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九章
鎖から解き放たれて
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心臓が止まったかと思うほど驚く。
見間違うことはない。
ラベロア王国、三等指揮官、アデロス。
私を和ませようと、いつも、滑稽なほど大袈裟なお辞儀をしてみせていた、アデロスがここにいる。
口ひげがすごすぎて、ぱっと見ただけでは誰か分からない。
私が彼に気づいたことを、アデロスは察した様子で、ゆっくりと目を細めて微笑む。
「順番にご覧いただきます」
後方にいる商人のボスがそう言うと、アデロスは黙って、私とルシア王子のほうへと進み出て来た。
目の前に来るアデロスに、一気に血圧が上がってくる。
ルシア王子に気づかれたら最後、アデロスの命はない。
私は絶対に、ここでしくじってはならない。
心臓がドッキンドッキンと激しく打つ。この音が、隣の王子に聞こえやしないかと更に緊張してしまう。
私達の前に置かれた台の上に、いくつか小箱を並べたアデロスは、まだ無言。
彼は、商人のボスの説明に従い、美しい真珠の首飾りが入った箱を開けていく。
一際立派で美しい5連の首飾りの箱を手に取ったアデロスが、ルシア王子にそれを差し出す。王子は、箱を受け取り、首飾りを手に取ってじっくりと眺めている。
アデロスは一体、どうするつもりなのか。
なにかサインがあるはずだ。
それを、見落とす訳にはいかないと、ハラハラしながらアデロスの様子を見守る。
アデロスは、マドレアの国旗がついた箱の蓋を取り、私の目の前にそれを置いた。あたかも、それをきちんと見ろと言わんばかりの視線を私に向ける。私は、蓋に目を落とし、碇がモチーフの国旗を確認した。
そしてアデロスは、箱の中で輝いている、ピンク色の真珠の首飾りを両手に取った。
商人のボスが、後ろで説明をする。
「こちらの色合いは、お若い御婦人方に人気がございます」
その言葉を合図に、アデロスが両手に持った首飾りをこちらに差し出した。その手元を見て、ハッとする。こちらに向けられているアデロスの片手の平には、文字が書かれていた。
全ては誤解です
お戻りください
港の
マドレアの商船で
お待ちします
王子には見えない角度で、こちらに手の平のメッセージを見せているアデロス。
全ては、誤解?
誤解。
驚愕のあまり、その文字から目を離せない。
一気に膨れ上がる後悔、罪の意識に、血の気が引く。
つまり、私がラベロアを去った理由が、誤解であったということだろう。では、サーシャの一件は、またもや、私の早とちりだったということなのだろうか。
思い返してみて、どこをどう取り違えたかは分からない。でも、誤解だったということが事実なら、カスピアンとサーシャの関係は、カスピアンが私に伝えていた以上のものではなかったということになる。
ちゃんと、話を聞きたい。
カスピアンの口から、全てを話してほしい。
あぁ、誤解だったなんて!
それが事実なら、私は、とんでもない過ちを犯してしまったことになる。
どうして、私は彼と向き合わずにそのまま出てきてしまったのだ!
