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二章
9、帰ってください
「ビルギット。お父さまとあなただけで暮らしていけないのなら、ヒースさまと早く結婚すればいいじゃない」
そうすれば、彼が使用人を連れて来ることもできるし、新たに雇うことも出来ます。
なのに、この子はそれをしなかった。
……出来ない状態にあるのね。
わたしはヒースさまとの結婚を提案しながらも、予感していました。
彼がすでにビルギットと一方的に別れたことを。
「結婚できるのなら、そうしているわよ」
ああ、やはり。わたしは小さく息をつきました。
ねぇ、ビルギット。お客さまに紅茶を掛けたその時に、あなたはもう捨てられていたのよ。
そう、わたしにヒースさまを奪ったことを見せつけに来た、一番最初に。
わたしに勝って嬉しかったのね、舞い上がっていたのね。でも、恋人のそんな姿を男性が見て喜ぶと思うの?
どうしてそんなに浅い考えしか持てないの?
「ねぇ。どうしてよ、信じられないわ。ヒースも去っていったわ。君とは付き合いきれないって。姉さん、彼が何処に行ったか知らないの?」
「ヒースさまとは、この一年間一度も会ったことがないわ」
彼もまた伯爵家を追放されることでしょう。
相手が子爵家とはいえ、姉を裏切り、妹を見捨てて。そんな軽薄で先の見通せない人間は、伯爵家にはお荷物でしかないでしょうから。
ヒース。あなたは子爵家の婿に入れば、貴族でいられたのに。
「それにっ!」
ビルギットはてのひらで床を叩きつけました。これまで握りしめていた紙が、何枚もひらりと舞い上がります。
「貿易商やら商人が、代金を払えと請求書を持ってきたのよ。どうするのよ、そんなお金ないわよ」
わたしはスカートの裾を押さえながら、しゃがんで紙を拾いました。
これまで当たり前のように父さんやビルギットが、気の向くままに購入していた品々。宝石やドレスのお仕立て代。お父さまのステッキや靴、それに銀器。財政状況を考えずに買った物の代金が、インクで書きつけてあります。
お父さまは使用人にお給金を払っていたでしょうが。マーマレードの収入が一切なくなったことで、これまでと同額を支払うことができなくなったのでしょう。
市場で売っているマーマレードとは違い、王室も使用してくださるマーマレードは一瓶の値段がそもそも違います。
調度品を売っても、一時しのぎにしかなりません。
仕方ありません。使用人にも生活があるのですから。
「わたしはヴェステルグレーンの家を追い出された身。もう無関係なのよ」
「姉さんでしょ! 長女でしょ! 家族のために働いて当たり前じゃない。家族を見捨てるつもりなの? 冷たいわよ」
「あなた達が、わたしを家族と認めなかったのでしょう? ただの下女扱いだったものね」
指摘されたビルギットは、わたしから視線を外しました。
そして、棚に置かれた足跡のついたお母さまの詩集に目を留めたのです。
ビルギットの瞳が大きく見開かれ、ぎらりと輝いたのです。
まるで獲物を見つけた獣のように。
「見つけたわ。あれよ! 著名な女流詩人の詩集なんでしょう? わたし、ヒースから聞いたのよ。あの本を売れば相当な値になるって」
「あれはお母さまの形見よ。お母さまの親友の女性がしたためた詩なの」
お母さまと幼馴染みのその人は、少女の頃からジャム作りが得意で。お母さまが暮らしていた館のお庭に咲く薔薇や、ジューンベリー、グーズベリーを摘んで、二人でジャムを煮ていたそうです。
その後、その方は詩人として有名になり。お母さまは子爵家に嫁ぎました。
当時、女流詩人はまだ少ないので、相当な苦労をなさったそうです。
お母さまも、意に染まぬ結婚でしたが。親友の紡いだ言葉、そして二人で一緒に作ったジャムの思い出を宝物にしていらっしゃいました。
そのレシピを、わたしに教えてくれたのです。
お母さまは、ビルギットを淑女として育てようと苦心なさったけれど。そのたびにお父さまが「こんな可愛い子に厳しくするとは。お前は酷い女だ」とお母さまを叱りつけていました。
厳しくはなかったの。わたしと同じように、子爵家の娘として必要なプロトコールを教えてくださっただけなのに。ビルギットは、それを嫌ってすぐにお父さまのお部屋に逃げ込んだのです。
「その詩集は、うちの物よ。返しなさいよ。勝手に持って出るなんて、姉さんが盗んだも同然よ。お母さまの形見なら、わたしが受け継いでもいいはずだわ」
「お母さま個人の物よ。ヴェステルグレーン家の物ではないわ」
「売るんだから、早く返しなさいよ!」
突然、ビルギットが大声を上げました。
売るですって?
