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第一幕 壱
静かな山村、仁淀川町
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チリーン、とどこからともなく鈴の音が聞こえて来る。
真っ白な空間の中に横になっていた私は目を覚まし、ゆっくりと体を引き起こした。
……何なの、この空間。
初めて見るその光景はまさに「無」のように感じた。でも何故だろう。ちっとも怖くない。
その場に立ち上がって、裸足のままゆっくりと足を踏み出すとまたどこからともなく鈴の音が響いて来る。
『……誰?』
私はなんでそう呟いたんだろう。
後ろを振り返りながらそう呟くと、白いだけの空間に黒い影が通り過ぎた。
その黒い影を追いかけると、目の前には真っ黒い猫が一匹。私に背を向けて座っている。
――主……。
『え?』
そう声を掛けられたような気がして、思わず聞き返すと同時に目の前が歪み黒猫の姿が見えなくなっていく。
猫が消えてしまう事が怖くて悲しくて、私は知らず知らずに涙が込み上げてきた。
なぜ泣きたくなったのかなんて分からない。でも胸に詰まる感情が私の涙腺を刺激する。
「ま、待って……!?」
私は呼び止めようと声を上げ、腕を伸ばした瞬間に眠りから醒めた。
翌朝、だ。
窓の外からチュンチュンと鳥の鳴き声が聞こえて来る。
「あれ……?」
頬を伝う涙と、伸ばされた腕が視界に入る。
ゆっくりと起き上がって、涙を拭い困惑してしまった。
あれは何だったんだろう……?
なんて言うか、凄く懐かしいような切ないような、不思議な感覚だったなぁ……。
ベッドの上に座り込んだまましばらくのあいだぼんやりとしてしまう。
こんな夢を見るのは初めてだし、もしかして何かの前触れなのかしら。
私はそう思いながらも、何気なく時計に目を向けると、時間は6時30分を指そうとしていた。
もうレストラン開いてる時間だ……。
私はのろのろとベッドから降りて着替えてレストランに朝食を取りに向かい、パンとコーヒーで簡単に済ませて早めにホテルを出る為にチェックアウトを済ませた。そしてホテルの近くにあったコンビニで飲み物と軽食を買い、一路仁淀川方面へと車を走らせる。
慣れない道路を走るのは少し緊張するけど、車に慣れてないわけじゃないから問題ない。
市内から真っ直ぐに西へ。
高速に乗った方が早いのは分かってるんだけど、時間もたっぷりあることだし下道をのんびり走って行こうと思う。
都会では見ることがない路面電車。道路の中央を路面電車の線路があり、その両側を上りと下りで二車線ずつの道路。あんまり路面電車側の道路を走るのは苦手だから、私は左車線に寄って走る事にしていた。
だって、簡単に習ったけど路面電車が優先って言うだけでこうして実際には初めてなんだもの。
ナビに従ってどこを曲がるわけでもなく33号線を道なりに突き進み、そのまま439号線に乗り入れる。
市内から車を走らせて一時間足らずで、左手に噂の仁淀川が姿を現した。
都会ではまず見ないほどの川幅。河原の広さもとても広くて、多摩川の二倍くらいはあるんじゃないかと思える広大で綺麗な河を横目に、思わず感嘆の声が漏れた。
「わぁ……。噂通り綺麗な川。ここでこれだけ綺麗なんだから、上流に行ったらもっと綺麗よね」
車を運転しながらチラリと見た仁淀川は天気も良いせいか、水面はキラキラしていて清流と言われるのも頷けるほど綺麗だった。
私はそのまま左手に川を見ながら上流へと車を走らせる。
山道は慣れないけど、車もそんなに多くは無いしのんびり構えて運転できるのはとてもありがたかった。
右手に山、左手に川。道路はとても綺麗に舗装されていて走り易いけど、民家はともかく店もなかなか見つからない。ついでに言えば信号もほとんどない。ほぼノンストップ走行だ。
「やっぱり田舎よねぇ。やっと見つけた食事処も運悪くお休みっぽかったし、あらかじめ市内で飲物と食べ物を買ってきておいて正解だったな」
途中、休憩を兼ねて川沿いに車を停め、おにぎりとお茶で空腹のお腹を満たすと暑いのを覚悟で外に出てガードレール越しに川を眺める。
「川底が透き通って見える。ほんとに透明度高いんだぁ! めっちゃくちゃ綺麗~!」
ここからでも分かるくらい水は本当に青くて驚くほど清らか。冷たくて気持ちよさそう!
