マスクの下は君だけに

絹乃

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二章

8、ずっと一緒にいるから

 さすがは勉強合宿、なかなかにハードな一日や。
 まさか夕食が終わった後にも授業が待ってるとか思わんかった。確認テストの後、オレは机に突っ伏してしまった。

 先生は「いい? プロ野球選手は、バッターボックスに入る前に、普段よりも重いバットで素振りするのよ。そうすれば本番では、バットが軽く感じるの。そのためにもこの合宿ではいつもよりもみっちりと勉強するからね」と訳の分からないことを熱弁してた。
 オレ、野球選手ちゃうねんけど……

「暁。部屋に戻ろう」

 それまで別の授業を受けていた朔也が、オレの席の側に来た。会議室には、まだちらほらと生徒が残ってる。皆、げっそりとした表情だ。

「入浴時間、何時からー?」
「九時から、あと三十分後だな」
「お風呂、めんどくさい」

 わかるー、と後方から声が聞こえた。重い頭を持ち上げてふり返れば、黒川がオレに同意していた。

「わかるけど、彼女に嫌われたなくいから。風呂は入らないと……」

 目をしょぼしょぼさせた黒川は、結んでいた髪も乱れてしまってる。着崩れたパイナップル柄のアロハシャツといい、怪しいお兄さんだ。

「朔也。オレ、お風呂は最後の方でもええかな」
「ああ、構わない」

 理由を尋ねる必要はないという感じで、朔也がうなずいた。中学の修学旅行は、朔也とはクラスも違ったけど。お風呂の時間はオレに合わせて最後にしてくれた。
 エレベーターに乗って、部屋へと向かう。廊下は静かだけど、ドアの向こうからはしゃぐ声が洩れている。どこかの部屋で男子が集まっているんだろう。女子はもっと上の階だ。

「つかれたー」

 朔也が鍵を開けてくれるのと同時に、俺は部屋に飛び込んだ。荷物はすでに運んである。

「朔也、ベッドは窓際がええ? それとも壁際?」
「暁の好きな方を選べばいい」

 ツインのベッドはふかっとしてて、見るからに心地よさそうだ。そりゃ、窓際がいいけど。でも、そんなの朔也だって同じはず。

「よし、じゃんけんで決めよ」

「最初はグーだな」と朔也が確認する。

 ふっふっふ、実はオレはじゃんけんが得意なんだ。
 しかもこの部屋は明石海峡大橋に近いし、対岸の淡路島も見える。淡路島の端っこには観覧車があって、夜はライトアップされる。橋の灯りと一緒にここから見えるかも。
 これは勝たねばなるまい。

 瞬殺されました、ごめんなさい。驕ってました。
 オレはチョキにした右手をしおしおと降ろした。まさか「最初はグー」の後に続けてグーが来るとは思わんかったんや。

「仕方ないな、合宿は二泊だから明日はベッドを代わろうな」
「……ええ人や。ええ人すぎる」

 壁際の自分のベッドに腰を下ろして、立ったままの朔也を見上げた。
 ホテルの部屋は間接照明で、ちょっと薄暗い。だから大きい窓から差し込んだ月の光が、朔也の輪郭を金色に縁取っている。
 眩しい。オレが目を細めたのは、月光のせいじゃない。

「あんな、オレ考えてん。朔也はお昼ご飯の時に、オレに同じ大学に行く必要はないって言うたやろ」

 そう告げると、朔也が身を固くしたのが分かった。
 多分、オレは今から大事なことを言う。それが伝わったんだろう。

 でも……もし、断られたら。オレのことを、思い上がったヤツって呆れられたら。
 心配が、胸の内でふつふつと泡になって上がってくる。

 いや、恥ずかしいことなんかない。他でもない、相手はオレの朔也なんやから。

 ドアを隔てて、お風呂へと向かう男子の声が聞こえてきた。長い勉強時間が終わり、ほっとしたのかはしゃいでいる。
 声が遠くなってから、朔也はカードキーを手にした。

「暁、外へ行こうか。そろそろ九時だから、橋のライトアップも変わるし。それに誰かが風呂に行こうと誘いに来るかもしれない」
「せや、虹色のライトアップを見るんやった」

