マスクの下は君だけに

絹乃

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一章

5、保健室のベッド

 学校についたオレは、結局保健室のベッドで寝ることになってしまった。
 真っ白い糊のきいたシーツと、白いカーテンに囲まれ、見上げる天井も白。なんかこんな絵面見たことあるなぁ。
『いいですか。落ち着いて聞いてください』みたいなの。

「あ、マスク……」

 慌てて口元に手をやると、相変わらずぷるんとした唇が指に触れた。しかし、体調が悪くても唇だけは元気だな。

「大丈夫だ。見ていない」

 近くで朔也の声が聞こえた。ベッドの側の丸椅子に座った朔也が、顔を背けてる。ふわりと、オレの口元にハンカチがふわりと降ってきた。

「ちゃんと洗濯してあるし、まだ今日はハンカチを使ってないから。今はそれをマスク代わりにするといい」

 うちとは違う洗剤の匂いが残ってるハンカチで、オレは口もとを隠した。
 駅からの坂も、保健室までもずっと朔也が運んでくれたんだよな。重かっただろうに、文句も言わずに。しかもこうして気遣ってもくれる。

「唇に色気があるとか、気にするほどのことじゃないと思う。けど、それは俺の考えなんだよな」

 ぽつりと朔也が呟いた。

「高校生の今から思えば、中学二年生なんて子供だ。そんな時に体のでかい先輩たちに襲われそうになったんだから、唇を隠したいよな――怖いよな」

 初めてだ。朔也がこんな風にあの時のことを話すのは。
 オレの傷がまだ癒えていないから。朔也はずっと寄りそって、傷に触れないでいてくれる。

 もし「キスさせろ」と先輩らが迫ったのが、桜井さんだったら、中学を挙げての大事おおごとになっていたはずだ。
 クラスの奴らも先輩らも先生に叱られ、保護者の呼び出しもあったに違いない。

 けど、迫られたのは男のオレやったから。何にもなかった。
 あんなにも怖かったのに、泣いてしまうほどに恐ろしかったのに。ただ「アホなことをして騒ぐのはやめなさい」と、全員が叱られただけだった。

 ――あ、そんなもんなんや。

 中学生の時のオレは軽く絶望した。

 何かあっても、オレは守られへん。そんなら自分で自分を守るしかないやん。
 あの日から、マスクは俺にとって盾であり鎧であり、友だった。

 家以外は、常にマスクをつけておかないと不安で。ほんの少しでも注目されたら、相手が男であろうが女であろうがまるでオレが「誘ってる」と思われるんじゃないかって。
 オレの唇が悪い、オレの口元が悪い。だったら見せなければいい、永遠に。

「ほら、経口補水液をもらったから、飲んだほうがいい」

 ぷしゅっと音がした。ハンカチで口を押えながらふり返ると、朔也がペットボトルの蓋を捻っている。いかにも香料といったリンゴの匂いがした。

「ありがとう」

 朔也に背中を向けて、経口補水液を飲む。背中に視線を感じる。きっと見守られているんだ。

「あ、意外とおいしい」
「それは良かった。朝は待ち合わせして、一緒に登校するのは正解だったな。もし暁が一人だったら、駅で倒れていたかもしれない」

 反論はできない、その通りだから。

「なぁ、朔也。もしかして今日みたいなことを想定して、いっつも一緒に登校してるん?」
「……ほら、あるだろ? 具合が悪くなった時に、緊急通報でかけつける警備会社」

 セコムかな? アルソックかな?

「俺の場合は悪くなる前に、事前にいる警備会社の者だと思ってもらえれば」

 オレは助かるけど。それだと朔也はオレにかかりきりになってしまう。
 朔也に彼女ができたら寂しいという気持ちと、オレが朔也の時間を奪うのが申し訳ない気持ちが、心の中でせめぎ合ってる。
 こんな醜い感情をどうしたらええんやろ。
 ああ、そうや。桜井さんにも迷惑かけたから、後でお礼を言わないと。

「オレは朔也を独り占めしすぎてるんかな……」
「していいんじゃないか?」

 朔也にしては歯切れの悪い口調だった。だから、よく聞き取れなかった。

「今、何て言うたん?」
「えっと、その。暁は軽いから、もっとちゃんと朝食を取った方がいい」

 ん? そんな話やったっけ? 独り占めしてる話では?

