竪琴の乙女

ライヒェル

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四章

引き裂かれる想い

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野営地はすっかりきれいに片付けられており、私達は午前中のうちに、出発した。
サリーと共に馬車に乗せられて山の麓まで戻った後、カスピアンが馬で私をアンリとヘレンの家へ連れて行ってくれた。
山の麓の出入り口には、検問所が設置されており、複数の兵士が常駐していた。しかも、山中も常時警備兵が見回りのため巡回しているとのこと。
カスピアンの話だと、現在は基本的に、この山に以前から住んでいる数少ない住人以外は、入山禁止、という状態に近く、とても厳しく出入りを制限しているそうだ。
エティグス王国の間者が他にも潜んでいる可能性や、私を良く思わない貴族が存在することを考えたら、人の出入りが激しい王宮より、この山にいたほうがずっと安全なのは間違いなさそうだった。

山へ戻る馬車の中で、サリーが王宮内の現況について教えてくれた。
現在もまだ、私の逃亡の手引きをしたエティグスの間者、つまり、エリックを、王宮に引き入れた人物の特定が済んでおらず、ピリピリした緊張状態が続いているとのこと。
また、以前からカスピアンではなく、第二王子ユリアスを次期国王にと推していたユリアスの母、第二王妃の親族を中心に、今回の一件でカスピアンに対する不信感も高まっている。
さらに、ルシア王子との婚姻が破談になったアンジェ王女とその母、第三王妃の一派も、カスピアンにこの不始末の責任を問いただしている状況らしい。
四面楚歌の状態にいるカスピアン。
彼が対処しなければならない問題は文字通り、山積しているのだ。
エティグスの間者を引き入れた人物の特定と取り調べ、処分の決定。
反発勢力の鎮圧、国内情勢の沈静化。
敵国となったエティグス王国とは、当面、両国の議会上層部の間で交渉を進めていくが、カスピアンは、竪琴の返還の有無や、先方の出方によっては、開戦の可能性までも視野に入れているらしい。
王位継承権については、第二王子ユリアス本人が、カスピアンこそ次期国王にふさわしいと認めているため、実際のところ、現在も次期国王はカスピアンであることは変わらないらしい。

別れ際にカスピアンが、必ず竪琴をルシア王子から奪還すると約束してくれたけど、私はもう、これ以上の戦いは不要だから、やめてほしいとお願いした。
けれど、あの激怒していた様子では恐らく、ライアーを取り返すつもりでいるに違いなかった。
私さえ、逃亡したりしなければ、こんなことにはならなかった。
重くのしかかる罪悪感で、後悔してもしきれない。
カスピアンに何度か謝ったけれど、彼は、私に罪は無いと言い切る。
これ以上、謝罪の言葉を口にするのは許さないと、突っぱねられた。きっと、あんな風にきつい口調で私の謝罪を拒否することで、私の気を楽にしようとしているのだと思った。
彼の不器用な優しさを無下にしたくなくて、もう、謝罪することは諦めた。
謝ったところで、結局私の自己満足止まりで、カスピアンの役に立つ訳ではない。
私は無力であり、問題を解決出来るのは、彼だけなのだ。
いたたまれない思いは当然消えない。
今の私に出来る事といえば、これ以上問題を起こさないことだけ。
私をアンリとヘレンの家の前まで送り届け、馬から下ろしてくれたカスピアン。
その険しい顔は、彼を待ち受けるこれからの日々が、決して容易なものではないことを語っていた。



それから、これまでのことがまるで嘘だったかのように平和な毎日が続いていた。
アンリとヘレンは私が戻ってきた時、腰を抜かすほどに驚いて大喜びしてくれた。
私も、久しぶりに安心して夜はぐっすり眠れたし、食欲も戻ってきて、鼻歌が出てくるほどリラックスできていた。
唯一、以前と違うのは、ライアーがなくなってしまったこと。
アンリが、竪琴をどうにかして作れないものかといろいろ調べたりしてくれているので、もしかしたら、いつか、アンリがこしらえてくれた竪琴を奏でる日が来るかもしれない。