 いつもと違う場所で夜に出かけるのは、特別感がある。部屋のスリッパを脱いで、オレは靴に履き替えた。

「靴の踵を踏まないようにな。庭に出るんだから」
「転ばへんって」

 早くしないと五分間だけの虹のライトアップを見られなくなる。オレは朔也を急かしてエレベーターに向かった。

「お、梅園と谷山だ。今から風呂か?」

 一階のロビーには、黒川と彼女がいた。ソファーに座って二人でスマホを覗いてたようで、ぴったりと体を寄せている。派手なアロハシャツが似合う黒川と違い、茶道部の彼女はとてもまじめで清楚に見える。
 全然タイプが違うのに、二人はすごく仲がいい。
 それにしてもさっきはボロボロだったのに。彼女と一緒なら元気が戻るんだ、黒川は。

「オレらは後で入るわ」

「ははーん、お菓子を買いに来たんだろ。でももう閉店してるぞ。残念だったな」と黒川が軽口を叩く。
 見れば、確かにショップの灯りは消え、中に入れないようになっている。

「いや……、ちゃう」と言いかけたオレの前に朔也が立った。

「本当だな、閉店は八時半か。遅かったか」

 珍しい。朔也が適当に話を合わせるだなんて。

「下りたついでにちょっと散歩してくる」

「気をつけるんだぞ、外は暗いから。暁は襲われないようにな」と黒川は手を振り、彼女は俺らに頭を下げた。

「そんなひどいことはしない……」

 ぽつりと朔也が呟いた。

 ホテルの庭は、芝生の間に小道があった。背の低い小さい松がいっぱい植えられてて、オレがよく知る須磨海岸の背の高い松林とはだいぶん趣が違う。

「あ、ほら。ちょっと青いで」

 オレはライトアップされた明石海峡大橋を指さした。白っぽい青というか、淡い水色に近い光の列が灯っている。
「今は夏だから、色で言うならパールブルーだな」と朔也が補足する。

「パールって真珠? なんでなん?」
「神戸はパールシティって言われるくらい、真珠の卸や加工の会社が集まってるんだよ」

 へぇ、そんなの初めて聞いた。

「朔也はなんでも知っとうなぁ。賢いし、冷静やし、かっこええもんな」

 庭の端の方へと向かっていたオレは足を止めて、ふり返った。
 朔也は「それは違う……」と口ごもっている。

「謙遜せんでもええで。東京の大学かって、朔也やったら合格するわ」
「合格できるように勉強している」
「……うん」

 あと一年半もしたら、オレは朔也の背中を見送るんかな。新幹線の新神戸駅か、それとも伊丹空港か神戸空港か、そのうちのどっかから朔也は旅立ってしまう。

「いややなぁ、卒業したないな」

 ずっと高校生のままでいられたらいいのに。学校帰りにアイスを食べたり、坂を勢いよく下りすぎて須磨の海岸までたどりついたり。朔也の隣に並んで顔を見上げて、笑ってる時間がずっとずっと続いたらいのに。

 青白い光の連なりが、一瞬ふわっと暗くなる。
 次の瞬間、光が変わった。つり橋の形に沿ったライトが、紫から青、緑から黄色にオレンジへと光り輝く。

「うわぁぁぁ、虹や。虹色や」

 ライトアップは波の穏やかな海に反射して、海面そのものが虹の色に染まる。橋の塔の部分は純白に輝いて、神々しいほどだ。
 今いる舞子側から、対岸の淡路島まで。華やかな虹は海峡を越えて続いている。

「見て、きれいで。朔也」

 オレがふり返ると、朔也は目を柔らかく細めていた。

「暁もきれいだよ」
「なー、ほんまにきれいやんな。虹色のライトアップを見たん……え?」

 海に面したホテルの庭は風が強い。姫小松の枝が風で騒ぐから、朔也の言葉を聞き間違えたのかと思った。
 けど、違った。

「暁に『かわいい』というのは禁句だと思っている。だから、その言葉は言わないから。せめて『きれい』は許してくれ」

 朔也の黒い瞳に虹の光が凝縮されてる。こんなにも美しい光を集めているのに、朔也はオレしか見てなかった。

 かわいいというのは、オレにとっては呪いの言葉だ。
 中学の時に先輩にキスされそうになって。その時に「かわいい」と言われたから。
 朔也はそのことをずっと覚えてて、今も気遣ってくれてる。

