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参
妖狐と鞍馬と幸之助
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座敷に上がり、私はてんことやんこに冷ましたお茶を飲ませて塩を少し舐めさせ、体の汗を拭いてあげると二人はくすぐったいのかキャアキャアと声を上げて笑い転げていた。だけどそれも束の間で、すぐに二人はうとうとと船をこぎ始めそのままコロンと頭を突き合わせて二人で仲良く手を繋いで眠ってしまった。
うふふ。ほんと可愛い。
私一人っ子だから、弟と妹がいたらこんな感じなのかな。
なんて思いはするけど、でもよく考えたら小さい子供に変わりはないんだろうけれど、もしかしたらこの子達でさえ私よりも年上だって言う可能性はあるのよね。あやかしと人間との時間差がどれくらいあるのか全然分からないけど。
そんな二人の横では、いびきをかいて眠っている鞍馬もいる。
よっぽど疲れたんだなぁ。まだ鞍馬には東京に帰ること伝えてないのに。まぁ、起きたら伝えればいいか。
私はお腹が冷えないように二人のお腹の上にタオルケットをかけてから、妖狐と幸之助が座っている場所に座った。
「加奈子殿。ありがとう」
「あ、いえ。お礼を言われるようなことは何も……」
「いえ、十分ですよ」
妖狐はそう言うとお茶を一口口に含んだ。
「さて、では私たちのことについて少し話をしましょうか。子供たちが起きている間はなかなかこうしてゆっくり話をすることも出来ませんから」
「はい。お願いします」
私がこくりと頷くと、妖狐は目を細めて静かに語り始めた。
「これからお話をするのは私と狸奴と、それからそこに寝ている鞍馬が出会った頃のお話です。あの時は私がまだ年若く、所帯を持ってほどなくしたある日、突然鞍馬が私の所にやってきました」
◆◇◆◇◆
妖狐が自分の御殿を持っているのは、土佐と讃岐の境にある山の奥深くだった。
人から見れば狐は人を驚かし、騙す悪い生き物として知られていた事から、妖狐一派は人里から遠く離れた山の中を選び、そこを住処にしていた。
妖狐はあやかしの中では年長者として扱われ、いわゆる「ご意見番」の役割を担っている。その為か、あらゆるあやかしからの相談事を持ち込まれることが多かった。
鞍馬がそんな妖狐の元へ駆けつけてきたのは、深々《しんしん》と身に染みるような冷たい雪が降り積もる頃だった。
「頼もう! 頼もう!!」
門の前で声を張り上げ、激しく戸を叩く音に最初に気付いたのは妖狐の新妻として迎えられた玉藻《たまも》だった。
「はい?」
大門ではなく、隣にあった小さな門扉を開いて顔を覗かせた玉藻に、鞍馬は物凄い勢いで目の前に跪いた。
「頼む! 妖狐に……妖狐に取り次いでくれんか!? この通りじゃ!」
「あなたは鞍馬天狗殿ではありませんか。鞍馬天狗ほどの方が我が主に何の用があるのです?」
「要件は後じゃ! 頼む、早う妖狐に取り次いでくれ!」
あまりに鞍馬に余裕がない様子に、玉藻はやや気押されて門の中に招き入れた。すると鞍馬は家人である玉藻の事を差し置いて慌ただしく屋敷に上がり込み、広間のいろりで煙管《キセル》を蒸かしていた妖狐の元に駆け付けると、不躾にも挨拶なく縁側で土下座をする。
「妖狐殿! わしの頼みを聞いてくれんか?!」
突然現れた鞍馬に妖狐は別段驚いた様子も見せず、ちらりと視線を投げかける。
「鞍馬天狗殿? そんなに慌ただしく、一体私に何の御用で?」
彼の無礼を妖狐は咎める事もなくぷかりと煙管から煙を吐き、近くに置いてあった火鉢にコンコンと叩いて中身を落とす。
「中に上がらせてもろうても、かまんやろうか?」
「えぇ、どうぞ」
煙管を火鉢の隅に置いて向き直った妖狐に、鞍馬は腰を浮かせて摺り足気味に縁側から座敷の中に入らせてもらった。そして懐に抱えていた薄汚れた手拭いに包まれた物をそっと取り出すと、彼の前に差し出した。
