浮気の末に国外逃亡!

白霧雪。

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序章

仕事と旦那、どっちが大事なのよ!

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 女は一週間ぶりの帰宅を楽しみにしていた。愛しい夫の待つ家に帰って、美味しいご飯を食べて、ゆっくり休む。穏やかな時間を過ごすことができると、そう信じていたのに。

「い、いつる……なんで、君、」

 帰って来たんだ、とでも言いたいのだろうか。酷く狼狽した様子の夫の腕の中には、見知らぬ黒髪の女性が驚いた表情で収まっている。
 毎夜愛し合ったベッドに、見知らぬ女を腕に抱いて、裸の体を絡め合った二人。

「……浮気?」

 ぽつり、と呟いた女に、夫だった男はサァっと顔を蒼くする。パクパクと口を開いたり閉じたり。無言は肯定と同じであると、女は考えていた。
 夫はとても顔がいい。俗に言うイケメンである。四つ年上で、背は高いし、優しいし、料理もできて、剣術も素晴らしい。カフェバーのオーナーで、上司に連れられて行ったお店で出会った。愛されている、自信があった。

「と、時貞さんを責めないでくださいっ! 彼は、妻が帰ってこないから寂しい、と、だから、そこに付け入った私が悪いんです……!」

 せやな。悪いのは、全員だ。仕事が忙しいから、となかなか家に帰れず夫に寂しい想いをさせてしまった自分も悪い。だけど、しかし、だからと言って浮気していいはずがないだろうが。口から溢れそうになる罵詈雑言を無理やり呑み込んで、静寂に包まれた寝室に溜め息をひとつだけ落とす。
 寂しかったから、と言って浮気に走るような人だとは思わなかった。この様子だと、今夜一回だけではないかもしれない。寂しい、そりゃそうだろうな、と自分自身を納得させる。体を許さず、週に帰れるか帰れないかも分からない女よりも、身近で愛してくれる女のほうがいいに決まってる。
 女は、御國の為に仕える巫女である。巫女は清廉で不浄を知らぬ体でなくてはならない。夫婦でありながら、体を交えず、床を共にするだけ。あぁ、いくら彼が優しくとも、こんな女面倒くさかったに違いない。

「離婚、しましょうか」
「え」

 目をぱちくりと瞬かせ、「なんで?」とでも言いそうな夫にまた一つ溜め息を吐いた。視界の隅で浮気相手が不安そうな表情で見やってくるのがムカつく。
 眉間に寄った皺を指先でほぐして、努めて冷静であれ、と深呼吸をする。声を荒げてはいけない。心を乱すな。優位に立たせるな。未練があると、バレてはならない。

「このまま、夫婦を続けていても私は貴方に寂しい思いをさせてしまいます。それなら、そこの女と結婚したらどうですか? 所詮、私はそれだけの存在だったってことでしょ」

 半ば、吐き捨てるように言い放つ。だって、あんなに愛してるって言ってくれたのに。嘘だったの。どうしてその腕に抱きしめているのが私じゃないの。
 カッと目の奥が熱くなった。怒りに支配されて思ってもないことを口走ってしまいそうだった。何よりも、夫と浮気相手の女を視界に留めておきたくなくて、足早に踵を返す。まずは離婚届けの準備だ。市役所に届け出を貰って、あぁ、私物はどうしよう。夫、ではなくて、彼がいないときを見計らって処分しに来ないと。これからどうしよう。住むところもそうだけど、なんだか、酷く疲れてしまった。
 女は自分の容姿に自信があった。そこらへんの女よりは綺麗であると自負していた。職業上、太陽の光を浴びることがなかなかないために真白く、禊も欠かさないため触り心地の良い滑らかな肌。腰まで靡く艶々とした黒髪には霊力が籠り、もともとは黒真珠のようだった瞳は契約した神の神気で深海の青に染まっている。街を歩けば十人が十人とも振り返る美女であると、自信があった。つり目がちで、普通にしていても怒っているみたい、と言われる顔は少々、というよりかなりコンプレックスに感じていたが、せっかくの美しい容姿を無駄にしないよう手入れを怠ることもなかった。――なのに、夫に浮気をされた。プライドはズタズタである。好き合って、結婚したのに。眦に滲んだ涙を白魚の指先で払った。
 手荷物ひとつで自宅を出るつもりだった。どうせ、職場へ行けば一通りの生活用具がある。赤い鼻緒の下駄を履き、玄関のドアノブにかけた手を後ろから奪われた。

「……なんの、つもりでしょう」
「何処へ行くつもりかな」
「職場へ」
「……どうして、」

 どうして? どうしてなんて、こっちが聞きたい。今度こそ我慢することができなかった。飛び出した言葉の勢いは止まらない。

「もうこの家へは戻りませんッ!! 私と、貴方だけの家だったのに! 愛していると言ったじゃない! ねぇ、寂しかったなら、言ってくれればもうちょっと帰る頻度を多くしてもらうようお願いすることだってできた! なのに、何も変わらないいつもと同じ表情で、出迎えて見送ってくれて――察するなんて高度なこと私にできるわけないじゃないですか! なんで、浮気したんですかっ!」
「そ、れは」
「言い訳なんて、聞きたくないです」

 す、と息を整え、捕まれた手を振り払う。顔は見なかった。見たら絶対、後悔するに決まってる。
 まずは離婚届けだ。いや、職場へ先に行って縁切りをしてもらおう。そのまま職場に缶詰だってかまわない。元々、上司――女が契約を果たした神は、女が世俗へ帰ることを嫌がっていた。婚姻などしていなければすぐに側へ召し仕えさせたものを、と彼の神様はよく仰られた。

「待ってくれ! 依弦いつるッ!」
「名前で呼ばないでちょうだいッ!!」

 女にとって、夫だけだった。愛おしいと、離れたくないと。
 孤児院育ちの女は、愛に餓えていた。そんな中で無償の愛を注いでくれる夫に依存していた自覚もある。
 プライドはズタズタ。心もズタズタ。まともな思考じゃなかったのだ、と後になって言うだろうくらいには、内側は取り乱していた。表面上取り繕っているだけで、ちょろっと中を覗いて見れば嵐が吹き荒れている。

「もう! ここには帰らない! 帰る場所じゃない!」

 夫だった男が息を呑んだ音がした。とにかく早くここから離れたくて、普段使いを良しとされていない移動術式の札を鞄から取り出した。
 緊急の時だけの使用が認められる移動術式の札とは、主に御國を敵襲されたときや、上司である契約神になにかあったときにだけ使っても良いと定められているかなり高価な術具のひとつだ。普段の女だったら、使うようなことはしなかった。今の女を同僚の巫女たちが見聞きしたらぽろりと目玉を取りこぼしたに違いない。それだけ、酷い様相であった。
 高度な術具に、高度な術式を使うならばそれなりの集中力が必要となる。取り乱した女に集中しろとは無理な話だった。しかしながら、女は術式を無理やり構築できるだけの膨大な霊力の持ち主でもあった。三日月と鶴の描かれた木の札は淡く光を放ち、移動術式を発動させる。

「行くなッ、依弦ッ!」

 光に全身を包まれ、薄れる意識で振り返った夫は酷く悲哀に満ちた顔だった。泣かないで、と伸ばした手は空を切る。
 ――次に目を覚ました時、若返り異世界トリップをしているとも知らずに、女は――依弦は意識を光の中で放棄した。
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