「言うてもええ」

 夜風に髪をもてあそばれながら、オレは答えた。

「オレは自分のことをきれいとは思わへんけど。朔也がそう言いたいんやったら言うてええ」
「暁……」
「朔也にだけ……朔也にしか許さへん言葉や。あー、君は光栄に思うように」

 自分自身で茶化さないと、本音を告げることができなかった。なのに、上から目線の言葉やったのに。朔也はあまりにも軽やかに微笑んだ。

「光栄です、我が主」

 朔也がオレの右手を取って、自分のひたいにそっと触れる。
 なんで朔也はいっつも騎士みたいな振る舞いをするん? そういうマンガとか小説を読んでるん? それとも前世が騎士なん?

「いや、冗談やから。そういうの、ほんまに恥ずかしいから」
「じゃあ、恥ずかしついでに俺の願いを聞いてもらえるかな。そうすれば主扱いはやめてあげよう」

 ええけど。もしかしてオレは朔也に翻弄されてる?
 昼間、学校での朔也はクールなのに。こうして夜になると我儘になる時がある。進路希望の紙を書いた夜もそうだった。
 
「願いってなんやろ。俺にできること?」
「そうだな、暁以外にその願いを叶えてもらったら、俺が逆に困る」

 手は握られたままの状態で、オレは本題を待つ。オレにしか叶えられない、そんな重要なことがあるんやろか。

「暁。高校を卒業したら、俺と一緒に東京で暮らしてほしい」
「……なんで」

 オレは呆然と立ち尽くした。

 なんでオレが昼食の時に言おうと思てたことを、朔也が先に言うん? 結局勇気を出せずに、呑みこんでしまった言葉を朔也は知ってるん?
 朔也を見送るのが嫌やったら、一緒に行けばいい。そう自分の中で決意したんや。

 その沈黙を誤解したのかもしれない。朔也は慌てたように、オレから手を放した。

「いや、その。将来の選択肢の一つとして考えてくれたらいいだけで。ほら、大学が違っても一緒に住めば家賃も安く済むというか。ただでさえ東京は高いから」

 朔也らしからぬほどに、早口で言葉をつないでいく。

「大学の寮があるところなら、安いかもしれない。でも暁を男子大学生の中に放り込むのは、無防備だし危険すぎる。そういうのは俺も梢子さんも許せないから」

 急にオレの姉ちゃんの名前が挙がった。
 朔也がこんな早口でまくし立てるなんて。今までで最高速度じゃないだろうか。
 呆然としたオレは関係ないことを考えていた。つまり、ぼうっとしてたんやと思う。

「暁? 暁さん? 聞いてますか?」

 オレの目の前で朔也が手を振っていた。さっきまで虹色に光っていた明石海峡大橋のライトが優しいパールブルーに戻ってる。
 知らない間に五分が過ぎたみたいだ。

「えーと、俺の標準語を気にしているみたいだから。この際白状するけど」

 朔也が小さく咳払いをする。

「俺は東京では標準語を喋る。けど、暁と一緒に暮らせるなら、お前にだけは関西弁で話すつもりでいる。その、俺の関西弁はお前だけが聞いていいものだから」

 どういうこと? オレは特別って思てええの?
 オレだけが朔也の関西弁を聞くのを許されるん? そしたらもうこんな寂しい気持ちを感じなくてええん?

「よろしくお願いします」

 オレは頭を下げた。庭の灯りに照らされた朔也の足は、オレよりも大きい。この足で、二人で進んで行くんだ。一緒に歩いていいんだ。

「ほんまに……? 俺を選んでくれるんや」

 関西弁に戻った朔也の声がかすれてる。オレの右手を握る指まで、小刻みに震えている。
 ああ、そんなに緊張してたんや。なんて愛おしいんやろ、寂しかったんはオレだけじゃなかったんや。
 幼稚園の頃の園バスを怖がっていた姿が、今の朔也に重なった。

「選ぶも何も……オレには朔也しかおらへん」

 オレは背伸びをして両腕を伸ばした。そして腕の中に朔也を閉じこめる。
 見かけよりもがっしりとした体、シャツの下の肌や筋肉の動きがオレのてのひらに伝わってくる。
 朔也の胸に顔をくっつけてるから。少し早い心臓の鼓動が聞こえてきた。
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