10月2日、8時15分の遭遇(前編)

ライヒェル

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最後の一週間

自由の翼

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私は閉じていた目を開き、左頬を彼の胸に押し付けたままゆっくりと頷いた。
こんな状況にありながら、先ほどの緊張は全て消え失せ、信じられない程に心は落ち着きを取り戻している。そしてもう、涙も止まっていた。
「やっと謎が解けて、俺はその答えを見つけたんだ」
その言葉に私は顔を挙げて彼を見た。
廊下から漏れてくる灯りで照らされたヴィクターの顔。その穏やかな微笑みに、心がふわりと浮いて、この世に怖いものなど存在しないような気持ちになる。
「……私も、わかったことがあるよ」
考える前に出て来た言葉に後から気がつく。
彼は探るような目で私を見つめて、それから小さく溜め息をついた。
「俺はずっと、存在しない鎖で自分を束縛していたって、やっと気がついた」
「束縛って?」
聞き返すとヴィクターは窓の向こうを見て、どこか懐かしげに目を細める。
「俺の両親は早くに離婚して、父方の祖母が幼い俺を育ててくれたんだ」
「……え」
思いもよらない生い立ちの話にショックを受け、私は言葉を失う。ヴォクターは落ち込み気味の私に気がついて、クスッと笑った。
「その祖母が亡くなる時に、俺に最後の願いがあるって言ってさ」
「最後の、願い?」
「そう。熱い血を持つ子を選べ、おまえを幸福に導くから、って」
熱い血とは一体どういう意味なのだろう。
もしかすると、ヴィクターがラテン系の女性としか付き合わないという話は、これが関係しているのだろうか。
「熱い血、とは祖母のルーツの、ラテン系の血筋を意味するんだとずっと思っていたんだ。でもそれは、なんの根拠もない、俺の思い込み」
彼は私の髪をゆっくりと撫でて、独り言のように呟いた。
「国籍なんて、パスポートに書かれた、ただの文字だっていうのに」
そう言って、彼は私の背中から手を離すと、後ろのコーヒーテーブルに置かれたバゲットを手に取って私を振り返り、可笑しそうに微笑む。
「リオ、君にバゲットを投げつけられたのは、これで二回目。今回は避けずにキャッチ出来たけどね」
「……一回目は、クリスティアンを狙ったんだよ」
少し恥ずかしく思いながらそう答えると、ヴィクターはそのバゲットをまたコーヒーテーブルに置き、その隣に腰掛けた。
洗いざらしの前髪の向こうに強く輝く目。その光に捕われて、私は彼をまっすぐに見つめる。そして私はブーケを抱いたまま、無意識のうちに彼のほうへ、一歩ずつ、近づいていた。
「リオ」
目の前に来た私に両手を伸ばしたヴィクター。
私の背を優しく抱き寄せて、彼は眩しそうに私の目を見つめた。
「君と離れたくないんだ」
胸がドキンと強く弾み、私は大きく目を見開いて彼を見下ろした。
瞬きもせずにまっすぐに私を見上げている彼の綺麗な目に、私の心の全てが引き込まれて行く。
