日陰者の暮らし

阪上克利

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老襲

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 どうやら……。

 そろそろお迎えが来たようだ。
 ようやくだ……。

 私は私の人生に悔いなどない。
 息子も立派に育ってくれた。そして私のために仕事を辞めて精一杯面倒も見てくれた。

 そのことには本当に感謝している。

 ケアマネジャーの佐藤絵里子という娘。あの子もそれなりにやってくれたのではないか、と思う。
 私は骨折をして歩けなくなってからは歩きたいとは思わなかった。それは妙なプライドからではない。私自身、このぐらいが潮時ではないか……とどこかで思ったからだ。

 ケアマネジャーとして、佐藤絵里子は私をなんとか歩かせようとしていたようだ。私は彼女が作ってきた書類は一切読まなかったから、彼女はほとんど息子に話をしていた。もちろんそれは私が彼女の言うことに返事をしなかったからにほかならない。

 私はここにきて……生きる目的が何も見つからなかったのだ。

 毎日、自分がここにいる意味を考えていた。
 日に日に動かなくなっていく身体……。
 確かに佐藤絵里子の言う通り、歩く努力をすべきなのは分かる。

 しかし……
 歩けたからどうだというのだ……。

 老いは確実に私を襲う。

 この先、歩けるようになったからと言って何か楽しいことがあるのだろうか?
 充実した生活が待っているのだろうか?

 否。

 それには若返るしかないだろう。

 私はベッドの中で、動きもせず、しかし眠れもせず……若いころのことを考えた。あの頃は必死だった。毎日食べることに苦労する毎日だった。戦争が終わったあともしばらくは豊かな生活ではなかった。戦後、夫が所属していた町の建設会社は、高度成長期に一流企業に成長した。夫が死ぬまで一流企業で世界を相手に仕事をしていたことが誇りだった。仕事一筋の人で家庭はあまり顧みない人だった。昭和の男にはありがちなことなのかもしれない。
 私は夫を支え、毎日家事をしていた。息子もそこそこの大学を出すことができた。

 私の人生はなんだったのだろう。
 今更ながらそう思う。

 独身の頃は時代に縛られ、結婚してからは戦争のために国に縛られ、終戦後は家庭に縛られ……。自分のやりたいことは何一つしてこなかったではないか。
 
 だから老いが私を襲ったとき、私には自分のためのものが何一つ残っていなかったのだ。

 何かを始めるのに遅すぎることはない。しかし自分のための何かを探すのは早いに越したことはない。老いが襲ってきてからでは思考力さえ着いて行かなくなるのだ。

 最近、夜中に失禁することが多くなった。最初はベッドの隣りのポータブルトイレに移動していたが、移動のたびに大変な思いをしなければいけなかったから、私は面倒になり、ついにはオムツの中でするようになった。
 紙オムツというのはすごく吸収がよく、数回、オムツの中で失禁してもなんてことはない。

 しかし息子が起きてくるのは昼近く……。
 いくら紙オムツの性能が良くてもそのころにはシーツまで濡れてしまっている。

 息子はやはり男。男に介護は無理なのだろう。私は義理の母を看取ったが死んだ夫は何もしてくれなかったことを覚えている。息子は私のために仕事を辞めたと言っていた。そのことには感謝はしているが……ただ……それは嘘であることも知っている。
 あの子にはこらえ性がない。
 嫌なことがあればそれに向き合うことができないのだ。

 だから私の介護だってこのようにちゃんとできていない。
 ヘルパーやデイの職員に任せればすべてやっていると思い込んでいるのだ。自分がやりたくない下の世話には一切手を出さない。勉強だけしておけばいい、と言い続けた私の教育がいけなかったのだろう。

 それに比べると、介護の職員さんたちはずいぶん私のためにがんばってくれた。
 朝一番でびしょびしょになっているベッドシーツを嫌な顔一つせずに変えてくれたし、デイの職員は時間がかかるのを承知で着替えさせてくれた。ヘルパーの作る食事はお世辞にも美味しいものとは言えなかったが、それでも生きていくには十分のものだった。部屋がきれいに保たれたのもヘルパーのおかげだ。通所介護には行きたくなかったが、彼らは彼らなりに私を楽しませようと努力してくれたことが分かった。私は機能訓練などはしたくなかったが、彼らは一生懸命薦めてくれた。
 私は嫌な顔はしていたが、それは彼らに向けてしたのではない。
 ただ機能訓練が嫌だっただけなのだ。
 彼らは真剣に自分の仕事と向き合っていたし、私を理解しようと努めてくれた。

