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イナカマチ区画の来訪者 3

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「いっそ獣姿になって、山の下まで突っ走れば、鼻も効くから良いのでは」
「誰かに見られたりしませんです?」
「見られそうですね。というか、見られたらまずいんですよね……うーん、ダメかーダメなのかー……」

 浮かんできた考えを、独楽は頭を振って却下する。
 独楽は獣人だ。獣人は獣の姿を取れば神雷が使えなくなる代わりに身体能力が上昇する。だが、それと同時に獣の本能が強くなり、場合によっては理性すら効くかなくなる。そしてそれは、この継ぎ接ぎ世界が生まれてから、より顕著に表れるようになった。
 恐らくは神力の影響であると多くの者は考えている。人と獣、両方の側面を併せ持つ獣人という不安定な性質が、どちらかに自らを定めようとしているのではという説を唱える学者もいた。
 理性を失い暴れる危険がある故に、獣人達はこの世界ではあまり歓迎されていない。あからさまな態度を取られる事もあれば、遠回しに出て行けと言われる事も少なくはなかった。独楽も何度も経験した事である。
 その一例が就職だ。今のこの世の中、獣人というだけで仕事を貰えない事も多い。今まで勤めていた働き先をクビになった独楽も、その後、様々な場所で雇って貰えないか交渉したものの、獣人だと分かった途端に不採用である。最初は獣人であるという事を隠していても、何かの拍子でバレれば即お払い箱だ。こんな調子で独楽と信太は金欠で空腹、住む場所もなく、区画間をフラフラと渡り歩く事を余儀なくされていた。
 そんな折に偶然に手に入れた、この『イナカマチ区画の守り人募集』というチラシに、独楽は全力で飛びついた。
 給料はそれほど高くはないものの、住み込みオーケーな上に三食付きである。食費が浮くだけでもありがたいのに、チラシに書かれている仕事内容自体も見回りや護衛と、以前の仕事とも似ており、独楽にはうってつけだった。
 仕事が欲しかった独楽にとっては願ってもない奇跡だったのだ。今度は獣人とバラさずに上手くやろうと、独楽は意気揚々とイナカマチ区画へやって来たものの、こんな有様である。
 夏の暑さと空腹に、かき集めた気力も元気も、汗と一緒に流れ落ちた。どうにもこうにも、ツイていない。空腹を訴える腹を手で押さえながら、独楽は肩をすくめた。

「いやはや、しかし、そろそろ何か食べないと獣姿でなくても理性を保てなくなりそうです」
「飢えた獣がーです?」
「ええ、そんな感じです。とても洒落にならないんですが、どうしましょうね。何かこの辺りで食べ物探しますか?」
「信太は美味しくないです」
「食べませんよ、大丈夫ですよ」

 信太の言葉に独楽は思わず苦笑した。

「でも、独楽さま。お約束は良いのですか?」
「約束を破るのは大変よろしくないなのですが……どうにも、間に合う気がしませんから、人里に着いたら電話を借りて、せめて謝罪だけでも……って、うん?」

 兎にも角にもまずは腹に何か入れようと独楽が考えていると、不意に近くの茂みがガサガサと鳴った。反射的に独楽は獣耳と尻尾を引っ込めて、錫杖を手に取って、音の方を向く。
 この音は歩いていると言うよりは、何かが走っているそれだ。信太を膝から下ろすと、独楽は錫杖を杖に立ち上がる。

「何でしょー?」
「小動物にしては、いささか音が大きすぎる気がしますが……ハッ! もしやイノシシかッ!」

 音の正体が何かという警戒心よりも、空腹に軍配が上がったようだ。実に野性的に希望を述べると、信太もまた欲求を素直に口にする。

「信太は油揚げが良いです」

 相変わらずの油揚げ推しであった。だがしかし、さすがに油揚げは野山を走ってはいない。

「油揚げはありませんが、上手く行けば鍋ですよ」
「お鍋です?」
「ええ、お鍋です。イノシシ鍋ですよ。アッツアツのほっかほかです」
「この暑いのにです?」

 夏場、かつ炎天下に鍋は美味しいがなかなかの苦行である。だがしかし、独楽は力強く頷いた。

「鍋だから大丈夫です!」

 言い切った独楽に、信太は目を輝かせた。

「お鍋はすごいですなー独楽さまー」
「そうです、お鍋は凄いのですよ、信太。さすがお鍋、お鍋イエー!」

 あまりに空腹だったため、だんだん変なテンションになっている独楽の頭には、鍋がないとか、調味料はどうするんだとか、そんな考えは消えている。
 ただただ、茂みの向こうを走る食材に期待を込めた眼差しを向けるだけだ。
 イノシシならば頑張ればいける。そんな事を思いながら、独楽は錫杖を握る手に力を込めた。

――――だが、残念ながら、その音の主は独楽が期待したようなものではなかった。

 ガサリ、と一際大きく茂みが揺れると、

「とう!」

 などと、威勢の良い掛け声と共に、誰かが飛び出して来た。
 イノシシではなく人だった。両手を鳥の翼のように堂々と掲げ、茂みから勢いよく現れたのは、ひょろっとした細い体躯の青年だ。
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