せっかくだから下に降りてみようと思い、キョロキョロと周りを見てみたけれどここからは下に降りられそうな場所が見つからない。
残念……。でも、空気は市内にいる時よりも澄んでいて美味しい。それに少しは避暑地になってる。だからと言って日差しの厳しさも、蝉の声も五月蠅い事に変わりはなくてその場にジッとしていたら茹で上がってしまいそう。
「あっつ~~い! ダメだ。早く宿に行こうっと」
あまりの暑さに、急いで冷房の効いた車に駆け込んだ。
私はぬるくなったお茶を口に含んでから宿を目指して再び車を走らせ、目的の民宿に辿り着いたのは、それから更に40分ほど走った頃だった。
道路は相変わらず綺麗で、「仁淀川町」と書かれた看板を見て右に曲がると、道路と街を跨ぐ車一台しか通れないような細い橋を渡る。対向車が来たらすれ違いは絶対に不可能なやつだ。その橋を渡ると、そこは完全な集落でこぢんまりとした村だった。
山肌に沿うように僅かに切り開かれた場所に建つ古めかしい民家。時々通り過ぎる人は腰の曲がったお爺ちゃんお婆ちゃんばかり。若い人の姿は全然なかった。
町のメイン通りになっているであろう、ギリギリすれ違えるくらいの細い道を通ながら民宿を目指す。
「あ。あれかな」
川縁に切り立っているかのような民宿。
駐車場に車を停めて降りてみると、暑い日差しではあるのに、市内とは全然体感温度が違う。コンクリート製の建物が少なくて照り返しが少ない分過ごしやすさは言うまでもない。
民宿の入り口を入ると、受付にいた女将さんがにこやかに出迎えてくれた。
「あの、予約した藤岡と申しますけれど……」
「まぁまぁ、暑い中こん山ん中までよう来てくれました」
「お世話になります」
「ここまで来るんはえらかったですやろう? お部屋まで案内しますきに、ゆっくりして行って下さいね」
偉い……? 別に偉いって言われるような事はしてないんだけどなぁ?
って思ったけど、言葉のニュアンスを考えたら、たぶん「大変」って意味なのかもしれない。
一瞬慣れない方言に戸惑ったけれど、とても愛想のよい女将さんはこちらを気遣いながら部屋へ案内してくれた。
小ぢんまりとした普通の旅館の部屋だけどとても綺麗に整えられている部屋。窓を開けると真下に仁淀川が見え、白い川原が広がっている。川の流れる音と時折鳴く鳥の鳴き声だけが聞こえて来た。
長閑とは、まさにこの事を言うんだわ。
「部屋の鍵はここに置いときます。後はごゆっくり。お夕飯は18時頃になります」
「ありがとうございます。あ、あの……」
「はい。何です?」
「寄相神社って、この前の道を行ったところですよね?」
「えぇ、そうです。ただ、歩いて行くにはえらい時間かかりますよ? 歩いて行くがです?」
ここの人達にしたら、あの距離はとても遠く感じるのかもしれない。でも、車で来た感じで、私の足ならそんなに時間はかからないと思う。せいぜい15分と行ったところだろうか。
「そのつもりです。車で行っても停めるところなさそうですし……」
「ほいたら、役場の前に駐車場がありますきに、そこまで乗ってったらえいと思います。 歩いて行くにはげに大変や思います。何やったらうちの車で積んで行きましょうか?」
積んで行く……?