彼を信じることが出来なかった愚かな自分を激しく責める。
居ても立っても居られない焦りを抑えようと、ゆっくり深呼吸した。
その秘密のメッセージを凝視している私の反応を、じっと見つめていたアデロスが、ついに、口を開いた。
「……よろしければ、是非、手に取ってご覧ください」
つまり、書かれたメッセージに対し、私の回答を促しているのだと気づいた。
マドレアの商船に来れるか、という質問。
私にマドレアの国旗を見せたのは、どの商船か見つけられるようにという意図があったのだ。
ぶるぶると震える手で、私はなんとか、その首飾りに手を伸ばした。私がその首飾りを手に取ると、アデロスは目を細め、頷く。彼は、空になった箱から濃紺色のビロードの生地を取り上げて、綺麗に敷き直す。その動作中にさりげなく、掌の文字を拭い取ったのを確認し、私は小さく息を飲み込んだ。
さすがアデロス。
私の手にあるのは、大小様々な淡いピンク色の真珠で編まれた、とても可愛らしい首飾り。
「気に入ったのはあったか」
隣のルシア王子に声をかけられ、ドキンと心臓が跳ねる。
私は、慎重に息を吸い込むと、その首飾りを箱の中へそっと置いた。
「……マドレアの真珠は、本当に美しいものばかりですね」
「こちらなどはどうだ」
王子の手には、純白の真珠とダイヤモンドが交互に繋げられた3連の美しい首飾り。
私の首に掛けてみて、確かめるようにじっとこちらを見つめるルシア王子。
「あの……出来たら、もっと時間をかけて、よく見てから……また、次の機会に……」
「次の機会?」
「私、首飾りなど、自分で選んだ事がないので……そう簡単には」
こんな高価なものを買わせるわけにはいかない。
なんとか断ろうと言葉を連ねていると、アデロスがにっこりと微笑んだ。
「殿下、よろしければ、姫君に相応しいものを、一からお作りするというのはいかがでしょうか。ご希望の色、大きさ、デザインや合わせる宝石などご連絡いただければ、ぴったりのものをお作りします」
うまい助け舟を出してくれたものだ、とホッとする。ルシア王子は少し考えるような様子を見せたが、その提案は悪くないと思ったのか、全ての品物を片付けさせた。商人達が去る時、もう、アデロスがこちらを見る事はなかった。
確かな希望が見えてくると、心なしか体に力が戻ってくる気がした。
神様は、愚かな私を見放さなかった。
マドレアの商船に行けば、アデロスが居る。
きっと、ラベロアへ戻れる手段がそこにあるのだ。
カスピアンが、すべて手配してくれたのだろう。
彼はまだ、私を信じてくれている。
その期待を裏切ることなんて、絶対に出来ない。
王宮をしばらく離れるだけのつもりが、何故か再びエティグスに来てしまったがために、こんなややこしいことになってしまった。私の詰めの甘さが災いしているのは紛れも無い事実。よく考えもせず行動を起こすから、行き当たりばったりで思わぬ方向に物事が進んでしまったのだ。
なんとしても、港に行かねばならない。
きっと、私なら、自力で商船まで来れると見込んでの策なのだろう。
表立ってエティグスに接近しないのは、前回のように戦に繋がるような大事にならぬ方法を考えてくれたからなのだと気づき、胸が熱くなる。
さっきまで真っ白になっていた頭をフル回転させるべく、まず、冷静さを取り戻す事に専念することにした。
その後、明日の出立の準備の関係で、ルシア王子が姿を消した。
今こそチャンス、この機に離宮を抜け出せればと思ったが、近くにずっとジョセフィや他の女官もいるし、気のせいか、いつもより警備も厳しい気がした。
落ち着き無く部屋をうろうろしていると、部屋の片付けをしているジョセフィが声をかける。
「お散歩でも行かれますか?」
「散歩……?」
「中庭くらいなら大丈夫ですよ」
しかし、離宮に囲われた中庭をうろついたところで、何の特にもならない。
私は離宮の外、港に行かなくてはならないのだ。
港で、アデロスが待っている。
いつまで商船が停泊しているのかもわからない。
ともかく、一刻も早く港に向かわなくてはならないのだ。
「港……」
つい、ぽろりと口にしてしまう。
「港、がどうされましたか」
しっかり耳にしたらしいジョセフィに聞かれ、しまったと口を押さえる。
何か、それらしき理由をつけて、港に行けないだろうか。
私は港で視察に向かった時のことを思い返した。
歩き回ったところを順番に思い出している時、港の側にあった、あの、焼き菓子店を思い出す。雪の玉、という期間限定のお菓子を売っていたあの店は、港に面しており、いくつもの船が停泊しているのが見えた。
