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猫が踏んじゃった。

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僕はピアノを弾く。
まだ1曲しか弾けないけど、曲は曲だ。

『猫踏んじゃった』

もう何十回、何百回弾いてきただろう。
「それ以外に弾かないの?」
彼女が訊いてきたことがある。
ほかの曲を覚えるのに苦労するくらいなら、弾ける曲で満足していたほうがずっとマシ。
正直に応えた。
だって、他人に聴かせるために弾いているんじゃないもの。
僕が納得することがいちばん。

それに、誰が聴いてほしいってお願いした?
僕はいちどだって彼女に「聴いて」ってお願いしたことはない。
たまたま耳に入ったからといって、余計なひと言、要らぬおせっかいだ。

このようにして僕は猫を何十回、何百回も踏みつけてきた。

そう、踏みつけてきた。

そこまで考えるといったん思考が停止し、傷ついたレコード盤みたいに同じフレーズが頭蓋骨の内側で繰り返された。

猫を踏みつけてきた。
踏みつけてきた。

そう、僕は猫を踏みつけ続けてきたのだ。

踏みつけられた猫にとっちゃ、たまったものじゃない。
たまったものじゃない、の気持ちが、ぼわっと吹き出し猫になった。
猫は僕を見つめている。
痛々しく傷ついた体を「見て」と突き出し、目で懇願こんがんしている。
「もう、やめて。踏まないで」

猫の必死の説得に、僕は心を動かしてしまう。
すると僕のやってきたことが、極悪非道ごくあくひどうだったことが浮き彫りになってくる。
憐れみの欠片かけらが地に落ちた。
それはすぐに芽を出し、つるとなり、妄想の木となってもくもくと広がっていった。
もくもく。
もくもくは次第に生きた者の容姿でうごめfsきはじめ、巨大な猫に変わった。


猫がでかくなりすぎたせいで、僕のピアノがおもちゃに見える。
巨大な猫は存在するだけで圧巻なのに、巨大猫ときたら重量級の足をクレーンで吊り上げるみたいに力強く持ち上げ、頂点に達したら踏み込むように地に下ろした。
どしん。
同時に、ばきばきぐしゃん。

猫が踏んじゃった。
僕のピアノを踏んじゃった。
ペダルがきしみ、白鍵が白目をむいた。
黒い鍵盤、はじけ飛ぶ。
足が折れ、ピアノはフレームもろとも床で平らに均されていく。


ピアノをいじれば音は出る。
でもこの時出たのは音じゃなかった。
僕の悲鳴だ。

「ねこ ごめんなさい ねこ ごめんなさい
 これまで踏んで ごめんなさい
 もう 踏まないよ もう 踏まないよ
 だから踏んじゃったこと 許してね」



僕は、猫を踏まなくてもすむ曲を練習し始めた。
 
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