「君、ご飯をちゃんと食べてへんのか? そんなんやから倒れるんや」

 突然、大声が保健室に響いた。
 カーテンが勢いよく開かれて、三年の男子生徒が仁王立ちになってる。確か保険委員長の有馬ありま先輩だったかな。きりっとしたメガネをかけて、着ているのは制服だけど白衣が似合いそうだ。

 びっくりして目を丸くするオレに、朔也が「保健室の先生が出張だから、有馬先輩が対応してくれたんだ」と説明した。

「さっき君は経口補水液を『おいしい』って言うたよね?」
「は、はい」

 ぐいっとベッドに身を乗り出した先輩に気圧される。俺はハンカチで口もとを押さえたままうなずいた。
 距離が近いって、この人。

「有馬先輩。近すぎます」

 ふいにオレと先輩の間に、朔也の腕が割って入った。だが、有馬先輩は構わずに話を続ける。

「経口補水液に含まれる塩分は、中サイズの梅干し一個と同じ濃度。つまり塩分は高め。健康な状態で飲めば正直まずい。脱水を起こしてる者だけが、美味しいと感じるんだ」

 うわ、めんどくさい人や。オレは若干引いた。

「朝食は何を食べたん? シリアルだけとかやったら許さへんで」

 腕を組んで仁王立ちになった有馬先輩が、えらそうに尋ねてくる。確かにコーンフレークを食べてきた。ということは、オレは許されないんだ。

「バナナを朝食に加えるといい。バナナはカリウムが含まれとうから、電解質やねん」

 この人、栄養オタクかな。
 オレは横目でちらっと朔也を見遣った。朔也もまた諦めたように瞼を閉じて静かに先輩の話を聞き流してる。

「最近寝つきが悪いから。朝が食べにくくて」

 ぼそっと告げたオレの言葉に反応したのは、朔也だった。白いパイプのベッドが軋む。見れば、朔也がベッドに膝を載せてきてた。

 え? どないしたん? さっきまでまともに先輩の話を聞いてなかったのに。

「暁、部屋が暑いんとちゃうか? 寝る前にコーヒーとか飲んでへんか? エナジードリンクもや。カフェインは夜はあかんねんで」

 身を乗り出して畳みかけてくる朔也の言葉が、関西弁に戻ってた。取り乱したように早口でまくし立ててる。
 オレは朔也を凝視した。間近にある幼なじみの顔はものすごく真剣そうで、形のいい眉を寄せてる。切れ長の朔也の目に、びっくりしたオレの顔が映ってる。いや、オレしか映ってない。それくらい近い。

「寝る前のスマホも禁止やで」

 こくこくとオレはうなずいた。

 あれ? そういえば、朔也の背中に揺られとう時も、関西弁が聞こえてたような気がする。

 ――しんどないか?

 顔の近くで聞こえたあの声は、オレの耳を優しく撫でて海風にさらわれていった。

 あかん。オレ、朔也の関西弁が好きや。
 自覚したとたん、頰がかーっと熱くなる。

 ほんのちょっと前まで当たり前に聞けてた言葉遣いが戻ってきて。自分でもびっくりするくらい心が跳ねてる。
 やっぱり朔也の標準語を耳にするたびに、寂しさが募ってたんや。まるで朔也が遠くに行ってしもたみたいで、オレだけ置いていかれたように思えたんだ。

「うわっ、どないしよ。先輩、暁が熱出してる。体温計、それと冷えピタはどこですか?」
「いや、落ち着きぃや。谷山朔也くん。君、なんかキャラ違わへんか?」

 おろおろと立ち上がる朔也を、有馬先輩がなだめる。
 それでも朔也は体温計が置いてあるであろう、先生の机へ向かおうとする。

「谷山くん、君は過保護やね」
「そんなことないです! 俺は暁が自立できるように、いっつもそれを考えて。どうすれば暁がつらい目に遭わんと生きていけるか、笑っていられるかを……あっ」

 固まってしまった朔也を有馬先輩が可哀想な人を見るような目で眺めた。

「自覚なかったんか。めっちゃ過保護やん」

 朔也は椅子に座ったまま肩を落とした。目に見えて落ち込んでる。
 あかん、朔也の名誉のためにもオレがしっかりしなければ。
 まずは真っ白な進路希望をちゃんと書こう。
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