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第二章
初めての思い 3
しおりを挟む夕貴に手を引かれて再度、ひいひい言いながら坂道を下って帰宅したその日の夜、綾は千智の部屋に泊まることになった。
「俺も泊まる!」
「うるせぇ黙れ」
「だって」
「みんな帰ったやろーが、お前もカズと帰れ」
だだをこねる夕貴を無理矢理和也に押し付け、千智は綾を振り返った。
彼は夕貴の叫ぶ声にも負けず、ベッドに寄りかかって静かに寝息を立てていた。
それを見て安心して、千智は後片付けの残りに取りかかる。
静かな部屋に水音が響く。
忘れていたかのように、千智は煙草に火をつけた。
外から帰ってきて、なんだか現実世界に紛れたくなかった彼らはそのまま千智の部屋になだれ込んだ。
いつものように好き勝手くつろぐ迷惑な友人たちが散々騒いで帰ったあと、片付けるのは千智の役目だ。一人でいる時より静かな部屋で、彼は、皆が来る前の状態へと時を戻してゆく。
こうした作業は面倒だと思いつつ、毎回了承してしまう自分に少し呆れる時もあるが、幼い頃からそういう立場にある千智にとってはそれがもう普通のことになっていた。
千智には母親がいない。そして、優しい父親がいた。
その優しさは愛情豊かな、という意味ではない。千智が何をしても怒らない、いつもテレビばかり見ている父親。彼は出世や世間体には興味がなく、趣味も持たず、家事もほとんどしなかったが、毎日夜遅くまで働いて千智に不自由をさせることはなかった。
だからこそか、千智は煙草も吸うし性にも奔放だが、その自由さの中で自立心をしっかり持った青年になった。時折胸をかすめる寂しさのようなものだけが、千智がまだ無条件で愛情を必要とする子どもである証だった。
「やたらめったら散らかしやがって…」
毒づく口とは異なり、彼らがこうして静寂を満たしてくれるのは、千智にとって有り難いことなのだ。
そんな大騒ぎの中、相当疲れたのであろう綾は一人一足先に眠りについていた。
起こそうと試みる度に、瞼を持ち上げるだけで何度も睡魔に負けてしまう綾の様子を見て、今晩はそのまま寝かせることにしたのである。
誰もが共に泊まりたがったが、純粋に睡眠を求めている彼のことを考慮して、皆自室へ戻っていった。
今はもう千智と綾の二人だけだ。
「‥‥‥」
規則正しい寝息と、端正な寝顔。
かくん、かくん、
ちらと綾の方を見ると、安定しない頭が舟を漕いでいる。
「…ユウちゃん」
声をかけてみても、やはり反応はない。
そっと額に手をかけて、前髪を持ち上げる。
大人になりかけているその顔立ちは、きっと誰からも好かれる『良い顔』だ。
「‥‥‥」
ぐ、
両頬を掴んで、上を向かせる。
薄暗い照明の下、閉じた長い睫毛と僅かに開いた唇が官能的に見える。
これまで生きてきた中で、彼はどんな思いをしてきたのだろう。
何を見て、何を思ったのだろう。
なぜここに?という問いは、まだ不確かなままだ。
男同士の恋愛に何一つ疑問を呈さず、するりと受け入れた彼。
涼樹や夕貴が恋人と幸せそうに微笑むたび、どこか羨ましそうな顔をするのを、千智は見ていた。
「‥‥‥」
「ん‥‥」
小さい子供をあやすかのように、千智はそっと綾に口付けた。
浅く重ねた唇の隙間から、吐息が一筋漏れてゆく。
この子と居ると、何でも許されるような気持ちになってしまう。
たとえこのまま何も知らない彼をかき抱いたとしても。
それが、自分の甘えであると分かっていても。
一瞬感じた違和感に綾は少し身動ぎして、再び夢の世界へ落ちていく。
目覚めない綾に苦笑しつつ、千智はなるべくゆっくりと彼から離れた。
薄いその唇は、とても乾いていた。
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