週に二回、サリーが馬車で私の様子を見にやってくる。
カスピアンや王宮の様子を教えてくれるついでに、普段着として着れそうな清楚な衣装や、庶民が手に入れる事が難しい高価な茶葉、珍しいスパイスなどを届けてくれる。こういった贈り物はすべて、カスピアンが指示していると言う。
私がのんびりと過ごしている一方で、毎日ストレスの多い多忙な日々を過ごしているだろうカスピアンが、そんなことまで気を配ってくれるのかと思うとひどく心が痛んだ。王宮へ戻るサリーには、せめてものお礼として、ヘレンと私が焼いたケーキやクッキーなど焼き菓子を渡していた。
山に戻って一ヶ月近く経った頃、ついにエティグスの間者の手引きをした犯人が拘束されたということと、近日中に竪琴が返還されるという知らせが届いた。
また、カスピアンが破壊したという王子の間や正妃の間の修復もようやく完了しつつあり、後、1、2週間ほどで完成するらしい。
準備が整い次第、カスピアン自身が私を迎えにくるとの話を聞いて、私はとても複雑な気持ちになっていた。
あれから一度も会わなかったし、もしかしたら、このままカスピアンは私を忘れてしまうのじゃないかと、心のどこかで思っていたせいもあるかもしれない。
もうすぐ、カスピアンが私を迎えにくる。
そう思うと、自然と胸がドキドキと高鳴り始める。
今更逃げようとは思わない。
私は、自分の心の変化に気がついていた。
この気持ちを認めるのは、決して容易なことではなかった。
でも、私は本当に、早く彼に会いたいと思っている。
ただ、心の中のざわめきはまだ収まっていない。
カスピアンの考えていること、彼の気持ちは、まだよくわからない。
あの時、何かを言おうとしていたカスピアン。
丁度エイドリアンが、出発の準備が出来たと呼びに来て、そのままうやむやになってしまった会話。
またきちんと向き合って話す機会はあるのだろうか。
カスピアンのことを考える度に、落ち着かなくなり、知らず知らずのうちにため息ばかりついていた。




エティグス王国からセイラを取り戻した後、カスピアンはそれまで以上に多忙な日々を送っていた。
国王の体調は相変わらず優れず、第二王子である兄ユリアスは外交のため長期不在中。次期国王となる世継ぎ王子、カスピアンがこなす日々の責務は膨大な量である。
早朝は必ず神殿に出向く。
議会前の打ち合わせや有力貴族との、会合を兼ねた朝食。
午前中は、軍の総指揮管として、軍事訓練の監督や兵士の鍛錬指導のため、闘技場で過ごす。
指揮官や騎士との面談を兼ねた昼食。
午後は有り余る議題を抱える議会を仕切る。
夕方以降は、ほぼ毎夜、国内外の客人を相手に宴が開かれ、夜は執務室で各種書状の確認や署名、必要により八方に飛ばす指示書をしたためる。
まさに分刻みの過密スケジュールだ。
特に神経を使うのは、諸外国との内密なやりとりである。
エティグス王国との関係が悪化したため、近隣諸国との友好関係をさらに強化しておく必要があった。
開戦の可能性に備えての準備も最優先事項のひとつであり、手抜きなど論外。
加えて、議会では、セイラの今後の扱いについても、連日のように激しい討議が続いている。

この状況を考えれば、やはりセイラを王宮に連れ戻さず、一時的に山へ帰したのは正解だったとカスピアンは思っていた。
王宮に連れ帰ったとしても、自分の破壊行為のために補修工事がされている王子の間と正妃の間は使えない状態であったし、加えて、自分自身もセイラのために裂く時間など殆どない。
小人夫婦のもとへ送り届けた時のセイラはとても安心した様子で、曇りのない笑顔を見せた。その時、やはり一時も離れたくないという激しい葛藤にかられたが、なんとか理性で踏みとどまり、一人で山を下りた。
セイラが安心して過ごせるように、まずは王宮の環境を整えて、それから改めて迎えに行くべきだと自分に言い聞かせる。
心の奥底で何か胸騒ぎがしていたが、山の周辺の警備をさらに強化し、日々、報告をあげるよう指示を出して、当面は自分が成すべき事に専念することを優先した。

