6 / 11
2
しおりを挟む
指で剥がして医者の前に並べられたら。
だが、そうまでしても答えは得られないと分かっている。
「食事が冷めてしまいます。お腹が一杯になれば気持ちが落ち着きますよ」
確かに言う通りだと箸を取る。
空腹を訴える音が鳴り、人心地が付いた。
物を口に入れるのは久し振りな気がした。
ゆっくりと咀嚼し米の甘みを口内に留める。
素直に美味しい。
味噌汁が喉を通る、胃に収まる。
そうした感覚のお陰で苦痛を忘れられた。
容器のちぐはぐな材質は気にならなかった。
何故なら、手に良く馴染んだからだ。
かえりたい。
雲のように五文字浮かぶ。
何処へ?
それが分からない。
「貴方は本当に医者ですか? 」
味噌汁の旨味で鼻から息が抜け、肉と山菜の煮物を入れた容器を手に持った直後、いきなり問いが飛び出した。
彼を見詰める医者に急激な変容が生じた。
瞳孔が大きく膨張して白目を圧し、黒く単一に塗り潰され潤湿の失せた角膜によって投げた問いは弾かれた。
感情の消失した面は昆虫を連想させる。
失言という認識は一応あった。
現在、脳は手足以上に機能不全に陥っている。
魂が不自由な檻から抜け出し外から眺めているだけといった、何処か他人事めいていて気まずさを感じない。
煮物の入った容器を持った儘、動作は止まっていた。
「先ず名前からです。思い出すのも思い出さないのも貴方次第ですが」
医者の口調は明瞭で迷いを感じさせなかった。
言う通りだ。
医者が医者でなかろうと彼岸花が枯れていようと今はどうでも良い。
「あ……」
「あ? 」
鏡映反転したように細かい動作を同じくする。
あ、の形で口を開いた儘、次が中々出てこない。
「名前の始めは、あ、です」
暫しの沈黙の後、スムーズに舌が滑った。
意識的な発言では無いのに語気に確信が籠っている。
「間違いないんでしょうか? 」
医者の黒目が再び膨れ、身体と共に迫ってくる。
「間違いありません」
そうだ、間違いない。
「いいでしょう。一つずつでも、名字からでも思い出して行けばいい。そして、思い出さないのも自由です。食べないのですか? 」
脅すような言い方だ。
湯気が立つ煮物に視線を落とす。
箸で少量挟み口に入れると、これまた旨かった。
記憶に無い肉の味。
肉の味まで忘れてしまったのかと不安が過る。
「これは何の肉ですか? 」
また問いを一つ絞り出した。
「山に住む獣の肉です。お口に合いましたでしょうか? 」
淡々と返される。
「はい」
医者との対話は根っ子が無く心許ないが、靄々した塊が問いという形で排出され圧迫感が和らいだ。
目の前にいる医者が医者であるかよりも、医者が自分の事を良く知らない方が確かな事だ。
医者から積極的に発せられた問いは「名前」についてだけなのだから。
彼岸花が枯れている事も、頭に浮かぶ唯一の女性が母であるかよりも、一文字ずつでも自分の名前を積み上げる事が大事だ。
自分から問いを発しなければ前に進めない。
記憶の糸口は問いの先にある。
また疑問は自然に沸くだろう。
「書く物を貸してくれませんか」
「ええ、勿論」
医者が腰を上げ、部屋の隅にある棚の引き出しを開けゴソゴソと中を探る。
また頭痛がして水晶体のピントがぼやけ、医者の姿が二重にブレた。
瞬きすると医者の輪郭は元に戻っていた。
棚は前から其処にあっただろうか。
ふと、疑問が沸く。
新たな疑問を口にする前に医者が振り向き、ボールペンとメモ帳を差し出してきた。
受け取るやカチカチっとペン尻を何度も押しては先を露出させ引っ込めるという動作を繰り返す。
ボールペンの先を繰り出す音のリズムが耳から脳に伝わり微弱な波が生じる。
指が止まらない。
耳と指、それ以外は全て真っ白。
ボールペン自体に馴染みがあるだけなのか、音に覚えがあるのか。
脳内に張り付いたアメーバが、スピードを早める音に反応して高い山を作り再び平坦になる。
指の腹が赤く、付け根が痛くなる程ペン尻を押したが答えが表れる事は無かった。
諦念の溜め息と共にメモ帳に視線を移す。
メモ帳を捲り、白紙に五十音を並べていく。
ペン先を押し付け、あ、に濃く丸を付けた。
「先ず、一文字」
呟いた後、全身が軽くなった。
溜め息が長く続くのは、呼吸さえ止めていたからだ。
一点に留めていた視野が、ゆっくりと広がっていく。
