竪琴の乙女

ライヒェル

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九章

マドレア国の商人

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ラベロアに戻る、と決心したものの、実際、どうすればいいのかわからないまま、人目を避けて部屋に籠る日々が過ぎた。
なんのアイデアも浮かばないまま、寝不足続きでとにかく怠い。王都、ティミリに移動することだけは回避しなくてはならないと、焦りが募る。
離宮から脱走を試みるべく、コリンに協力を依頼しようかと思ったが、離宮を出たその後のプランもないまま行動を起こすのは無謀だと考え直す。何か、いい案がないかと考えあぐねていたところに、ジョセフィがやってくる。
「セイラ様、王子がお呼びです」
その言葉に、がっくりと首を垂れる。
この数日、会わずに済んでいたが、ついに、呼び出しがかかってしまった。会いたくない理由はただひとつ。王子に、私が考えていることを見透かされそうな不安があったからだ。
具合が悪いと言い訳しようとしたが、引き蘢っていても何もアイデアは浮かばないし、離宮のレイアウトを覚えるのも、今後の役に立つかと思い、呼び出しに応じる事にする。
ジョセフィや女官に囲まれて身支度を整えながら、ため息をついた。
今朝準備されたのは、厚みがありしっとりした光沢が上品な群青色の衣装。全体が細いシルエットで温かい。裾から続く長めのトレーンが緩やかに波打つ、随分と大人っぽいデザインだ。
エティグス王国の衣装を身につけながら、一日も早くラベロアに戻らねばと自分に言い聞かせた。シルバーのリボンを編み込むようにして結い上げられた髪に、ジョセフィが透き通るようなベールをかける。丁度目線が隠れるくらいまでベールを落とされたことを不思議に思って訊ねた。
「どうしてベールをつけるの?」
顔を見られ、考えていることがバレるのを避けるにはうってつけだが、いつもと違うことをされると不安になる。
ジョセフィは首を傾げて笑う。
「王子のご指示です。今日は、外国からの商人の謁見に同席いただく予定になっております」
それを聞いて、なんとなく理由がわかった。その外国からの商人が私を見て誰か気づくのを避けるために、ベールを掛けさせようということだろう。もしかすると、ラベロア王宮にも出入りがあった商人かもしれないと思ったが、私自身は、商人に会った事はまだない。カスピアンは、そういった謁見に同席させるのは、婚儀が終わってからと言っていた。そのへんの仕組みはよくわからないし、買い物をするに必要な財産を持っているわけでもなかったので、気にした事もなかった。
「なんの商人?」
ベールを掛けさせてまでわざわざ会わせようとする意図がよく分からない。
「マドレア国産の真珠を売る商人です」
「マドレア国?」
その国名に、記憶が蘇る。
シーラ公国のフィンレイ大公のお妃、ナタリア様の祖国が、真珠の養殖で有名なマドレア国だった。マドレア国はもともと海賊が作った国で、ナタリア様はその末裔。
「サロンで王子がお待ちです。ご一緒に謁見の間へ移動となります」
シーラ公国やマドレア国を頭に思い浮かべながら、久しぶりに部屋を出て、ジョセフィに連れられサロンへ向かう。
警備兵が守る扉が開かれて、海が一望出来るサロンへと再び足を踏み入れる。奥のカウチに王子の姿が見えて、背筋に緊張が走った。私の心境の変化がバレてしまうと、きっと、閉じ込められてしまう。絶対に感づかれてはならない。
これまで、王子なりに私を気遣ってくれていたことを思うと、申し訳ない気持ちになるのは否めなかった。この人を騙すようなことはしたくないという気持ちはあるものの、正直に話しても埒が明かないのは分かりきっている。
今はとにかく、出来るだけ自然に振る舞うしかない。
いつものように、きちんとお辞儀をして、王子がカウチから立ち上がるのを見計らい、頭をあげる。相変わらずの完璧な美貌。美しいブロンドの髪は金色の紐で軽く束ねている。クリーム色の上着の上に羽織った濃い紫色のマントが彼の気品を倍増させていた。本当に生身の人間とは思えない、不思議な雰囲気を纏っている。
「随分と顔を見なかった気がする。さぁ、こちらへ来い」
静かに微笑み、私に手を差し出す王子。
大人しく言われる通り、近くに歩み寄って手を重ねる。側に来ると、王子は私のベールに手をかけ、それを捲り上げると、じっと私の顔を見下ろした。予期していたにも関わらず、ひやりとして心臓が跳ねてしまう。思わず息を呑んで、王子の目を見上げた。
