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【第13章 胡麻擂り合戦】

 長宗我部に対して信長の態度が硬化したのはいつ頃からかというのは本能寺関連の本でも、大体という感じで書かれていたのではっきりとは分かりません。

 長宗我部との交渉には、一時期近衛前久、長宗我部の弟香宗我部も関わったりで、信長との関係が良くなったり悪くなったりで、3歩進んで2歩下がるという風に直ぐに悪化した訳ではなさそうです。

 本能寺の変で大活躍の斎藤利三の兄、石谷頼辰も小説には名前だけ出てきますが、名字が違うのは母が再婚して連れ子だからですっていうか養子です。

 斎藤兄弟の妹というのは実妹ではなく、義理妹らしく、その手の本には長宗我部と斎藤兄弟との入り組んだ縁戚関係の系図まで書かれてましたが、縁戚関係がある事が本能寺の変の原因になったとは思えなかったので、かなりシンプルに妹としか書いてません。

 この時代、縁戚関係如きで戦を躊躇する人間いないと思います。
 何しろ、本能寺の後に攻められた二条城で、斎藤利三の義弟斎藤利治死んでますから。

 いざとなったら縁戚関係なんて○ソの役にも立たない時代だったようです。

 光秀と秀吉との軋轢や秀吉の嫌がらせを分かりやすく表現するのに最適のネタが、三好康長の養子に甥秀次(後の殺生関白)をしたというのがあるのですが、養子になった年が天正9年説と11年説があり、本能寺の前と後では大きく意味が変わってくるのと、11年説の方が説得力があったので、残念ながら小説的には美味しいネタでも使いませんでした?かなりマニアックな話ですよね


 こんな感じで、三好と長宗我部の話は追求していくと複雑で歴史興味無ければって、興味あってもどうでも良くなりますが、取り合えず調べていて思ったのは、本能寺の変の要因になった事は確かだろうなと。

 一つの歯車が当に狂い始めたって雰囲気です。
 正直、今のところは森蘭丸外伝を書く気になっているのですが気分屋なので分かりません。

 それは、まあいいとして、その外伝ネタに使えそうな人物を偶々ちょいと調べていたら、長宗我部と三好、或いは秀吉と光秀のような事が以前にも発生していて、似たような状況下で謀反が起きているようです。

 そういえば、また新説です。
ていうか、その説が主流になっているという訳でもなさそうなので新説ではないかも知れませんが、信長事件簿で割と有名な桑実寺事件。

 信長留守中に勝手に外出して、寺参りをしていた侍女を「成敗」したんです。
 実は殺してないんじゃないの?説

 小説では思いっきり新説を却下してます。
 無断外出有り得ないですよね
 現代でも

 それに信長が成敗させたという記述が使われてる場合は、他の例では叩っ斬ってます。

 何で、この場面でだけ助けたって思うんですかね。
 女だから助けてあげたって思いたいからですかね。
 斬ってないなら、解雇処分で済んだって事でしょうか。

 百叩きの刑とかもやってたら具体的に書いてそうですし。

 そんな事書かれてないです。
 あくまでも成敗で終わってますし、描写を見る限りでは、信長は怒り狂ってます。
 しかも、桑実寺の僧侶が侍女達をお許し下さいとお願いしにやってくるんですが、この全く罪のない僧侶まで「成敗」されてます。

 罪無き者でさえ、見せしめ、連座で成敗される時代ですから、荒木村重の妻子や一族家臣の処刑でも分かりますが、分かりやすい罪を犯した侍女達が助かる見込みは0と思い、定説通りで書いてます。
 
 他の家臣、侍女達に対しても見せしめにもなりますし。
 
 現代でも、無断外出したらどうなるんでしょう。
 かなり非常識な行動である事は確かですね。

 この桑実寺事件事態なかった事ではという説もあるようです。
 そうなると、信長公記の著者太田牛一の創作という事になってしまいますが、牛一はくそ真面目な性格を揶揄される程の人なので、此処まで大それた嘘八百を書くとは考えにくいです。