あの店に行きたいと言えば、出かけられるだろうか。
思いついた途端、考え込む時間など無駄だと思い、すぐにジョセフィに訊ねた。
「港の視察の時に寄った、焼き菓子のお店に行きたいの」
「焼き菓子店ですか?」
「期間限定のお菓子を売っていて……エヴァールを離れたら、もう、行けないし、一度、厨房も見せてもらって、今度自分で作れたらいいなって思って」
離宮でも、王子の許可をもらって厨房に出入りしていた私。料理やお菓子作りが大好きなのは、皆が知っているため、私が口にした願望が不自然とは思わなかったようだ。
ジョセフィは少し考え込んでいたが、やがて困ったように笑う。
「お気持ちは分かりますが、明日、王都へ出立する関係で、今日、王子は離宮を離れるお時間はないでしょう」
だったら尚更、こちらにとっては都合がいい。
360度周りが見えていそうな王子がいないほうが、断然動きやすい。
「王子はついてこなくても、ジョセフィや護衛が一緒に来てくれたら、十分じゃないの?」
注意深く提案してみると、ジョセフィは首を振った。
「セイラ様。今日は、御夕食の時間からは王子とご一緒にお過ごしになる予定ですので、外出は控えられた方がよろしいです。出先で何かあっては困りますから」
痛いところを突かれたが、その、夕方からの時間にはここにいるわけにはいかないのだ。
そうこうしているうちに、もう、午後になっていて、のんびり話し合いをしている場合じゃないと焦る。
「じゃぁ、自分で王子にお願いしてくる」
私はこうなったら、自分で外出許可を取るしか無いと悟り、困惑気味のジョセフィを従え、部屋を出た。時間が無くなればさらに外出の許可が下りる可能性は低くなってしまう。
一体どこに王子がいるのかと、離宮内を探す。女官や臣下に訊ねて、ようやく、会議室にいることを教えてもらい、急いでそちらへと向かう。
護衛の守る扉を開けてもらうと、複数の臣下とテーブルを囲んでいるルシア王子が居た。突然現れた私に驚いたのか、珍しく目を見開いてこちらを見ている。
きちんとお辞儀をした後、まず、失礼を詫びた。
「会議中、申し訳ございません」
さっさと言いたい事を口にしたい衝動をぐっと押さえ、じっとルシア王子を見つめる。
「お話したいことがあるのですが、今、少しよろしいでしょうか」
ルシア王子は淡い微笑みを浮かべると、立ち上がってこちらへやってきた。扉のところに来ると、私の頬に手を触れて、顔を覗き込む。
「どうしたのだ。おまえが私を探すとは、ただ事ではないな」
怪しまれているらしいと気づいたが、そんな細かいことを恐れている場合ではない。
「この間見せていただいた、あの焼き菓子店に行きたいんです」
唐突な私のお願いごとに、ルシア王子が瞬きをした。
「明日、ここを離れてしまうなら、今日しか時間はないんですよね。あのお菓子の作り方、やっぱり見せてもらいたいと思って……自分でも、是非、作ってみたいものなんです」
それは偽りではないため、つっかえることもなく、しっかりと理由を述べる。
私の熱意は伝わっているのか、ルシア王子が困ったように眉をひそめた。
「今日はもう、おまえを外に出すつもりはない。また、エヴァールに連れて来てやるから、その時にしろ」
その言葉にがっかりするが、ここで諦めてはならないと自分を奮い立てる。
「でも、冬のお菓子で、今しか作ってないって……長居はしませんから、少しだけでも、見に行かせていただきたいんです」
焼き菓子店に長居するつもりは毛頭ない。隙を見て、アデロスの乗っているはずのマドレアの商船を探しに港を回るつもりだ。
もし外出許可がもらえなかったら、自力で脱走するしかなくなる。でも、かろうじて離宮を出たとしても、地理感はないし、例え港への方角がわかったとしても、距離があることを考えれば、途中で捕まってしまう確率が高いだろう。
例え警備に囲まれてでもいいから、まず、港まで出たい。
祈るような気持ちで、ルシア王子を見つめた。
こういった嘘を言って王子を騙すことが心苦しかった。
この人は悪い人じゃないし、本当にいろいろと気遣ってくれたり、優しくしてくれた。きっと、私を何かに利用しようとか、その裏も絶対あるだろうが、少なくとも、そこにいくらかの気持ちがあったのは、確かなんだろうと理解していた。それだけに、いろいろ世話してもらった挙げ句、騙すようにして逃げ出すことは、恩を仇で返すような気がしてしまう。でも、私はラベロアに戻らなくてはならないのだ。私が一緒に生きていきたい人は、あの人だから。