このまま、永遠に彼の世界の中で生きて行きたいと、強くはっきりとした意思が私を突き動かす。
「ヴィクター」
押さえきれない程に高揚する気持ちで、心なしか声が震えている気がした。
手を伸ばし、そっと彼の頬に触れる。その温かさで彼が幻でないことを確認した。
「……ずっと、私の側にいて」
何を言うかなんて考える必要もなかった。魂の中に生まれた熱い気持ちは、そのまま言葉となって紡がれる。
ヴィクターが何度か瞬きをして、とても幸せそうに微笑むと、ゆっくり立ち上がった。そして、身を屈めて私の耳に唇を寄せる。私の耳に、彼の低く優しい声が響いてきた。
「誰かを好きだという気持ちと、この感情は全く違うものだと気づいたんだ。君を想うだけで胸が熱くなる。そばに居るだけで身が燃えるようだ。この気持ちは、好きなんて単純なものじゃない」
それはまさに私が気がついたばかりのことだ。これまでその意味さえ理解出来なかった、この、熱く燃えるような気持ち。
とてつもない秘密を打ち明けるような、彼の甘い囁きが聞こえた。
「愛してる、リオ」
耳のピアスが揺れた。
魂に翼を得て、瞬く間に天空へ舞い上がっていくような開放感。
心の赴くまま自由に大空を飛ぶ。
これまで私の前に立ちはだかっていた壁が消滅し、視界が開けた。そして今、別世界へ足を踏み入れたことを知る。
「ヴィクター」
私は彼の耳に頬を寄せて、やっと見つけたかけがえのない気持ちを言葉にした。
「私も、愛してる」
ついに自分の口から出たその言葉に、感動で胸がいっぱいになる。
顔を挙げると、彼の目とぴたりと視線が重なり、私達は同時に微笑んだ。
お互いの気持ちが歩み寄って、完全にひとつになると、それは私達二人だけが共有出来るものになった。
ヴィクターが身を屈め、あの時のように私を横抱きに抱えあげて、リビングを出る。廊下を通り、ドアがわずかに開いたベッドルームの入り口で立ち止ると、彼は私を見下ろした。私が手を伸ばしてそのドアに触れると、僅かにきしむ音と共にゆっくりと開かれた。
窓際のサイドテーブルの小さなランプだけが灯る、静寂の空間。
ベッドの前まで来ると、彼は私をそっと下ろした。私はブーケをサイドテーブルに置くと、両手を伸ばして彼の背中を抱きしめた。
優しい微笑みを浮かべた愛しい人を見上げる。
強い輝きを放つ青い目が近付いて、唇が重なる時、私は目を閉じた。
まるで押し寄せる熱波に飲み込まれるように、彼の世界に意識のすべてが入って行く。
広大な砂漠を彷徨っていた旅人が、やっとオアシスに辿り着き、煌めく命の水を飲み干すような口づけだった。
やがて唇が離れ、乱れた呼吸を繰り返しながらお互いの目を見つめ合う。
熱に浮かされ濡れたようにしっとりと光る彼の目に、心を奪われる。
もっと、彼のすべてが欲しい。
燃えるような気持ちに煽られて、彼の背中をきつく抱きしめると、ヴィクターがゆっくりと身を傾け私をベッドに倒した。
「リオ」
心の奥底まで届くその優しい声。
間違いなく、彼だ。
私が探していた人に、やっと巡り会えた。




