赤い糸(20年の時を越えて)

平尾龍之介

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突然の知らせ

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 あれから3カ月の月日が流れた。いつもの生活は何も変わらない。洗濯・掃除・料理に保育園の送迎、慌ただしい日々が、裕也とのことも忘れさせてくれればいいのに・・現実はそうはいかない・・。時の流れは妙にスローで、気がつけばため息ばかりが漏れていた。
「裕ちゃん、元気にしてるかな?」裕也の声が聞きたい・・でも子供たちの顔を見ると罪悪感で胸が苦しくなった・・。『こんな母親最低じゃん』子供たちの幸せを考えると、私は裕也に、自分から連絡することは出来なかった。
でも、夜眠るときはスマホを握りしめながら眠った。いつ裕也から連絡が来てもいいように・・。隣で眠る夫への愛情は日に日に薄れていった。浩司は何も悪くない・・裏切者は私・・もし私の浮気がバレたら、この人はどうなるんだろう。真面目に生きている人だから、人間不信になってしまうかもしれない。
子供たちはどう思うんだろう。この生活を壊してしまう勇気は、私にはない。でも、もし裕也から連絡が来たら・・心が苦しくて痛くて負けそうだった。不安定な心は、私を情緒不安定にし、仕事ではつまらないミスをし、子供たちとの約束を忘れ、夫には細かなことに苛立った。自分の感情をうまくコントロール出来ない。それで八つ当たりなんて最低だった『もっとうまく演じなきゃ浮気がバレる』家族に嘘をついた以上、嘘をつき通す以外に選択肢はない。絶対に気づかれちゃいけない・・家族を傷つけたくないから・・いや、私自身が傷つきたくないから・・。

今日もいつもと変わらない、何も良いこともない、平凡な日常の平凡な夕食、私は食卓の風景をぼんやりと眺めていた。本当の幸せっていったい何なんだろう? この繰り返しの日常、子供たちの成長を見守ることが幸せ? こんなことを疑うこと自体、間違ってる。そんなことを考えていると、ふと昔のことを思い出していた。

私には母親はいない。物心ついた時には、父親と姉だけが家族だった。親一人子一人の父子家庭ではなく、気がきつい姉だったが、いてくれたことで物凄く救われた。そんな姉も家を出、思春期に父と二人きりは、本当にきつかった。仕事に忙しい父親の為に、掃除に洗濯、料理と家事に追われた。何かと干渉しようとする父親と、何度ケンカをしたことかわからない。
そこへ神様が『裕也』という存在を授けてくれた。神様からの贈り物。同じように片親に育てられる者同士、悩みを共有し助け合える存在は、とても大きく頼りになる存在だった。
一度、父と姉と大ケンカをしたことがあった。いつものように泣いて裕也を呼び出し、ケンカの理由や、家庭の事情を聞いてもらっていた時、急に私の母親や、裕也の父親の話になった。

「裕ちゃんは、お父さんに会えるとしたら、会いたい?」
「うん。そりゃ会いたいよ!」

私は、裕也の意外な答えに戸惑った。裕也の父親は、裕也が小学校の低学年の時に浮気相手と家を出て行った。それ以来、連絡も無いと聞いていたので、良い印象を持っていないだろうと思い込んでいた。

「香織はどうなんだよ?」

その問いかけに、私はすぐには答えられなかった。私は母親の顔すら見たことが無かったから・・。写真なんかも処分されていて、母親の痕跡はなく、家の中では、母親の話はタブーそのもの。何かの会話の中で少しでも母親に触れると、急に空気が悪くなった。それもそうだ・・父や姉が言うには、私を生んですぐに、他の男とこの町を出て行ったらしい。父も姉もすごく母親のことを憎んでいた。その中で、私は複雑な思いを抱いて生きてきた・・。猛烈に憎む気持ちと、それでも慈悲深い母親の愛情を求める気持ち、どちらが本当の気持ちなんだろう・・。父や姉の影響で憎しみが育てられていたけど、素直な気持ちは母親を純粋に求めていたのかもしれない。だからあの時「裕也が父親に会いたい」って素直に答えるのを聞いて、ホッとしたんだ。そして自分に素直に、正直になれた。

「私もお母さん会いたいよ・・」

そう答えた私に裕也は

「いつか会えるといいな・・」

そう答えた。

不思議だった。なんでこんな事、急に思い出したんだろう・・なんて思いを巡らしていた時、急な吐き気に襲われた。慌ててトイレに駆け込む私に驚き、浩司も追いかけてきた『コンコン、コンコン』

「ママ? どうした? 大丈夫?」

子供たちも駆け寄ってきた

「ママ、ママ、大丈夫?」

私はすぐトイレから出た。

「ごめんね。驚かせちゃったね」
「何? どうした? 風邪?」

浩司が心配そうに聞く

「うん。風邪だと思う。保育園でもらっちゃったのかな」
「あんまり無理するなよ。最近、食欲も無さそうだし元気ないだろ?」
「そうかな? そんなこともないよ! パパの気のせいでしょ」
「ならいいけどさ」