何か物を運ぶのだろうか? いや、でも今のニュアンスだと私の事だと……。
「い、いえ。大丈夫です。歩くのには慣れてるし、地図で見る限りそんなに遠くなさそうですから……」
丁重に断ると、女将さんは感心したように目を瞬きながら頷き返した。
「都会の人はようけ歩く言うけんど、ほんまながやねぇ……」
「そ、そうですね」
「都会程ようけ車は通らんけんど、気を付けて行って来てくださいね」
「ありがとうございます」
女将さんが部屋を後にすると、私は荷物を片隅に置き直してもう一度窓から外を見てみた。
暑いには暑いけど、すぐ真下が川のせいか吹く風は心地いい。それにとっても静かなのも落ち着く。でも、数日ここにいたら暇を持て余して飽きちゃうんだろうなぁ。コンビニなんて当然ないし、街灯もポツポツとしかない。
いくら夏場は日が長くなっているとは言え、夜になると街灯のない道を歩くのは怖いに違いない。暗闇をのこのこ歩くのは危険だから、動くなら陽のある内。
川に降りるのは明日にするとして、今日は一番寄相神社に参拝に行ってこよう。
私は小さい鞄に貴重品だけを入れて民宿を後にした。
道なりにまっすぐ、仁淀川町の中を歩いて行くと、公民館や小さな喫茶店、酒屋さん、民家などが軒を連ねている。
家の裏手はすぐに急な山になっていて、そこを畑として切り開いている人もいれば、切り開いた土地の庭で作物を育てている家もある。
基本的に、ここは外から仕入れるというよりも自給自足が当たり前の場所なのだと言う事がよく分かる。だって、誰の家にも大なり小なり畑が必ずあるんだもの。
ふと、目の前を歩いてくるお婆ちゃんは背中に大きな籠を背負っていて、通り過ぎざまにチラッと見てみると中には沢山の山菜が入っていた。
山菜の詰まった籠を腰の曲がったお婆ちゃんが運んでいる姿を見ていると、余計なお世話かもしれないけど手伝わなきゃいけないような気になった。
「あの……」
「?」
「重そうですね。良かったらお手伝いしましょうか?」
「あらあら、えらいすんません。でも大丈夫ですきに。うちはすぐそこやし、これっぱぁな事自分でせにゃやってけんでね」
にこやかに断ったお婆ちゃんは、ぺこりと頭を下げるとそのまま歩いて行ってしまった。
きっとお婆ちゃんはあの沢山の山菜も自分で山に入って採ってきたに違いない。
それは生きる為に必要で、やらなきゃいけないことなんだよね……。
そう思いながらお婆ちゃんを見送っていると、視界の端に民家の軒先でザルと新聞紙を広げている別のお婆ちゃんを見かけた。
そこに採った山菜を綺麗に広げて天日干ししているようだった。見れば、大根を屋根の下に干していたりもする。
せっせと作業しているそのお婆ちゃんの所へ、ご近所のお婆ちゃんがお皿を持って現れた。
「石本さん、おるかよ~?」
「は~い。今庭におるき、回ってきぃや」
のんびりとした口調で、玄関先から声をかけるお婆ちゃんに、それまで軒先にいたお婆ちゃんがそう声をかけると、お皿を持ったお婆ちゃんが庭先に回ってきた。
「ワラビかよ。こじゃんち採れたかね?」
「採れたは採れたけんど、大した量やないで。それより今日は立派なフキが採れたき、煮つけにしようかと思うちょった」
「ほうかよ。まぁ時期やないき、しょうないわ。あぁ、そうや。それやったらこれも食事に入れてや。そんなに食べやせんのにごっつう作り過ぎてしもうて、置いちょったらいかんなってしまうき」
「いやぁ、かまんがかえ? 嬉しいちや。ありがとう。ほいたらうちも、今朝庭で採れた芋、持っていんでもらおか」
和やかなやり取りを、私は呆然と見入っていた。
何でもお金さえ払えば手に入る都会とは違って、何でも作れるものは作るお婆ちゃんたちの姿に、私はただただ凄いと感じる。
無いなら無いなりに、知恵を絞ったり助け合ったり。ここではそれが当たり前なんだ。
人と人との繋がりがお互いを助け合っているのが分かるし、お互いを信用し合っている。人を疑うばかりで信用できないギスギスした世の中が日常的になっている中、今目の前で繰り広げられている光景は一昔前には普通の事だったし、それが出来て当たり前だったんだろう。
本来の人間関係って、こう言う事を言うのかもしれない……。
私は人付き合いが嫌いなわけじゃないし、どちらかと言えば積極的に話す方だけれど、どれも上辺ばかりのような気がしてならなかった。
