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野菜たちが実を結ぶ〜ヘタレ男の夜這い方法〜
3.夜這い
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夜十時。アルヴィンは今、セシリアの家の前に来ている。
心臓が破裂しそうだ。
異常な程に高鳴っている胸を押さえつけながら、そっと窓を覗く。するとカーテンの隙間からセシリアの姿が確認出来た。どうやらまだ起きている様だ。アルヴィンは更に大きくなった鼓動をどうにかしようと、数回深呼吸をした。
今の季節、この時間になると、ノルト村ではそこここで男女が窓越しに会話をしている姿を見る事が出来る。冬は寒くて窓越しに会話なんてしていられない。故に夏は恋の季節だ。
逆にすぐ部屋に入れてくれるからと、冬を好む者もいる様だが、それは少数派だろう。
「すーはーすーはー……よし」
呼吸を整えて意を決すると、コンコンと窓を叩いた。セシリアが驚いた様子で向かってくるのが分かる。まず女性は知り合いかどうか、村人かどうかを確認してから窓を開ける。
カーテンを避けてアルヴィンと目が合ったセシリアは、大慌てで窓を開けてくれた。
「アルヴィン……!」
「あの、えーと……こんばんは」
「え? ええ、こんばんは……」
最初の言葉がこんばんはではおかしかっただろうか。
ロレンツォなら『月が綺麗な夜ですよ。あなたには敵いませんが』とか何とか言いそうだ。しかしそんな歯の浮く様な台詞は、アルヴィンにはとてもじゃないが言えそうに無い。
「……」
「……」
アルヴィンが黙っている為か、セシリアも黙ってしまっている。仕事終わりならばとめどなく会話が溢れるというのに、何も出て来ない。思えば、野菜の事でしか盛り上がらなかった二人だ。アルヴィンに甘い言葉を囁けという方が、無理なのである。
ふとアルヴィンは手の中にある物に気付いて、それをセシリアに差し出した。
「……トマト?」
「ああ、今日収穫したばかりのトマトだ。セシリアに食べて貰いたくて」
セシリアに食べて貰いたいだけなら、仕事終わりに会うのだから持っていけばいい話だ。しかし、何故こんな時間に持って来たかなど問いはせず、セシリアはトマトを受け取ってくれた。
「うわあ……大きくて、色も形もいいわね。美味しそう。今食べてもいいの?」
「ああ、食べてみてくれ!感想が聞きたい!」
アルヴィンが身を乗り出して言うと、セシリアは笑みを洩らしながらトマトにかぶり付いてくれる。
「……うん」
「どうだ!?」
「すごい糖度。まるでスイカの様よ!甘くて、水っぽくないのにジューシーで、こんなに皮が薄くて繊細なトマトは初めて!」
「そうだろ!?これを作るまでの苦労と言ったら、俺の人生を全て語らないと言い表せられないんだ!」
アルヴィンの大袈裟な表現に、セシリアは微笑みを見せて頷いてくれていた。彼女は分かってくれているのだ。このトマトを作り出す為の苦労が、どんな物であるかを。
アルヴィンは何故だか、不意に泣きそうになった。セシリアが自分を理解してくれている気がした。そして、そんな彼女を本当に愛おしく感じた。一緒にトマトとオレンジ畑を作りたいと強く願った。
と、同時に。
彼女から拒否される事に、酷く恐怖を覚えた。拒否されてしまったらどうなってしまうのか。ロレンツォは大丈夫だと言ったが、一体何がどう大丈夫なのかさっぱり分からない。
「どうしたの? アルヴィン……」
セシリアは涙ぐんでいるアルヴィンを見て、不思議そうに首を傾げている。色んな感情が一気に噴き出し過ぎて、どうにも表現しきれない。
「……」
「……」