妖狐は不思議そうにそれを見つめ、特に訝しむ様子もなくそっと捲ってみると、中には丸くなって目を閉じ、微かに浅い呼吸を繰り返す黒猫の姿があった。
「……この猫、どうしたんです?」
「この猫の名は幸之助ちゅうんじゃ。数か月前に土佐の池川町に住みよった黒川真吉言う男の家に飼われちょったがやけど、真吉殿は町役場の侍に、殺されて……」
何かを思い出したように、鞍馬は目を赤くしながら一瞬言葉を詰まらせた。
妖狐はそんな鞍馬に目を向けず、丸くなったまま動こうとしない幸之助をじっと見つめていた。
これまで相当邪険に扱われたのだろう。全身土に汚れた真っ黒な毛並みに長い尻尾。この子は……このまま放っておけば悪しき猫又になる。
他の者には見えないが、妖狐の目には幸之助の体を包む黒い気配が見えていた。闇に引きずり込もうとする悪い念。しかも彼はすでに命の灯火が消えかかっている。
「もともと野良やったがやけんど、真吉殿はそんな幸之助を救い上げた人間じゃ。幸之助も、あん人と一緒におった時は幸せやった。でも真吉殿が殺されてからほどなく家を守ろうとしていた真吉殿の嫁も衰弱死して、その娘はとうの昔に嫁いで行ってしもうて、幸之助の身請けがおらんなった。また野良に戻るしかなかったがやき。そのあとは、見ての通り。黒猫で尾が長いだけで気味悪がられて……しまいにゃこのザマじゃ」
悔し気に俯く鞍馬を、妖狐は目を細めて見つめ返した。
「鞍馬天狗殿。それであなたは、この猫をどうしたいと?」
「幸之助を、真っ当なあやかしにしてやって欲しいんじゃ。闇に染まらぬ、真っ当なあやかしに!」
その申し出に、鞍馬は驚いたように目を瞬いた。
妖狐には対象物に新たな名前を与えることで、どんな相手でもあやかしに生まれ変わらせられる術を持っていた。もちろん、その術を施すにはそれなりの対価……交換条件はあるのだが。
滅多にないのだが、この術を使う相手は主だって稲荷信仰のある人間が多かった。
亡くなった者を、どんな形であっても構わないからもう一度命を吹き込んでほしい。そんな勝手な利己主義《エゴ》を持つ人間は決して少なくない。その為には何でもすると願った者に対価を貰い、施す術だった。
近頃はそんな願いを持った人間が減り、稲荷信仰も徐々に衰退し始めている中で、相談相手が主だってあやかし達とあって、もう使う事もないと思っていた矢先の頼み事だったため驚く以外なかった。しかもそれが人間じゃなく、同じあやかしからの頼み事と言うのは初めてだった。
「なぜ、そんなにしてまでこの猫をあやかしに?」
「幸之助は、真吉殿との約束があるがよ……。真吉殿が出来なかった事を真吉殿に代わって成し遂げたい。その強い想いが、誓いが幸之助の心にはあるがじゃ。それが、真吉殿と幸之助を繋ぐ唯一の絆。わしは……わしは、その願いを叶えちゃりたい。このまま死んだらこいつの望みはどうなる? そう考えたら、わしは真吉殿にも幸之助にも顔向けが出来ん……!」
畳の上に置かれた手を小刻みに震えながらきつく握り締めて、悔し気に呟く鞍馬を見つめる。
「一つ聞いても?」
「何ぞ……?」
「鞍馬天狗殿。どうしてあなたがそこまでその人間にこだわるんです?」
あやかしは、本来そこまで人間相手に思い入れを抱くことはない。それでも今目の前にいる鞍馬は強く真吉に対して思い入れがあるようだった。
「わしは、真吉殿の生きざまが好きやった。あげに真っすぐで実直な人間、他にはそうおらん。わしは、そこに惚れたがじゃ! やから、同じ志を持つ幸之助の事を捨て置くことは出来ん! それに……わしは誓ったんじゃ。幸之助が真吉殿にこん村を守ることを誓っていたように、わしは幸之助を守ると!」
あの気位の高い鞍馬天狗の心をここまで絆す人間がいるとは、世の中分からないものだと妖狐は思った。
「失礼いたします」
その時、盆にお茶を入れて持ってきた玉藻が縁側に座り、頭を下げた。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう、玉藻。鞍馬天狗殿、今日は特に冷える。そなたも飲むといい。体が温まる」
