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第二幕 月の章
黄泉戸喫
しおりを挟む七つまでは神様の子。神様に守られている、貴い子。
――貴方は、神様の糧となるのよ。
「神隠し」
ぽつり、と呟いた。冷たく、静かで、悲しみに満ちていた。
「前の主はな、自ら望んで神隠しされたのだ」
「神、隠し」
「誰だったかなぁ。もう、覚えていない。他所の神に、我らが主を奪われたのだ」
平淡な声色だが、目は口ほどより物を言う。憎しみに焼けた瞳が、遠くを見つめていた。
「我らよりも自由の利くところの神だ。空を飛ぶ翼を持ち、主の部屋が最上階なのをいいことに、毎夜忍んで訪れていたのだとか。ははっ……なんと、憎いことよ」
主を失ったその場は、固く閉ざされる。一切の業務が停止して、新たな主を迎え入れるまで外へ出る事もできない。完全なる牢獄へと変わるのだ。外の景色が常春なのも、主のおかげだ。主が我らを受け入れてくれたから。此処にいてくれるから。
もう二度と、主を失いたくはない――そう語る夢浮橋が何を思っているのか依弦には理解できなかった。
神様が、人間を主と仰ぐのがいけないんだ。
神は、神だ。全知全能なる、崇められるべき神様。複数の神様が同じ建物内で共に暮らしているというのも信じられない。
「神隠しされた、前の主は、」
「さぁ。俺の知るところではない。主は――前の主は我らを捨てた。共に過ごし、共に暮らし、面白いことがあれば笑い、誰かが傷つけば泣いて、いたずらをすれば怒って……嗚呼、楽しかったなぁ」
知るところじゃないといいながら、その一言は幸せに満ち溢れていた。
急速に夢浮橋が遠くなる。依弦の知らない顔を、表情を見せるのだ。――此処の神様はずっと、前の主を思っているのだ。忘れる事も、泣く事もできずに、影だけを追い続けている。こんなにもたくさんの神様に想われて、どうして前の主はいなくなってしまったのだ。
いなくなるなんてことがなければ、依弦が此処に囲われることにもならなかった。
「嗚呼、主よ、部屋へ戻る前に食事をしようか。紅葉が今支度をしているはずだ」
「え、」
「今日は鍋だと行っていたなぁ。牡丹鍋だそうだ。常春に浮かれた猪や鹿がいたそうでな、狩ってきたらしい」
欄干の外側は、すっかり夜だ。
「どうして、私だったんですか」
「主に、か。俺が望んだからだ。ずぅっと、見ていたぞ。恋焦がれていた。共に在りたい、そう願っていた。そうしたら叶ったんだ」
ふわり、と。蝶が翅を広げる。薄く透けた、ガラスの翅の蝶は蒼や紅、紫に光り、きらきらとリンプンを落としていく。
夢浮橋の感情に合わせて、宙を舞う蝶たちはひらひらひらと夢のようにたゆたう。そう、夢のようだ。夢と蝶々を司る神様。中位の神性存在だろう。月詠は上位の神性存在だ。曲がり間違っても、夢浮橋に劣ることはない。夢の中でさえなければ、の話。
ずっと見ていたって。
「ずっとはずっとだ。蒼が生まれる前から。ずっとずっとずぅーっと、追いかけていた。想っていた」
ぴたり、と足を止める。大広間だ。階段は上っていない。大広間の階だから人が少なかったのだ。
襖の開け放たれた大広間には半数ほどの神がすでにそろっていた。半歩後ろを歩いていた蜻蛉と紅梅が横をすり抜けて、自身の座る場所へと駆けていく。
「主! よかった、」
「見つかったのか」
「何気にこの塔広いからな」
「普段出歩かない主が迷子になるのも頷ける」
「もうひとりで出歩いてはいけないよ」
口々にかけられる言葉に返事をするのは夢浮橋だ。暴力的なまでに苛烈な感情を抱えたたくさんの視線に晒される。息ができないほど、濃密な神気が充満している。なるべく吸い込まないように、取り込まれないように呼吸を浅くした。大丈夫、お月様が守ってくれる。
ぎゅ、と握り締めた布がシワを作った。
「ほら、主」
ゆっくり丁寧な動作で畳みの上におろされる。お行儀良くするのだよ、と座布団の上に座らせられた。視線が突き刺さる、居心地の悪さに顔色が悪くなるのを否めない。
大広間の上座にひとり、背筋を伸ばして座る。五十四柱が二つにわかれ、向かい合う形でずらりと並ぶのは圧巻だ。主と仰がれていながらも、気圧されてしまう。
視界の暴力、美しさの権化だ。右手側、依弦に一番近い位置がいつの間にか夢浮橋の定位置になっていた。その向かいに桐壺であるが、先にも記したとおり長らく桐壺の姿を見ていない。
「主、お待たせ。おなかすいたでしょ」
考え込んでいた意識を浮上させる。御膳を持った紅葉賀が笑みを携えて立っていた。
香ばしいお吸い物の香りが食欲をそそる。炊きたての玄米が茶碗に盛られ、卵焼きやサラダ、魚の塩焼きに漬物。しっかりとバランスが考えられた食事だ。主の食事は厨を仕切っている紅葉賀が丹精込めて一品一品作っている。
「今日も美味しくできたよ」とにっこり笑った厨番にぎこちなく頷く。紅葉賀が作ってくれる食事はいつも美味しい。美味しすぎるほどだ。よく体に馴染み、いっそ不気味なほど、美味しい食事だ。
「お代わりが欲しかったらいつでも言ってね」
「あ、りがとう、ございます」
じぃ、とお吸い物に視線が吸い寄せられる。透明に近い汁に、お麩とねぎとわかめが入ったシンプルなお吸い物だ。
いつも、食事時に出てくるお吸い物。「美味しい」と伝えてから高い頻度で登場するようになったそれが、とても気持悪く思えた。
美味しいはずなのに。香ばしい香りが食欲をそそるのに。ぐるぐると、胸焼けのように気持悪さが渦巻いて、えずいてしまいそうになる。
「なぁ、主よ」
「……夢浮様、なんだか気持悪い、です」
「そうかそうか。だが、食事をしてから寝ような。薬を飲むにも、飯を腹に入れておいたほうが良い」
「でも、吐いてしまうかも」
「腹に入れることが大切だ。好き嫌いはいかんぞ。作った者が悲しむからな」
有無を言わさない夢浮橋に、さらに疑心が高まる。食べていいものなのだろうか。
黄泉戸喫は今更だ。すでに神気を体内に取り込んでしまっている上に、現状が神隠しのようなものだ。神気抜きにどれほどかかるだろう。今のままで、現世でまともに暮らせるとは思えない。今までの、常人と同じ生活は望めない。
――逃げ出すのが早いか、囲まれるのが早いか。
依弦は帰ることを諦めていない。まだ時期ではないのだ。焦ってはいけない、そう自分自身に言い聞かせるほど、心はどんどん急いてしまう。
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