浩司に優しくされればされるほど、心が冷めるような感覚に襲われた。嘘がバレるかもしれないという強迫観念が、そうさせていたのだと思う。それに、この吐き気が風邪なんかじゃないことに気がついていたので、動揺を隠しきれずにいた。この感じは2度の妊娠の時と同じ・・私・・まさか・・

「ごめん、パパあと頼めるかな?」
「具合悪いの?」
「うん。ちょっと横になるね」
「おぉ、わかった」
「ママ、病気なの?」

心配そうに見つめる子供たちの瞳を見つめ返すことが出来ず、足早に寝室に入った。

次の日の朝、いつもと変わらない時間に鳴るアラームも、私には必要はなかった。あれから一睡も出来ずにいたから・・。それでも、もう何年もの間続けてきたルーティンをテキパキとこなし、昨日のことが嘘のことのように明るく元気に振舞った。

「おはよう。あれママもう大丈夫なの?」

浩司が聞いてきた

「昨日はごめんね。もう大丈夫だから」
「でも、まだ顔色良くないよ」

浩司の言葉に心がきしむような感覚がした・・何か見透かされているようで・・。

「やだなぁ、化粧してないからでしょ」
「あっそうか、ごめん笑」

誤魔化しきれない私は、子供の世話をする振りをして逃げた。
慌ただしい朝の時間が過ぎ去り、本当のなら私も出勤をする時間・・けど、ズル休みをした。ズル休みをしたことなど、私の人生では初めてのことだった。生真面目に生きてきた自分に初めて嘘をついた。
家の中、一人きりの空間の中で、ボーっとしていると、昨日、不思議と母親のことを思い出した理由がわかったような気がした「そう、私も母と同じことをしようとしているんだ」・・。自分で自分のお腹を撫でながら母親の気持ちを考えていた。幸せな家庭を壊すことの罪、そして、どんな罰を受けるのか・・。そんな恐怖心が潜在的な意識の中で巡り巡って母親の記憶を手繰り寄せたのかもしれない。
まさか・・私が・・複雑な家庭環境に育った者だからこそ、平凡で温かい家庭を夢見るなんてことがあるとよく聞くけど、私の中にはそんな感情は無かった。無意識の中にあったのかはわからない。ただ、この幸せな家庭や生活を壊したくはない。なのに何故、激しい幸せを求めてしまうのだろう・・。罪な恋に惹かれてしまうのだろう・・。
私は、終わりの始まりを感じながら、足早に妊娠検査薬を買いに行った。
答えはわかっている。母となる本能が、妊娠を知らせていたから・・。家に帰り妊娠検査薬を試すと、結果は『陽性』テーブルの上に無造作に置かれた妊娠検査薬がそう反応を示していた・・「本当にバカ」心の中でそう言った。

裕也の子供に間違はない・・。浩司との間にはそういった関係は、長男が生まれてからはなかったから・・。裕也にこのことを知らせなければならない。いや、知らせない方がいい。このまま・・私の中で・・私が頭の中で想像したものは、本当に恐ろしいものだった。この存在を消してしまえば、家族は幸せでいられるの? 裕也も・・。私はどうなの? ただこの苦しみから逃れる為に、楽になりたいから、こんな恐ろしいことを想像するの? もう何もわからない・・。私には答えを出す勇気がなかった。不安な思いを胸いっぱいに抱え、スマホを手にし、裕也に連絡を取ろうとする。でも・・指先が動かない・・その時、スマホが唸るように鳴った!『プルプルルッ・プルプルルッ』『ブーブー』

「誰これ?」

私のメモリーには保存されていない知らない番号・・。正直、今、わけのわからい電話を相手にしていられる精神状態にない。でも胸騒ぎに襲われ、とっさに電話に出た。

「・・はい・・」
「あっ私、M&T総合法律事務所で弁護士をしております大倉と申します。突然のお電話申し訳ありません」
「はい」

えっ弁護士? M&T総合法律事務所って確か裕也の事務所だったはず。一瞬、なんのことだかわけがわからなくなった。

「こちら、森山香織さんの携帯電話でお間違えないでしょうか?」
「はい、そうです」
「今、少しお時間を頂いても大丈夫でしょうか?」
「はい、大丈夫です」

相手の弁護士さんは、丁寧で穏やかな口調だったけど、嫌な予感と胸騒ぎで、私の心臓は今にも破裂しそうだった。『ドキッドキッ』と鳴る心臓の鼓動を感じながら話を聞いた。

「突然のお電話で申し訳ありません。驚いておられると思うのですが、私は、神崎の同僚で同じ事務所で弁護士をしております」
「はい」
「神崎のことはご存じですよね?」
「裕ちゃんに何かあったんですか?」

私はとっさに質問をした。不安な気持ちを抑えきれず

「森山さん、気を確かに聞いてくださいね・・あの・・神崎なんですが・・10日前に亡くなりました・・」
  
その知らせは唐突で、思いもよらないものだった・・。
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