「僕が望んだのは、あなたではありません」と婚約破棄をされたのに、どうしてそんなに大切にするのでしょう。【短編集】

長岡更紗

文字の大きさ
167 / 173
婚約破棄の続きをどうぞ、王子殿下

中編

しおりを挟む
 白い月の光が降り注ぐ中庭を、レイナとゼイドは肩を並べて歩いていた。

 夜風が、レイナの長いダークブロンドの髪をふわりと揺らす。
 月明かりに透けるその髪は、琥珀色の瞳と相まって、どこか儚く、けれど凛とした美しさを宿している。
 レイナの横顔には、静かな誇りと揺るぎない意思が宿っていた。

 その隣には、ゼイドの姿。
 鍛え抜かれた体躯は軍服越しでも明らかで、その佇まいには威圧感と気品が滲んでいた。深い紺の瞳が、ただ一人レイナを真っ直ぐに見つめている。

 二人は自然と手を取り合っていた。
 指先の温もりを確かめるように、どちらもその手を離そうとしない。

 ふとゼイドは、レイナの横顔に目を留めた。
 柔らかく笑ってはいるものの、その瞳の奥に、ほんのかすかな影が差している。

「……なにか、不安でもあるのか?」

 問いかけは静かで、けれど真っ直ぐだった。
 レイナは少しだけ目を見開き、それからはにかむように笑う。

「……あんな騒動の中で、わたくしの手を取ってくださったことが、まだ信じられなくて」

 こぼれる声は、どこか夢の中にいるような揺らぎを帯びていた。
 ゼイドは一瞬だけ目を伏せ、それからまっすぐに彼女を見つめる。

「俺が君の手を取ったのは、衝動でも同情でもない。……心からそうしたいと思ったからだ」

 その言葉は、ゆっくりと、丁寧に紡がれた。
 レイナの瞳が揺れ、細く息を飲む。

「君は、誰よりも誇り高く、誰よりも強い。俺は……そんな君に、最初から心を奪われていた」

 思いがけない告白に、レイナの琥珀の瞳が大きく見開かれる。

 けれどゼイドは焦らず、ただ静かに、真実だけを語るように口を開いた。

「最初に君を見かけたのは、宮廷での小さな茶会だった。皆が王族に媚びへつらう中、君だけは正面から人の目を見て話していた。少しも偽らず、上品で、けれど凛としていた」
「……そんなこと、覚えていてくださったのですね」

 レイナの声には、驚きと嬉しさが入り混じっていた。ゼイドは静かに頷く。

「忘れられるものか。あの時、既に彼の婚約者として扱われていた君は、どこか遠い存在だった。でも……俺はあの日から、ずっと気になっていた」

 夜風が再び、レイナの髪を撫でていく。その輪郭を月光が縁取るたびに、ゼイドの視線は離れなかった。

「君が、急病で倒れた侍女に声をかけて助けていたのも、覚えている。人目のないところでこそ、人の真価は見える。君は……ただ、尊敬に値した」

 レイナの表情がわずかに揺れる。彼女の琥珀の瞳に、遠い記憶の残り香が映る。

「そんなふうに思っていてくださったなんて……」

 ゼイドは、そっと彼女の手を自分の胸元に引き寄せた。軍服越しに伝わる鼓動が、確かな熱を刻んでいる。

「そして……あのとき、殿下とアリーネ嬢の姿を見て、君が無理をして笑おうとしていたことが、強く心に残っている。唇を噛み締めて、涙をこらえていたことも……俺は気づいてしまった」
「……お恥ずかしいですわ」

 レイナは当時を思い出して目を伏せる。
 ゼイドの胸の奥に、ひとしずくの涙が沁み入る気配がした。

「君が無理をしているのが、痛いほど伝わった。……あの時から俺は、君の笑顔を守りたいと、そう思うようになった」

 その言葉には、一片の迷いもなかった。紺の瞳が、真正面からレイナの瞳に重なる。

「君の涙を見たあの日から、俺はただの騎士ではなく、一人の男として君を想い続けてきた」

 レイナの瞳に涙が浮かび、心の奥でくすぶっていた不安が、そっと溶けていく。

「ゼイド様の心に、わたくしの居場所があると……そう信じて、よろしいのですか?」
「俺の心は、君がいてこそ完成するんだ。俺は、君のそばにいたい。人生を共に歩む者として」

