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本編

第9話_姿現す憎悪-2

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なんとか3階へ辿り着いたものの、引っ張るリンの所作がかえって体力を消耗させ、息を切らせてしまった蒼矢ソウヤは今一度自分の不調を省みて、鱗へと振り向いた。
「――悪い立羽タテハ、やっぱり…このままちょっと休みたいから、今日はこれで…」
しかし鱗は蒼矢の方は見ておらず、先ほどリビングで見せたはしゃぐように興奮した様子からうって変わり、無感動な表情のまま、静かに室内へ視線をやっていた。
部屋奥から続くウォークインクローゼットや、壁一面にハード本が収まる本棚。綺麗に整頓されたデスク廻りに、最新型がひと揃え配備された電子機器の数々。
必要最小限の家具しかないながらもひとつひとつがハイクラスで、統一感ある全景を眺めながら、鱗はぼそりと呟いた。
「…ほんとにすごい家に住んでますね。さすが…あの旧帝大に入れられるような家柄は違いますね」
「…え?」
「僕みたいな賤民には、ひっくり返ったってこんな生活はできませんよ。…羨ましいを通り越して、憎らしくなってきました」
鱗は部屋を中へ進み、立ち尽くす蒼矢へと振り返る。
「先輩、あなたにだけは特別に、僕の出自を教えてあげますね? ――僕、今年の春まで施設にいたんです」
「…!」
「両親は遊び感覚でうっかり僕を作って、金も無いし愛情も無かったみたいで、結婚もすることなく別れてすぐ僕を手放しました。…それからの僕の人生は、終わりのない真っ暗なトンネルの中を、ひたすら歩いてるようでした」
うつむいて語り始める鱗の面差しは、前髪に隠れてうかがい知れない。
「施設での暮らしは最悪でした。この顔・このなりで、男からも女からも虐められました。どんなに人が入れ替わっても、それは変わらなかった。大人たちはそれがわかってても、不手際があって監査が入ることを嫌ったか、補助金を止められて至福を肥やせなくなることを恐れたか、…どちらにせよ、何もしてくれませんでした。そればかりか、彼らにも昼夜を問わず度々玩具にされました。…何をされるか、あなたに想像できますか?」
鱗の、真っ赤な口元だけが艶めかしく動き、抑揚に乏しいトーンが続く。
「高校を卒業して、やっと施設から解放された僕の心の中には、何も残ってなかった。もちろん大学になんて行ける訳もなくて、適当なライン工場に契約で入りはしたけど…僕には金を稼ぐこと、ひいては生きていくことすらどうでもよくなっていたんです。いつ死のうか、どうやって死のうか…、そればっかり毎日考えてました」
「…立羽…」
にわかに語られ始めた鱗の生い立ちを聞き、蒼矢は眉をひそめ、気遣うように声を掛けかけたが、やにわに鱗の顎があがり、前髪に隠れていた黒い瞳が現れる。
「――でもね。そんな時、運命的な出会い・・・・・・・をしたんです」
真正面から見据えられ、不意にそれを浴びた蒼矢は、途端例えようもない怖気に襲われた。
「そう、ふた月ほど前でした。仕事からの帰り道、いつものように死に場所を考えながら歩いていた時…あの妖・・・が現れたんです」
「……!?」
言葉が出ず、凝視してくる蒼矢の視線を受け止めた鱗はその硬直した表情を眺め、にやりと三日月形に細める。
それ・・は、ひとを人知れず誘い、襲う妖でした。僕も、それに誘われるがまま拘束され、犯されました。でも…僕は恐怖の中にも興奮してしまってました。…自分の性器を弄られて、初めて心地良いと思ったんです。あんな快感は…今までひと相手には一度も味わったことが無かった」
厭らしく細められる黒目が、蒼矢の身体を縫い留める。
「…それで、僕を犯し終えたその妖に聞いたんです。何でこんなことをしてるのかって。そしたらそれは、"食事だ"って答えたんです。…すごくないですか…? ご飯じゃなくて、精液が食事なんです。ひとの体液で、お腹が満たせるんですって」
にたりと口角をあげる赤い唇が、蒼矢の全身の毛を震え立たせる。
「気付いたら僕はその妖に、同じ存在にして欲しいと頼み込んでました。文字通り、後肢あしにすがり付いてました。僕に迷いは無かった。…これまで僕を好きなだけ虐げてきた奴らとは次元の違う、[超越した存在・・・・・・]になれる、この先二度と起きない機会チャンスだって」
「立羽、お前――」
鱗の周囲を纏う空気が、変わる。
蒼矢は瞬時に胸元へ視線を落とす。しかし、起動装置は発光していない。
「無駄ですよ、先輩。僕は、"人"です」
こちらの思考を見透かしたような口振りに、再び視線をあげ顔を固まらせる蒼矢を、鱗は笑みを浮かべ、ごく穏やかな面差しで見ていた。
「先輩が『何者』なのか、僕は知ってます。でも…、あなたに僕は干渉出来ませんよ」
気付くと部屋の中にあの臭気が、今まで体感したことが無いほどに濃く、重苦しく充満していた。
「…っう…」
「髙城先輩…いえ、『アズライト』でしたっけ? 『あなたがた』の中でもとりわけ[こちら]を感じやすいみたいですね」
あまりの[異界]臭によろめく蒼矢を、鱗はその細い片腕だけで掴み、引き上げた。
「感じやすいのは、身体も・・・、じゃないですか…?」
蔑むように見下ろす鱗の双眸が、妖しく弧を描いた。
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