「妖狐殿!」
妖狐は玉藻が持ってきた温かいお茶を口に含むが、気が急いている鞍馬にはそんな悠長に構えている彼がもどかしく、声を上げた。
お茶請けとお茶を置いた玉藻はすぐに盆を持ってその場を退出し、鞍馬の焦りの声に動じる事がなくお茶をすすった妖狐は、そっと皿の上に戻しながら口を開いた。
「……分かった。そなたの願いを聞こう。ただし、それにはそれ相応の対価が必要です」
「あぁ、分かっちゅう。幸之助をあやかしにしてくれる代わりに、今後のわしの人生をそっくり妖狐殿に預ける!」
あやかしの、気の遠くなるほど長い時間を捧げると言う鞍馬の対価は、妖狐が考えていた以上に大きなものだった。そこまでしても、幸之助の願いを叶えてやりたいと思う彼の心に妖狐は大きく動かされた。
「承知した。ではそなたの今後の時間、私が預かることにしよう」
「ありがたい!」
「だが、幸之助には少々重い定めが課せられる。あやかしになることで、誰にも見られることもなく触れられることもない。本当の意味での孤独を抱えることになるだろう」
「それはかまん! 例え人が見たり触れられんでも、わしが幸之助の傍におるきに」
真面目な表情でそう言い切った鞍馬に、妖狐は頷いた。
「もし今後、真吉殿の血縁者が現れたら孤独の呪縛を解き、その者にのみ見て触れられるように施しをかけておこう。いつか、その者と出会う事があればその時に見合う喜びが必要だろう?」
妖狐は浅い呼吸の回数が減り始めた幸之助の上に手を翳した。
「そなたに、私から新たな名を与えよう。今は亡き人間との間に誓いし強い想いを叶えるため、その強い想いを貫くため、今一度その命をあやかしとして呼び戻す。そなたの魂を呼び戻すことを望む者の対価は、“時間”だ」
すると、幸之助の周りにあった黒い影はサラサラと砂を履くように消え去り、ほんのりと黄金色の光に包まれ始めた。さらには鞍馬の体からも同時に淡い光が発せられ、それは妖狐に吸い込まれるように消えた。
「……そなたの新しい名は、“狸奴”だ。正しく、優しく、自らの信念の為に生きよ」
黄金色に輝いていた幸之助の体は眩い光を放ち、鞍馬は咄嗟に目を逸らした。
その光が徐々に落ち着くと幸之助の体は光を失っていた。代わりに穏やかな呼吸を繰り返し、ぬくもりも取り戻した。ただ違うのは、長い尻尾は一本から二本に分かれていた事だった。
うふふ。ほんと可愛い。
私一人っ子だから、弟と妹がいたらこんな感じなのかな。
なんて思いはするけど、でもよく考えたら小さい子供に変わりはないんだろうけれど、もしかしたらこの子達でさえ私よりも年上だって言う可能性はあるのよね。あやかしと人間との時間差がどれくらいあるのか全然分からないけど。
そんな二人の横では、いびきをかいて眠っている鞍馬もいる。
よっぽど疲れたんだなぁ。まだ鞍馬には東京に帰ること伝えてないのに。まぁ、起きたら伝えればいいか。
私はお腹が冷えないように二人のお腹の上にタオルケットをかけてから、妖狐と幸之助が座っている場所に座った。
「加奈子殿。ありがとう」
「あ、いえ。お礼を言われるようなことは何も……」
「いえ、十分ですよ」
妖狐はそう言うとお茶を一口口に含んだ。
「さて、では私たちのことについて少し話をしましょうか。子供たちが起きている間はなかなかこうしてゆっくり話をすることも出来ませんから」
「はい。お願いします」
私がこくりと頷くと、妖狐は目を細めて静かに語り始めた。
「これからお話をするのは私と狸奴と、それからそこに寝ている鞍馬が出会った頃のお話です。あの時は私がまだ年若く、所帯を持ってほどなくしたある日、突然鞍馬が私の所にやってきました」
◆◇◆◇◆
妖狐が自分の御殿を持っているのは、土佐と讃岐の境にある山の奥深くだった。
人から見れば狐は人を驚かし、騙す悪い生き物として知られていた事から、妖狐一派は人里から遠く離れた山の中を選び、そこを住処にしていた。
