オフホワイトの世界

キズキ七星

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第一章

一.愛が何だってのは分からない

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 麺は伸びきっていた。今思えば、三十分程前にカップ麺にお湯を注いだのだ。この時間僕が何をしていたのかというと、天井を眺めていた、としか言うことが出来ない。天井は元々白だったと予測されるが、今やオフホワイトになっており、模様一つ無い。僕が今いる位置から見て右端の方が少しだけ黒ずんでいるくらいだった。だけれど、僕はそれを気に止めていなかった。この三十分という時間の中でも、その黒ずみには目もくれてやらなかった。
 完全に汁は吸われていて、麺はべちょべちょだった。食べようか食べまいか考えているうちに、さらに五分が過ぎた。せっかくなら美味しい麺を啜りたかったのだが、今日は他に食べられるものが家に無いということもあり、結局伸びきった麺を食べることにした。いささか嫌な気持ちになった。ここのところマトモな食事をしていなかったし、睡眠不足にもなっていたので、久しぶりに食べるラーメンでさえも美味しく食べることが出来ないのかと思うと、萎えてきた。もうどうでもいいや、という気持ちになって割り箸を半分に割った。上手く割れずに不均等な形をした箸が出来上がった。そんなこんなでやっと麺を口にすると、もう既に冷めてしまっていた。僕が悪いのか?それともラーメンが悪いのか?その答えは誰にでもすぐに分かってしまう問題だった。水分たっぷりな麺を啜っているうちに、ある考えが浮かんできた。麺を汁に長い間浸していると水分を持っていくだろう?それは人間には無理なのか?僕ら人間を水やらお湯やらに長い間浸していたら延命したりしないのだろうか?という考えだった。その答えは「ノー」だった。
 カップ麺を食べ終えると、僕は読みかけの小説を開いた。『朗読者』という題名の本であった。僕はこの作品を映画で知り、―――映画は異性の友達に勧められた―――見終わってから二ヶ月程経ったのちに他大学の友達に勧めたところ、見終わった彼が僕に映画についての意見を求めてきたので、原作が気になって近隣の本屋で購入した。原作は海外のものであり、映画の邦題は『愛を読むひと』であった。地味な映画ではあったが、どこか心打たれたものがあった。僕がこれらから学んだこととしては、自分が良かれと思ったことは本当に相手にとって良いことであるのだろうか、そして愛と呼べるのだろうか、ということだった。それは主に伝えたかったものではなかったにせよ、僕が学んだのはそんなことだった。
 休日や祝日は、特にすることもないので『朗読者』を黙読する。短い時は一時間で集中が途切れたが、長い時は五、六時間ぶっ通しで読み続けた。そんな日はよく眠れた。大学やアルバイトが忙しくて疲れた日よりもよく眠れたものだった。
 昼から始まった読書を続け、夕方に差し掛かり、僕の耳が時計のチクタク音だけが聞こえる空間に慣れ始めた頃に、突然電話が鳴り響いた。僕の心臓はコンマ一秒活動を止めたようだった。僕は受話器を取って、はい、と言った。
「こんばんわ、遥香です」
それは、大学で知り合った遥香からの電話だった。
「こんばんわ、ハシモトです」
少しの間の後に遥香は言った。「ハシモトくん、今時間ある?」
「本読んでるよ」
「おっけー。なら暇ということだね?」
「聞いてた?本読んでるんだけど」
「それって暇じゃないの?私って、暇な時しか本読まないのだけれど、ハシモトくんは、これから読むぞ、読んでやるぞって本読むの?」
言ってることがよく分からないから、どう返事しようかと考える。「うーん、暇だよ」
「おっけー。なら、今から外に出てきて。駅のドーナツ屋さんで落ち合おう」
「ミッションでも下されるのかい?」
「どうだろうね。まあ楽しみにしてなよ」
バイバイ、と言ってから電話を切った。遥香と電話したのは初めてのことだった。大学でも特別話す相手でもなかったし、正直電話をかけてきたのは驚いた。しかも、呼び出されることになろうとは、天井を見上げていた僕には想像出来なかっただろう。


