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第112話 こうするしかなくて

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 朝の穏やかな陽の光を浴びながら、サビーナは大きな欠伸をひとつした。
 最近はどれだけ眠っても、やたらと眠い。春が来たせいだろうか。一日中眠っていたいが、今日も仕事なのでそうはいかない。
 仕方なく仕事に行く準備をし、玄関の扉を開けたまま少しボーッとしていたら、デニスが後ろからポンポンと頭を撫でて来た。

「おう、もう行くのか?」
「うーん、あと二、三分だけウダウダしてから出ます」
「なんだそりゃ。シャキッとしろ、シャキッと!」
「はーい」

 気の抜けた返事をすると、デニスは片方の口角だけ上げて苦笑いしている。相変わらずの美形だなぁとサビーナはデニスをじっと見つめた。
 こんな美形とただのジャガイモが本当に結婚しても良いものだろうか。夫婦になると決めたにも関わらず、やはりそんな疑問が頭をもたげる。

「デニスさん、今日の予定は?」
「俺はブロッカに行って、婚姻届を取ってくらぁ。早ぇ方が良いだろ」
「……そうですね。気を付けて行って来てね」
「おう」
「じゃ、私そろそろ仕事に……」

 そう言って外に目を向けた時、人影がこちらに向かってくるのが見えた。
 当然の事ながら、ここに人が来る事はまず無い。少し驚きつつもデニスと共に外に出て待っていると、その人はやはりこの家に近付いて来る。

「おはよう、サビーナ」
「おはよう……どうしたの、マティアス」

 目を瞬かせながら答えると、彼は儚げな顔に憂いまで含んだ目で、僅かに微笑んだ。

「ちょっと話があるんだけど、良いかな」
「話? 私、今から仕事なんだけど……」
「いや、サビーナじゃなくて、彼に」
「デニスさんに?」

 マティアスは後ろにいたデニスに視線を向けている。デニスも驚いた顔で「俺?」と自分を指差していた。それもそのはずだ。デニスはマティアスと、一度だけ……それも一瞬しか会っていないのだから。

「何、私も聞きたいんだけど」
「まぁ、おいおいね」

 すました顔でそう言われ、サビーナはムッと口を尖らせる。けれどもう仕事の時間だ。遅刻する事は避けたい。

「分かった。じゃあ、私は仕事に行かなきゃ行けないから……デニスさん、話聞いておいてくださいね」
「おう」

 気にはなったが、サビーナは仕事に行く事にした。
 しかし、こんな朝早くにどうした事だろうか。この時間にクスタビ村に着くには、朝五時半にはブロッカを出ていた事になる。雑務担当の見習い執事と言えども、明らかに勤務時間外だ。

 キクレー卿の命令で来たんじゃ無いって事……?
 プライベートで来たっていうなら、どういう用件だろ。
 しかも私にじゃなく、デニスさんに話って……。

 いくら考えていても詮無い事だが、気になって仕方がない。
 だが、セヴェリが遣いを寄越したとは考え難かった。彼はマティアスを毛嫌いしていたのだ。もし火急の知らせがあったとしても、別の使用人に頼むに違いない。

 マティアス、結構のんびりしてたしなぁ。
 性格的なものもあるだろうけど、大した用件じゃなかったのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせて、今は仕事に集中する事にした。
 忙しいお昼の時間帯を抜けた頃、いつもの家族が店に入って来た。筋肉男のジェレイとその妻ラーシェ、二人の子供のルーフェイである。
 いつもよりは遅い時間だが、三人はいつもの席に着き、サビーナはコップに水を注いで運んで行く。余計な会話は一切なく、双方ともにいつも事務的だ。

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」
「俺は日替り、飯は特盛で」
「私はファレンテイン風チーズとサラダの盛り合わせ、それにヘウデュエジ。あと子供用のハンバーグプレートをお願い」
「かしこまりました。少々お待ちください」