二人はまたも黙してしまった。気になるのは時間だ。どれ位経ったのだろうか。まだ一分だろうか、それとももうすぐ三分だろうか。
ロレンツォは三分経った途端に窓を閉められたと言っていた。自分もこの窓を閉められてしまうのだろうか。あの言葉巧みなロレンツォでさえも、三分しか話をさせて貰えなかったという事実。それは沈黙しか生み出せない自分では、拒絶されるのは確実という事だ。
「じゃ、じゃあな、セシリア」
「っえ?」
アルヴィンは三分経過する前に、自分から逃げ出した。
怖かった。彼女に拒絶されるのが、とてつもなく。
もしも迷惑顔で窓を閉められたりしては、もう今までの様に話が出来ない。そう思った。
逃げ帰る夜道で、来る途中で見た男女が、まだ楽しそうに窓越しに談笑している。何故あんなに会話を続けられるのだろう。とてもじゃないが、自分には出来そうにない。
ふと別の方に視線を向けると、ロレンツォが窓から部屋に入って行くのが見えた。相変わらずお盛んな男である。あんなに簡単に部屋に入れてもらえて、羨ましくもあった。
アルヴィンは大きく溜息をついた。こんな事なら、もっと早くから経験を積んでおけば良かったと。好きな人が出来た時、こんなに困る事になるとは思ってもいなかった。
「はぁぁ……俺、ずっとこんななのかな……」
ガックリ肩を落とし、涙を滲ませる。
セシリアの事を考えると胸が痛くて、その胸を両手で押さえつけた。こんなにもセシリアの事を考えているというのに、その思いの丈を一言も表せられない。伝えたい気持ちはあっても、どうしても伝えられないのだ。
その夜のアルヴィンの部屋は、溜め息の漏れ出る音で満たされていた。
次の日の夕方、アルヴィンは当たり前のようにセシリアに会った。
昨晩の事を話に出されてしまうかと思ったが、彼女は何も言ってこなかった。ほっとしたのと同時に、少し拍子抜けでもある。
会話もいつも通り野菜の話で盛り上がった。互いの夢を熱く語り合う、この時間が本当に幸せだ。しかし何も変わらず接してくれる彼女を有難いと思う反面、心の中で不安が芽を吹き始める。
昨日の事、何とも思ってないのか?
俺がその気だって気付いてて、尚且つ普通に振る舞ってるって事は……
セシリアにとって、俺はそういう対象で見てくれてないって事なのか。
どうすればいいのだろう、とアルヴィンは真剣に頭を悩ませ考えた。昨夜、逃げてしまったのが悪かったのかもしれない。もっと、ちゃんと話をしなければいけなかった。セシリアもいきなり逃げられてしまっては、混乱したに違いない。
今夜もトマトを持って行こうと、アルヴィンは心に決めた。
しかし、その晩も同じ事を繰り返してしまう事となる。
トマトを渡し、会話は出来ず、三分経つ前に逃げ出す。それを、二度ならず三度、三度ならず四度、毎日毎日同じ事を繰り返した。
毎日トマトを渡すだけの日々。やがてトマトの季節が終わり、最後のトマトを渡す時も同じ過ちを繰り返してしまった。
夏が終わる。
何の進展も無かった。
トマトが手の中にないと、セシリアの所に行く勇気さえ起きなかった。他の野菜では代わりにはならない。
夜這いに行かなくなってからも、仕事終わりにセシリアと話をする事は相変わらず続いている。彼女からは夜這いに来なくなった理由を、特に問われる事は無かった。夜這いというより、トマトの配達に行っていた様なものだったが。
来年に、持ち越しかな……。
胸がぎゅっと締め付けられ、アルヴィンはベッドの上に塞ぎ込む。
ずっとこんな気持ちを抱えて行かなきゃいけないのか。
そう考えると急に涙が溢れた。来年、上手く行くとは限らない。もしかしたら今日、彼女は誰かに夜這いをされているかもしれない。来年には誰かと結婚しているかもしれない。念願のオレンジ畑を、誰かと作っているかもしれない。