 ゼイドの声は低く、優しく、そして揺るぎない。

「君のその手を、俺の最後の日まで、守り抜く。……愛している、レイナ」

 その言葉が胸に届いた瞬間、レイナの目から静かに一粒、涙がこぼれ落ちた。けれどそれは、悲しみではない。

「……はい。わたくしも、あなたを、ずっと……」

 その言葉に込められた想いはどこまでも深く、まっすぐで。長く閉ざされていた心が、ようやく光の中でほどけていく。

 二人の唇が、そっと重なった。

 それは誓いの口づけ。抑えていた想いを解き放ち、初めて誰かと歩む未来を選ぶための静かな契約。

 ──もう、あの涙の夜には戻らない。

 今、彼女の隣には、いつでも手を差し伸べてくれる人がいる。

 唇を離したあとも、ふたりは名残惜しそうに互いを見つめ合ったままだった。

 レイナは、胸の奥に温かい光が灯ったような気がして、そっと目を伏せる。
 そして少しだけ、笑みをにじませた。

「……ふふ。今だから言えますけれど、あの時は本当に驚きましたわ。まだ王子と婚約していたわたくしに、突然プロポーズなさるなんて」

 くすくすと笑う声にゼイドは少し眉を下げ、照れたように視線を逸らした。

「……黙って見ているのが、もう耐えられなかったんだ。君が苦しんでいるのを知っていて、ただの傍観者ではいられなかった」
「ふふ……でも、あのときのあなた、本当に真剣でした」

 レイナは懐かしむように目を細め、やさしい笑みを浮かべる。

「だからわたくし、あのあと勇気を振り絞って、陛下に申し上げましたの。クロヴィス殿下との婚約を、白紙にしていただけないかって」

 ゼイドは目を細めると、ふっと息を吐いて微笑んだ。

「そうだったな。君のその強さには、本当に驚かされた。……俺が言うつもりでいたのに、先を越されたよ」

 レイナは小さく首を振り、彼の手をそっと握り返す。

「それはもう……あのときは緊張で、足がすくみそうでしたわ。でも……誰かに任せてはいけないと思ったんです。自分の人生を、自分の言葉で選びたくて……あなたの気持ちに、応えるためにも」

 その瞳には、静かな決意が宿っていた。
 それにしても、とレイナは王とのやり取りを思い出して首を傾げる。

「陛下があっさりと認めてくださったのには驚きましたけれど。あなたって、いったい何者なのですの?」

 ゼイドは言葉を探しかけてためらうと、レイナは微笑みながら続けた。

「陛下のお目に留まるほどのご活躍をなさる、騎士団長様ですものね」

 自分で答えを見つけたレイナにゼイドは苦笑しつつ、彼女の手をそっと握り返した。

「……本当に、強い人だ。俺なんかより、よほど」

 レイナは微笑みを浮かべながらも、ほんの少しだけ目を伏せて答えた。

「違いますわ。あなたがいたから、踏み出せたのですもの」

 レイナはゼイドの手をそっと握りしめる。

「あなたの手を取ることが、わたくしの人生でいちばん勇気を出した瞬間ですわ」
「その手を、俺がこれからも引き続ける。君がもう、悲しみの中でひとりにならないように」

 ふたりは月光の中、そっと寄り添い、互いの温もりを確かめ合うように、その場に静かにたたずんでいた。


***

 一方、舞踏会場にはクロヴィス王子が、ただひとり取り残されていた。

 灯りは煌めいているのに、空気は冷たい。拍手も笑顔も、すでに彼のものではない。

「……俺が捨てるつもりだったのに……なぜ、すべてを失っている……?」

 唇が震えても、誰も寄り添ってはくれない。

 アリーネも、レイナも、ゼイドすらも。
 誰一人、彼を振り返らなかった。

「レイナ……」

 その名を呼ぶ声は、情けない末路を迎えた男の、最後の未練だった。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!

花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」 婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。 追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。 しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。 夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。 けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。 「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」 フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。 しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!? 「離縁する気か?  許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」 凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。 孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス! ※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。 【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】

「陛下、子種を要求します!」~陛下に離縁され追放される七日の間にかなえたい、わたしのたったひとつの願い事。その五年後……~

ぽんた
恋愛
「七日の後に離縁の上、実質上追放を言い渡す。そのあとは、おまえは王都から連れだされることになる。人質であるおまえを断罪したがる連中がいるのでな。信用のおける者に生活できるだけの金貨を渡し、託している。七日間だ。おまえの国を攻略し、おまえを人質に差し出した父王と母后を処分したわが軍が戻ってくる。そのあと、おまえは命以外のすべてを失うことになる」 その日、わたしは内密に告げられた。小国から人質として嫁いだ親子ほど年齢の離れた国王である夫に。 わたしは決意した。ぜったいに願いをかなえよう。たったひとつの望みを陛下にかなえてもらおう。 そう。わたしには陛下から授かりたいものがある。 陛下から与えてほしいたったひとつのものがある。 この物語は、その五年後のこと。 ※ハッピーエンド確約。ご都合主義のゆるゆる設定はご容赦願います。

真実の愛を見つけた婚約者(殿下)を尊敬申し上げます、婚約破棄致しましょう

さこの
恋愛
「真実の愛を見つけた」 殿下にそう告げられる 「応援いたします」 だって真実の愛ですのよ? 見つける方が奇跡です! 婚約破棄の書類ご用意いたします。 わたくしはお先にサインをしました、殿下こちらにフルネームでお書き下さいね。 さぁ早く!わたくしは真実の愛の前では霞んでしまうような存在…身を引きます! なぜ婚約破棄後の元婚約者殿が、こんなに美しく写るのか… 私の真実の愛とは誠の愛であったのか… 気の迷いであったのでは… 葛藤するが、すでに時遅し…

