オフホワイトの世界

キズキ七星

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第一章

三.さっきから独り言を話していたのです

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 そこは、副流煙という名の悪魔で満ちていた。僕はつるぎも持っていなければ、魔法を繰り出せる杖も持っていなかった。ただただその悪魔を体内に取り込み、自身のライフポイントを徐々に減らしていった。盾は持っていたが、そんな布きれで顔を覆ったところで何の効果も得られず、すぐに取り外した。僕はタバコが大嫌いだ。幼い頃、父親を禁煙させようとしてタバコを隠そうと試みたことがあったが、その企ては失敗に終わったのだった。彼は、タバコが無いことに気づくと、黙ってコンビニへ出かけていった。それから十分くらい経って帰宅すると、台所でタバコを喫い始めたのだった。僕はそれを見てとても悔やんだ。子供がすることは無力なのだと。さらに、タバコを素手で掴んだため、右手には恐ろしいほど強烈な臭いがこびりついていた。何回も何回も石鹸で手を洗ったが、その臭いはしばらく取れることはなかった。そんな幼き頃のトラウマによって、僕は大のタバコ嫌いになったのだった。
 加藤さんは人差し指と中指でタバコを挟んでいた。僕を一目見ると、タバコの火を消し、仲間に挨拶した。ベージュのロングコートのポケットに手を突っ込みながら此方へ歩いてくる。髪の毛はストレートで少し茶色がかっており、顔がシュッとし、モデルのようなスタイルをした、いわゆるハンサムだった。
「よお、ハシモト。元気だったか?」それほど久しぶりでもないのに、恰も久しいような素振りである。
「それほど久しいわけでも無いじゃないですか」
「相変わらず冷たいなあ、ハシモトくん。そんなんじゃ女っ気一つないだろう?こういう時は、元気ですよって言っとくんだよ」
僕は少しためらった。「元気ですよ」

 加藤さんに初めてあったのは、大学に入学した頃だった。僕が次の講義が行われる教室に辿り着けず、途方に暮れていたところを助けてくれたのだった。どうしたんだ、とハンサムに声をかけられたものだから、怖気付いてしまい、上手く喋れなかったと記憶している。学年が二つ上の彼は、丁寧に教室の場所を教えてくれた。それから一ヶ月ほど経った頃、街中で彼が女性と歩いているところを見かけた。
「こんばんは、加藤さん」
彼は僕のことが分からないみたいだった。誰だ、というような顔をしていた。
「ほら、先月に教室の場所を教えてくださったじゃないですか」
自分が何者なのか説明すると、彼は、あの時の少年か、と思い出してくれたようだった。僕は、彼の隣に立っている女性のことが気になりながら、数分間彼と立ち話をした。そこで分かったのは、学年でいうと二つ上だが、歳は三つ離れていること、中学三年生で受験生の弟がいること、大学の近くに下宿していること(僕の下宿先の近くだった)、バイトはしていないこと、隣にいる女性は恋人ではないこと、というものだった。では隣の女性は誰なのか、と尋ねたところ、「友達」だと教えてくれた。「友達」という言葉には、何か深い意味が込められているように思えた。ただの友達ではなく「友達」であるのは、そういうことなんだろう、と。そういった関係は僕には無縁なことだったので、深く追求しないことにした。それから僕らは別れ、彼らは寄り添いあいながら街中を歩き、僕は一人で歩いた。雨上がりの夜の街はとても美しかった。道路に溜まった雨に、立ち並ぶビルや街灯の灯りが反射し、人々を下から照らしていた。その鏡のような水溜まりを僕は踏みつけた。鏡に波紋というヒビが入り、湿度にまみれた街が歪んでいった。