 私を理解しようとするということに関しては、他の誰より、ケアマネジャーの佐藤絵里子は一番頭を悩ませたのではないだろうか。

 ただ……。
 私がこの先どのように生きていきたいか。
 それは私自身にも分からなかったのだ。
 私自身の中で結論が出ていないものを、他人が分かるわけはない。

 どう生きたいか……それはほかでもない私自身が考え、結論をだし、それを周りに伝える必要があったのだ。

 それでも彼女はあの手この手で私に寄り添おうとしてくれた。
 返事が面倒で返事しなかったが、彼女は返事をしないわたしに季節の話や食べ物の話をしてくれた。私にはどんな話も興味がなかったので、彼女がどんなに努力しようとも、返事をしようとは考えなかっただろう。

 ただ……。
 それは彼女に能力がないわけではない。
 私自身、彼女がキライというわけではなかった。

 老いが身に迫り、気分が灰色の毎日の中で、話す気力が起きなかっただけなのだ。
 日を重ねるごとに、私の身体が冷たくなっていくことを私は実感していた。
 残された時間は短いことを私は感じていた。

 ベッドの中で動きもせず、眠れもせず……私は物思いから我に返った。
 真っ暗な闇が私を包んでいる。
 そこには無の空間がある。
 空虚な思いしか私の中にはない。

 私の思い……。
 今は何もない。
 死は怖くない。
 生きていても何をするわけでもない。
 だから死ぬことに恐怖は感じない。

 息子のこと……私はここまで息子のことは面倒を見てきた。息子は私と夫の年金で今までこの家で生活してきた。これからは収入はないものの貯金がある。それにこの家がある。
 あんな息子だが、どうにか生きていくだろう。

 私自身の人生……。

 いい時もあった。
 悪い時もあった。
 老いがわが身に降りかかって来た今となっては、これから先あまりいいことはないのかもしれない。若い時から老いについて考えて対策をしていればもう少し考え方も違ったのかもしれない。しかし、悲しいかな、若い時には『老い』を感じることはないのだ。少なくとも私は『老い』について考えることはなかった。
 だから老いが襲ってきたときに何もできなかったのだ。
 その先を考えることができなかったのだ。

 もしかしたらそれはわたしに限ったことではないかもしれない。

 『老い』とは今まさにわたしを包む空虚な闇に近い。
 振り払っても振りほどけない。
 そして決して何物も逃れることはできない。

 闇から逃れるには……朝が来るまで待つしかない。
 『老い』から解放されるには『死』が来るまで待つしかない。
 唯一違うのは、『朝』には希望があり『死』には何もないこと。

 死後の世界があるという。
 何度も何度も他人の葬儀や法事で聞いた言葉。
 ただ、それは死んだものしか分からない。
 だから死んだらどうなるか、それはだれにも分からないのだ。

 私はそんなことをずっとベッドで考えている。それ以外に興味のあることなどないのだ。
 もうすぐ答えが分かる。
 自分の身体のことは自分でよく分かる。
 あと数時間で私は死ぬのだ。
 ゆっくりと体温が下がっていくのをさっきから感じている。そして呼吸も浅くなってきている。
 声はでない。
 もっとも数日前から声を出すことが億劫ではあったが……。
 怖いとは感じない。
 しかしできればいつまでも若い肉体のまま生きたいとは思う。

 老いが私を襲う。

 結果、そこにあるものは死だ。そのあとは分からない。私の人生は……最後にそういう答えが見つからない難しい問題について、たとえ数か月でも考察できたというだけでも上出来だったと思う。
 悔いはない。

 だんだん呼吸ができなくなってきた。
 あんなにも眠れなかった夜が嘘のようだ。
 今夜はぐっすり眠れそうだ。

 いや……今夜ではない。永遠に……だ。

 おやすみなさい。

(了)
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