「……いつから、人との距離が離れてくようになっちゃったんだろう」
目の前の光景を見ていたら、何だかすごく……懐かしいような気持ちになる。心があったかくなると言うか……。胸がいっぱいになって泣きたくなってくる。
なぜかと言われると説明できないけど、そんな気持ちに包まれた。
真っ白な空間の中に横になっていた私は目を覚まし、ゆっくりと体を引き起こした。
……何なの、この空間。
初めて見るその光景はまさに「無」のように感じた。でも何故だろう。ちっとも怖くない。
その場に立ち上がって、裸足のままゆっくりと足を踏み出すとまたどこからともなく鈴の音が響いて来る。
『……誰?』
私はなんでそう呟いたんだろう。
後ろを振り返りながらそう呟くと、白いだけの空間に黒い影が通り過ぎた。
その黒い影を追いかけると、目の前には真っ黒い猫が一匹。私に背を向けて座っている。
――主……。
『え?』
そう声を掛けられたような気がして、思わず聞き返すと同時に目の前が歪み黒猫の姿が見えなくなっていく。
猫が消えてしまう事が怖くて悲しくて、私は知らず知らずに涙が込み上げてきた。
なぜ泣きたくなったのかなんて分からない。でも胸に詰まる感情が私の涙腺を刺激する。
「ま、待って……!?」
私は呼び止めようと声を上げ、腕を伸ばした瞬間に眠りから醒めた。
翌朝、だ。
窓の外からチュンチュンと鳥の鳴き声が聞こえて来る。
「あれ……?」
頬を伝う涙と、伸ばされた腕が視界に入る。
ゆっくりと起き上がって、涙を拭い困惑してしまった。
あれは何だったんだろう……?
なんて言うか、凄く懐かしいような切ないような、不思議な感覚だったなぁ……。
ベッドの上に座り込んだまましばらくのあいだぼんやりとしてしまう。
こんな夢を見るのは初めてだし、もしかして何かの前触れなのかしら。
私はそう思いながらも、何気なく時計に目を向けると、時間は6時30分を指そうとしていた。
もうレストラン開いてる時間だ……。
私はのろのろとベッドから降りて着替えてレストランに朝食を取りに向かい、パンとコーヒーで簡単に済ませて早めにホテルを出る為にチェックアウトを済ませた。そしてホテルの近くにあったコンビニで飲み物と軽食を買い、一路仁淀川方面へと車を走らせる。
慣れない道路を走るのは少し緊張するけど、車に慣れてないわけじゃないから問題ない。
市内から真っ直ぐに西へ。
高速に乗った方が早いのは分かってるんだけど、時間もたっぷりあることだし下道をのんびり走って行こうと思う。
都会では見ることがない路面電車。道路の中央を路面電車の線路があり、その両側を上りと下りで二車線ずつの道路。あんまり路面電車側の道路を走るのは苦手だから、私は左車線に寄って走る事にしていた。
だって、簡単に習ったけど路面電車が優先って言うだけでこうして実際には初めてなんだもの。
ナビに従ってどこを曲がるわけでもなく33号線を道なりに突き進み、そのまま439号線に乗り入れる。
市内から車を走らせて一時間足らずで、左手に噂の仁淀川が姿を現した。
都会ではまず見ないほどの川幅。河原の広さもとても広くて、多摩川の二倍くらいはあるんじゃないかと思える広大で綺麗な河を横目に、思わず感嘆の声が漏れた。
「わぁ……。噂通り綺麗な川。ここでこれだけ綺麗なんだから、上流に行ったらもっと綺麗よね」
車を運転しながらチラリと見た仁淀川は天気も良いせいか、水面はキラキラしていて清流と言われるのも頷けるほど綺麗だった。
私はそのまま左手に川を見ながら上流へと車を走らせる。
山道は慣れないけど、車もそんなに多くは無いしのんびり構えて運転できるのはとてもありがたかった。
右手に山、左手に川。道路はとても綺麗に舗装されていて走り易いけど、民家はともかく店もなかなか見つからない。ついでに言えば信号もほとんどない。ほぼノンストップ走行だ。
「やっぱり田舎よねぇ。やっと見つけた食事処も運悪くお休みっぽかったし、あらかじめ市内で飲物と食べ物を買ってきておいて正解だったな」
途中、休憩を兼ねて川沿いに車を停め、おにぎりとお茶で空腹のお腹を満たすと暑いのを覚悟で外に出てガードレール越しに川を眺める。
「川底が透き通って見える。ほんとに透明度高いんだぁ! めっちゃくちゃ綺麗~!」
ここからでも分かるくらい水は本当に青くて驚くほど清らか。冷たくて気持ちよさそう!
