マスクの下は君だけに

絹乃

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一章

7、朔也の背中

 たった一時間だけの授業はめっちゃ楽だった。
 昇降口から出たオレは、両腕を天に伸ばして「うーん」と背伸びする。

「梅園くん。大丈夫? 駅まで歩ける?」

 声をかけてきたのは桜井さんだ。今朝のお礼を言うオレの隣に桜井さんが並ぶ。
「あー、なんだよ。梅園、桜井さんと仲良しかよ」と、クラスの芳野が声をかけたせいで、桜井さんは頰を赤く染めてうつむいてしまった。

「ちょお、桜井さんに謝れ」と、オレは囃し立てた芳野の膝をカックンした。不意打ちを食らった芳野がこけそうになる。

「梅園はかわいい顔して暴力的やなぁ」
「膝カックンしただけやろ。『かわいい』っていうんは余計や」

 芳野は一言多い。しかも何が悪いか自分では分かってない。だからオレが反論しても「かわいいモンにかわいいって言うて、何が悪いん」と、傷口に塩を塗りこんでくる。

 足音が近づいてきた。
 イライラしているオレは、それが誰なのか考える余裕はなかった。
 急に目の前が白に閉ざされる。視界から芳野が消えた。

「……朔也?」

 少し遅れて昇降口を出た朔也が、オレと芳野の前に立っていた。白は、朔也の背中だった。

「芳野は小さくて可愛いよな」

 ぼそっと朔也が呟いた。無表情で、目が据わっている、むしろ怖い。
 思いがけない攻撃だったんだろう。芳野はこぶしを握りしめて、背の高い朔也を睨みつける。

「かわいいって言うな! 背が小さいんも気にしてんのや!」

 耳まで真っ赤にして、芳野は大声を出した。耳の奥で鼓膜がつんと痛くなる。
 朔也らしくない。わざわざ嫌味を言いに来るなんて。

「ほら、それくらいひどく怒るだろ? 芳野が暁に言ったのをそのまま返しただけだぞ。芳野にとっては悪口になるのに、暁なら褒め言葉になるわけないだろ」
「ぐ……っ」

 喉の奥でカエルが踏まれたみたいな音を、芳野は発した。言いたいことをたくさん呑み込んだのだろう。芳野がオレと桜井さんに向かって頭を下げた。

「ごめんな、言いすぎたわ。俺、デリカシーがないから」

 芳野はリュックを背負って、校門に向かって走っていった。
 そうか、オレが傷ついてると思て助けてくれたんや。
 桜井さんは「私が居たせいでからかわれちゃったね」と申し訳なさそうだ。

「桜井さんのせいちゃうし。芳野が勝手にそう見ただけで」
「そうだな。あいつが悪い」

 ぼそっと朔也が呟いた。
 芳野に対して怒ったわけでも、声を荒げたわけでもないのに。朔也は決定的なダメージを芳野に食らわせて、退散させた。
 すごいなぁ。喧嘩にもならんかった。
 見上げると朔也は涼しい表情をしている。

「あの、暁。そんなキラキラした瞳で見つめられたら恥ずかしいんだが」
「憧れのまなざしやと思う」

 素直な感想を告げると、朔也は「あー」とおでこを指で押さえた。恥ずかしがり屋さんやな、朔也は。
 桜井さんは苦笑しながら「じゃあね」と帰っていった。

 部活が始まる前の校庭は静かで、俺と朔也の短い影が門へと続く道に落ちてる。残ってる生徒が少ないからか、校舎や渡り廊下から聞こえてくる声も小さい。

 遅刻ばっかりしてる黒川は、部活だけは真面目に出てるみたいで渡り廊下からオレらに手を振ってきた。確か茶道部だったかな。
 ちゃらい見た目のくせに、渋い茶道とかどうやねん。黒川は茶室よりも海のビーチハウスやろって皆が思てるけど。彼女が茶道部やから、休むことなく続けてる。純情君や。

「お、海風が吹いとう」

 門から出たオレは、十か月ほど前にできたばかりのコンビニに急ぐ。この辺はほとんど買い物をする場所がない。コンビニも急な坂を下っていく。
「こら、待てって暁。走るな」と、朔也が追いかけてくる。

「平気平気」

 オレは元気に答えたけど。平気やなかったのは、姉ちゃんの日傘だ。急に強く吹いた海風にあおられて、高そうな日傘がばふんと裏返ってしまう。
 通りを行く女子生徒が、日傘をおちょこにしたオレを見てくすくす笑う。

「うわ、どないしよ。壊したら弁償やん」

「大丈夫だから。壊れてないと思うぞ」と、朔也が日傘を丹念に調べてくれる。
 問題はなかった。あー、よかった。オレはマスクの中で安心して息をつく。

 家と家の間から、瀬戸内海が見える。ちょっと西には淡路島。冬場は日暮れが早いから、下校時間が遅くなった時は明石海峡大橋がライトアップされてるのが見える。
 正時っていうのか、八時とか九時ちょうどになると虹色に染まるらしい。

 残念ながら、一度も虹色のライトは目にしたことがない。
 でも三十分ごとの、宝石をイメージした灯りは見たことがある。ガーネットやアクアマリン、ペリドットっていう誕生石が季節に応じて光ってる。
 ペリドットってよく分からないけど、朔也が教えてくれたことがある。

『ペリドットは橄欖石かんらんせきっていう若葉色の宝石だよ。橄欖はオリーブのことな。地球の内部、上部マントルはペリドットで構成されているらしい』
『じゃあ、土を掘ったら緑色の宝石が敷き詰められてるん?』

 あまりの感動に、その時のオレはアスファルトに視線を落とした。

『地球の内部は熱いから、どろどろに溶けてるし。高熱で光を放っているから、そのままの若葉色じゃないと思うけど』
『へー、すごいなぁ。オリーブってオリーブオイルしか知らんかった。朔也は何でもよう知っとうなぁ』

 そんな風に感心したら、朔也は苦笑してた。
『そうだな、オリーブオイルだな』って。

 もしかしたら朔也はそっち方面の大学に行くんかな。宝石とか鉱石とか、オレには違いはよう分からんけど。

 夜のライトアップもいいけど、抜けるような青空を背景に白い吊り橋がぐーんと伸びてるのも、オレは好き。
 坂を下りるごとに、角度がちょっとずつ変わる橋を眺めながら歩く。

「ほら、ちゃんと日傘を差して。マスクをしてるんだから、影に入っていないとダメだぞ」

 朔也が持ってくれてる日傘を、オレの方に深く傾けた。
 母さんよりも朔也の方がよっぽど母親みたいだ。

「あ、コンビニが見えてきたで」
「走るなって、暁。お前は、病み上がりみたいなものなんだから」

 オレの後を追う朔也は、日傘が風を受けるせいで遅れてしまう。
 ありがとう、朔也。優しいなぁ。オレが朔也を困らせてるのは知ってる。でも、こんな風にオレのことを構ってくれて嬉しいんや。

 リュックの中の教科書やペンケースが上下に揺れてカタカタと音を立てる。
 いつまでもこんな風に朔也と一緒にはしゃいでいたいなぁ。
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