ルシア王子に、正直に話したところで、すんなり送り出してくれないのは分かりきっている。だから、こうして嘘をつくしか方法はない。
しばらく黙って私を見下ろしていたルシア王子が、ひとつ、深いため息を零し、苦笑しながら私を抱きしめた。
「おまえには敵わぬ。道草を食わずに戻ると約束出来るか」
その言葉に、鎖から解き放たれたような気がした。
道草を食わずに戻れるか。
その質問に、私は、はい、と答えることが出来ず、代わりに、笑顔でお礼を口にした。
「ありがとう、ルシア……」
そして、本当に、ごめんなさい。
心の中でそう謝罪した。
見間違うことはない。
ラベロア王国、三等指揮官、アデロス。
私を和ませようと、いつも、滑稽なほど大袈裟なお辞儀をしてみせていた、アデロスがここにいる。
口ひげがすごすぎて、ぱっと見ただけでは誰か分からない。
私が彼に気づいたことを、アデロスは察した様子で、ゆっくりと目を細めて微笑む。
「順番にご覧いただきます」
後方にいる商人のボスがそう言うと、アデロスは黙って、私とルシア王子のほうへと進み出て来た。
目の前に来るアデロスに、一気に血圧が上がってくる。
ルシア王子に気づかれたら最後、アデロスの命はない。
私は絶対に、ここでしくじってはならない。
心臓がドッキンドッキンと激しく打つ。この音が、隣の王子に聞こえやしないかと更に緊張してしまう。
私達の前に置かれた台の上に、いくつか小箱を並べたアデロスは、まだ無言。
彼は、商人のボスの説明に従い、美しい真珠の首飾りが入った箱を開けていく。
一際立派で美しい5連の首飾りの箱を手に取ったアデロスが、ルシア王子にそれを差し出す。王子は、箱を受け取り、首飾りを手に取ってじっくりと眺めている。
アデロスは一体、どうするつもりなのか。
なにかサインがあるはずだ。
それを、見落とす訳にはいかないと、ハラハラしながらアデロスの様子を見守る。
アデロスは、マドレアの国旗がついた箱の蓋を取り、私の目の前にそれを置いた。あたかも、それをきちんと見ろと言わんばかりの視線を私に向ける。私は、蓋に目を落とし、碇がモチーフの国旗を確認した。
そしてアデロスは、箱の中で輝いている、ピンク色の真珠の首飾りを両手に取った。
商人のボスが、後ろで説明をする。
「こちらの色合いは、お若い御婦人方に人気がございます」
その言葉を合図に、アデロスが両手に持った首飾りをこちらに差し出した。その手元を見て、ハッとする。こちらに向けられているアデロスの片手の平には、文字が書かれていた。
全ては誤解です
お戻りください
港の
マドレアの商船で
お待ちします
王子には見えない角度で、こちらに手の平のメッセージを見せているアデロス。
全ては、誤解?
誤解。
驚愕のあまり、その文字から目を離せない。
一気に膨れ上がる後悔、罪の意識に、血の気が引く。
つまり、私がラベロアを去った理由が、誤解であったということだろう。では、サーシャの一件は、またもや、私の早とちりだったということなのだろうか。
思い返してみて、どこをどう取り違えたかは分からない。でも、誤解だったということが事実なら、カスピアンとサーシャの関係は、カスピアンが私に伝えていた以上のものではなかったということになる。
ちゃんと、話を聞きたい。
カスピアンの口から、全てを話してほしい。
あぁ、誤解だったなんて!
それが事実なら、私は、とんでもない過ちを犯してしまったことになる。
どうして、私は彼と向き合わずにそのまま出てきてしまったのだ!
彼を信じることが出来なかった愚かな自分を激しく責める。
居ても立っても居られない焦りを抑えようと、ゆっくり深呼吸した。
その秘密のメッセージを凝視している私の反応を、じっと見つめていたアデロスが、ついに、口を開いた。
「……よろしければ、是非、手に取ってご覧ください」
つまり、書かれたメッセージに対し、私の回答を促しているのだと気づいた。
マドレアの商船に来れるか、という質問。
私にマドレアの国旗を見せたのは、どの商船か見つけられるようにという意図があったのだ。
ぶるぶると震える手で、私はなんとか、その首飾りに手を伸ばした。私がその首飾りを手に取ると、アデロスは目を細め、頷く。彼は、空になった箱から濃紺色のビロードの生地を取り上げて、綺麗に敷き直す。その動作中にさりげなく、掌の文字を拭い取ったのを確認し、私は小さく息を飲み込んだ。
