「僕が望んだのは、あなたではありません」と婚約破棄をされたのに、どうしてそんなに大切にするのでしょう。【短編集】

長岡更紗

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婚約破棄の続きをどうぞ、王子殿下

後編

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 数週間後の夜、ゼイドの私邸。
 バルコニーに立つレイナの肩を、彼は無言で抱き寄せる。
 王都の灯を見下ろしながら、ふたりは静かに寄り添っていた。

「……ねえ、ゼイド様」
「ん?」
「わたくし、気づいてしまったのです。あなたは、人の痛みにとても敏い方だって」
「……」
「なのに、ご自分の痛みは──誰にも見せないのですね」

 ゼイドは驚きながらも、静かに目を閉じ──長い沈黙の後、ゆっくりと口を開いた。

「気づいて、いたのか」
「周りはあなたの冷静さばかりを見て、『誰にも興味がない』と思っていたかもしれません。けれど……わたくしは、そうは思いませんでした」

 レイナの瞳はまっすぐゼイドを見つめていた。
 その奥に隠された傷にさえ、そっと寄り添おうとしていた。

 ゼイドはほんの少し息を吐いた。
 その目が、どこか遠い過去を映すように、静かに細められる。

「……実は、ずっと昔に心から信じていた人に──裏切られた」

 それは、まるで胸の奥底に沈めていた刃を、自ら抜くかのような言葉だった。

 静かに口を開いたゼイドの声は、震えていた。

「信じていた。俺にとっては……唯一だった。だけどその人は、俺を盾にして、自分だけ逃げた。……裏切られたのは一度だけなのに、それだけで全部が壊れた」

 ゼイドは唇をかみしめ、ぎゅっと拳を握りしめる。

「それから、人を信じるのが怖くなったんだ。誰かと向き合うことが、ただただ怖かった。好意を疑ってしまう自分が情けなくて、触れられるのも恐ろしくて……」

 声がかすれ、途切れる。言葉にならない痛みが喉を塞いでいた。

 それでも、レイナだけは──その全てを、黙って受け止めていた。

「『ゼイドは誰にも興味がない』。そう言われてきた。でも本当は……ただ、誰にも近づいてほしくなかったんだ。傷つきたくなかった……もう、二度と……」

 その瞬間。
 レイナはそっと、彼の頬に触れた。震えていた彼の手を、やさしく両手で包み込む。

「ゼイド様……それでも、わたくしにハンカチを差し出してくださったあの日。あなたは、心のどこかで、もう一度だけ──誰かを信じたいと思っていたのでしょう?」

 ゼイドの目が、大きく見開かれる。
 レイナの瞳が、かすかに潤んで揺れていた。

「わたくしに差し伸べてくださった手に、どれほどの勇気が込められていたか……今なら、わかる気がします」

 彼女はその手を、自分の胸に引き寄せた。

「……だから、今度はわたくしが、あなたの手を離しません」

 ゼイドは、ついに堪えきれなかった。

 押し殺していた嗚咽が、喉の奥から零れる。彼は目を伏せ、レイナの肩に額を預けた。長い沈黙と孤独の果てに、初めて流す涙だった。

「あなたがずっと守ってくださったように──今度は、わたくしが守る番ですわ」

 その言葉は、レイナの覚悟と誓いだった。

「どんなに傷ついても、どれだけ暗闇を彷徨っても……あなたは、わたくしが照らします」
「……っ、レイナ……」

 ほんの少しだけ震えていたゼイドを。
 レイナは優しく微笑むと、そっと彼を抱きしめた。



 ***



 春の終わり、王都では、ある話題で持ちきりだった。

「聞いた? クロヴィス殿下が正統な後継者の座を外されたって」
「まさか、隠されていた王子が現れるなんて……」
「しかも、あの方よ。レイナ様と婚約なさった、ゼイド殿下」

 陽の光が降り注ぐ庭園。紅茶を啜る貴婦人たちは、心なしか弾んだ声で囁き合っている。

「ずっと冷たいと噂されてたけど、最近ではレイナ様の前で笑顔を見せているそうよ」
「……そういうのって、素敵よね。強さと優しさの両方を持つ人が、本当に愛する人にだけ見せる顔って」
「クロヴィス殿下、さぞ悔しがったでしょうね」
「ええ、きっと。だってご自分こそが王位を継ぐと思っていたでしょうし……でももう、逆らえるはずもないわ。国王陛下が正式にゼイド殿下を指名なさったもの」

 ひときわ明るい笑い声が、鳥のさえずりとともに空に溶けていった。

 春風が花びらを舞わせ、庭園は新たな息吹に満ちている。
 まるで二人の未来を祝福するかのように、陽光は柔らかく降り注いでいた。
 色づく風景の中に、寄り添うように歩むふたりの後ろ姿が、ひとつの輪郭となって溶け込んでいた。
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