 ただ、信長の五男勝長が武田の人質になった経緯について、岩村城といえば、信長の叔母の逆さ磔が有名ですが、叔母が武田の武将と通じて勝長が武田に送られてしまったというのではなく、信玄が養子に欲しがったから勝長が甲斐に行ったという風な、相当柔らかい記述がされています。

 全くなかった事をあったと書く事は流石にないと思います。
 
 高野聖の処刑に小姓衆が駆り出されたようです。
 小説では蘭丸は参加してない事になってます。
 彼はアイドルだから清らかなイメージを守りたかった訳ではありませんよ

 小姓衆の中に数えられてる場合もありますが、何しろ彼の立場は微妙ですから。

 ただ、丸々全員が駆り出されずに、信長の世話役として数人免除されたのであれば、必ず蘭丸は外されている筈だと思い外してみました。

 絶対に処刑に加わってないとは言い切れませんが、信長の側を離れて彼が処刑役に加わる必要性を感じません。

 長可と毛利河内守の馬揃えのその後の関係悪化まで記録に残っています。
 森家よ。どこまで正直に書くつもりなのか。

 武田信玄の娘松姫と信忠のプラトニックは人気のあるネタです。
信忠が二条城で自害してしまったので、最後までプラトニックだった。
或いは、一回くらいは会った事があって、三法師の母が松姫という説があります。

 三法師の母は先ず、鈴姫で間違いないとは思います。
 松姫と信忠が会ったという記録もないですし。
 鈴姫だけが、信忠に輿入れしたと記録に残っています。

信長の五男と伝わる勝長君(信房)は小説の中では疑われて可哀想ですが、ずっと信長と離されていた割には犬山城主になり、武田討伐でも働き、信忠と中国に出陣しようと妙覚寺に泊まっていたところ、本能寺の変に遭遇し、信忠と討ち死にしてしまいます。

 長く人質生活を送り、子供時代を過ごした武田を滅ぼし、やっと家族の元に帰ったと思ったら本能寺の変。
 父子の絆はイマイチでも、信長は息子として大事に扱っています。
 
 楢柴肩衝《ならしばかたつき》で本能寺に誘き寄せられたなんて説もありました。
 その説は取り合えず置いといて、茶会の記録というのも残されています。
 津田宗及とかの記録だったか、光秀に招待されて、坂本城でどんな茶器でどんな内容だったかという記録です。

 光秀は風流人なので茶会は大好きですが、天正十年正月に茶会を4回開いています。

 7日のメンバーと18日の秀吉の茶会のメンバーが一緒なので、対抗意識が御互いにあったのでは?という推測で書いてます。

 1月28日に信長が上洛予定だったのは、公家の日記でも確認が取れるので本当です。

 上洛時に38種の茶器を博多商人島井宗室に見せる為の茶会を開く予定だったのは本当のようです。
 本能寺の変が起こった日に、茶会が延期されたのは武田討伐を優先させたからですが、松井友閑から堺の茶人に一月に茶会の伝達がされています。

 この茶会を計画したのが光秀として小説では書いていますが、確実に言い出しっぺだったかは分かりません。

 ただ、信長が言い出したにせよ、茶会をセッティングする織田の家臣は必要な訳です。
 上に書いた松井友閑という信長の祐筆とかそうですが。

 1月25日の坂本城での茶会に、博多商人島井宗室を招いています。

 本能寺茶会の主賓で楢柴肩衝の所有者です。
 楢柴肩衝が欲しい信長ですが、九州を制圧する上でも味方につけたい博多の豪商島井宗室は重要人物です。

 その大事なVIPを光秀が上洛予定3日前に坂本城で持て成しているので、光秀は茶会のセッティングにも関わり、茶会にも当然出席予定であったと思われます。

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