さすがアデロス。
私の手にあるのは、大小様々な淡いピンク色の真珠で編まれた、とても可愛らしい首飾り。
「気に入ったのはあったか」
隣のルシア王子に声をかけられ、ドキンと心臓が跳ねる。
私は、慎重に息を吸い込むと、その首飾りを箱の中へそっと置いた。
「……マドレアの真珠は、本当に美しいものばかりですね」
「こちらなどはどうだ」
王子の手には、純白の真珠とダイヤモンドが交互に繋げられた3連の美しい首飾り。
私の首に掛けてみて、確かめるようにじっとこちらを見つめるルシア王子。
「あの……出来たら、もっと時間をかけて、よく見てから……また、次の機会に……」
「次の機会?」
「私、首飾りなど、自分で選んだ事がないので……そう簡単には」
こんな高価なものを買わせるわけにはいかない。
なんとか断ろうと言葉を連ねていると、アデロスがにっこりと微笑んだ。
「殿下、よろしければ、姫君に相応しいものを、一からお作りするというのはいかがでしょうか。ご希望の色、大きさ、デザインや合わせる宝石などご連絡いただければ、ぴったりのものをお作りします」
うまい助け舟を出してくれたものだ、とホッとする。ルシア王子は少し考えるような様子を見せたが、その提案は悪くないと思ったのか、全ての品物を片付けさせた。商人達が去る時、もう、アデロスがこちらを見る事はなかった。
確かな希望が見えてくると、心なしか体に力が戻ってくる気がした。
神様は、愚かな私を見放さなかった。
マドレアの商船に行けば、アデロスが居る。
きっと、ラベロアへ戻れる手段がそこにあるのだ。
カスピアンが、すべて手配してくれたのだろう。
彼はまだ、私を信じてくれている。
その期待を裏切ることなんて、絶対に出来ない。
王宮をしばらく離れるだけのつもりが、何故か再びエティグスに来てしまったがために、こんなややこしいことになってしまった。私の詰めの甘さが災いしているのは紛れも無い事実。よく考えもせず行動を起こすから、行き当たりばったりで思わぬ方向に物事が進んでしまったのだ。
なんとしても、港に行かねばならない。
きっと、私なら、自力で商船まで来れると見込んでの策なのだろう。
表立ってエティグスに接近しないのは、前回のように戦に繋がるような大事にならぬ方法を考えてくれたからなのだと気づき、胸が熱くなる。
さっきまで真っ白になっていた頭をフル回転させるべく、まず、冷静さを取り戻す事に専念することにした。
その後、明日の出立の準備の関係で、ルシア王子が姿を消した。
今こそチャンス、この機に離宮を抜け出せればと思ったが、近くにずっとジョセフィや他の女官もいるし、気のせいか、いつもより警備も厳しい気がした。
落ち着き無く部屋をうろうろしていると、部屋の片付けをしているジョセフィが声をかける。
「お散歩でも行かれますか?」
「散歩……?」
「中庭くらいなら大丈夫ですよ」
しかし、離宮に囲われた中庭をうろついたところで、何の特にもならない。
私は離宮の外、港に行かなくてはならないのだ。
港で、アデロスが待っている。
いつまで商船が停泊しているのかもわからない。
ともかく、一刻も早く港に向かわなくてはならないのだ。
「港……」
つい、ぽろりと口にしてしまう。
「港、がどうされましたか」
しっかり耳にしたらしいジョセフィに聞かれ、しまったと口を押さえる。
何か、それらしき理由をつけて、港に行けないだろうか。
私は港で視察に向かった時のことを思い返した。
歩き回ったところを順番に思い出している時、港の側にあった、あの、焼き菓子店を思い出す。雪の玉、という期間限定のお菓子を売っていたあの店は、港に面しており、いくつもの船が停泊しているのが見えた。
あの店に行きたいと言えば、出かけられるだろうか。
思いついた途端、考え込む時間など無駄だと思い、すぐにジョセフィに訊ねた。
「港の視察の時に寄った、焼き菓子のお店に行きたいの」
「焼き菓子店ですか?」
「期間限定のお菓子を売っていて……エヴァールを離れたら、もう、行けないし、一度、厨房も見せてもらって、今度自分で作れたらいいなって思って」
離宮でも、王子の許可をもらって厨房に出入りしていた私。料理やお菓子作りが大好きなのは、皆が知っているため、私が口にした願望が不自然とは思わなかったようだ。
ジョセフィは少し考え込んでいたが、やがて困ったように笑う。
「お気持ちは分かりますが、明日、王都へ出立する関係で、今日、王子は離宮を離れるお時間はないでしょう」
