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腐敗と枯れた香り
しおりを挟む眼前から血の匂いがする。
床に広がる赤黒い色が、カーペットの赤を汚している。
彼女は最後まで笑っていた、恍惚の笑みで、壊れた玩具みたいに、楽しそうに。
『貴方を何度も何度も殺せるなんて素敵だわ!』
その叫びが、まだ耳の内側で反響している。
僕の鼓膜に、僕の脳に、僕の心臓に、釘みたいに打ち込まれている。
彼女は、微笑んだ。あの淑女の微笑みを、一瞬だけ取り戻して。
それが余計に残酷だった。
僕は、女同士の争いを軽く見た。
陰口や無視や視線の刃を、取るに足らないものだと笑った。
少しばかりの嫌がらせなど、気にすべきじゃないと言い放った。
『我慢しろ。お前は賢いから分かるよね?』
彼女の心を推し量らず、ただ面倒だからと切り捨てた。
彼女の笑顔が作り物になったのはきっと、あれからだった。
あの夜。
公爵令嬢の暗躍によって彼女は断罪され、一時的な避難として領地へ返すことにした夜。
領地へ向かう馬車で事故が起こり、彼女は意識不明の重体となった。
領地へ運ばれた彼女を見舞いに行って、僕は言葉を失った。
白い寝台に横たわる彼女の顔は、真っ白で、まるで死人のように静かだった。いつもの甘く爽やかな香りなどなく、病人特有の薬の匂いで満ちていた。
あの微笑みを浮かべはしない、僕が呼んでも返事をしない。
それに、僕は狂ったようだ。
時間稼ぎだった断罪を経て、公爵令嬢の不正を明るみにして、彼女の名誉を回復させた。
そしてそのまま、僕は王宮の宝物庫へと入り込んでいた。
王家の秘宝、"幻心鏡"。
人の心を鏡に閉じ込めて、現実と同じ幻想世界で暮らせる秘宝。
触れてはいけないもの、代々の王が、禁じてきたもの。
僕はそれを、手にした。
――彼女を取り戻すために。
――彼女の心を、僕の手の中に戻すために。
現実に近い、偽物の世界でなら。
死にかけている彼女の心を映し出し、そこに入った僕と共に永遠の世界で愛し合える。
そう信じて、僕は彼女のことを願いながら、鏡を覗き込んだ。
僕は、愚かだった。
こんなにも憎まれていただなんて、気づいてすらいなかった。
この世界で、僕は自由に行動できない。
だってこの世界は彼女の心の世界だから、僕に選択肢はほとんどなかった。
彼女は何度も何度も、僕を傷つけた。
そのたびに世界は巻き戻った。
彼女の傷は消え、血の匂いは消え、僕の絶望だけが積み上がった。
最初は、耐えられると思った。
彼女が怒っているなら、当然だ。僕が壊したのだから、当然だ。
だから壊れた彼女が満足するまで、僕は罰を受けようと思った。
でも彼女は、
彼女は――楽しんでいた。
憎悪が快楽に変わっていくのを、僕は見た。
甘い香りが血の匂いに変わるのを、僕は感じた。
僕が見たかったのは、彼女の心からの笑顔だった。
でも僕が見せられたのは、僕を殺す彼女の笑顔だった。
僕が許されるのは、目の前を感じることだけ。
彼女が壊れていく過程を。僕が壊した結果を。
僕の罪が調香した、その匂いを。
喉の奥から、嗚咽が漏れた。
「……頼む。もう、やめてくれ」
僕が望んだ世界が、僕の心を食べている。
かつての僕の自己愛が、今まさに僕の首を締めている。
最初から、耐えられるはずがなかった。
愛した相手に、殺したいほど憎まれて、そして擬似的に何度も殺されるなんて。
……耐えられるはずが、なかったんだ。
僕は、この檻を終わらせる方法だけは知っている。
でも手を離した瞬間、彼女はどうなる? 眠りの中で、彼女の心はどこへ行く?
そんなことは、もう考えられない。
ただ、終わらせたかった。
視界が白くなる。
秘宝の中心が、冷たく脈打つ感覚。
僕はそれを掴んで、現実へ戻るために、細い鎖を引き千切った。
次の瞬間、息が喉に刺さった。
悍ましい血の匂いが張り付いて、肺が更に引き攣れた。
人気のない宝物庫、そして僕の傍の地面に、黙した鏡が転がっている。
指が痙攣している、呼吸が苦しい、涙の跡で、頬が冷たい。
冷たい現実に、僕は笑った。
戻った。
戻ってしまった。
戻ってしまった以上、もう逃げられはしない。
僕は彼女を眠らせたまま、ここにいる。彼女を見捨てて、ここにいる。
そして彼女の顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
『貴方を、殺したい――』
僕の心臓が、ひくりと跳ねた。血の匂いが満ちて胃が捻れ、吐き気が込み上げる。
もはや耐えられない。何もかも見たくない。
僕は震える手で、壁に掛けられた短剣を取った。
鈍いそれを、自分の首に当てる。無意識に、涙が溢れていた。
「……ごめん」
何を謝ったのか、自分でも分からない。
「ごめん……」
僕は、目を閉じた。
嗚呼、匂いがする。
切っ先が沈む直前、最後に見えたのは、彼女の、笑顔。
僕を見下ろす、あの血のような鉄錆の笑みが――
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