離宮を離れている間、四六時中おまえのことが頭から離れなかった」
それは、どういう意味だ。
言葉の意味を計りかね、混乱のあまり返す言葉も出ない。
「この私の心を捉えて離さぬとは、おまえは何者だ」
探るように私の目を覗き込むルシア王子。
「何者、って、先ほども言ったように、ただの人間です!」
嫌な予感がして、もう一度、背に回る腕を振り解こうとしたが、びくともしない。
「おまえの纏う、その類い稀な美しさは、この世のものとは思えぬ何かがある」
「な、何を言って……」
「この私を前にして物怖じせぬその気の強さも、心惹かれるものがある」
驚きで絶句している私を射るように見つめていたルシア王子が、指に絡めていた私の髪に口づけた。
「……っ!」
とっさに、思いっきり王子を突き飛ばしてその腕の中をすり抜け、一目散に駆け出した。
冗談じゃない!
普通と違うのなんて当たり前だ!
私が異世界から来たと知らないだけじゃないか!
物珍しさに興味持たれて付きまとわれるのはもう、うんざり!
しかも、ルシア王子はカスピアンよりタチが悪い。
私を利用して、ラベロア王国を手に入れようと企むなんて。
最低最悪な策略家の言いなりになんか、絶対になりたくない!
逆らって殺されるくらいなら、このまま消えてしまいたい!
絡みつくドレスをたくし上げ、無我夢中で走る。
誰か、助けて!
絶望の中、心の中で叫ぶ。
勢い余って小石の敷き詰められた河原でバランスを崩し、派手に転んだ。
「……いたっ……」
砂利と小石の上に打ち付けた膝と手の平に鋭い痛みが走った。手の平を見ようと視線を上げた時、私は心臓が止まったかと錯覚するほどの驚きに息を飲んだ。
派川の向こうに見えるもの。
目を凝らし、焦点を合わせ、もう一度確認する。
あれは……まさか。
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