だったら尚更、こちらにとっては都合がいい。
360度周りが見えていそうな王子がいないほうが、断然動きやすい。
「王子はついてこなくても、ジョセフィや護衛が一緒に来てくれたら、十分じゃないの?」
注意深く提案してみると、ジョセフィは首を振った。
「セイラ様。今日は、御夕食の時間からは王子とご一緒にお過ごしになる予定ですので、外出は控えられた方がよろしいです。出先で何かあっては困りますから」
痛いところを突かれたが、その、夕方からの時間にはここにいるわけにはいかないのだ。
そうこうしているうちに、もう、午後になっていて、のんびり話し合いをしている場合じゃないと焦る。
「じゃぁ、自分で王子にお願いしてくる」
私はこうなったら、自分で外出許可を取るしか無いと悟り、困惑気味のジョセフィを従え、部屋を出た。時間が無くなればさらに外出の許可が下りる可能性は低くなってしまう。
一体どこに王子がいるのかと、離宮内を探す。女官や臣下に訊ねて、ようやく、会議室にいることを教えてもらい、急いでそちらへと向かう。
護衛の守る扉を開けてもらうと、複数の臣下とテーブルを囲んでいるルシア王子が居た。突然現れた私に驚いたのか、珍しく目を見開いてこちらを見ている。
きちんとお辞儀をした後、まず、失礼を詫びた。
「会議中、申し訳ございません」
さっさと言いたい事を口にしたい衝動をぐっと押さえ、じっとルシア王子を見つめる。
「お話したいことがあるのですが、今、少しよろしいでしょうか」
ルシア王子は淡い微笑みを浮かべると、立ち上がってこちらへやってきた。扉のところに来ると、私の頬に手を触れて、顔を覗き込む。
「どうしたのだ。おまえが私を探すとは、ただ事ではないな」
怪しまれているらしいと気づいたが、そんな細かいことを恐れている場合ではない。
「この間見せていただいた、あの焼き菓子店に行きたいんです」
唐突な私のお願いごとに、ルシア王子が瞬きをした。
「明日、ここを離れてしまうなら、今日しか時間はないんですよね。あのお菓子の作り方、やっぱり見せてもらいたいと思って……自分でも、是非、作ってみたいものなんです」
それは偽りではないため、つっかえることもなく、しっかりと理由を述べる。
私の熱意は伝わっているのか、ルシア王子が困ったように眉をひそめた。
「今日はもう、おまえを外に出すつもりはない。また、エヴァールに連れて来てやるから、その時にしろ」
その言葉にがっかりするが、ここで諦めてはならないと自分を奮い立てる。
「でも、冬のお菓子で、今しか作ってないって……長居はしませんから、少しだけでも、見に行かせていただきたいんです」
焼き菓子店に長居するつもりは毛頭ない。隙を見て、アデロスの乗っているはずのマドレアの商船を探しに港を回るつもりだ。
もし外出許可がもらえなかったら、自力で脱走するしかなくなる。でも、かろうじて離宮を出たとしても、地理感はないし、例え港への方角がわかったとしても、距離があることを考えれば、途中で捕まってしまう確率が高いだろう。
例え警備に囲まれてでもいいから、まず、港まで出たい。
祈るような気持ちで、ルシア王子を見つめた。
こういった嘘を言って王子を騙すことが心苦しかった。
この人は悪い人じゃないし、本当にいろいろと気遣ってくれたり、優しくしてくれた。きっと、私を何かに利用しようとか、その裏も絶対あるだろうが、少なくとも、そこにいくらかの気持ちがあったのは、確かなんだろうと理解していた。それだけに、いろいろ世話してもらった挙げ句、騙すようにして逃げ出すことは、恩を仇で返すような気がしてしまう。でも、私はラベロアに戻らなくてはならないのだ。私が一緒に生きていきたい人は、あの人だから。
ルシア王子に、正直に話したところで、すんなり送り出してくれないのは分かりきっている。だから、こうして嘘をつくしか方法はない。
しばらく黙って私を見下ろしていたルシア王子が、ひとつ、深いため息を零し、苦笑しながら私を抱きしめた。
「おまえには敵わぬ。道草を食わずに戻ると約束出来るか」
その言葉に、鎖から解き放たれたような気がした。
道草を食わずに戻れるか。
その質問に、私は、はい、と答えることが出来ず、代わりに、笑顔でお礼を口にした。
「ありがとう、ルシア……」
そして、本当に、ごめんなさい。
心の中でそう謝罪した。
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