 さらさらと書き留めて厨房に戻ろうとすると、いきなりガシッと手首を掴まれる。驚いて振り向くと、そこには眉を寄せて口をへの字に曲げているラーシェの姿があった。

「ラーシェ、さん……??」
「あなたは?!」
「へ?」

 何の事か分からずポカンと口を開けていると、ラーシェは何故か少し怒ったような表情でこちらを睨んでいる。

「あなたは何が食べたいかって聞いてるの!」
「わ、私?」

 首を傾げながら問い掛けると、ラーシェは怖い顔のままコクンと頷いている。やはり理解が出来ず、今度はジェレイの方を見る。すると彼は困ったように笑って説明してくれた。

「サビーナはそろそろ休憩時間だろ? 一緒に飯食おうぜって言ってんだよ。ラーシェが奢るってよ」
「……え?」
「お前は確かパスタ好きだっただろ。これなんかいいんじゃねぇのか?」

 そう言いながら、彼はメニューのエビとアボカドのバジルソースパスタを指差している。訳も分からずコクコクと頷くと、「じゃあこれ追加な」と言って笑っていた。
 これはどういう事なのだろうか。厨房に戻って皿洗いをしていると、「サビーナ、出してー」と料理人が声を掛けてくれる。ジェレイ達が頼んだランチが出来たのだ。勿論、サビーナが頼んだパスタも作られている。

「それ出したら、休憩行って良いよー」
「あ、はい」

 もう既に客の姿はほとんどなく、サビーナは昼休憩の時間へと突入した。と言っても、とっくに午後一時を過ぎてはいるのだが。

「お待たせ、しました……」

 日替わり定食をジェレイの前に、チーズとサラダの盛り合わせとヘウデュエジをラーシェの前に、お子様用ハンバーグプレートをルーフェイの前に置く。しかし残ったパスタはどうしようかと、サビーナは目をふわふわと移動させた。

「ここ! 置いて。そしてあなたも座って」

 言われるがまま、おずおずとパスタを置いて、椅子の端にちょこんと腰掛ける。一体何が起こっているのか分からず、不安で鼓動が高鳴って行く。

「ふぁー、腹減ったー! よし、食おうぜ。ほれ、サビーナも食え!」
「あの、えっと……い、いただきます」
「おう!」

 ジェレイは笑っているが、ラーシェは不機嫌なまま変わらない。難しい顔をしたまま、ルーフェイの世話をしながら食べている。

 何なんだろ……何で一緒にご飯食べる事になってるのか、よく分かんない……

 うーんと唸りながらパスタを食べ進めて行く。ルーフェイの相手ばかりしていて、全く目を合わせてこなかったラーシェだったが、唐突にポツリと呟いた。

「ベビーベッド、必要なんでしょ」
「え?」
「ベビーベッドよ。いるの? いらないの?」
「あの……?」
「いらないなら、別にいいんだけど」
「い、いります!」

 慌てて答えると、ラーシェはほんの少しだけこちらを見て、薄く笑った。その表情の意図が読み取れず、やはりサビーナは怪訝な目をしてしまう。

「ど、どうして、いきなり……? ラーシェさんは私の事、嫌い……ですよね?」
「そうね」

 自分から問い掛けた事だというのに、きっぱりと肯定されては、泥水に浸けられたかのように心が沈む。パスタを食べる手は止まり、密かに下唇をきゅっと噛んだ。
 そんなサビーナへ、ラーシェが見下ろすようにきつい視線を投げ掛けて来る。

