アフロディジア -aphrodisia-

キズキ七星

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 これは僕が尊敬する人の受け売りだが、何故だか衝撃を受けた。『昔から、自分がいる未来に漠然とした不安があって、でも最近気づいた。「愛してる」が「愛してた」の持つ美しさを超えられないように、僕が向かう未来には過去より美しいものは無いのだろう。』僕がその未来にいられるのかどうか、知る由はどこにも存在しないのだが、僕は確信を持って断言する。過去よりも美しい未来は無い。


 十一時二十七分。まだ彼女は来ていないらしく、ゴールデンウィークなのでたくさんの人々が駅を行き来している。僕は車の中で彼女が来るのを待つことにした。今日は僕の運転で柊と遠出をする。何処に行くかは全く決めていないが、それはそれで楽しいものになるだろう。無計画ほど、楽しさや喜びがどこまでも広がっていく可能性を無限に秘めたものは無い。その時したいことや話したいこと、見たいものや触れたいものを共有して、それを共に感じて、自身の人生の一ページに残すことが、僕等がすべき事なんだと思う。落ち行く木の葉を眼で追っていると、後ろから肩を掴まれた。驚いて跳ね上がると、お待たせ、と言って微笑む彼女がいた。
 イルカが大ジャンプをして、水飛沫があがり、人々は歓声を上げる。キャストは、イルカに芸をさせる度に餌付けをする。イルカ達はテンポ良く、お姉さんの指示に従って僕等に芸を見せる。僕等は前から三列目の席に座っていたので、飛沫があがる度にずぶ濡れになった。水がかかるから後ろの方に座ろうと言ったのに、柊は前の方がいいと言って階段を降りて行ってしまったので、仕方なく隣に座った。まだ夏でもないのに、ここまで水をかけるイルカもどうかしてる。しかし、隣に座っている別嬪さんはとても楽しそうなので、イルカを赦すことにした。最後に三匹のイルカが順番に跳んだところで、イルカショーは終演を迎えた。日向へ服を乾かしに行こう。
 水族館は人混みに溢れていて、少し目を離すとはぐれてしまいそうになった。だからと言うのは違うかもしれないが、僕は彼女の手を握って引っ張った。その手は小さくて温かくて、彼女への気持ちは増すばかりだ。館内は全体的に薄暗く、恋人達は寄り添って、懸命に泳ぐ魚を眺めている。僕等は恋人ではなかったが、彼等に紛れ込んで一緒に魚を眼で追いかける。
「小さいね。」
「そうだね、柊もあのくらいだったらいいのに。」
「ちょっと待って、今の私はダメなの?」
「はは、可愛いよ。」
「はぁっ!?そういうの反則だよ。」
青黒い照明に包まれた部屋は、僕等の心を癒して、互いの距離を縮めてくれる。物理的距離はほぼ無く、心の距離はあと一センチ程だった。