せっかくだから下に降りてみようと思い、キョロキョロと周りを見てみたけれどここからは下に降りられそうな場所が見つからない。
残念……。でも、空気は市内にいる時よりも澄んでいて美味しい。それに少しは避暑地になってる。だからと言って日差しの厳しさも、蝉の声も五月蠅い事に変わりはなくてその場にジッとしていたら茹で上がってしまいそう。
「あっつ~~い! ダメだ。早く宿に行こうっと」
あまりの暑さに、急いで冷房の効いた車に駆け込んだ。
私はぬるくなったお茶を口に含んでから宿を目指して再び車を走らせ、目的の民宿に辿り着いたのは、それから更に40分ほど走った頃だった。
道路は相変わらず綺麗で、「仁淀川町」と書かれた看板を見て右に曲がると、道路と街を跨ぐ車一台しか通れないような細い橋を渡る。対向車が来たらすれ違いは絶対に不可能なやつだ。その橋を渡ると、そこは完全な集落でこぢんまりとした村だった。
山肌に沿うように僅かに切り開かれた場所に建つ古めかしい民家。時々通り過ぎる人は腰の曲がったお爺ちゃんお婆ちゃんばかり。若い人の姿は全然なかった。
町のメイン通りになっているであろう、ギリギリすれ違えるくらいの細い道を通ながら民宿を目指す。
「あ。あれかな」
川縁に切り立っているかのような民宿。
駐車場に車を停めて降りてみると、暑い日差しではあるのに、市内とは全然体感温度が違う。コンクリート製の建物が少なくて照り返しが少ない分過ごしやすさは言うまでもない。
民宿の入り口を入ると、受付にいた女将さんがにこやかに出迎えてくれた。
「あの、予約した藤岡と申しますけれど……」
「まぁまぁ、暑い中こん山ん中までよう来てくれました」
「お世話になります」
「ここまで来るんはえらかったですやろう? お部屋まで案内しますきに、ゆっくりして行って下さいね」
偉い……? 別に偉いって言われるような事はしてないんだけどなぁ?
って思ったけど、言葉のニュアンスを考えたら、たぶん「大変」って意味なのかもしれない。
一瞬慣れない方言に戸惑ったけれど、とても愛想のよい女将さんはこちらを気遣いながら部屋へ案内してくれた。
小ぢんまりとした普通の旅館の部屋だけどとても綺麗に整えられている部屋。窓を開けると真下に仁淀川が見え、白い川原が広がっている。川の流れる音と時折鳴く鳥の鳴き声だけが聞こえて来た。
長閑とは、まさにこの事を言うんだわ。
「部屋の鍵はここに置いときます。後はごゆっくり。お夕飯は18時頃になります」
「ありがとうございます。あ、あの……」
「はい。何です?」
「寄相神社って、この前の道を行ったところですよね?」
「えぇ、そうです。ただ、歩いて行くにはえらい時間かかりますよ? 歩いて行くがです?」
ここの人達にしたら、あの距離はとても遠く感じるのかもしれない。でも、車で来た感じで、私の足ならそんなに時間はかからないと思う。せいぜい15分と行ったところだろうか。
「そのつもりです。車で行っても停めるところなさそうですし……」
「ほいたら、役場の前に駐車場がありますきに、そこまで乗ってったらえいと思います。 歩いて行くにはげに大変や思います。何やったらうちの車で積んで行きましょうか?」
積んで行く……?