妖狐はあやかしの中では年長者として扱われ、いわゆる「ご意見番」の役割を担っている。その為か、あらゆるあやかしからの相談事を持ち込まれることが多かった。
鞍馬がそんな妖狐の元へ駆けつけてきたのは、深々《しんしん》と身に染みるような冷たい雪が降り積もる頃だった。
「頼もう! 頼もう!!」
門の前で声を張り上げ、激しく戸を叩く音に最初に気付いたのは妖狐の新妻として迎えられた玉藻《たまも》だった。
「はい?」
大門ではなく、隣にあった小さな門扉を開いて顔を覗かせた玉藻に、鞍馬は物凄い勢いで目の前に跪いた。
「頼む! 妖狐に……妖狐に取り次いでくれんか!? この通りじゃ!」
「あなたは鞍馬天狗殿ではありませんか。鞍馬天狗ほどの方が我が主に何の用があるのです?」
「要件は後じゃ! 頼む、早う妖狐に取り次いでくれ!」
あまりに鞍馬に余裕がない様子に、玉藻はやや気押されて門の中に招き入れた。すると鞍馬は家人である玉藻の事を差し置いて慌ただしく屋敷に上がり込み、広間のいろりで煙管《キセル》を蒸かしていた妖狐の元に駆け付けると、不躾にも挨拶なく縁側で土下座をする。
「妖狐殿! わしの頼みを聞いてくれんか?!」
突然現れた鞍馬に妖狐は別段驚いた様子も見せず、ちらりと視線を投げかける。
「鞍馬天狗殿? そんなに慌ただしく、一体私に何の御用で?」
彼の無礼を妖狐は咎める事もなくぷかりと煙管から煙を吐き、近くに置いてあった火鉢にコンコンと叩いて中身を落とす。
「中に上がらせてもろうても、かまんやろうか?」
「えぇ、どうぞ」
煙管を火鉢の隅に置いて向き直った妖狐に、鞍馬は腰を浮かせて摺り足気味に縁側から座敷の中に入らせてもらった。そして懐に抱えていた薄汚れた手拭いに包まれた物をそっと取り出すと、彼の前に差し出した。
妖狐は不思議そうにそれを見つめ、特に訝しむ様子もなくそっと捲ってみると、中には丸くなって目を閉じ、微かに浅い呼吸を繰り返す黒猫の姿があった。
「……この猫、どうしたんです?」
「この猫の名は幸之助ちゅうんじゃ。数か月前に土佐の池川町に住みよった黒川真吉言う男の家に飼われちょったがやけど、真吉殿は町役場の侍に、殺されて……」
何かを思い出したように、鞍馬は目を赤くしながら一瞬言葉を詰まらせた。
妖狐はそんな鞍馬に目を向けず、丸くなったまま動こうとしない幸之助をじっと見つめていた。
これまで相当邪険に扱われたのだろう。全身土に汚れた真っ黒な毛並みに長い尻尾。この子は……このまま放っておけば悪しき猫又になる。
他の者には見えないが、妖狐の目には幸之助の体を包む黒い気配が見えていた。闇に引きずり込もうとする悪い念。しかも彼はすでに命の灯火が消えかかっている。
「もともと野良やったがやけんど、真吉殿はそんな幸之助を救い上げた人間じゃ。幸之助も、あん人と一緒におった時は幸せやった。でも真吉殿が殺されてからほどなく家を守ろうとしていた真吉殿の嫁も衰弱死して、その娘はとうの昔に嫁いで行ってしもうて、幸之助の身請けがおらんなった。また野良に戻るしかなかったがやき。そのあとは、見ての通り。黒猫で尾が長いだけで気味悪がられて……しまいにゃこのザマじゃ」
悔し気に俯く鞍馬を、妖狐は目を細めて見つめ返した。
「鞍馬天狗殿。それであなたは、この猫をどうしたいと?」
「幸之助を、真っ当なあやかしにしてやって欲しいんじゃ。闇に染まらぬ、真っ当なあやかしに!」
その申し出に、鞍馬は驚いたように目を瞬いた。
妖狐には対象物に新たな名前を与えることで、どんな相手でもあやかしに生まれ変わらせられる術を持っていた。もちろん、その術を施すにはそれなりの対価……交換条件はあるのだが。
滅多にないのだが、この術を使う相手は主だって稲荷信仰のある人間が多かった。
亡くなった者を、どんな形であっても構わないからもう一度命を吹き込んでほしい。そんな勝手な利己主義《エゴ》を持つ人間は決して少なくない。その為には何でもすると願った者に対価を貰い、施す術だった。