彼がボールペン一本に囚われている間に、医者は膳を持って部屋から出ていったようだ。
緊張が更に抜ける。
布団の脇のランタンが作る白い光の円に瞳が揺らぐ。
円の内にある彼岸花の紅の花弁の瑞々しさが、古びて退色した壁や襖で囲まれた部屋で唯一生命を誇示していた。
今は漠然と夜と認識したが、時に対する意識は遠くにあった。
名前を思い出す事、今はそれ以外に強く意識を留めるべきではない。
そうだ。
自分の名前以外に関心を持ってはいけない。
強く感じた。
───
ヴーンヴーンヴーンヴーン
繰り返される機械的な音。
何かの羽音のようでもある。
意識は虚ろなのに、違和感だけは截然《せつぜん》と区切られていた。
相応しくない、という表現が相応しいのか。
脳は覚醒していても身体が動かない。
金縛り。
無意識下に沈められている経験から現状を悟った。
微睡みにある方が記憶にアクセスし易いようだ。
名前の一文字目を口にするのにあれ程苦労したのに難なく思い出した。
名字は「あらまつり」
早く書き留めなければ。
瞼を開け。
起き上がれ。
唇が微かに動いてぶつぶつと指令を発する。
重い瞼を意思の力で抉じ開けた。
まるで錆び付いた扉だ。
瞼だけではない。
身体は布団ごと鎖で巻かれたようだったが、その代わり心は四方八方に向けて開かれていた。
だが、そうまでしても答えは得られないと分かっている。
「食事が冷めてしまいます。お腹が一杯になれば気持ちが落ち着きますよ」
確かに言う通りだと箸を取る。
空腹を訴える音が鳴り、人心地が付いた。
物を口に入れるのは久し振りな気がした。
ゆっくりと咀嚼し米の甘みを口内に留める。
素直に美味しい。
味噌汁が喉を通る、胃に収まる。
そうした感覚のお陰で苦痛を忘れられた。
容器のちぐはぐな材質は気にならなかった。
何故なら、手に良く馴染んだからだ。
かえりたい。
雲のように五文字浮かぶ。
何処へ?
それが分からない。
「貴方は本当に医者ですか? 」
味噌汁の旨味で鼻から息が抜け、肉と山菜の煮物を入れた容器を手に持った直後、いきなり問いが飛び出した。
彼を見詰める医者に急激な変容が生じた。
瞳孔が大きく膨張して白目を圧し、黒く単一に塗り潰され潤湿の失せた角膜によって投げた問いは弾かれた。
感情の消失した面は昆虫を連想させる。
失言という認識は一応あった。
現在、脳は手足以上に機能不全に陥っている。
魂が不自由な檻から抜け出し外から眺めているだけといった、何処か他人事めいていて気まずさを感じない。
煮物の入った容器を持った儘、動作は止まっていた。
「先ず名前からです。思い出すのも思い出さないのも貴方次第ですが」
医者の口調は明瞭で迷いを感じさせなかった。
言う通りだ。
医者が医者でなかろうと彼岸花が枯れていようと今はどうでも良い。
「あ……」
「あ? 」
鏡映反転したように細かい動作を同じくする。
あ、の形で口を開いた儘、次が中々出てこない。
「名前の始めは、あ、です」
暫しの沈黙の後、スムーズに舌が滑った。
意識的な発言では無いのに語気に確信が籠っている。
「間違いないんでしょうか? 」
医者の黒目が再び膨れ、身体と共に迫ってくる。
「間違いありません」
そうだ、間違いない。
「いいでしょう。一つずつでも、名字からでも思い出して行けばいい。そして、思い出さないのも自由です。食べないのですか? 」
脅すような言い方だ。
湯気が立つ煮物に視線を落とす。
箸で少量挟み口に入れると、これまた旨かった。
記憶に無い肉の味。
肉の味まで忘れてしまったのかと不安が過る。
「これは何の肉ですか? 」
また問いを一つ絞り出した。
「山に住む獣の肉です。お口に合いましたでしょうか? 」
淡々と返される。
「はい」
医者との対話は根っ子が無く心許ないが、靄々した塊が問いという形で排出され圧迫感が和らいだ。
目の前にいる医者が医者であるかよりも、医者が自分の事を良く知らない方が確かな事だ。
医者から積極的に発せられた問いは「名前」についてだけなのだから。
彼岸花が枯れている事も、頭に浮かぶ唯一の女性が母であるかよりも、一文字ずつでも自分の名前を積み上げる事が大事だ。
自分から問いを発しなければ前に進めない。
記憶の糸口は問いの先にある。
また疑問は自然に沸くだろう。
「書く物を貸してくれませんか」
