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無臭
しおりを挟む目を開けた瞬間、世界は明るすぎて眩しくて、思わず瞳を眇めていた。
見慣れた天井に、薄いカーテン越しの春の光。窓の外で呑気に小鳥が鳴いている。
聞き慣れた、けれども王宮では長らく聞いていなかった気配。
香る匂いは、穏やかで嗅ぎ慣れた、故郷の色。
――静かだ。
無意識で、首に触れる。そこにはもう、何も無い。鉄の匂いはしない。
それがどこか、寂しかった。
「……リシェル様?」
誰かの声がして振り返る。
部屋に入ってきていたのは、侍女だった。生家での、わたし付きの侍女。
彼女は目を丸くしてから、次の瞬間には涙をこぼしていた。
「……っ、よかった……! 本当に……!」
わたしは驚いた。泣かれる理由が分からなくて、同時に現状も分からないことに気がつく。
わたしは何をしていた? どこにいた? どうしてここに? どれくらい眠っていた?
でも、目の前で泣き崩れる侍女が気になって、枯れた喉を動かした。
「……あなた、大丈夫?」
思ったより明るい声が出て、まるで自分じゃないみたいだった。
侍女は涙を拭い、何度も何度も頷いた。
「はい……はい、すぐに旦那様に……! お医者様にもご連絡を……!」
侍女が叫びながら部屋を飛び出して、また静かになる。
ぽつん、と取り残された私は、ベッドの上で思った。
胸の奥が、変。痛くない、苦しくない、ただ、ひどく軽い。
長い間、重いものを抱えていたはずなのに、今はそれがこれっぽっちもない。
わたしは自分の手を見た。
誰かに大切に扱われた手。
でも、この手で何をしたのか、分からない。
わたしは、何をしていたんだっけ?
物思いに耽る中、甲高い足音が幾つも響いた。
「リシェル――!」
飛び込んできたのは父だった。以前と違う、浄香のような爽やかな匂い。
髪に白いものが増え、目の下が深く落ち、必死の顔で私を見つめてから、涙を一筋零した。
それだけで分かった。
この人は、王子妃ではなくわたしを、"リシェル"を心配していた。
父はわたしの枕元まで来て、膝をつき、わたしの手を握った。強く、痛いほど。
「……すまない、本当にすまなかったっ……!」
掠れた謝罪の声。
わたしは、ぼんやりと父を見つめた。
何を謝っているのか、さっぱり分からない。
「……お父様?」
「……ああ。そうだ。お前のお父様だ」
泣いている父を見て、わたしは困った。
どう慰めればいいのか分からない。
代わりに、思ったことをそのまま言った。
「……痛い」
父がはっとして手を離す。
「す、すまない……!」
わたしは手をさすりながら、少し首を傾げた。
「お父様、わたし……どれくらい寝てたの?」
父の顔が固まって、それからゆっくりと口が動く。
「一年だ」
一年。
数字は理解できた。でも、その一年の重みに、実感が湧かない。
父は震える声で続けた。
「事故のあと、お前は……ずっと昏睡状態だった。医者は、目覚めない可能性も――」
事故。
その単語が頭の奥で小さく鳴って、反復のように呟く。
「事故……」
「ああ。帰郷の途中で、馬車が横転して……」
言われるが、何も思い出せない。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。
父が、恐る恐る言った。
「……それと、あの断罪劇のことだが」
「……だんざい? って、何?」
父の顔色が変わった。
まさか、記憶が……と呟いてから、尋ねてくる。
「……婚約のことは?」
婚約。
誰と?
分からない。
でも、分からないことに、恐怖が湧かない。
ただ、他人事みたいに遠い話のようだった。
父は目を伏せ、声を絞り出した。
「……公爵令嬢は罰せられた。そして、殿下は……亡くなられた」
殿下。
公爵令嬢。
覚えのない単語の羅列。
けれども香るのは、仄かな鉄の匂い。
「……誰だっけ?」
声に出した瞬間、父の目が大きく揺れた。
悲しみと、救いと、後悔が混ざったような目だった。
その視線が居た堪れなくて、空気を変えるようにわたしは言った。
「ねえ、お父様。わたし、……王宮、向いてないと思う」
我慢ばかりしていた自分でも不思議なくらい、はっきり言えた。
「……そうか」
「それに、お父様のこと……たぶん、わたし嫌い」
父の顔が、真っ白になった。
わたしは驚いた。自分がそんなことを言うと思っていなかったのに、口が勝手に動いた。
でも、嫌悪ではない。ただ、距離を取りたい感じ。
父は息を吸い、吐いてから、震える声で頷いた。
「……すまない」
その謝罪が、もう一度落ちる。
わたしは肩を竦めて受け取った。
「うん。いいよ」
言ってから、自分で目を丸くして、違和感に小首を傾げる。
「いいよ」なんて、こんな軽い言い方――わたし、使ってたっけ?
父が声を殺して泣いている。
わたしは泣かなかった。
泣くべき理由が心のどこにもなくて、何も無かったかのようにさっぱりしていた。
窓の外で鳥が鳴いて、風がカーテンを揺らす。
それを見ていたわたしは、ふと脳裏で小さく呟いた。
(……殿下って、誰だっけ)
顔も、声も、名前も、思い出そうとしても、何も浮かばない。
空っぽで、肩の荷が降りたように軽い。無臭のように、ただ軽い。
わたしは、その軽さのまま微笑んだ。
生きている。
それだけで、もう十分だと思った。
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