「何か言いなさいよ」
「何か……って?」
「どうして何も相談してくれなかったの! セヴェリさん、ブロッカで結婚してたじゃないの!」

 驚いて顔を上げると、ラーシェは悔しそうな顔でこちらを見ていた。その瞳には、哀愁が含まれている。

「どうして、それを……」
「先日、ラーシェとブロッカに行った時にな。偶然セヴェリに会って、全部聞いたんだよ。お前らの事」
「ぜん……ぶ?」

 ジェレイの説明に、ラーシェがコクリと頷いている。
 全部とは、一体どこからどこまでだろうか。見当が付かず、サビーナは不安のままラーシェを見つめるしか出来ない。

「あなた、故郷ではセヴェリさんと主従だったんですって? セヴェリさんを助ける為に、恋人と別れてここで暮らし始めたらしいわね……偽装の夫婦として」

 胸が不穏な鼓動を打ち鳴らしていて痛い。どうやらセヴェリは、本当に全てをジェレイ達に告げているようだ。セヴェリは追手にかかる事のない安心感から、話せたのかもしれない。しかしサビーナはまだ命を狙われている状態だというのに、漏れる危険性が分かっていながらも他者に知らせたのだ。
 それは彼がサビーナに対し、何の感情も抱いていない事を示している。サビーナが生きようが死のうが、もうセヴェリにとってはどうでも良い事なのだろう。
 そう考えると、自然と涙が溢れてきた。デニスと結婚すると決めたばかりだというのに、心は苦しく悲鳴を上げ続ける。

「ちょっと、泣かないでよ」
「う……嘘、ついてて、ごめんなさい……ラーシェさん……っ」
「もう、良いわよ。私もひどい事言ってごめんなさい。何にも相談してくれなかった事が、悔しくて……」

 そう言ってラーシェはハンカチを取り出し、サビーナの涙を拭ってくれた。彼女の顔にようやく見慣れた笑顔が戻り、サビーナもホッと息を漏らす。

「セヴェリさんが言ってたわ。サビーナの恋人がここを探し出してくれたから、ようやくサビーナを彼に任せられるって。それでセヴェリさんは、本当に好きな人と結婚する事が出来たって喜んでた。だから、サビーナに悪い所はひとつもないから、今まで通り仲良くしてあげて欲しいって……そう言われたの」
「……そっか……セヴェリ様が、そんな風に……」

 セヴェリに敬称を付けたサビーナの言葉を初めて聞いた彼女は、「本当に主従だったのね」と改めて確認している。

「ごめんね、サビーナ。あなたも恋人と再会出来て嬉しかっただろうのに……私、デニスって人を目の敵のように言っちゃって」
「いえ……」
「ねぇ、ひとつだけ確認させて欲しいんだけど。そのお腹の子の父親は、本当にデニスさんなの?」

 ギクッと体が反応する。どう言うべきか、一瞬悩んだ。しかしこの質問をするという事は、ラーシェは疑っているという事だろう。
 それも無理はない。不倫で密会した時に出来た子供だと思われていたようだが、『恋人が迎えに来た』と断定された時点でその可能性は消えているのだ。となると、妊娠した時期が合わないのだから、不審がられても仕方がない。

「この子の父親は……セヴェリ様です」

 結局サビーナは、本当の事を言うしかなかった。これ以上ラーシェに嘘をつきたくなかったというのもある。
 真実を告げられた彼女は、自分の事のように苦しそうな顔をしている。

「ああ、もう、何て言ったら良いか……」
「セヴェリ様の子供を身籠っている事、誰にも言わないでくださいね。デニスさんが父親になってくれるって……そう言ってくれたんです」
「セヴェリさんにも言わないつもり?!」
「勿論です。セヴェリ様がようやく掴んだ幸せを、壊したくありませんから」

 ラーシェはしばらく言葉を詰まらせ、視線をサビーナから外した。そして大きく息を吐くと、分からないというようにポツリと呟く。

「なら、どうして……子供が出来るような事したのよ……偽装だったんでしょ……」
「私が悪いんです。熱を出した時、近くにいたセヴェリ様を別の人だと勘違いしちゃって……ベッドに誘ってしまったのは、私ですから」
「そりゃあ、セヴェリがやっちまっても仕方ねぇよなぁ」
「ジェレイは黙ってて!」

