アフロディジア -aphrodisia-

キズキ七星

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9.Torch

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 視界を黒い点が横切った。何だ、と思って顔を上げると、一羽の黒い鳥が飛び立ったところだった。畑から飛んだであろう黒い点は、少し離れた電線の上に止まる。すると、何十個もの黒い点が畑から出てきて、初めの点と同じ電線に止まる。続いて一つの点が違う電線に移る。すかさず他の点たちは追いかける。さらには、隣の畑から夥しい数の点が飛んでくる。僕はゾッとした。左や右に点が移動するその光景を朧気に見ていたけれど、あまりの多さに、それが地獄から来た悪魔の様に見えて鳥肌が立った。


 夕日の暉が僕に差さる。間に窓を挟んでいるので暉の強さは和らいでいるのだが、それは容赦無く僕に差さる。昨日は家で一人で呑み、非常に酔った。酔った、泥酔したなんて言葉では言い尽くせない程に酔った。僕は脚を震わせながらカーテンまで歩き、閉めて暉を遮断した。遮られた太陽がどんな顔をしているか想像してみる。怒っているだろうか、悲しんでいるだろうか、それとも笑っているのだろうか。僕は、笑っていてほしいと思う。もうカーテンを開けることは無いけれど、それなら別の窓越しの少年や少女、それが駄目ならば老人に暉を差せばいい。そうやって代わりを見つけていけばいい。人間も同じだ。この人が駄目だったならば、あの人へ。ひとつが駄目なら次へ、次へと切り替えていけばいい。そうやって、挫折しながらも代わりを探して生きていく。これが絶対だということなんて滅多に存在し得ない。代わりの物で心に空いた穴を埋めることもあって、そういうのが人生なんだと思う。だが、時にその人生は歪むことを知っている。自分でも理解した上で、代わりがいない事に気付く。これが絶対的人生であり、絶対愛なのではないか。僕は無価値な人生を歩んでいると思っていたけれど、絶対愛を探し出す事に成功した。彼女のためならば、自分の利益を無視して彼女の幸福を求めるだろう。これは利他であって、僕は利他的存在でありたい。そう願う。



 『渡邉千聖』という名前を聞くと、尋常ではない吐気が込み上げてくる。中学の同窓会に来ていた僕は、彼女と仲が良かったこともあって、何度も何度もその名前を耳にした。その度に、腹の底から不快感と嫌悪感が入り交じった穢れを吐き出しそうになり、ジンを飲み干してトイレに行くことを繰り返す。何故、彼女に対してその感情を覚えるのか理解し得なかった。その場は荒れ乱れていて、名前も憶えていない同級生が奇声を発している。僕の視界はぐるぐると渦を巻いて、意識を彼方に投げ捨てそうになったが、チェイサーの水を頼んで何とか回復を試みる。時は既に二十五時を過ぎており、バスも電車も無かったので、柊に電話する。もしもし、と掠れた声で挨拶をすると、眠たそうな声が返ってきた。
「こんな時間にどうしたの?」
「いや、今、飲み会が終わったんだけど、帰る手段が無くてさ。」
「えーと、それは迎えに来いってことかな?」
「そういうことになります。」
「しょうがないなあ。駅だよね、二十分待ってて。」
そういって彼女は電話を切った。
 中学三年生の後期、隣の席だった女が今も隣に座っている。艶があって、顎のラインまでの短い髪型。鼻が少し高く、小さな顔。その女は、高校も同じだった。クラスで一番可愛かったと思う。そんな彼女は泥酔し赤面していて、死んだような顔をしている。彼女の右手は僕の左脚の太腿に置かれていて、僕はそれを眺めていた。
「那菜、手退けて。」
「あっ……ごめん、酔ってて。」
そう言いながらも、彼女は手を退けない。水飲みなよ、そういって僕は彼女にグラスを渡す。彼女はそれを一気に飲んでから俯く。
「ねえ……永井。」
「何。」
「私たち、別れて二年経つじゃん?でもさ、やり直してもいいかなーって。」
「はは、冗談きついよ。」
「………だよね。」
彼女の顔は髪に隠れて見えなかったが、おそらく悲しい表情をしている。二年前、その年から受験生になるという理由で、僕は彼女を振った。嫌いになったとか、そんな幼稚は理由じゃない。彼女と性行為をする際、全身の穴という穴から血が噴き出すような感覚に侵された。異常な程に興奮し、時に彼女の首を締めることがあった。僕はそんな自分が怖くなって、彼女に別れを切り出した。彼女はテーブルの上に置かれていた誰のか分からない水を飲み干す。僕のすぐ右を通った男と接触し、僕と彼女はドミノの様に倒れた。彼女の体温を感じる。心臓の音が聞こえ、彼女が呼吸する度に僕の頭は上下する。胸の柔らかい感触が僕の頬を被う。昔の彼女を思い出し気持ちが昂ったのか、僕の耳は久しぶりに無音を歓迎した。



 聴いたことのある音楽が微かに聞こえてくる。ピーナッツの様な甘い香りがする。意識を取り戻した僕は、視覚が回復するのを待つ。同時に、柊の車の座席に座っていることを理解した。彼女が、意識を失くした僕を居酒屋から引きずり出して帰路に立たせてくれたらしい。彼女は、流れている音楽に乗せて鼻歌を歌っている。それが、とても心地良いことを知る。彼女の何気ない行動は、僕にとってこれ程までに心地良いものなのか。そんな小さな事で、やはり彼女じゃないと、と思った。

「家帰る?」

突然、彼女は言葉した。その発言がどういう意味を含んでいるのか少し考える。

「うん、今日は帰るよ。でも、明日出かけよう。何処か、君が気に入るところに。」
彼女は少し悲しそうな顔をしている様にも見えたが、笑っているようにも見えた。明日は、一日中一緒にいよう。明日は、最高の一日にしよう。彼女が心から楽しんで、何年か後に笑い合いながら話せるような、そんな日に。
 大通りを挟む幾つもの店は既にその息を沈め、歩道に立ち並ぶ街灯だけが僕等を導いてくれている。青や赤に変わる暉は僕等を手懐け、明日への道を進ませる。僕の心は青や赤に光り、彼女への想いを馳せている。僕の人生には彼女が必要だった。大通りの暉の様に僕を進ませてくれる彼女の存在が。



―光―
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