 自動ドアを抜けると、いらっしゃいませーと声がした。僕は適当にドーナツと飲み物を購入し、適当な席に座った。掛時計の針は十七時四十三分を指していた。そろそろ夕飯時か、と思ったら急にお腹が空いてきた。ここで夕飯を済まそうかと思ったけれど、ドーナツでは納得いかなかった。あとで遥香を誘って、どこかへ食べに行こう。
 なかなか遥香はやって来なかった。もう十八時半を回っていた。読んでいた小説が終わりに近づいてきたので、早く来てくれと思った。あと三ページ、二ページ、一ページ。そして最後の一行を読み終えた。やはり人にはそれぞれを愛の形があって、愛する人と自分の愛のピースの形は必ずしも適合するわけでは無かったのだ。これは難しい問題だと思った。十九歳の僕には、まだ早かったかもしれないと。この本はもう少し大人になったら読み返すことにしよう。その時には、この著者の伝えたかったことが理解できるかもしれないと思った。
 遥香は十八時四十五分に来た。何でこんなに遅いのかと尋ねると、まあまあ女の子はそんなもんじゃないと言われた。それは人によると思ったのだが、これ以上追求すると、何だか怒られそうな予感がしたので黙っておくことにした。
「急に呼び出すなんて、どういう風の吹き回し?一体僕に何の用なの?」
「え?用なんてないよ」と遥香は言った。
全然意味が分からなかった。何のために呼び出されたのだろうか。
「え……じゃあ、何するの?」
「語りましょう」
そこから僕らは、何の生産性の無い話をぐだぐだと続けた。だいたいは彼女が話していた。大学で出来た廣瀬という友達の話とか、哲学の講義の隣席の男子がいつもノートを見せて欲しがるという話、そして貸した後にお茶でもしないか、と誘ってくる話。そいつは多分君の事が好きなんだろうと思った。遥香は一般的に可愛らしい顔をしていた。特別美人では無かったが、僕の好きな顔だった。彼女はドーナツをチマチマと食べながら、そんな他愛も無い話をしていた。僕は基本的に相槌を打ち、追加注文したコーヒーを飲んだ。
「何か面白い話は無いの?」遥香は急に話を振ってきた。
「無いよ。特に面白い日々は送ってない」
そうかー、と言って彼女は紅茶を飲んだ。
「好きなことは?」
「読書……かな」
「つまんなーい。それは趣味に入るの?私だって読書くらいするわよ。でも趣味では無いよ。趣味っていうのは、何かこう、夢中になってのめり込んでしまうものの事を言うんじゃないの?」
「趣味というものの定義がそこにあるなら、僕の趣味は趣味と言えるんじゃないかな。僕は読書している時、本にのめり込んでしまうよ。時間を忘れるくらい。今日だって、昼から何も飲まず食わずでひたすら小説読んでたんだ、君から電話が来るまで。さらに君が遅刻してきて、それを待っている間にその小説読み終えちゃったよ。だから僕の趣味は読書だよ。」
「なるほど、何か納得したわ。読書も立派な趣味なのね。ありがとう。私も本好きになるね」
「無理して好きになる事ないよ」
「何の本読んでたの?」
僕は鞄から『朗読者』を取り出した。「これだよ。映画にもなってるんだ」
「朗読者?何か難しそうな本だね」
「まあそうだね。僕には少し早かったかもしれないと思ったよ。だって愛が何だとかよく分からないからね。僕ってまだ十九歳だからさ、愛がどうのこうのってまだピンと来ないんだ」
「私もだよ。でも、そういう本読むのって大事な事だと思うよ。だって、そういった本から学ぶことってあるじゃない?私、あなたほど本読まないけれど」
「面白いんだよ、この本。愛が何だってのは分からないけれど、この本が面白いってことは分かったよ。学んだこともある。でもドイツの話だから縁が無い事が多かったように思ったよ。でもまあ、読んでみてもいいと思うよ、みんな」
「みんなって誰よ?」
僕は冷めきったコーヒーを啜った。
「世界中のみんなだよ」
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