パタパタ、パタパタ、と窓に叩き付ける雨音に、ふと目を覚ます。
外はまだ、夜明け前だ。
薄暗いベッドルームの天井が目に入って、それから私は自分の隣に目を向ける。
片腕で私の背を抱いたまま、横向きになって眠っているヴィクターの寝顔。
初めて見る、彼の寝顔だ。
いや、正確には二回目。
最初に見たのは、死体と勘違いした時だった。
もともとのベビーフェイスが、更に幼く少年のように可愛く見えて、私は1人、くすっと笑いをこぼす。
彼の体に手を伸ばして、そっと抱きつく。その胸に耳をあてて目を閉じると、温かい肌の向こうで鼓動する心臓の音が聞こえた。
私の心臓のリズムと同調して、まるで子守唄のように心地よく耳に響いてくる。
少しずつまた睡魔が襲って来て、なにかとても幸せな夢を見ているような、不思議な時間が過ぎて行く。
突然、iPadのアラーム音が響いて、はっと目を覚ました。
身を起こして、サイドテーブルに置いてあったiPadを取るとアラームを消す。
そうだ。
今日は、帰国の日……
東京へ帰る飛行機に乗る日だ。
「うーん……」
後ろで眠そうな声が聞こえて、ドキンとして振り返ると、ヴィクターが欠伸をしながら両手を頭の後ろへ伸ばしていた。
「ヴィクター?」
「うん?」
まだ眠そうに目をこすりながら返事をする彼が、あまりにも愛しくて、私は何を言おうとしたのかを忘れて微笑んでしまう。
やっと目を開けたヴィクターが私を見て、少し照れたように微笑んだ。
「おはよう」
「おはよう……」
急に照れてつい、声が小さくなる。
「リオ、こっちに来て」
差し伸べられた手を取って、私はもう一度、彼の腕の中に身を寄せた。温かくて大きいその胸の中にぎゅっと抱きしめられると、もう身動きしたくなくなるほど満ち足りた気持ちになる。
ヴィクターが温かい手で私の背骨をゆっくりと撫でていく。
「よく、眠れた?」
「私はよく眠れたよ。貴方は?」
顔をあげて聞くと、ヴィクターが青い目を煌めかせて笑う。
「俺も、ぐっすり。あんな凄い夜は初めてだったし」
その言葉に思わず赤面する。
それを言うなら、こっちだって同じだ。
確かに、私だって全く経験したことのない激しい夜だった。
恥ずかしさはあったけれど、だからと言ってどこかに逃げて隠れたいというわけじゃない。
でも、何も言えなくて、ぎゅっと彼に抱きついてその胸に顔を押し付けると、彼は優しい手つきで私の髪を梳いて、額にキスをした。
「リオ、照れてるの」
からかうような楽しそうな声が聞こえたので、黙って頷く。
「俺を見て」
耳元で聞こえる優しい声に顔を上げると、穏やかに微笑む彼の輝く目があった。
「一生、忘れない。昨晩のリオ」
ドキリとして一度瞬きをする。
優しく輝く青い目が近付いて、彼は私の頬にキスをした。
「愛してる、リオ」
魔法のように私の世界を一瞬で輝かせる彼の囁き。
「愛してる、ヴィクター」
迷いなんて微塵もない気持ちを伝える唯一の言葉が、自然と口から出てくる。
目が合うと、引き寄せられるようにキスをした。昨晩の余韻を思い出す熱い唇が離れて、私は幸せに満たされた溜息をつく。
その時、また、iPadのアラームが鳴り始めて、はっと現実に戻り、急いでベッドの上にあったそれを手に取る。
「私、行く準備、しないと……」
iPadのアラームのリピート機能を止めて、そう言うと、ヴィクターが私の手からiPadを取りあげた。
「今日はまだ、帰国はしないで」
「え……」
「3日後のフライトを俺が今探すから」
驚いている私に笑いかけて、ヴィクターはネットを立ち上げて、フライト検索を始める。
何を言えばいいのか思いつかず、ただ呆然と彼を眺める。
「空いてる。3日後の、ヘルシンキ経由成田行き」
「でも、仕事の休みも……」
「俺も休み取るから、君も会社に連絡して仕事は休んで」
「それは、かなり、無茶苦茶な気がするけど……」
「わかってる。俺も昨晩は夜シフトで、朝の4時上がりのはずだったけど、途中で仕事、無理矢理他のやつに押し付けて出て来た」
そう言えば彼は、昨晩は8時半くらいにここへ来ていた。
ということは、出勤してまもなく、誰かに無理言ってシフトを代わってもらって出て来たのか。
「パスポート、ある?」
「う、うん」
私はフロアに置いてあったバッグから、パスポートを取り出して彼に渡した。
これで、いいんだろうか。
気持ちは当然ながら、まだ、ここを離れたくない。大人気ないけれど、正直、帰国なんて忘れたいくらいだ。
だから、この突拍子もない予定変更に反論することが出来なかった。
「予約、完了。今日中に発券されるから」
あっという間に予約まで済ませてしまったヴィクターが、iPadをサイドテーブルに置いた。
「ありがとう、でも、私、それでも、空港には行かないといけないんだよね……」
「知ってる。アナマリーから聞いた」
「そうなの?」
二人が仲がいいのは知っていたが、ここまで筒抜けだとちょっと拍子抜けする。
「俺も一緒に行く」
「えっ」
「一度下に行って、着替えて来る」
彼はそう言うと、フロアに脱ぎ捨ててあった服に手を伸ばした。
空港で拓海に会う時に、私が出した答えを伝えなければならない。
それは、確かに容易なことではないけれど、はっきりとしなければならないことだ。
私にとってとても辛い挑戦になると知っている彼は、私1人でそれに立ち向かわせたくないと考えてくれたのだろう。
立ち上がって黒いシャツを羽織り、袖に腕を通しながらこちらを振り向いたヴィクター。
ベビーフェイスに不釣り合いと思えるくらい強健なその体つきにドキリとして、その動揺を隠すべく、私は慌ててサイドテーブルの鍵に手を伸ばした。
「ヴィクター、アパートの鍵、持って行って」
「ありがとう」
シャツのボタンを片手で留めながら鍵を受け取ると、彼は身を屈めてひとつキスを落とし、足早に部屋を出て行った。
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