オフホワイトの世界

キズキ七星

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第一章

二.愛してるが故なのよ、多分

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 結局、夕飯は家で食べることになった。遥香を誘ってみたのだが、家で食べると断言してきたので、それなら家に帰ろうと思ったのだ。家に帰る頃には二十一時を過ぎていたので、近隣のスーパーは閉まっていた。家には何も食材が無かったので、コンビニへ行き、酒とツマミとカップ焼きそばを購入した。大学の近くにあるコンビニは年齢確認されないという緩いシステムになっていたので、容易に酒を買うことができた。スーパーや薬局より少し値段が高いのが気になったが、仕方がなかった。今日は、よく分からない理由で呼び出されたかと思いきや、意外と深刻な問題がそこにはあって、僕は疲れきっていた。

 「今日は、何かあって呼び出したんじゃ無いの?」
「何でそう思うの?」
「何でって、そりゃあ理由が無きゃ僕を呼んだりしないと、僕が思ったからだよ。僕らは特別仲が良かったわけじゃ無いじゃない?なのに急に連絡をよこして出てこいだなんて、何かあったとしか思えないんだよ」
「……」遥香は黙っていた。
「言いたく無いなら言わなくていいよ。そんなに気になるわけでも無いから」
「割と酷い事を言うのね。可愛い顔して、あなた酷いところあるのね。でも嫌いじゃ無いよ。なんなら好きよ。でも付き合うとかじゃ無いから許してね、そこは」
もう僕のコーヒーは無くなっていた。次のを頼もうと思ったが、遥香の勘違いを正しておきたかったので次の機会にすることにした。
「誰も付き合ってくれだなんて言ってないよ。適当なこと言ってないで、理由を言ったらどうなんだい?」
「聞きたい?」
「聞きたく無いと言ったら嘘になるかもしれない」
「実はね……」彼女は少し間をとった。
「私ね、二年前から交際している彼がいるの。それでね、一年ほど前かしら。彼が私に暴力振るうようになったの。あ、でも、これは誰にも内緒よ。誰かに言ったことがバレたら、私どうなるか分からないから」
まず恋人がいた事に驚いた。それから、その恋人から暴力を受けているだなんて、自分の耳に疑った。
「それは本当の話なのかい?」
「本当よ。こんな嘘つかないでしょう。誰にも言わないでね、本当に。これを見てよ」
彼女はそう言って、袖をまくってみせた。そこには火傷の跡が残っていた。
「根性焼き?」
「そう。彼、タバコ喫うのよ。それの火を消す度に、私に擦り付けるのよ。本当に熱くって、これ。もう耐えらんないのよ。あなた火傷したことある?」
「無いよ。低温火傷ならあるけれど」
「そんなの比べ物にならないわ。気を失いそうになるほど熱いのよ。やめてって大きな声で言うのよ、私。そうすると、近所にバレたくないのか知らないけど、私を殴って黙らせようとするの。物凄く痛いじゃない?だから、私ぐったりするの。するとね、彼、ごめんって言うのよ。ごめん、もうやめるからって。でも、やめたことないわよ。人間ってそう簡単に変われるものじゃないわね。私、もう疲れきっちゃったのよ」
「それは本当にひどいね。ひどい男だよ。愛する人にそんなこと出来やしないよ、僕は」
「愛してるが故なのよ、多分」
「それは本当に愛って呼べるのかい?そりゃあ、それぞれの人にそれぞれの愛の形はあると思うけれど、それは愛とは呼べないと思うよ。まあ、あくまで僕個人の意見だけれど」
「そう思うのが一般的だわ。でも愛があっても無くても、もう私には関係無いの。私、もう別れたいのよ、彼と」
彼女の目は微かに潤っていた。それが涙なのかは分からなかったが、もし涙だったのならば、僕はそれに気付くべきだったのだろう。気付いて、彼女を救ってあげるべきだったのだろう。しかし、彼女は人前で泣くことを好まない性格のように思えた。だから、僕は気付いていたとしても、その事には触れなかっただろう、と思う。
「僕には何かを言う権利が無いよ。彼のこと何も知らないし。ていうか、君のことも知っているわけじゃない。だから僕は何も言えないんだけど、独り言なら言っていいかい?」
彼女は何も言うことなく、頷いた。
「なんて言うのかな。うまく言えないけれど、僕は、君に幸せになって欲しい。だから、彼とは別れた方がいいと思う。だけれど、僕が思うに、そう出来るのならばとっくにそうしているんじゃないかい?別れられない理由があるんじゃないのかい?これは独り言だから、君は答えることが出来ないけれど、僕はそう思っている。君が抱える理由が何なのか、僕には見当もつかないけれど、僕で良かったらいつでも君の相手になるよ。アルバイトが無い時なら、君のために時間を作るよ。だから頼ってほしい。君に同情するつもりは無いよ、君、同情されるの好まないだろう?これはそんなんじゃないよ」
息継ぎをしたのか分からないほど、早口で喋った。彼女は震えているように見えた。彼女の大きくハッキリとした目は、とろんとしていて、無気力な感じだった。
「ありがとう」そう言って、彼女は残りの紅茶を飲み干した。


