哀夜の滅士

兎守 優

文字の大きさ
6 / 52
1 縁罪

6 血の縁

しおりを挟む

 忘れていたはずの、鬱々とした日々が少しずつ、彼の体を這い回るが毛ほどにも表には表さない。彼の虚空を見つめるあかい目は、数刻前と違わず、愁いを帯びた平素のままだった。

おぎくーん、ルームメイトをお届けに上がったよ」
「は、ちょ、っと朝まで預かるのでは」
「うーん? お風呂にさ、まだ入ってなくて。永野君も。それとも二人で入っていいってことかな?」
「疲れて頭でもおかしくなったんですか、実希みのりはもう寝てるんで廊下で騒がないでください」

「はーい。またね、永野君」
 表情を変えずに界人が考えこんでいるうちに、は彼の背中を押して踵を返してしまった。

「あ、ありがとうございました。おやすみなさい」
 接吻程度で済ませてもらえたのだから、感謝をしなければ。真意の読めぬ、と良好な関係を築かねば。
 界人は言葉を紡いだが、は振り返らなかった。ただ手を挙げて、彼は隣の部屋に入っていってしまう。伸ばしかけた腕はまたも引き留められた。


 憂うような、恍惚としたような、あいまいな表情を浮かべて、仮の縁の相手を見送る姿。それがもし恋しいという感情ならば、充にも覚えがあった。
 離れられない。離れるほどに、心が引きちぎれそうになる。恋しいという胸の痛みはやがて、激しく身を焦がすほどの哀しみへと変わっていく。
 仮であっても縁を結べば互いに惹かれ合わずにはいられなくなる。ましてや本縁を結んでしまえば、魂が絡みついて離れられなくなってしまう。

「風呂。温め直してくるから」
 入り口で突っ立つ界人を引きこんだ充は、彼を居間に残し、風呂場へ行った。だが、すぐに脱衣所から顔を出して、界人を呼んだ。
「やっぱついてきて」
 界人と充は二人して着衣のまま、浴室へ足を踏み入れた。充は炊事の件から、彼が風呂事情にも詳しくないのではと心配になってしまっていた。

「これ、シャワーな。蛇口をひねると、シャワーヘッドからお湯が出てくる。これがバケツ……いや、手おけだ。この石けんで洗う。浴槽に入るとき、足を滑らすなよ」
 石けんにそろりと手を伸ばそうとした界人の手を充は止めた。咎められた当人は拗ねる素振りも、言い訳を口にするでもなく、ただ興味深そうに、角の丸くなった石けんを見回している。

「石けんで洗うのは衣服だけだと思っていました」
「石けんで体を洗う以外に、どうやって洗うんだ?」
「湯浴み、と言ってわかりますか?」
 湯浴みと言われ、充が勝手に描いたイメージは、かいがいしく世話係に湯をかけられる姿だ。

「浄めの儀式みたいな扱いだな。お湯だけでは洗わないが一般的だが、強いていえば現代ではそれを湯シャンというんだ」
「ユ、シャン」
「お湯のシャンプー」
 まさか、入浴は本当に世話人にしてもらっていたのではないか。充は界人に、一人で行う日常生活を早々に教えこまねばと使命感に駆られた。

「やっぱダメだ。旭さんには絶対言うなよ。心配だから今日だけ、永野と風呂に入る」
「ありがとう……?」

 互いに裸になったがこの際、恥ずかしいだの、直視できないなどとは言っていられない。これも指導のうちだと充は割り切って、界人が浴槽で足を滑らせないか注視していたが、彼は一糸まとわぬ姿でもまったく動じていない様子である。
 湯の煙をまとう肌は色香を漂わせており、あかい目がよりいっそう妖しげな麗しさを際立たせており、充は目のやり場に困った。