 スマホの画面には彼女が映っている。美味しそうにアイスクリームを頬張り、目尻に皺を寄せて笑う。シャッターを切って、未来の自分にプレゼントすることにした。永久保存版の一枚。彼女の背景には橙色と白の空が広がっていて、遠くに見える観覧車は静かに、ただただ回っている。夕暮れの空が湖の水面に反射してさらに美しさを増幅させ、人々の記憶に残ろうとする。水面が波打つ度に観覧車は揺れ、建ち並ぶビルは揺れ、人々は揺れる。この世界が如何に歪んでいるのかを伝えているみたいだ。赤色とも橙色とも言えない夕陽の暉は、彼女の茶色の髪を麗らかに照らしていて、その美しさあまり僕は世界の片隅に体育座りしたくなった。
「愛してる。」
意図して言った、でも彼女は此方に視線をやることなく、捩れた世界を眺め続けている。その横顔には彼女の持つ優しさが溢れ出ていて、眼を離すことが出来ない。この世界には僕等二人しか呼吸をしていないみたいに静寂だ。
「ねえ、永井。」
「なんだい。」
「君はさ、どうしたいの?」
「なんのこと?」
「とぼけないで応えてよ。」
「ごめん、でも僕は君といたいよ。」
「……そっか。」
彼女はメロンソーダをストローで吸い上げて少し飲んでは、ストローで氷を回した。氷がぶつかり合う音が、歪んだ世界を形成し直す。
 店長は僕達のために珈琲を煎れてくれている。『ぐれいす』と書かれた看板が窓から見えていて、文字が黒光りしている。暫くすると、僕にはホットコーヒー、彼女にはアイスコーヒーが出された。ゆらゆらと立ち昇る湯気が僕等のそう遠くない未来を映し出しそうになり、息を吹き込んで消す。ズズッと啜ると、ほろ苦い味が口の中に広がる。
「永井。」
「どうしたの。」
「ちょっと話したいことがあるんだけどさ、いいかな。」
「………うん。」
彼女は畏まっていて、妙に緊張感が漂って少し汗が出る。彼女は怯えているように見え、でも何かを決心したようにも見えた。
「何言いたいか、分かる?」
「…うん、なんとなく。」
「そっか、そうだよね。」
彼女はまた黙る。何が言いたいのか、それを予想するには充分な時間が僕等にはあった。彼女と僕の気持ちは同じで、互いを想って、でも互いには伝えられないでいる。そんな焦れったい時間を数ヶ月過ごしてきた。だけど彼女は震えていて、黙り込んでしまっていた。
「柊、分かってる。」
「えっ?」
「君が言いたいことは分かってる。だけど、やはり僕が先に言うことにするよ。柊、僕は君のことが好きだ。君さえ良ければ、彼女になってほしい。」
彼女は驚いた表情を見せたが、すぐに顔を赤らめて微笑み、はい、と返事をした。心臓がいつもより激しく鼓動し、指先まで届く。その音は耳にまで聞こえてきて、破裂するんじゃないかと不安になった、でもそれは彼女も同じのようだった。顔が林檎の様に真っ赤の君は、何よりも綺麗で、世界の穢れを浄化できるだろう。

 僕は君に恋をしている。他の誰よりも君を想っている。君と過去よりも輝く未来を築いていきたい。ネオンで飾られた廊下にはいくつかの扉があって、その一つを開けると、丸テーブルとソファ、ダブルベッドが置いてあった。柊は、部屋に入るなり鞄を投げ捨ててベッドに飛び込んだ。
「鞄が可哀想だよ。」
「いいのいいの。それよりさ、ほら、永井も来なよ。」
「シャワー浴びた後にするよ。」
そう、と言った彼女は照れくさそうな顔をする。薄ピンクで満たされた部屋は、僕等の性欲を鷲掴みする。柊をベッドに残して僕はシャワー室へ向かい、服を脱ぎ捨てる。シャワー室はとても丁寧に清掃されていて、床は暖かかった。床暖房が付いているなんて贅沢だ。蛇口を捻ると、冷たい水が僕の顔を濡らした。
「冷たっ!」
思わず大きな声が出てしまう。どうしたのー、と柊の声が聞こえてきた。何でもない、と返事する。徐々に生温かくなってきたが、一向に熱くならない。水温を上げて少し待っていると、次第に暑くなっていき、終いには熱すぎる程になってしまった。
「熱っ!」
再び大きな声を出す。本当に大丈夫かと柊が叫んだので、大丈夫だ、と叫び返した。
 彼女はシャワー室から出てくると、バスローブだけを着ていた。濡れた髪が彼女のエロさを引き出していて、この上ない可愛さを醸し出していた。その姿を見て、僕は少しずつ勃っていった。シルクの様な彼女の肌はとても柔らかそうだ。ツー、という音が遠くから聞こえた。なかなかに大きな音だと思ったが、彼女には聞こえていないみたいで、ドライヤーをし始めている。それを後ろから見ていたが、ドライヤーの風に吹かれていい香りが漂ってきて、彼女に近寄って抱きしめるとその香りを濃厚に感じることが出来た。幸福感が僕の中に広がっていくと共に、性欲が膨らみ上がってくる。
「どうしたの永井、近すぎるよ。」
「いいんだ、今、僕は幸せなんだ。」
「そりゃあ、私だって最高に幸せだよ。」
「そうだね。でも、僕に構わずドライヤー続けて。」
「集中出来ないんだけどなあ。」
そう言って微笑む彼女を抱きしめ続けて、彼女の匂いを鼻に記憶させる。何か当たってるよ、と彼女が恥ずかしそうに言った。うん、と返事して抱きしめ続ける。僕は近くにあったリモコンで部屋の電気を消す。暗いよ、彼女はそう言ってドライヤーを止め、僕に躰を委ねる。彼女も僕も話すこと無く、互いの息と時計の音だけが聞こえる。やがてその音たちは僕の耳を離れ、僕の知らない場所へ掻き消された。僕は彼女の胸の柔らかさを感じて心地良くなり、それから左手で彼女の頭を撫でてから、右手を首にまわして彼女の首を切り裂いた。その瞬間、生温い液体が飛び散って、目の前の壁に波を描いた。彼女を上向きにし、カッターナイフを持ち替え、彼女の柔らかい胸に押し込む。胸から飛び散った血が顔にかかった。両手が真っ赤に染まっていく。部屋は真っ暗なのに、紅く紅く染まっていくのが分かった。口周りに付いて気持ち悪かったので舐めると、少し鉄の味がした。