 僕は前髪をいじった。少し癖っけのある髪の毛は変な方向に跳ねていた。今日の朝はストレートアイロンをし忘れたために、前髪は元気に跳ねていた。
「連絡もよこさずに約半年間どうしてたんだ?」加藤さんは少し怒り混じりな声で言った。彼の後ろには『B棟』という文字があった。
「特にどうもしてないですよ。でも、連絡をずっとしていなかったことは謝ります。ごめんなさい」
「いや、謝ってほしいわけじゃなくてな。俺は、お前のことを心配していたんだよ。ほら、去年の七月頃にお前事故しただろ?取ったばかりの免許で車なんか走らせるから。あれから何も連絡ないっていうのは、いくらなんでも心配すんなと言われても無理な話だぜ」
加藤さんはロビーに置いてある電光掲示板を見て、もう一月か、と呟いた。
「本当にごめんなさい。お騒がせしました。でも、もうすっかり元気になりましたよ。骨折していた腕も完全に治ってしまって、一人で快楽へ導けるようになりました」
加藤さんは、うはは、と笑った。
「そんな冗談も言えるのなら、もう大丈夫だな。で、お前、何か用があってきたんだろう?場所移すか」
僕らは大学から出て、加藤さんの下宿先へと向かった。そこは、僕の大学の学生の中でも特に金持ちたちが下宿している立派な宿舎だった。僕の下宿先とは比べ物にならないほど綺麗で、大きかった。お邪魔します、と言うと、どうぞどうぞ、と返ってきた。加藤さんは僕を大きなソファに座らせ、台所へ消えていった。壁の向こうでは、ポコポコという音がしていた。おそらくコーヒーでも淹れているのだろう。食器の音がカチャカチャと響き、時計の音がかき消された。少し経つと、彼は両手にマグカップを持ってやってきた。
「最近引っ越したばかりでな、こんなコップしかない」と彼は言った。立派なコップじゃないか、と僕は思った。
 僕は、昨日遥香から聞かされた話を加藤さんに全て話した。彼女には誰にも言うなと言われていたが、最も信頼のおける加藤さんには話すべきだと思った。なぜ僕が加藤さんのことを信頼しているのかというと、どうしてか信頼してしまったからだった。特にこうだという理由は無かったが、信頼してもいい人は分かっているつもりだった。
「つまり、お前はどうしたいんだ?」加藤さんは僕を試しているような目つきで尋ねた。
「救いたいんです。彼女が言ったように、彼女の恋人は愛してるが故に暴力を振るっているのかもしれません。でもそれは、僕にとっては愛ではありません。これって、間違っていますか?僕はそう思いません。だから、彼女を救いたいんです。でも、どうしたらいいか分からないんです。加藤さんから何かアドバイスを貰いに来たわけじゃありません。あなたに話せば、何か少しでも自分の中で解決していくんじゃないかと思って話しました。独り言だったのです。さっきから独り言を話していたのです」
加藤さんは僕の目をじっと見て黙っていた。何かを訴えかけているようにも見えたし、そうでもないようにも見えた。
「解決したか?」それだけ言った。
僕は少しの間黙ってしまった。しかし、もうやることは分かっていた。それは明確なことだった。加藤さんに話す前から分かっていたのかもしれなかった。僕は加藤さんの目をまっすぐ見つめた。
「ありがとうございました」そう言ってから僕は、大学へ戻っていった。



 大学へ戻ると、B棟から業火のごとく火が燃え上がっていた。B棟には実験室があり、そこで実験を行っていた学生が誤って火事を起こしてしまったらしかった。加藤さんの家へ行っていなかったら、僕も火事に巻き込まれていたところだった。棟の外には避難した学生たちが集まって、具合悪そうにしていた。僕は、ミシマを探した。さっきまでこの棟で講義を受けていたからだ。しかし、ミシマはどこにもいなかった。すると、棟の中から一人の女子学生が出てきた。目から滝のような涙を流し、何か言っていた。僕は彼女の近くに行き、それを聞き取った。
「まだ中に人がいます。同学年の少し髪の長い男の子です。私を助けてくれたのですが、彼が閉じ込められてしまいました……」と言った。
ミシマは少し髪の長い男だった。でもそれは、ただの偶然であったほしかった。いや、偶然でないわけがなかった。しかし、僕は何も出来なかった。燃え盛る炎の中になんて行けやしないし、行けたところで生きて帰ってこれる保証はなかった。
 しばらくすると、消防士が男子学生を抱えて棟から出てきた。僕は彼の顔を見たくなかったが、見ないわけにはいかなかった。ミシマでないことを確認しなければいけなかった。しかし、見るべきではなかったのかもしれない。燃えてボロボロになった洋服を着た彼は、紛れもなくミシマであった。僕は崩れ落ち、声が出なくなり、息ができなくなった。炎は轟々と燃え上がり、僕から酸素を奪い取っていった。


 火事から一週間が経った。僕は奇妙に思っていた。一週間という時が経っているのに、ミシマの葬式は行われていなかったのだ。ただ僕に案内が来ていないだけなのかと思ったが、誰のところにも来ていないらしかった。念のため玄関に降り、郵便物の確認をした。するとそこには一通の手紙が置いてあった。冬空は虚しく流れていき、黒ずんだ雲が空一面を覆っていた。僕の部屋の天井にある黒ずみは、いつかこんな風になるのかもしれないと思った。
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