何か物を運ぶのだろうか? いや、でも今のニュアンスだと私の事だと……。
「い、いえ。大丈夫です。歩くのには慣れてるし、地図で見る限りそんなに遠くなさそうですから……」
丁重に断ると、女将さんは感心したように目を瞬きながら頷き返した。
「都会の人はようけ歩く言うけんど、ほんまながやねぇ……」
「そ、そうですね」
「都会程ようけ車は通らんけんど、気を付けて行って来てくださいね」
「ありがとうございます」
女将さんが部屋を後にすると、私は荷物を片隅に置き直してもう一度窓から外を見てみた。
暑いには暑いけど、すぐ真下が川のせいか吹く風は心地いい。それにとっても静かなのも落ち着く。でも、数日ここにいたら暇を持て余して飽きちゃうんだろうなぁ。コンビニなんて当然ないし、街灯もポツポツとしかない。
いくら夏場は日が長くなっているとは言え、夜になると街灯のない道を歩くのは怖いに違いない。暗闇をのこのこ歩くのは危険だから、動くなら陽のある内。
川に降りるのは明日にするとして、今日は一番寄相神社に参拝に行ってこよう。
私は小さい鞄に貴重品だけを入れて民宿を後にした。
道なりにまっすぐ、仁淀川町の中を歩いて行くと、公民館や小さな喫茶店、酒屋さん、民家などが軒を連ねている。
家の裏手はすぐに急な山になっていて、そこを畑として切り開いている人もいれば、切り開いた土地の庭で作物を育てている家もある。
基本的に、ここは外から仕入れるというよりも自給自足が当たり前の場所なのだと言う事がよく分かる。だって、誰の家にも大なり小なり畑が必ずあるんだもの。
ふと、目の前を歩いてくるお婆ちゃんは背中に大きな籠を背負っていて、通り過ぎざまにチラッと見てみると中には沢山の山菜が入っていた。
山菜の詰まった籠を腰の曲がったお婆ちゃんが運んでいる姿を見ていると、余計なお世話かもしれないけど手伝わなきゃいけないような気になった。
「あの……」
「?」
「重そうですね。良かったらお手伝いしましょうか?」
「あらあら、えらいすんません。でも大丈夫ですきに。うちはすぐそこやし、これっぱぁな事自分でせにゃやってけんでね」
にこやかに断ったお婆ちゃんは、ぺこりと頭を下げるとそのまま歩いて行ってしまった。
きっとお婆ちゃんはあの沢山の山菜も自分で山に入って採ってきたに違いない。
それは生きる為に必要で、やらなきゃいけないことなんだよね……。
そう思いながらお婆ちゃんを見送っていると、視界の端に民家の軒先でザルと新聞紙を広げている別のお婆ちゃんを見かけた。
そこに採った山菜を綺麗に広げて天日干ししているようだった。見れば、大根を屋根の下に干していたりもする。
せっせと作業しているそのお婆ちゃんの所へ、ご近所のお婆ちゃんがお皿を持って現れた。
「石本さん、おるかよ~?」
「は~い。今庭におるき、回ってきぃや」
のんびりとした口調で、玄関先から声をかけるお婆ちゃんに、それまで軒先にいたお婆ちゃんがそう声をかけると、お皿を持ったお婆ちゃんが庭先に回ってきた。
「ワラビかよ。こじゃんち採れたかね?」
「採れたは採れたけんど、大した量やないで。それより今日は立派なフキが採れたき、煮つけにしようかと思うちょった」
「ほうかよ。まぁ時期やないき、しょうないわ。あぁ、そうや。それやったらこれも食事に入れてや。そんなに食べやせんのにごっつう作り過ぎてしもうて、置いちょったらいかんなってしまうき」
「いやぁ、かまんがかえ? 嬉しいちや。ありがとう。ほいたらうちも、今朝庭で採れた芋、持っていんでもらおか」
和やかなやり取りを、私は呆然と見入っていた。
何でもお金さえ払えば手に入る都会とは違って、何でも作れるものは作るお婆ちゃんたちの姿に、私はただただ凄いと感じる。
無いなら無いなりに、知恵を絞ったり助け合ったり。ここではそれが当たり前なんだ。
人と人との繋がりがお互いを助け合っているのが分かるし、お互いを信用し合っている。人を疑うばかりで信用できないギスギスした世の中が日常的になっている中、今目の前で繰り広げられている光景は一昔前には普通の事だったし、それが出来て当たり前だったんだろう。
本来の人間関係って、こう言う事を言うのかもしれない……。
私は人付き合いが嫌いなわけじゃないし、どちらかと言えば積極的に話す方だけれど、どれも上辺ばかりのような気がしてならなかった。
「……いつから、人との距離が離れてくようになっちゃったんだろう」
目の前の光景を見ていたら、何だかすごく……懐かしいような気持ちになる。心があったかくなると言うか……。胸がいっぱいになって泣きたくなってくる。
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