虚弱体質?の脇役令嬢に転生したので、食事療法を始めました

たくわん
恋愛
「跡継ぎを産めない貴女とは結婚できない」婚約者である公爵嫡男アレクシスから、冷酷に告げられた婚約破棄。その場で新しい婚約者まで紹介される屈辱。病弱な侯爵令嬢セラフィーナは、社交界の哀れみと嘲笑の的となった。

元カレの今カノは聖女様

abang
恋愛
「イブリア……私と別れて欲しい」 公爵令嬢 イブリア・バロウズは聖女と王太子の愛を妨げる悪女で社交界の嫌われ者。 婚約者である王太子 ルシアン・ランベールの関心は、品行方正、心優しく美人で慈悲深い聖女、セリエ・ジェスランに奪われ王太子ルシアンはついにイブリアに別れを切り出す。 極め付けには、王妃から嫉妬に狂うただの公爵令嬢よりも、聖女が婚約者に適任だと「ルシアンと別れて頂戴」と多額の手切れ金。 社交会では嫉妬に狂った憐れな令嬢に"仕立てあげられ"周りの人間はどんどんと距離を取っていくばかり。 けれども当の本人は… 「悲しいけれど、過ぎればもう過去のことよ」 と、噂とは違いあっさりとした様子のイブリア。 それどころか自由を謳歌する彼女はとても楽しげな様子。 そんなイブリアの態度がルシアンは何故か気に入らない様子で… 更には婚約破棄されたイブリアの婚約者の座を狙う王太子の側近達。 「私をあんなにも嫌っていた、聖女様の取り巻き達が一体私に何の用事があって絡むの!?嫌がらせかしら……!」

妹に婚約者を奪われた上に断罪されていたのですが、それが公爵様からの溺愛と逆転劇の始まりでした

水上
恋愛
濡れ衣を着せられ婚約破棄を宣言された裁縫好きの地味令嬢ソフィア。 絶望する彼女を救ったのは、偏屈で有名な公爵のアレックスだった。 「君の嘘は、安物のレースのように穴だらけだね」 彼は圧倒的な知識と論理で、ソフィアを陥れた悪役たちの嘘を次々と暴いていく。 これが、彼からの溺愛と逆転劇の始まりだった……。

【完結】愛され公爵令嬢は穏やかに微笑む

綾雅(りょうが)今年は7冊!
恋愛
「シモーニ公爵令嬢、ジェラルディーナ! 私はお前との婚約を破棄する。この宣言は覆らぬと思え!!」 婚約者である王太子殿下ヴァレンテ様からの突然の拒絶に、立ち尽くすしかありませんでした。王妃になるべく育てられた私の、存在価値を否定するお言葉です。あまりの衝撃に意識を手放した私は、もう生きる意味も分からなくなっていました。 婚約破棄されたシモーニ公爵令嬢ジェラルディーナ、彼女のその後の人生は思わぬ方向へ転がり続ける。優しい彼女の功績に助けられた人々による、恩返しが始まった。まるで童話のように、受け身の公爵令嬢は次々と幸運を手にしていく。 ハッピーエンド確定 【同時掲載】小説家になろう、アルファポリス、カクヨム、エブリスタ 2022/10/01  FUNGUILD、Webtoon原作シナリオ大賞、二次選考通過 2022/07/29  FUNGUILD、Webtoon原作シナリオ大賞、一次選考通過 2022/02/15  小説家になろう 異世界恋愛(日間)71位 2022/02/12  完結 2021/11/30  小説家になろう 異世界恋愛(日間)26位 2021/11/29  アルファポリス HOT2位 2021/12/03  カクヨム 恋愛(週間)6位

ジェリー・ベケットは愛を信じられない

砂臥 環
恋愛
ベケット子爵家の娘ジェリーは、父が再婚してから離れに追いやられた。 母をとても愛し大切にしていた父の裏切りを知り、ジェリーは愛を信じられなくなっていた。 それを察し、まだ子供ながらに『君を守る』と誓い、『信じてほしい』と様々な努力してくれた婚約者モーガンも、学園に入ると段々とジェリーを避けらるようになっていく。 しかも、義妹マドリンが入学すると彼女と仲良くするようになってしまった。 だが、一番辛い時に支え、努力してくれる彼を信じようと決めたジェリーは、なにも言えず、なにも聞けずにいた。 学園でジェリーは優秀だったが『氷の姫君』というふたつ名を付けられる程、他人と一線を引いており、誰にも悩みは吐露できなかった。 そんな時、仕事上のパートナーを探す男子生徒、ウォーレンと親しくなる。 ※世界観はゆるゆる ※ざまぁはちょっぴり ※他サイトにも掲載

処理中です...