「ええ、勿論」
医者が腰を上げ、部屋の隅にある棚の引き出しを開けゴソゴソと中を探る。
また頭痛がして水晶体のピントがぼやけ、医者の姿が二重にブレた。
瞬きすると医者の輪郭は元に戻っていた。
棚は前から其処にあっただろうか。
ふと、疑問が沸く。
新たな疑問を口にする前に医者が振り向き、ボールペンとメモ帳を差し出してきた。
受け取るやカチカチっとペン尻を何度も押しては先を露出させ引っ込めるという動作を繰り返す。
ボールペンの先を繰り出す音のリズムが耳から脳に伝わり微弱な波が生じる。
指が止まらない。
耳と指、それ以外は全て真っ白。
ボールペン自体に馴染みがあるだけなのか、音に覚えがあるのか。
脳内に張り付いたアメーバが、スピードを早める音に反応して高い山を作り再び平坦になる。
指の腹が赤く、付け根が痛くなる程ペン尻を押したが答えが表れる事は無かった。
諦念の溜め息と共にメモ帳に視線を移す。
メモ帳を捲り、白紙に五十音を並べていく。
ペン先を押し付け、あ、に濃く丸を付けた。
「先ず、一文字」
呟いた後、全身が軽くなった。
溜め息が長く続くのは、呼吸さえ止めていたからだ。
一点に留めていた視野が、ゆっくりと広がっていく。
彼がボールペン一本に囚われている間に、医者は膳を持って部屋から出ていったようだ。
緊張が更に抜ける。
布団の脇のランタンが作る白い光の円に瞳が揺らぐ。
円の内にある彼岸花の紅の花弁の瑞々しさが、古びて退色した壁や襖で囲まれた部屋で唯一生命を誇示していた。
今は漠然と夜と認識したが、時に対する意識は遠くにあった。
名前を思い出す事、今はそれ以外に強く意識を留めるべきではない。
そうだ。
自分の名前以外に関心を持ってはいけない。
強く感じた。
───
ヴーンヴーンヴーンヴーン
繰り返される機械的な音。
何かの羽音のようでもある。
意識は虚ろなのに、違和感だけは截然《せつぜん》と区切られていた。
相応しくない、という表現が相応しいのか。
脳は覚醒していても身体が動かない。
金縛り。
無意識下に沈められている経験から現状を悟った。
微睡みにある方が記憶にアクセスし易いようだ。
名前の一文字目を口にするのにあれ程苦労したのに難なく思い出した。
名字は「あらまつり」
早く書き留めなければ。
瞼を開け。
起き上がれ。
唇が微かに動いてぶつぶつと指令を発する。
重い瞼を意思の力で抉じ開けた。
まるで錆び付いた扉だ。
瞼だけではない。
身体は布団ごと鎖で巻かれたようだったが、その代わり心は四方八方に向けて開かれていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
視える僕らのシェアハウス
橘しづき
ホラー
安藤花音は、ごく普通のOLだった。だが25歳の誕生日を境に、急におかしなものが見え始める。
電車に飛び込んでバラバラになる男性、やせ細った子供の姿、どれもこの世のものではない者たち。家の中にまで入ってくるそれらに、花音は仕事にも行けず追い詰められていた。
ある日、駅のホームで電車を待っていると、霊に引き込まれそうになってしまう。そこを、見知らぬ男性が間一髪で救ってくれる。彼は花音の話を聞いて名刺を一枚手渡す。
『月乃庭 管理人 竜崎奏多』
不思議なルームシェアが、始まる。
靴屋の娘と三人のお兄様
こじまき
恋愛
靴屋の看板娘だったデイジーは、母親の再婚によってホークボロー伯爵令嬢になった。ホークボロー伯爵家の三兄弟、長男でいかにも堅物な軍人のアレン、次男でほとんど喋らない魔法使いのイーライ、三男でチャラい画家のカラバスはいずれ劣らぬキラッキラのイケメン揃い。平民出身のにわか伯爵令嬢とお兄様たちとのひとつ屋根の下生活。何も起こらないはずがない!?
※小説家になろうにも投稿しています。
Zinnia‘s Miracle 〜25年目の奇跡
弘生
現代文学
なんだか優しいお話が書きたくなって、連載始めました。
保護猫「ジン」が、時間と空間を超えて見守り語り続けた「柊家」の人々。
「ジン」が天に昇ってから何度も季節は巡り、やがて25年目に奇跡が起こる。けれど、これは奇跡というよりも、「ジン」へのご褒美かもしれない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる