マスクの下は君だけに

絹乃

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一章

1、キスしたい唇ランキング

 前代未聞や。

 中学二年の時、オレは選ばれてしまった。
「全校生徒、キスしたい唇ランキング」の第一位に。しかも並みいる女子生徒を押しのけて。

 学年で一番かわいいと誰からも好かれている女子、桜井さんが「うわぁ、すごいね、梅園くん。だって唇マシュマロみたいだもん」と微笑みながら拍手してる。

「ちょっとだけ触ってみてもいいかなぁ?」
「あ、あかん。それはやめて、桜井さん」

 好奇心に瞳をきらきらと輝かせながら、桜井さんが指を差しだしてくる。
 なに、これ。ご褒美? それともお仕置き?
 放課後の教室に集まった皆はごくりと息を呑んで、オレと桜井さんに注目してる。

 黒板に貼られたでかい紙には「一位 梅園うめぞのあかつき、二位 桜井さくらいさゆり」と、マジックで書かれている。しかもご丁寧に、下手くそな唇の絵まで描いてある。

「ゆ……百合? 暁って細いし、頑張れば女の子に見えんこともない」

 誰かが発した言葉に、教室内の空気が張りつめた。
 違う、オレは男や。確かに身長も前から二番目やし、筋肉もついてない。髪かって茶色っぽい猫っ毛やけど、目ぇも大きいけど。
 唇までキスしてみたいとか、やめてくれ。

 まだ「キスされたい唇」やったら、ちょっとは納得できるのに。なんでオレがされるほうなん、受け身なん。

 外は秋の長雨で薄暗く、教室には明かりが灯っている。
 ちょうど廊下を通りがかった先輩らが、何事かと教室内に入ってくる。誰かが事情を説明したようで、体のでかい三年生が二人、ずかずかとオレのいる教壇に向かってきた。

「おもしろいことしてるなぁ。へぇ、キスしたい唇ランキング? で? こいつの唇を奪ってもええんやな?」
「ち、ちゃう。そんなことしてへん」

 もっと大きい声で怒鳴りたかったのに。オレの口から出たのは、小鳥がさえずるみたいな小声だった。

「わー、かわいいなぁ」

 体のでかい先輩三人に囲まれる。さらに一人がオレのあごに手をかけた。
 ぐいっと顔を上げさせられて、恐ろしさに膝が震える。なのに、相手は口の端を歪めて笑ってる。

「ほんまや。めっちゃかわいいやん」

 無理、やめて。助けて。それにオレはかわいくなんかない。

「どこまでしてええん?」
「ど、どこもダメ……です」
「そんなつれないこと言わんといてぇや」

 たった一年の差なのに。この先輩、たちの悪いおっさんにしか見えない。

 唇が迫って来る。もうダメだ。オレの初めてのキスを奪われる。
 いやや、いやや。ほんまにやめて!
 そう心の中では叫んでるのに、か弱い声しか出せなかった。

「や……め、て」
「うわぁ。怖がってる、そそるわぁ」

 暑苦しい息が、もわっと耳にかかる。全身に鳥肌が立った。

 助けて……
 気持ち悪い。助けて、朔也さくや。助けに来て、朔也。
 両手で自分の唇を隠して、首の筋が攣りそうになるほど顔を背ける。

 いやや、こんな気持ち悪い先輩らに奪われたくない。なのに、太い指がオレの頰からあごにかけてを撫でる。
 ぞっとした。気絶しそうなほどに気持ちが悪い。
 黒板にもたれることで、オレはかろうじて立っていた。

「怯えて、かわいいなぁ」
「うわぁ、そそるわ」

 盛りあがってきた三年生たちに注意できる奴なんか、二年生にはいない。
 いつも隣にいる幼なじみは、こんな時に限って姿が見えない。
 朔也、どこ……。こらえきれない涙が、溢れてこぼれ落ちる。

「もしかして泣いてる?」
「俺も見せてんか。わー、ほんまや泣いてるわ。女子みたいや」
「脱がしてみるか? 上だけなら問題ないやろ」

 楽しそうなのは三年生だけだ。教室内の空気は張りつめて、ベランダを叩く雨の音だけがやけに大きく聞こえる。
 オレが「かわいい」から、こんな風に弄ばれるなら。「かわいい」なんかいらない。絶対にいらない!

 脂ぎった顔が近づいてくる。汗くさい臭いが鼻をついた。

 いやや、やめろ!
 そう言うたはずやのに。オレの口はカラカラで、舌が上あごに張りついてしまって声にならない。

「た、すけ、て」

 ようやく出た声は裏返ってた。あかん、こんなか細い声じゃ、あいつに聞こえない。

「助けてくれ! 朔也!」

 腹の底から絞り出した声が天井や壁に反響した。

 その時や。俺の顔の側で風が吹いた。濡れた風が、びゅうって吹いた。

 オレの見開いた目には、迫ってくる先輩らの頭の間を縫って閉じたビニール傘が現れた。
 ドン、って激しい音を立てて傘の先端が黒板に突き立てられる。
 ちょうど俺の顔に当たらない高い位置だ。

「座れ、暁」

 低い声で告げられ、オレは慌てて教壇で座り込んだ。
 この声、学校でオレを「暁」と呼ぶたった一人のヤツ。

 次の瞬間、ビニール傘が開いた。雨のしずくがまるでBB弾みたいに四方に散る。
 頭上から水の粒がオレの頭にも降りそそいだ。

 来てくれたんや!
 朔也が助けに来てくれた。

 喉の奥に結晶が詰まったかのように、息が苦しくなる。きっとその結晶が砕けたら、オレは泣き叫んでしまうだろう。

「うわっ、冷たっ」
「なんやねん!」

 突然濡れて混乱する先輩らは、顔を手で拭っている。そしてオレの手首が、朔也に掴まれた。

 朔也がオレを引っぱって教壇から下ろす。

「逃げるぞ、暁」

 透明なビニール傘を投げ捨てて朔也が走るから、オレはよろけながらついていった。
「誰や、今の」と怒鳴る声が遠くなる。けど、追いかけてくる足音は聞こえない。

 朔也に手首を掴まれたまま肩越しに後ろを見ると、さっきまで恐怖におののいていた同級生が教室の入り口をふさいでた。
「俺らに構わんと行くんや」「お前は遠くへ逃げろ、梅園」とカッコつけてる。

 廊下に出てきた桜井さんは、なぜかモップを握りしめていた。掃除の時間でもないのに。

「お前ら……なんてええ奴なんや」

 オレを護るために、体を張ってくれて――感動で声が震えた。
 けど、前を行く朔也はため息をつきながら立ちどまった。ビニール傘を開いた時に濡れたようで、黒髪から雫が落ちている。

 水もしたたるいい男。
 そんな言葉がオレの脳内で弾けた。
 朔也は眉根を寄せて、険しい目つきをしている。それでも本来の美形は崩れない。中学二年にして、高校生のお姉さんから告白されるほどの大人っぽさだ。

「あんなぁ、暁。勘違いしてそうやけど、クラスの奴らのせいやからな。あいつらが変なコンテストを開催せんかったら、先輩にキスされそうになることもなかったんやで」
「あっ」
「今ごろ気づいたんか……暁がキスしたい、の一位に選ばれるとか。女子まで悪ノリしてるから、おかしなことになるんだ」

 朔也はおでこを手で押さえた。

「誰なんだよ、首謀者は。あれは冗談でした、で済むことじゃないからな」

 呆れたのを通り越して、朔也は明らかに怒っている。

 谷山たにやま朔也さくや、オレの幼なじみ。オレよりも賢いし、眉毛もきりっとして目もとも涼しい切れ長で、さらにオレよりも背が高くて顔もいい。
 だけど、こんなに怒ってる朔也を見たのは、初めてだ。幼稚園からの付き合いなのに。

「そんなことより、なんでジブン、抵抗せんかったんや!」
「それは……」

 オレは口ごもってうつむいた。

「暁?」
「……言えるわけないやん。相手、先輩やで。しかも三人も。やめてって言ったけどやめてくれへんかったし『むしろ脅えてかわいい』って余計に迫ってきて」

 あ、あかん。思い出したら泣けてきた。
 たった一年の差、でも中学生の一年はめちゃくちゃ大きい。あの場で怒って暴れたり、先輩らを叩いたりしたら……復讐されるかもしれへん。
 しかも押しのけても、全然先輩らはびくともせんかった。

 オレの力じゃどうにもならへん。助けを呼ぶしかなかった……朔也の名前を呼び続けることしかできなかった。

「……怖かった」

 みっともないくらいにぼろぼろと涙がこぼれ落ちる。

「すごく、怖かった」

 朔也に手首を掴まれたまま、こぶしをぎゅっと握りしめる。爪がてのひらに食い込んで痛くて、それでも力を入れ続けた。

 朔也はオレの手を取ると、強く握りしめたこぶしを開いてくれた。
 指が今も強ばってる。てのひらにはくっきりと爪の痕が残っていた。

 オレの薄いてのひらを、朔也の指が撫でる。いたわるように、とても優しく。人さし指の爪の痕、中指の爪の痕、薬指の小指の、その一つ一つを確認するように。

 険しかった朔也の表情がほどけた。つり上がってた眉が下がり、今にも泣きそうに目が潤んでる。

「……ごめん。そうやんな、暁は、ぼうっとしてたわけやないよな。恐怖で動けなかったんだよな」

 気づいてやれなくてごめん、と朔也は何度も繰り返す。
 悪いんは朔也じゃないのに。助けに来てくれたのに。そんな気にしなくてもええのに。
 そう言って慰めたかったけど、できなかった。

「朔也がおらんかったから、どうしてええか分からんかった」

 オレは声を上げて泣いた。ぎゅっと抱きしめてくる朔也も多分泣いてた。「もう大丈夫やから」と囁く声がかすれていた。
 
 その日を境に、オレたちは変わった。
 オレは常にマスクを着用するようになり。朔也は――どんな時もオレを守るセコムになってしまった。
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