途切れることのない責務に追われる日々の中で、カスピアンが安らぐ時間といえば、王宮に出入りを許された商人達が持ち込む、様々な品に目を通す時間だった。
これまでは主に、武器を中心に軍事用の買い入れや発注をすることが目的であったこの時間も、今は、宝石や装飾品、家具などを扱う商人の目通りも許可した。
それまでは、父の妃達や、妹のアンジェ王女、貴族婦人相手に品物を披露していた商人達が、急にカスピアンが見せろと声をかけたので、ここぞとばかりに力を入れた品揃えで訪れるようになっていた。
セイラを想い浮かべながら、再度整えている正妃の間に置く調度品や、美しい衣装、宝石類を選んでいると、セイラを迎えに行く、待ち遠しいその日が確実に近づいている気がした。
山で質素な暮らしを楽しんでいるであろうセイラが使えそうなものを、サリーに言いつけて届けさせると、戻ってきたサリーがその夜、執務室で書類に囲まれているカスピアンのもとを訪れ、セイラの様子を報告し、持ち帰った焼き菓子とお茶を運ぶ。
長い一日を過ごした後の疲れを癒すのに、これ以上のものはなかった。
サリーは毎回、様々な焼き菓子を持ち帰って来た。
ドライフルーツやナッツ類を焼き込んだものや、ほんのりアルコールの苦みの残るものもあれば、甘ったるいカスタードに新鮮な果実をあわせたものなど、見た目も食感も様々でとても美味しく、王宮お抱えの調理人顔負けの出来映えだ。
王族や貴族の女性が調理を行うことはまずない。カスピアンも母シルビアが作った食事を口にしたことは一度も無かった。
しかもカスピアンの場合は、立場上、毒の混入などの危険もあるため、出される食事は必ず決まった調理人が行うことになっている。王宮の厨房は、毒物の混入を防ぐため、調理中であろうとなかろうと、常に監視されているのが当たり前だ。
サリーが、持ち帰った焼き菓子をどうするか聞いた時は、深く考える事もなく、皿に盛って出すように言いつけたが、実際にセイラの手で焼かれたという菓子を目の前にした時は、不思議な気持ちになった。
それは、ただの焼き菓子とは呼べない、特別なものだと感じた。
食する物に対して感情を抱くなど、ありえることなのか。
セイラが手間と時間をかけてその菓子を焼いている姿を想像する。
小さな焼き菓子ひとつが、とてつもなく貴いものに見えた。
優しさが溢れる味わいが、苛立つ心を鎮め、まるで魔法のように、溜まった疲れを癒していく。
食事の際、誰が調理をしたかなど考えた事もなかったカスピアンは、その時初めて、庶民のように、その家庭で作ったものを家族で囲み共に食すということがどのようなものか、わかったような気がした。

セイラを山に送り届けてから、早一ヶ月。
その間、何度も、今すぐにでも馬に飛び乗り、セイラのもとへ行きたいという衝動に駆られた。だが、会ってしまうと我慢出来ずにそのまま連れ帰ってきてしまうだろうとわかっていただけに、王宮の準備が整うまではと、すべての理性を駆使して己を食い止めていた。
そして先日ようやく、エティグス王国の間者の手引きをした者が特定された。
兄ユリアスを支持している、その母、第二王妃の兄にあたるシェルデン侯爵の腹心の部下、アンドレである。
シェルデン侯爵は関与を否定しているが、カスピアンは、恐らく、侯爵の指示があったことは間違いないと見ている。アンドレは既に拘束され投獄中だ。尋問がすべて終わった後、裁判にかけられ、厳正なる討議の後、処罰を受けることになる。
犯人が特定されたことを受けて、セイラはエティグス王国とは無関係であるとの報告書が議会に提出された。
更に、ルシア王子はアンジェ王女との婚姻を口実に、ラベロア王国の偵察を目的に入国しており、ラベロア王国に脅威をもたらす目的で、セイラを連れ去ったとの調査結果も出される。実際、王宮の貴賓館に滞在中、ルシア王子の部下が王宮内を嗅ぎ回って情報収集を試みたり、セイラに接近しようとしていたという裏付けも取れていた。
そして、セイラが何故、王宮から逃げたのかという点については、突然王宮に連れてこられ、お妃教育を申し渡されたという異国娘の心境を考慮すれば、わからぬ行動ではないと同情的な意見があがったため、不問となった。
カスピアンの父である国王、エスタスは、セイラをカスピアンの婚約者として暫定的に認めた。今後、お妃教育を進めていく段階で、議会の承認が下りるかどうかが決定される運びとなる。