「……いやだ……っ」
居もしない誰かに、アルヴィンは激しく嫉妬した。セシリアが誰かの傍で笑っている姿を想像するだけで、頭がおかしくなりそうだ。
苦しい。胸が苦しくて、息も出来ない。涙ばかりが勝手に溢れ出てくる。自分の不甲斐なさが、悔しくて仕方ない。
「セシリア……ッ」
彼女と一緒になりたい気持ちはあるのに、どう伝えて良いか分からない。もしも何も思われていなかったらと思うと、怖くて聞けない。
とその時、コツンと音がした。
兄がドアをノックしたのかと思い、大慌てで涙を拭う。
「はい?」
しかし、入ってくる様子は無い。聞き違いだったのだろうか。
コツン。
「……窓?」
アルヴィンは訝りながらも立ち上がる。そっとカーテンを開けると、そこには黒髪で伏し目がちの女性の姿。
「セシリア!!」
アルヴィンは大慌てで窓を開けた。月夜に照らされたセシリアは、いつも以上に綺麗に見える。
「アルヴィン……あの、こんばんは」
「え? えっと、こんばんは」
二人は窓越しにぺこりと頭を下げた。おかしな光景である。
しかしアルヴィンは混乱していた。こうして夜に、窓越しに話しかけてくるというのは、ノルト村では立派な夜這い行為なのだ。女性側から仕掛ける逆夜這いがある、とは聞いた事はあったが、まさかそれを自分がされるとは思ってもみなかった。しかも相手は、アルヴィンの思い人であるセシリアである。
「え、えーっと……」
何しに来たのかと言い掛けて、思い止まった。何しに来たのかなど、明白だ。夜這いとは本来、男女の行為を指すのだから。
どうしよう……?
何と言えばいいのか悩んだ。夜這いに来たという事は、少なくともアルヴィンに対して悪い感情を抱いてはいないだろう。その事自体はすごく嬉しかった。
しかしどうやって部屋に誘えばいいのか。『入ってく?』では何だかお軽い。待ってました、大ラッキー! という感じだ。アルヴィンはそれだけが目的で毎日トマトを持って通ったのでは無い。自分の気持ちを伝えて、愛を囁き、受け入れられた上で行為に及びたかったのだ。
「……」
「……」
やはりいつものような沈黙が訪れた。意を決して来てくれたであろう彼女に、恥をかかせてはいけない。気の利いた事を言って、部屋に入って貰って。
そこまで考えて、アルヴィンは顔は火照っていく。今の彼女の服装は……スカートだ。
窓を越えさせると、パンツが見えないか?
邪な絵図が脳裏をよぎり、アルヴィンはバツの悪さからセシリアの顔から視線を外した。ほんの少し視界に入っている彼女がビクリと動いたのは、気のせいだろうか。
「あの……これを渡しに来ただけだから」
その手には、ひとつの綺麗なオレンジ。それがセシリアから差し出される。
「アルヴィンに食べて貰いたいとずっと思ってたの。食べてくれる?」
「ああ、勿論!」
アルヴィンはそのオレンジを喜んで受け取った。皮に指を入れると、小気味良い音を立てて綺麗な実を覗かせている。そのまま剥き進め、一房手に取ると口に頬張った。瞬間、その味にアルヴィンは目を見開かせる。
「ああ、美味い! 甘味と程よい酸味が合わさった、濃厚さ……それにこの香りの高さ! 粒もひとつひとつがしっかりしていて、口の中で弾ける! こんなオレンジは初めてだ!」
ありのままの感想を言うと、セシリアは彼女らしく嬉しそうに控えめな微笑みを見せてくれた。
「ありがとう、アルヴィン。そんな評価を貰えて嬉しい」
その笑顔を見ると、いつも心臓が高鳴る。セシリアが可愛くて愛しくて、抱き締めたい衝動に駆られる。
「……」
「……」
何か言葉を繋がなければ。部屋に誘う文句を言わなくては。
「……じゃあ、またね」
しかし考えている間に、セシリアは踵を返してしまった。