深い海のように真っ青な目に見つめられると、心の中を読まれてしまいそうで、緊張のあまり顔が強張ってしまう。目を逸らすとやましいことを考えていると疑われるに違いないと思い、じっと見つめ返した。
王子は、少しだけ眉間に皺を寄せ、私の頬に触れた。
「顔色がよくない。体調が優れぬのか」
「大丈夫です。少し、睡眠不足なだけで……」
「何故、よく眠れなかったのだ?」
その質問に、しまったと後悔する。どうしてわざわざ、睡眠不足などと正直に答えてしまったのだ。緊張しすぎてボロが出た。
これでは、何か思い悩んでいたと告白しているようなものじゃないか。
注意深く私の様子を見ている王子に慌てる。
急いで無難な理由を考え口を開く。
「昨晩……窓、を開け放したまま寝てしまって、少し、寒かったせいだと思います」
なんとかそれらしい言い訳をして持ちこたえた。確かに、このところは夜は冷えて、窓をきちんと閉めないと冷気が入ってくる。暖炉の火をつけっぱなしで寝る事は出来ないので、ジョセフィが退室する際、必ず消して行くのだが、私は実際に、その後にいつも少し空気を入れ替えるようにしている。ただ、窓を閉め忘れたというのは、嘘だけれど……
「そうか」
王子はくすりと笑いを零すと、両腕を伸ばし私を抱き寄せた。
当たり前のように、その大きな胸の中に包まれながら、こんなことはあってはならないのだと居たたまれない気持ちで苦しくなる。
つくづく自分は馬鹿だったと嫌になった。
自分が愛する人が誰かわかっていて、他の人に抱きしめられるなど、どこまで愚かなのだろう。
いくら弱っていて、心細かったからと言って、そんなのは言い訳だ。
でも、急に態度を変え逃げる素振りを見せたら、絶対に警戒されてしまう。
それだけは、避けなければならない。
「風邪などひかれては困る。明日には、ティミリへ出発するのだぞ」
明日!?
まだ、二日あると思っていたのに、タイムリミットが明日だと知り、愕然とする。
「明後日じゃなかったのですか」
王子の腕の中で俯いたまま、念のため確認する。
「天候が悪くなる恐れがあるため、予定を早めた」
「……そう、ですか」
平静を装いつつも、心なしか声が震えてしまう。
「おまえに早く、我が国の王都を見せてやりたい。きっと気に入ることだろう」
その王都に行くわけにはいかないのだ!
ラベロアが更に遠くなってしまう!
早く、ここを出る方法を考えなきゃならない。
商人なんかと会っている暇などないのに。
「寒いのか」
緊張と動揺のせいか、手が小刻みに震えてしまっているのを気付かれ、ハッとして首を振った。
「大丈夫です」
震えを止めようと、両手をきつく握りしめ、王子を見上げた。王子は真っ青な目を細め、じっと私の顔を覗き込む。心の中を覗かれそうな気がして、更に緊張が高まり、焦りで頭に血が上ってしまう。
「青ざめたり、赤くなったり、おまえは一体どうしたのだ」
解せないというようにそう呟くルシア王子は、静かに苦笑を零す。挙動不審な私を怪しんではいるようだが、その理由まではまだ気づいていないらしい。落ち着きの無さを隠しきれない自分が情けなくなる。
頭の中は、明日のティミリへの出発をどう回避すべきか、そのことでいっぱいになっていた。王子に警戒されないように、とにかくおとなしくしていようと思っていると、私の耳に、信じられない言葉がかけられる。
「エヴァール最後の今宵、おまえは私と共に過ごすのだ」
驚いて顔をあげると、有無を言わさない強い視線が私を捕らえた。いわんとしていることを察し、ショックの余り、言葉を失う。
「寒さなど感じさせぬよう、一晩中この腕に抱いてやる」
静かで優しい声音だが、断じて口答えは許さないという厳しい響き。何も言えずに固まっている私に口づけを落とすと、ルシア王子はベールを引き下ろした。
呆然としている私の手を取り、ベール越しに微笑みかける。
「セイラ。おまえに約束した通り、今日は、美しい真珠の首飾りを選んでやろう」
頭を金槌で思い切り殴られたような衝撃。
今晩、ずっと王子と一緒にいなければならないとなると、逃げるどころじゃない。妊娠していないことが発覚してしまったからだ。力づくとなれば、どう考えても私が太刀打ち出来る相手ではない。何のためらいもなく人の服を剥ぐルシア王子のことだ。例え泣いてお願いしたところで、はいそうですかと手を離してくれるとは思えなかった。つまり、捕まったら最後、逃れられない。
ルシア王子と一夜を過ごす。
しかも、私にとっては初めての事。
そんなことになったらもう、二度と、カスピアンに合わせる顔なんてない!
