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澤檸檬

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呼吸器。

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 どこからともなく声が聞こえる。
「ありがとう。幸せでした」
 それが私の手を握っている彼女の声だとすぐに分かった。
 もう目は見えない。
 もう体は動かない。
 呼吸器から送り込まれる酸素と繋がれた点滴が私の命を保っている。
 何がありがとうなのか、と私は残っている体力を振り絞り考えた。
 そうか、と思い出す。
「どちらかが死ぬ時、ありがとう、幸せだったって思えるような夫婦になろう」
 あの時、私はそう言ったのだった。
 何年も前の口約束を彼女は忘れていなかったのである。
 なるほど、私はもう死ぬのだな。
 もう声は出ない。だから私は彼女の手を握り返した。
 ありがとうと伝えるために。
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