「……っあ」
待ってくれとも言えず、その後ろ姿を見送るしかなく。
その寂しげな姿を、闇夜に消えてしまってからも探していた。
手の中にオレンジの香りだけを残したセシリアはその日、アルヴィンの元に戻っては来なかった。
心臓が破裂しそうだ。
異常な程に高鳴っている胸を押さえつけながら、そっと窓を覗く。するとカーテンの隙間からセシリアの姿が確認出来た。どうやらまだ起きている様だ。アルヴィンは更に大きくなった鼓動をどうにかしようと、数回深呼吸をした。
今の季節、この時間になると、ノルト村ではそこここで男女が窓越しに会話をしている姿を見る事が出来る。冬は寒くて窓越しに会話なんてしていられない。故に夏は恋の季節だ。
逆にすぐ部屋に入れてくれるからと、冬を好む者もいる様だが、それは少数派だろう。
「すーはーすーはー……よし」
呼吸を整えて意を決すると、コンコンと窓を叩いた。セシリアが驚いた様子で向かってくるのが分かる。まず女性は知り合いかどうか、村人かどうかを確認してから窓を開ける。
カーテンを避けてアルヴィンと目が合ったセシリアは、大慌てで窓を開けてくれた。
「アルヴィン……!」
「あの、えーと……こんばんは」
「え? ええ、こんばんは……」
最初の言葉がこんばんはではおかしかっただろうか。
ロレンツォなら『月が綺麗な夜ですよ。あなたには敵いませんが』とか何とか言いそうだ。しかしそんな歯の浮く様な台詞は、アルヴィンにはとてもじゃないが言えそうに無い。
「……」
「……」
アルヴィンが黙っている為か、セシリアも黙ってしまっている。仕事終わりならばとめどなく会話が溢れるというのに、何も出て来ない。思えば、野菜の事でしか盛り上がらなかった二人だ。アルヴィンに甘い言葉を囁けという方が、無理なのである。
ふとアルヴィンは手の中にある物に気付いて、それをセシリアに差し出した。
「……トマト?」
「ああ、今日収穫したばかりのトマトだ。セシリアに食べて貰いたくて」
セシリアに食べて貰いたいだけなら、仕事終わりに会うのだから持っていけばいい話だ。しかし、何故こんな時間に持って来たかなど問いはせず、セシリアはトマトを受け取ってくれた。
「うわあ……大きくて、色も形もいいわね。美味しそう。今食べてもいいの?」
「ああ、食べてみてくれ!感想が聞きたい!」
アルヴィンが身を乗り出して言うと、セシリアは笑みを洩らしながらトマトにかぶり付いてくれる。
「……うん」
「どうだ!?」
「すごい糖度。まるでスイカの様よ!甘くて、水っぽくないのにジューシーで、こんなに皮が薄くて繊細なトマトは初めて!」
「そうだろ!?これを作るまでの苦労と言ったら、俺の人生を全て語らないと言い表せられないんだ!」
アルヴィンの大袈裟な表現に、セシリアは微笑みを見せて頷いてくれていた。彼女は分かってくれているのだ。このトマトを作り出す為の苦労が、どんな物であるかを。
アルヴィンは何故だか、不意に泣きそうになった。セシリアが自分を理解してくれている気がした。そして、そんな彼女を本当に愛おしく感じた。一緒にトマトとオレンジ畑を作りたいと強く願った。
と、同時に。
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「どうしたの? アルヴィン……」
セシリアは涙ぐんでいるアルヴィンを見て、不思議そうに首を傾げている。色んな感情が一気に噴き出し過ぎて、どうにも表現しきれない。
「……」
「……」
二人はまたも黙してしまった。気になるのは時間だ。どれ位経ったのだろうか。まだ一分だろうか、それとももうすぐ三分だろうか。
