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3章.妹君と少年伯は通じ合う

76.料理人はその身を変えた①

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 ザシャは跳んだ。

 いや、飛んだとも言える。

 彼の身体は地上から遥か上空、森の一番高い木よりも高く高く跳んでいた。

(やつらは『谷落とし』を持ってる……本格的に使われる前にあいつを助ける!)

 アンゼルムには時間稼ぎなどと言ったが、ザシャは助けるつもりだった。

 幌馬車から強烈な甘い香りが漂ってくる。

 時間稼ぎで幌馬車の近くでやり合うのだけは勘弁してもらいたかった。

(アレにあてられるのは……ヤバイ)

 ゾッとするほど魅惑的な香りの中に突入するように落下する。

「これでいいだろ」

 リーゼロッテが縄できつく縛られ、苦痛に顔を歪めているのが見える。

 ぷつん、と何かが切れる音がした。

「よし、女を乗せ」

 男は言葉を言い切る前に昏倒した。

 ザシャが落下しながら男の頭に踵落としを食らわせたからだ。

「な……テメェ何者だ!?」

「何があった!」

 男達が騒ぎ出す前にザシャは彼女を抱えて走り出す。

「ザシャさん!」

 猿轡を解いてもらったリーゼロッテは彼の名を呼んだが、微かに視線を向けられただけだ。

 顔半分を覆う布で遮られて彼がどんな表情をしているのかわからない。

 ただひとつ、彼が切羽詰まっているのだけは歪んだ眉の形から分かった。

(くそっ……少し肺に入った……)

 呼吸を控えても、嫌に甘ったるい匂いが胸に広がる。

 全力疾走してるはずだが、どうにも足がもつれる。

 甘い香りをもっと吸い込みたい。感じたい──引き返せ。

 そんな衝動が抑えきれない。

(……こいつだけでも手一杯ってのに……っ)

 一瞬だけ彼女を盗み見る。

 彼を心配そうに上目遣いで見つめる視線とかち合う。

 不安で揺れる瞳が悩ましく映り、ザシャは慌てて前を向いた。

(そんな目で見つめんな。……やめてくれ)

 声に出せば甘い匂いを吸ってしまう。

 声の代わりに顔をしかめると、リーゼロッテは怯えたように俯いてしまった。

「逃すな!」

 背後から男達の檄が飛ぶ。

 まだだいぶ距離はあるが、男達と一緒に甘ったるい匂いもついてきているような気がして、ザシャは身体が徐々に重くなってくるのを感じた。

 もはや頭に匂いが侵食し、思考が止まりそうになってきている。

 まともに走るのも難しい。

(このままだと……街道に出る前に追いつかれる……せめてこいつだけでも)

 ザシャはリーゼロッテを抱く腕に力を込めると、木陰に身を潜めた。

「ザシャさん、大丈夫ですか」

 何度も深く息をつく。

 それでも治まる気配のない呼吸に、彼女は眉尻を下げた。

「俺のことは、いい……あんた、縄無けりゃ走れるか……?」

「は、はい。ですが……」

「ならいい」

 答えながら縄に手をかけるが、しっかりと結ばれていて簡単に解ける気がしなかった。

(しかない、か)

 戸惑う彼女の顔をまじまじと見つめる。

 艶やかな黒髪を解くように指先が触れた。

 そのままのその手を、彼女の瞳を覆うように被せた。

「ザシャさん……?」

「……これから何があっても、何を見ても驚くな。縄が解けたら走れ。振り返るな」

 彼は腹を括ったように囁く。

 その硬く重い声色に、リーゼロッテの唇は何かを言おうとして閉じられた。

(これが最期の別れなら、できることならこいつには笑ってて欲しかった……)

 ザシャは自嘲すると、悲しさを紛らわせるように目を閉じた。
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