 遠くで、ブーンという音が聞こえる。それから、名前を呼ばれている気もする。何だろうと考えていると、物凄い強さの風が顔に向かって吹いたので、慌てて飛び起きる。すると、そこにはドライヤーで髪を乾かしている柊がいた。
「寝てたでしょ。」
「ね、寝てないよ。」
ふーん、と言う彼女は不貞腐れていたが、気付いていないことにした。
「そういえば、永井は髪乾かしたの?」
「いいや、面倒くさいからしてない。」
「ダメ。ちゃんと乾かしなさい。」
何故、柊に怒られないといけないのか分からなかったが、彼女に従うことにする。ドライヤーの電源を入れて髪を乾かしていると、彼女が後ろから抱きついてきた。
「どうしたの柊、近いよ。」
「いいの、だって私、幸せだもん。」
「そりゃあ、僕だって最高に幸せだよ。」
「そうだね。でも、私に構わずドライヤー続けて。」
「集中出来ないんだけどなあ。」
そう言って僕は微笑む。おそらく彼女も微笑んでいて、今僕等はどこの誰よりも幸せを共有している。背中に彼女の温もりと胸の柔らかさを感じる。
「胸、当たってるよ。」
「うん。」
彼女はそう言ってから、近くにあったリモコンで部屋の電気を消す。暗いよ、僕はそう言いながらドライヤーを止め、彼女に躰を委ねる。彼女も僕も話すこと無く、互いの息と時計の音だけが聞こえる。やがてその音たちは僕の耳を離れ、僕の知らない場所へ掻き消された。彼女は左手で僕の髪を撫でてから、右手を首にまわす。僕はズボンのポケットに入っているカッターナイフに手を伸ばす。ああこんなに幸せなことがあっていいのか。僕は今、どの過去よりも美しい現在を生きている。首許に鉄のような冷たい感触を覚えた。

僕は君のことが好…………………………………………。





「只今、新たなニュースが入ってきました。駅近くのラブホテルで殺人事件があったようです。容疑者の名前が判明しました。名前は柊琴音、十九歳、大学一年生とのことです。被害者は顔を酷く負傷しており、身元特定までまだ時間がかかるそうです。追加情報が入って来ましたら、追って報せたいと思います。また、何か有益な情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら、情報提供をお願いします。」



人は皆、着ぐるみを着ていて、僕達は相手の表面しか見ることが出来ない。外見だけを見て人を判断するのは馬鹿のすることであり、愚かな行動だ。見た目に捕われて本質を見失っているのだ。だから、僕達は相手のファスナーを下ろして、彼等の本質は何なのか、見なければならない。取り繕っている化けの皮を剥がさなければならない。僕は、柊のファスナーに気付くべきであり、それを下ろすべきだった。君を失う前に、僕が死ぬ前に、君から着ぐるみを取り剥がして燃やす必要があったのだ。



―幸せ―





           終
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