ロレンツォは三分経った途端に窓を閉められたと言っていた。自分もこの窓を閉められてしまうのだろうか。あの言葉巧みなロレンツォでさえも、三分しか話をさせて貰えなかったという事実。それは沈黙しか生み出せない自分では、拒絶されるのは確実という事だ。
「じゃ、じゃあな、セシリア」
「っえ?」
アルヴィンは三分経過する前に、自分から逃げ出した。
怖かった。彼女に拒絶されるのが、とてつもなく。
もしも迷惑顔で窓を閉められたりしては、もう今までの様に話が出来ない。そう思った。
逃げ帰る夜道で、来る途中で見た男女が、まだ楽しそうに窓越しに談笑している。何故あんなに会話を続けられるのだろう。とてもじゃないが、自分には出来そうにない。
ふと別の方に視線を向けると、ロレンツォが窓から部屋に入って行くのが見えた。相変わらずお盛んな男である。あんなに簡単に部屋に入れてもらえて、羨ましくもあった。
アルヴィンは大きく溜息をついた。こんな事なら、もっと早くから経験を積んでおけば良かったと。好きな人が出来た時、こんなに困る事になるとは思ってもいなかった。
「はぁぁ……俺、ずっとこんななのかな……」
ガックリ肩を落とし、涙を滲ませる。
セシリアの事を考えると胸が痛くて、その胸を両手で押さえつけた。こんなにもセシリアの事を考えているというのに、その思いの丈を一言も表せられない。伝えたい気持ちはあっても、どうしても伝えられないのだ。
その夜のアルヴィンの部屋は、溜め息の漏れ出る音で満たされていた。
次の日の夕方、アルヴィンは当たり前のようにセシリアに会った。
昨晩の事を話に出されてしまうかと思ったが、彼女は何も言ってこなかった。ほっとしたのと同時に、少し拍子抜けでもある。
会話もいつも通り野菜の話で盛り上がった。互いの夢を熱く語り合う、この時間が本当に幸せだ。しかし何も変わらず接してくれる彼女を有難いと思う反面、心の中で不安が芽を吹き始める。
昨日の事、何とも思ってないのか?
俺がその気だって気付いてて、尚且つ普通に振る舞ってるって事は……
セシリアにとって、俺はそういう対象で見てくれてないって事なのか。
どうすればいいのだろう、とアルヴィンは真剣に頭を悩ませ考えた。昨夜、逃げてしまったのが悪かったのかもしれない。もっと、ちゃんと話をしなければいけなかった。セシリアもいきなり逃げられてしまっては、混乱したに違いない。
今夜もトマトを持って行こうと、アルヴィンは心に決めた。
しかし、その晩も同じ事を繰り返してしまう事となる。
トマトを渡し、会話は出来ず、三分経つ前に逃げ出す。それを、二度ならず三度、三度ならず四度、毎日毎日同じ事を繰り返した。
毎日トマトを渡すだけの日々。やがてトマトの季節が終わり、最後のトマトを渡す時も同じ過ちを繰り返してしまった。
夏が終わる。
何の進展も無かった。
トマトが手の中にないと、セシリアの所に行く勇気さえ起きなかった。他の野菜では代わりにはならない。
夜這いに行かなくなってからも、仕事終わりにセシリアと話をする事は相変わらず続いている。彼女からは夜這いに来なくなった理由を、特に問われる事は無かった。夜這いというより、トマトの配達に行っていた様なものだったが。
来年に、持ち越しかな……。
胸がぎゅっと締め付けられ、アルヴィンはベッドの上に塞ぎ込む。
ずっとこんな気持ちを抱えて行かなきゃいけないのか。
そう考えると急に涙が溢れた。来年、上手く行くとは限らない。もしかしたら今日、彼女は誰かに夜這いをされているかもしれない。来年には誰かと結婚しているかもしれない。念願のオレンジ畑を、誰かと作っているかもしれない。
「……いやだ……っ」
居もしない誰かに、アルヴィンは激しく嫉妬した。セシリアが誰かの傍で笑っている姿を想像するだけで、頭がおかしくなりそうだ。