この子、何を言うのかしら。
これまでビルギットの説得を試みていたのですが。何かがふっと吹っ切れた気がしました。
わたしは手にしていた請求書を床に落としました。
ひらひらと、何枚もの請求書はビルギットの顔の前に重なっていきます。
まるで散っていく白い花びらのように。
そうすれば、彼が使用人を連れて来ることもできるし、新たに雇うことも出来ます。
なのに、この子はそれをしなかった。
……出来ない状態にあるのね。
わたしはヒースさまとの結婚を提案しながらも、予感していました。
彼がすでにビルギットと一方的に別れたことを。
「結婚できるのなら、そうしているわよ」
ああ、やはり。わたしは小さく息をつきました。
ねぇ、ビルギット。お客さまに紅茶を掛けたその時に、あなたはもう捨てられていたのよ。
そう、わたしにヒースさまを奪ったことを見せつけに来た、一番最初に。
わたしに勝って嬉しかったのね、舞い上がっていたのね。でも、恋人のそんな姿を男性が見て喜ぶと思うの?
どうしてそんなに浅い考えしか持てないの?
「ねぇ。どうしてよ、信じられないわ。ヒースも去っていったわ。君とは付き合いきれないって。姉さん、彼が何処に行ったか知らないの?」
「ヒースさまとは、この一年間一度も会ったことがないわ」
彼もまた伯爵家を追放されることでしょう。
相手が子爵家とはいえ、姉を裏切り、妹を見捨てて。そんな軽薄で先の見通せない人間は、伯爵家にはお荷物でしかないでしょうから。
ヒース。あなたは子爵家の婿に入れば、貴族でいられたのに。
「それにっ!」
ビルギットはてのひらで床を叩きつけました。これまで握りしめていた紙が、何枚もひらりと舞い上がります。
「貿易商やら商人が、代金を払えと請求書を持ってきたのよ。どうするのよ、そんなお金ないわよ」
わたしはスカートの裾を押さえながら、しゃがんで紙を拾いました。
これまで当たり前のように父さんやビルギットが、気の向くままに購入していた品々。宝石やドレスのお仕立て代。お父さまのステッキや靴、それに銀器。財政状況を考えずに買った物の代金が、インクで書きつけてあります。
お父さまは使用人にお給金を払っていたでしょうが。マーマレードの収入が一切なくなったことで、これまでと同額を支払うことができなくなったのでしょう。
市場で売っているマーマレードとは違い、王室も使用してくださるマーマレードは一瓶の値段がそもそも違います。
調度品を売っても、一時しのぎにしかなりません。
仕方ありません。使用人にも生活があるのですから。
「わたしはヴェステルグレーンの家を追い出された身。もう無関係なのよ」
「姉さんでしょ! 長女でしょ! 家族のために働いて当たり前じゃない。家族を見捨てるつもりなの? 冷たいわよ」
「あなた達が、わたしを家族と認めなかったのでしょう? ただの下女扱いだったものね」
指摘されたビルギットは、わたしから視線を外しました。
そして、棚に置かれた足跡のついたお母さまの詩集に目を留めたのです。
ビルギットの瞳が大きく見開かれ、ぎらりと輝いたのです。
まるで獲物を見つけた獣のように。
「見つけたわ。あれよ! 著名な女流詩人の詩集なんでしょう? わたし、ヒースから聞いたのよ。あの本を売れば相当な値になるって」
「あれはお母さまの形見よ。お母さまの親友の女性がしたためた詩なの」
お母さまと幼馴染みのその人は、少女の頃からジャム作りが得意で。お母さまが暮らしていた館のお庭に咲く薔薇や、ジューンベリー、グーズベリーを摘んで、二人でジャムを煮ていたそうです。
その後、その方は詩人として有名になり。お母さまは子爵家に嫁ぎました。
当時、女流詩人はまだ少ないので、相当な苦労をなさったそうです。
お母さまも、意に染まぬ結婚でしたが。親友の紡いだ言葉、そして二人で一緒に作ったジャムの思い出を宝物にしていらっしゃいました。
そのレシピを、わたしに教えてくれたのです。
お母さまは、ビルギットを淑女として育てようと苦心なさったけれど。そのたびにお父さまが「こんな可愛い子に厳しくするとは。お前は酷い女だ」とお母さまを叱りつけていました。
厳しくはなかったの。わたしと同じように、子爵家の娘として必要なプロトコールを教えてくださっただけなのに。ビルギットは、それを嫌ってすぐにお父さまのお部屋に逃げ込んだのです。
「その詩集は、うちの物よ。返しなさいよ。勝手に持って出るなんて、姉さんが盗んだも同然よ。お母さまの形見なら、わたしが受け継いでもいいはずだわ」
「お母さま個人の物よ。ヴェステルグレーン家の物ではないわ」
「売るんだから、早く返しなさいよ!」
突然、ビルギットが大声を上げました。
売るですって?
この子、何を言うのかしら。
これまでビルギットの説得を試みていたのですが。何かがふっと吹っ切れた気がしました。
わたしは手にしていた請求書を床に落としました。
ひらひらと、何枚もの請求書はビルギットの顔の前に重なっていきます。
まるで散っていく白い花びらのように。
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