「こうやって誰かとお風呂に入るの、いつぶりかな」
 充の気も知らずに、湯船に浸かるなり、界人はのんきに息をついて緩んでいた。
「ガキの頃はみんな誰かと入ってただろ。んじゃないと溺れるから」
 肌が湯に隠れ、幾分か視線を向けられるようになるも、充の注視する目は休まらない。界人は充より背が高い。だが、湯を半分以上、張っている浴槽は、成人男性でも、眠ってしまえば、簡単に溺れてしまうのだ。

「溺れないようにって膝に乗せて、よくお風呂に入れてもらいました」
「……いい親父さんだな」
「いいえ。父様ではないです。いつも一緒にいてくれたのは、俺の、兄のような人でした」
 そう言って界人の目から流れ落ちたのは、汗ではない。目尻から膨れ上がって、次から次へと静かに、雫がほおを伝って滴り落ちていく。

「どうし、た」
「でも、もう会えない」

 泣いていて悲しそうなのに、どこか微笑んでいるようで。何ともとれぬ界人の表情は、充の目から見て、あきらめとも取れた。
「すみません。いきなり」
 「俺もさ」と充は気づけば口にしていた。

「家族にはもう会えないんだ」

 充は家族について、口にする気はさらさらなかった。なのに、界人の流した涙につられ、奥底に沈めたはずの過去が、勝手に感情に乗ってあふれてしまった。
「兄貴分に可愛がってもらった。みんな、みんなもう居ない」

 来る日も来る日も、暗い部屋、布団の上で時を待つばかり。外に出ることは叶わないのだろう、幼くして悟ってしまった日々。思いもかけず、縁を結んで、薄暗く静かな世界から連れ出してくれた義兄。内緒で屋敷の外へ行っても、見守っていてくれた家族。温かく、美しく、まぶしい日の記憶。

 いつもいつも、守られていた。あの日、噴き出したあかが幸せな時間を塗り替えてしまった。
 縁が生まれつき薄く、生涯、縁を結び続けなければならなかった。それなのに、縁の相手を失った。自分も死ぬはずだった。なのに、生き延びている。

 家族は最後まで、守り抜いてくれたのだと知り、そして、今もすぐそばで縁として息づいて、生かしてくれている。そうして魂に絡みついた縁が、この世にもう居ない相手を求め続けるのだ。
 至極幸せなはずなのに、会えない寂しさが募って、充の胸は焦がれる。

 欲しても、欲しても。あの日々には決して戻れない。パシャリ。もうこれきりだと、充は湯を叩いて、止めどなく思いめぐってくる過去を押しとどめた。
「でもさ、俺はこの寮の、旭さんや実希みのりゆうせいのこと、新しい家族だと思えたから、少し救われたんだ」

 今ある家族と。たとえ、血の繋がりがなくとも。充にとって今の居場所は、かけがえのないものとなっていた。
「俺、家族はいるんです。弟が一人」
「旭さんがそういや言ってたな」
 界人はまたぎゅっと眉根を寄せる。苦しい表情を浮かべ、顔を歪めても尚、彼の美しさは損なわれなかった。
 その打ちひしがれた姿がよりいっそう美しく目に映るのはなぜだと充の心はざわめく。

「一番そばにいてくれた大切な人は命を落としたんです、俺と弟のために」
 ああと、心でつぶやく。充はその感情を知っている。やる瀬なさと絶望と、そして、後悔の味がする苦い雫を。
「じゃ、永野も弟くんもその人のために幸せにならないとな」
 自分で言った言葉に、充はハッと息を呑んだ。

 その夜、充は夢を見た。覚めたくない、長く幸せな心地の夢を。もうあきらめたはずの過去の幸せがめぐって、どうしようもなく枕元を濡らした。
 苦い涙が鼻を伝っていって、流れていく。のどから腹の底へ血潮が落ちていく。亡き相手と結んだ、約束。生涯、破られることはない。