エティグス王国との国交は完全に断絶されている。
エティグス王国側は、セイラは自身の意思でエティグス王国に入国し、ルシア王子との婚姻に同意していた婚約者であるとの主張を変えない。
ラベロア王国側は当然ながら、カスピアンが妃に定めていた娘をルシア王子が誘拐したという事実について重要抗議文を送っており、竪琴の返還なき場合は開戦も辞せぬという圧力を掛けていた。
議会では、開戦は避けるべきという声が強かったが、カスピアンは断固として、竪琴の奪還にこだわり、反対意見を退け、交渉を継続させた。
結果、セイラの誘拐については認めないが、竪琴の返還については同意するという回答があり、カスピアンは落ち着かぬ思いで竪琴の到着を待っていた。
セイラに約束した竪琴が無事に届き次第、その足で迎えに行くと決めていたからだ。
そうしてようやく、国境で取り次ぎがされた竪琴が王宮まで届けられた。
議会の休憩時間に、竪琴の到着の報告があり、カスピアンは確認のため広間に向かった。
厳重に梱包された木箱が広間の中央にあった。
エイドリアンに命じ、打ち付けられていた蓋の釘を抜かせると、カスピアンは蓋に手を伸ばした。
重い木の蓋を開け、カスピアンは眉をひそめた。
くすぶるような匂い。
嫌な予感がして即座に箱の中にあった布を剥ぎ取り、その中を目視する。
そこにあったのは、所々黒く焦げ、数本の弦が切れた竪琴。
ルシア王子が、なんの交換条件も出さずに竪琴の返還に応じた時、すでに疑わしいと怪しんではいたが、やはりという気持ちと、沸き上がる激しい怒りで、カスピアンの顔色が変わる。
無惨な変化を遂げてしまった竪琴を手に取ると、それはもろく、大理石の床へと崩れ落ちた。
広間に響いた、音程が大幅に外れた悲しくも不気味な音。
周りの者全員が息をのみ沈黙し、あたりに重い空気が広がった。
その瞬間、カスピアンは顔を歪めた。
胸騒ぎがする。
何か、よからぬことが起きるのでは。
「エイドリアン!議会は中止だ!すぐに出る準備をしろ!」
血相を変えて広間を飛び出したカスピアンを、エイドリアン、複数の側近が追う。
カスピアンは疾風のごとく馬を走らせ、山へと向かった。





ヘレンと私はその日、山の中で花摘みをしていた。
冬に向けて、彩り豊かなドライフラワーを作るためだ。
ここ数日は晴天の日が続いており、連日、早朝と夕方は花摘みをして、家に持ち帰ると、ドライフラワーにするための準備作業をしていた。
今日も、花の名前を教えてもらいながら、色とりどりで形も大きさも様々な花をどんどん摘んで、もう運びきれないほど籠がいっぱいになったところで家に帰って来た。
摘んで持ち帰った花はまず、たっぷりと新鮮な水を吸わせる。それから、不要な葉を取り除き、直射日光の当たらない風通しのよい室内に、一本一本、丁寧に吊り下げていくのだ。
花の種類によっても違うが、1~3週間で出来上がるらしい。
ドライフラワーが完成したら、ブーケを作ったり、ハーブや香辛料、果物の皮やオイルを混ぜてポプリにしたりするという。たくさん出来たら、市場でも売るそうだ。
初めての経験にワクワクしながら、天井の梁から吊り下げられている、カラフルな花のカーテンを見上げる。
時折風に吹かれ、ゆらゆらと揺れる花のカーテンは、見とれるほどに奇麗でメルヘンチック。
どんなブーケを作ろうか。
どんな香りのポプリを作ろうか。
出来上がりを想像しながら、美しい色合いの花で埋まる天井を見上げていた。
ふと、視界が一度大きく揺れて、目眩を感じる。
立ち眩み?
手を額にあてた。
耳に響く、不快な音に気づく。
どこから聴こえてるの?
一度、目を固く瞑った瞬間、ズキリとこめかみに痛みが走った。
頭の中に聞こえてくる、身を震わせるほど重苦しい、悲しい音。
その音は徐々に大きくなって、頭が割れそうなほど強く響き始める。
突如、全身から血の気が引く感覚に襲われた。
「あ、ヘレン……!」
ぐらりと回転するような目眩に襲われ、膝から崩れ落ちる。
バケツ一杯の花を放り投げ、室内に駆け込んで来るヘレンの姿が見えた。
ぼやける視界から色彩が消え、画像はモノクロになり、そして砂嵐となり……

やがて、すべての感覚がぷつりと切れた。
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