状況はさらに切羽詰まって、もう、最悪の事態。
明日、ティミリへの出発を回避するどころか、今晩、どうやって王子の手から逃げるかを考えねばならなくなった。もし、今晩離宮を出る事が出来なかった場合、何か、急な病気になるとか、大怪我するくらいしないと、王子の手から逃れられない。でも、わざと怪我したって、今度は身動きが出来なくなってしまうだけで、根本的な解決には至らず、その場しのぎになってしまう。
真珠なんか呑気に見ている場合じゃない。
くらくらと目眩がしてよろめきかけると、ルシア王子の手が腰に回る。支えられるようにして、なんとか謁見の間まで辿り着く。膝が笑い出すほどの不安と動揺に襲われ、やっとの思いで椅子に腰掛けた。隣に座るルシア王子が、そっと私の肩を抱き寄せたが、もうなされるがまま、抵抗する気力もない。
どうしよう……
誰か、助けて……
ここから逃げる方法なんて、思いつかない……
頭の中でただ、同じことを呟き続ける。
この離宮の中で、頼りになるのは、ルシア王子のお妃シモナの腹心女官、コリンだけ。彼女に助けを求めるとしても、何を協力してもらうかさえ考えつかない。
逃げ出す方法を考えださねば。
諦めてはダメだと、必死で自分に言い聞かせる。
なんとか自分を戒めて、顔を上げた。
目の前には、複数の商人達が跪いており、小箱をいくつか抱えている。海賊の名残なのかは不明だが、揃いも揃って立派な口ひげを生やしている。
南方の島国、マドレアの真珠。
その品質と美しさは間違いなく世界一と、各国の王族や貴族が好んで買い求めると聞いている。カスピアンの母、シルビア様が愛用だったマントにも、沢山のマドレアの真珠が鏤められていたことを思い出す。
商人のボスらしき人が、丁寧に挨拶を述べた後、今回持ち込んだ品物について説明を始めた。粒の色合いや、大きさ、光沢、宝石との相性や、デザインについて、事細かに話してくれていて、こんな切羽詰まった状況でなければ、じっくりと聞きたいくらい面白そうな話ではある。だが、とても、そんな話に集中出来る筈も無く、ベールを被っているのをいいことに、完全に上の空でぼーっと商人達の毛深い顔を眺めていた。
「それでは、ぜひともご覧にいただきましょう」
やっと締めの言葉が耳に入り、我に返る。
全く話を聞いていなかったが、これから真珠を見せられるとなると、無反応でいるわけにはいかない。真珠の首飾りなんて買ってもらうつもりはないが、一体どう断ればいいのかもわからない。断る事でルシア王子を怒らせたりしたら尚更状況は悪くなる。
とにかく、今はちゃんと意識して話を聞かねばと思い、商人達に目のピントを合わせた。
「もっともお薦めしたいのは、幾重にも巻いた真珠層が美しい、純白のものです。ダイヤモンドとの愛称も大変良く、各国の王室のご婦人方が最も好まれるものです。他にも、人気の色合いやデザインのものがございます。今回は特に、光沢が美しいものを揃えました」
商人のボスが自慢げにそう言うと、後方に控えていたその部下らしき人が、いくつかの小箱を左腕に抱え前に出て来る。右手を大きくくるりと回し、まるで戯けたように大げさにお辞儀をした。その特殊な動きに目が止まり、私は目を凝らす。
この、ピエロのようなお辞儀。
深々と頭を下げ、ゆっくりと顔を上げた商人を見つめ、私はあっと叫びそうになった。日焼けした肌にブロンドの髪、いつもはない、若干濃いめの口ひげを生やしたその男は、私が知っている人だ。
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