 一瞬だけジェレイに向けられた目を、今度はサビーナに据わらせている。

「で? その一回で出来ちゃったっていうの?」
「……その時に出来た子供なのかどうかは、分かりません……」
「つまり、その後も何度もしたって事よね。どうして?」
「どうしてって……義務感、かな……セヴェリ様も男の人だし、こんな体でも役に立つならと思って……」

 実際は役に立つどころか、苦痛を与えてしまっていただけだったのだが。流石にそれを伝えるのは、プライドが邪魔をして言えなかった。

「義務感? 本当に、それだけなの?」
「……え?」
「あなた、月見草祭りの日、最高に良い顔してたわよ。あんなの、誰が見たって分かる。サビーナ、あなた本当はセヴェリさんの事が──」
「ラーシェ!」

 ジェレイに言葉を遮られて、ラーシェはハッと口を閉じる。彼女はグッと飲み込むように俯き、ギュッと両手を握り締めていた。

「私……デニスさんと結婚する事に決めました」

 振り絞るようにそう告げると、ラーシェは座っていた腰を跳ねるように浮かせてサビーナに詰め寄る。

「それで良いの?! 本当は恋人よりも、セヴェリさんの方が好きになっちゃったんじゃないの?!」
「おい、ラーシェ!!」
「どうなの、サビーナ! もう嘘はつかないで答えなさいっ!」
「ラーシェッ」

 対面に座っていたジェレイも立ち上がり、興奮するラーシェの手首を掴んで押さえている。サビーナはそんな二人をゆっくりと見上げた。
 どこか遠くでも見るような面持ちで、座ったままそのやり取りを見つめる。

 セヴェリはもうクリスタと結婚していて、想いを告げられる訳もない。その上、サビーナ自身はデニスとの結婚が決まっている。
 今更ラーシェの主張を認めた所で、どうなるというのか。

「サビーナ、お願い! あなたの気持ちを、知りたいのよ……っ!」

 そう言うと同時に、ラーシェはジェレイの手を振り切って、サビーナを包むように背中に手を回してくれた。そのラーシェの温かさと柔らかさが、サビーナの胸に染み入るように心を溶解させてくれる。

「一人で苦しまなくていいの。何も出来ないかもしれないけど、私はあなたの気持ちを理解してあげたい……っ」
「ラーシェ……さん……」

 一旦途切れていた涙が、ラーシェの温かさによって再びポロポロと流れ落ちる。
 誰かに分かって欲しかったのだ。
 どうしようもない胸の内を。
 セヴェリでもデニスでもない、他の誰かに。

「ラーシェさん、私……」
「なぁに……?」
「私、いつの間にか……デニスさんより、セヴェリ様の方が好きになっちゃってた……でも、セヴェリ様の幸せの為にはこうするしかなくて……デニスさんにも、申し訳なくて……っ!」

 わああっと声を上げて、サビーナはラーシェに縋り付いた。
 こんな結果となったのは己の不誠実さの所為であり、身から出た錆だ。だがラーシェはサビーナを罵る事もなく、ギュッと強く抱き締めてくれる。彼女の優しさが身に染みて、瞑ったままの目からは後から後から涙が溢れ出す。

「人の心は簡単に制御出来るものじゃないわ。あれだけ一緒にいたら、心が移り変わっても仕方なかったと思うもの。だから自分を責めないで、サビーナ。私はもう、あなたを責めたりしないから……」

 ラーシェはそのままずっと抱き締めてくれた。
 彼女の言葉で免罪符を得た気分になり、体の力が抜けて行く。
 理解してくれる人がいるというのは、どれだけ心強く嬉しい事だろう。
 デニスと結婚する事に罪悪感があったが、それすらも認めて貰えた気がした。フワフワと揺れ動いている自分が情けないが、デニスと一緒になる事で彼への気持ちも花開く事だろう。そうなる事が一番良いのだと、ようやく納得する事が出来た。
 デニスとの生活が上手くいくようにと願いながら、サビーナはラーシェに甘えるように、その胸で安堵の涙を流し続けた。
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