 天井の右端にあった黒ずみは、心做しか少し広がっているように思えた。前からこんな大きさだったか思い出せない。だけどそんなことは特に気にならなかった。他に気になって仕方がないものがあったからだ。それは昨日の遥香の話だった。今まで特に仲が良かったわけでもない女の子には恋人がいて、その恋人は彼女に暴力をふるっている。それが僕にどんな風に関係してくるのか、僕には分からなかった。分かるはずもなかった。僕には無関係のはずだった。彼女はなぜ僕に話したのか。その理由が分からない。他にも相談する人はいただろう。しかし、彼女は僕に話し、僕の言葉を聞いていた。それはどんなことを意味するのか。
 ピーピーピーと音がした。お湯が沸いたことを報せる音だ。僕は台所へ向かい、電気ポットの電源を切り、カップ焼きそばにお湯を注いだ。五分待っている間に酒を一本空けてしまった。もう一本を手に取り、プシューという音と共に僕のやる気と元気が体から出ていくのが分かった。ベッドに座り、コップに注がずに飲む。テレビのリモコンが近くに置いてあったので、テレビの電源を付けると、漫才の番組がやっていた。僕は意識が朦朧としていたために、笑いどころが分からなかった。その番組の面白さも分からなかったし、遥香という女の子の人生の面白さも分からなかった。僕の頭の中は彼女でいっぱいだった。ツマミを買ったことを思い出し、鞄の中から取り出して頬張る。それはいつもより苦く感じられた。その理由は明確だったが、なぜ僕がこんなにも悩むことになるんだ、と思った。彼女が僕という友達でない男に話したということが、全く理解できなかった。でもそれは、それほど深い意味を持つものでは無いのかもしれない。ありったけの知識を使って思考を巡らせたが、もうダメだった。僕はそのまま眠りについてしまった。
 朝七時に目が覚めて、酔いが少し残っていることに気づく。二本目の酒は少し余っていたが、もう飲む気になれなかったので台所へ捨てた。すると、そこにはカップ焼きそばが置いてあった。しまった、と思った。昨日作ったまま、食べなかったのだ。麺はべちょべちょになっていて、とても食べられるものでは無かった。そして、昨日夕飯を食べていないことに気づくと、お腹が空いてきた。インスタントの味噌汁を作り、ご飯をレンジで温めると、いつもの朝食がそこにはあった。僕は朝ごはんが一番好きだ。昼や夜の方がマトモなものを食べていないということもあったが、朝ごはんにはどこか幸せが含まれているような気がするのだ。特に幸せとは呼べない僕の人生に、少しだけ幸せを与えてくれるようだった。
 朝ごはんを済ませると、シャワーをして寝癖を直し、歯磨きをする。それから、服を着替えて大学へ向かう。これが僕の朝のルーティーンである。平凡な僕の平凡なルーティーンだ。
 大学に着くと、教室は生徒でいっぱいだった。その中に僕の方を見つめている男を見つける。彼は全力で手を振っていた。僕は彼の元へ向かい、隣の席に座った。
「おはよう、席取っておいてくれてありがとう」
「いいってことよ」ミシマは言った。
「ミシマ、申し訳ないんだけど……。」
「ああ、出席な、ええよ。代わりに取っておいてやるよ」
「ごめんよ、ありがとう」
そう言ってから、僕は教室から出て、喫煙所へ向かった。喫煙所へ行っても、僕がタバコを喫うわけではない。そこにいる人に用があったのだ。喫煙所に近づくと、やはり彼は居た。
「加藤さん」
そう声をかけると、彼はタバコを咥えたまま振り返った。
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