苦しい。胸が苦しくて、息も出来ない。涙ばかりが勝手に溢れ出てくる。自分の不甲斐なさが、悔しくて仕方ない。
「セシリア……ッ」
彼女と一緒になりたい気持ちはあるのに、どう伝えて良いか分からない。もしも何も思われていなかったらと思うと、怖くて聞けない。
とその時、コツンと音がした。
兄がドアをノックしたのかと思い、大慌てで涙を拭う。
「はい?」
しかし、入ってくる様子は無い。聞き違いだったのだろうか。
コツン。
「……窓?」
アルヴィンは訝りながらも立ち上がる。そっとカーテンを開けると、そこには黒髪で伏し目がちの女性の姿。
「セシリア!!」
アルヴィンは大慌てで窓を開けた。月夜に照らされたセシリアは、いつも以上に綺麗に見える。
「アルヴィン……あの、こんばんは」
「え? えっと、こんばんは」
二人は窓越しにぺこりと頭を下げた。おかしな光景である。
しかしアルヴィンは混乱していた。こうして夜に、窓越しに話しかけてくるというのは、ノルト村では立派な夜這い行為なのだ。女性側から仕掛ける逆夜這いがある、とは聞いた事はあったが、まさかそれを自分がされるとは思ってもみなかった。しかも相手は、アルヴィンの思い人であるセシリアである。
「え、えーっと……」
何しに来たのかと言い掛けて、思い止まった。何しに来たのかなど、明白だ。夜這いとは本来、男女の行為を指すのだから。
どうしよう……?
何と言えばいいのか悩んだ。夜這いに来たという事は、少なくともアルヴィンに対して悪い感情を抱いてはいないだろう。その事自体はすごく嬉しかった。
しかしどうやって部屋に誘えばいいのか。『入ってく?』では何だかお軽い。待ってました、大ラッキー! という感じだ。アルヴィンはそれだけが目的で毎日トマトを持って通ったのでは無い。自分の気持ちを伝えて、愛を囁き、受け入れられた上で行為に及びたかったのだ。
「……」
「……」
やはりいつものような沈黙が訪れた。意を決して来てくれたであろう彼女に、恥をかかせてはいけない。気の利いた事を言って、部屋に入って貰って。
そこまで考えて、アルヴィンは顔は火照っていく。今の彼女の服装は……スカートだ。
窓を越えさせると、パンツが見えないか?
邪な絵図が脳裏をよぎり、アルヴィンはバツの悪さからセシリアの顔から視線を外した。ほんの少し視界に入っている彼女がビクリと動いたのは、気のせいだろうか。
「あの……これを渡しに来ただけだから」
その手には、ひとつの綺麗なオレンジ。それがセシリアから差し出される。
「アルヴィンに食べて貰いたいとずっと思ってたの。食べてくれる?」
「ああ、勿論!」
アルヴィンはそのオレンジを喜んで受け取った。皮に指を入れると、小気味良い音を立てて綺麗な実を覗かせている。そのまま剥き進め、一房手に取ると口に頬張った。瞬間、その味にアルヴィンは目を見開かせる。
「ああ、美味い! 甘味と程よい酸味が合わさった、濃厚さ……それにこの香りの高さ! 粒もひとつひとつがしっかりしていて、口の中で弾ける! こんなオレンジは初めてだ!」
ありのままの感想を言うと、セシリアは彼女らしく嬉しそうに控えめな微笑みを見せてくれた。
「ありがとう、アルヴィン。そんな評価を貰えて嬉しい」
その笑顔を見ると、いつも心臓が高鳴る。セシリアが可愛くて愛しくて、抱き締めたい衝動に駆られる。
「……」
「……」
何か言葉を繋がなければ。部屋に誘う文句を言わなくては。
「……じゃあ、またね」
しかし考えている間に、セシリアは踵を返してしまった。
「……っあ」
待ってくれとも言えず、その後ろ姿を見送るしかなく。
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