近頃はそんな願いを持った人間が減り、稲荷信仰も徐々に衰退し始めている中で、相談相手が主だってあやかし達とあって、もう使う事もないと思っていた矢先の頼み事だったため驚く以外なかった。しかもそれが人間じゃなく、同じあやかしからの頼み事と言うのは初めてだった。
「なぜ、そんなにしてまでこの猫をあやかしに?」
「幸之助は、真吉殿との約束があるがよ……。真吉殿が出来なかった事を真吉殿に代わって成し遂げたい。その強い想いが、誓いが幸之助の心にはあるがじゃ。それが、真吉殿と幸之助を繋ぐ唯一の絆。わしは……わしは、その願いを叶えちゃりたい。このまま死んだらこいつの望みはどうなる? そう考えたら、わしは真吉殿にも幸之助にも顔向けが出来ん……!」
畳の上に置かれた手を小刻みに震えながらきつく握り締めて、悔し気に呟く鞍馬を見つめる。
「一つ聞いても?」
「何ぞ……?」
「鞍馬天狗殿。どうしてあなたがそこまでその人間にこだわるんです?」
あやかしは、本来そこまで人間相手に思い入れを抱くことはない。それでも今目の前にいる鞍馬は強く真吉に対して思い入れがあるようだった。
「わしは、真吉殿の生きざまが好きやった。あげに真っすぐで実直な人間、他にはそうおらん。わしは、そこに惚れたがじゃ! やから、同じ志を持つ幸之助の事を捨て置くことは出来ん! それに……わしは誓ったんじゃ。幸之助が真吉殿にこん村を守ることを誓っていたように、わしは幸之助を守ると!」
あの気位の高い鞍馬天狗の心をここまで絆す人間がいるとは、世の中分からないものだと妖狐は思った。
「失礼いたします」
その時、盆にお茶を入れて持ってきた玉藻が縁側に座り、頭を下げた。
「お茶をお持ちしました」
「ありがとう、玉藻。鞍馬天狗殿、今日は特に冷える。そなたも飲むといい。体が温まる」
「妖狐殿!」
妖狐は玉藻が持ってきた温かいお茶を口に含むが、気が急いている鞍馬にはそんな悠長に構えている彼がもどかしく、声を上げた。
お茶請けとお茶を置いた玉藻はすぐに盆を持ってその場を退出し、鞍馬の焦りの声に動じる事がなくお茶をすすった妖狐は、そっと皿の上に戻しながら口を開いた。
「……分かった。そなたの願いを聞こう。ただし、それにはそれ相応の対価が必要です」
「あぁ、分かっちゅう。幸之助をあやかしにしてくれる代わりに、今後のわしの人生をそっくり妖狐殿に預ける!」
あやかしの、気の遠くなるほど長い時間を捧げると言う鞍馬の対価は、妖狐が考えていた以上に大きなものだった。そこまでしても、幸之助の願いを叶えてやりたいと思う彼の心に妖狐は大きく動かされた。
「承知した。ではそなたの今後の時間、私が預かることにしよう」
「ありがたい!」
「だが、幸之助には少々重い定めが課せられる。あやかしになることで、誰にも見られることもなく触れられることもない。本当の意味での孤独を抱えることになるだろう」
「それはかまん! 例え人が見たり触れられんでも、わしが幸之助の傍におるきに」
真面目な表情でそう言い切った鞍馬に、妖狐は頷いた。
「もし今後、真吉殿の血縁者が現れたら孤独の呪縛を解き、その者にのみ見て触れられるように施しをかけておこう。いつか、その者と出会う事があればその時に見合う喜びが必要だろう?」
妖狐は浅い呼吸の回数が減り始めた幸之助の上に手を翳した。
「そなたに、私から新たな名を与えよう。今は亡き人間との間に誓いし強い想いを叶えるため、その強い想いを貫くため、今一度その命をあやかしとして呼び戻す。そなたの魂を呼び戻すことを望む者の対価は、“時間”だ」
すると、幸之助の周りにあった黒い影はサラサラと砂を履くように消え去り、ほんのりと黄金色の光に包まれ始めた。さらには鞍馬の体からも同時に淡い光が発せられ、それは妖狐に吸い込まれるように消えた。
「……そなたの新しい名は、“狸奴”だ。正しく、優しく、自らの信念の為に生きよ」
黄金色に輝いていた幸之助の体は眩い光を放ち、鞍馬は咄嗟に目を逸らした。
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