 幸せだった家が惨状へ変わり果てたあの夜。凄惨なあかが広がる海で、無傷で生きていたのは自分だけ。生き残れた秘密を知る者は、この世でもうただ一人きり。
 なぜあんなことをしたのか。許されるはずのない背徳行為。これは罪だ。一人だけ生かされたのは罰だ。

 記憶を呼び起こすだけで、その身はよじれ、切り刻まれる。
 誰かに見られたかもしれない。ならばその姿はどう映っただろうか。こぼれた愛を掬ってすすろうとする、愚かな蛮行は。

 許されはしない。涙とともに落ちてくるえんの味が充を震え上がらせるのだった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

【完結】end roll.〜あなたの最期に、俺はいましたか〜

みやの
BL
ーー……俺は、本能に殺されたかった。 自分で選び、番になった恋人を事故で亡くしたオメガ・要。 残されたのは、抜け殻みたいな体と、二度と戻らない日々への悔いだけだった。 この世界には、生涯に一度だけ「本当の番」がいる―― そう信じられていても、要はもう「運命」なんて言葉を信じることができない。 亡くした番の記憶と、本能が求める現在のあいだで引き裂かれながら、 それでも生きてしまうΩの物語。 痛くて、残酷なラブストーリー。

魔王の息子を育てることになった俺の話

お鮫
BL
俺が18歳の時森で少年を拾った。その子が将来魔王になることを知りながら俺は今日も息子としてこの子を育てる。そう決意してはや数年。 「今なんつった?よっぽど死にたいんだね。そんなに俺と離れたい?」 現在俺はかわいい息子に殺害予告を受けている。あれ、魔王は?旅に出なくていいの?とりあえず放してくれません? 魔王になる予定の男と育て親のヤンデレBL BLは初めて書きます。見ずらい点多々あるかと思いますが、もしありましたら指摘くださるとありがたいです。 BL大賞エントリー中です。

優しい檻に囚われて ―俺のことを好きすぎる彼らから逃げられません―

無玄々
BL
「俺たちから、逃げられると思う?」 卑屈な少年・織理は、三人の男から同時に告白されてしまう。 一人は必死で熱く重い男、一人は常に包んでくれる優しい先輩、一人は「嫌い」と言いながら離れない奇妙な奴。 選べない織理に押し付けられる彼らの恋情――それは優しくも逃げられない檻のようで。 本作は織理と三人の関係性を描いた短編集です。 愛か、束縛か――その境界線の上で揺れる、執着ハーレムBL。 ※この作品は『記憶を失うほどに【https://www.alphapolis.co.jp/novel/364672311/155993505】』のハーレムパロディです。本編未読でも雰囲気は伝わりますが、キャラクターの背景は本編を読むとさらに楽しめます。 ※本作は織理受けのハーレム形式です。 ※一部描写にてそれ以外のカプとも取れるような関係性・心理描写がありますが、明確なカップリング意図はありません。が、ご注意ください

【完結】愛されたかった僕の人生

Kanade
BL
✯オメガバース 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 お見合いから一年半の交際を経て、結婚(番婚)をして3年。 今日も《夫》は帰らない。 《夫》には僕以外の『番』がいる。 ねぇ、どうしてなの? 一目惚れだって言ったじゃない。 愛してるって言ってくれたじゃないか。 ねぇ、僕はもう要らないの…? 独りで過ごす『発情期』は辛いよ…。

身代わりにされた少年は、冷徹騎士に溺愛される

秋津むぎ
BL
魔力がなく、義母達に疎まれながらも必死に生きる少年アシェ。 ある日、義兄が騎士団長ヴァルドの徽章を盗んだ罪をアシェに押し付け、身代わりにされてしまう。 死を覚悟した彼の姿を見て、冷徹な騎士ヴァルドは――? 傷ついた少年と騎士の、温かい溺愛物語。

【完】君に届かない声

未希かずは(Miki)
BL
 内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。  ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。 すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。 執着囲い込み☓健気。ハピエンです。

処理中です...