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本編
22.
静寂が支配する湖畔の午後、テラスでアルフレッドの膝に抱かれていたエリオットは、ふと耳を震わせた。森の奥から届く、細く、千切れそうな絹糸のような鳴き声。それは風の悪戯ではなく、何かが助けを求めている、切実な生命の震えだった。
「アルフレッド様、あちらで誰かが泣いています」
エリオットは静止するアルフレッドの手をすり抜け、磁石に引かれるように森の境界へと歩み寄った。アルフレッドは咄嗟に険しい表情を浮かべ、エリオットの肩を抱き寄せようとしたが、その真摯な瞳に圧され、舌打ちを一つして後に続いた。
大きな羊歯の葉が重なり合う木陰。そこには、雪のように白い毛並みを血で汚した、小さな獣が横たわっていた。額には、帝国の建国神話に登場する聖獣の証である、透き通った小さな角が誇らしげに、しかし今は力なく突き出している。
「……嘘でしょう。この国の聖獣の子供だというのですか」
エリオットは膝をつき、怯える仔獣の瞳を見つめた。後ろ足が鋭い岩か何かに裂かれ、深い傷口からは黄金色の混じった血が流れている。アルフレッドは背後で息を呑んだ。聖獣は、皇帝の治世を祝す瑞祥であり、滅多に人前に姿を現すことはない。その子供が傷ついているという事態は、国を揺るがす異常事態だった。
アルフレッドは即座に、常に持ち歩いているエリオットのための緊急医療セットを開いた。そこには、最高級の止血剤や、エリオットの心臓を守るための秘薬が詰まっている。本来ならエリオット以外に使うことなど許されない至宝の薬だが、アルフレッドはエリオットの悲痛な表情を一目見て、迷わずその小瓶を彼に手渡した。
「……私のために用意してくださったものなのに。ありがとうございます、アルフレッド様」
エリオットは震える手で薬を浸した布を当て、仔獣の傷口を丁寧に拭った。仔獣は最初こそ威嚇するように喉を鳴らしたが、エリオットから溢れ出す、春の陽だまりのような慈愛の波動に触れ、次第にその小さな体を彼に委ね始めた。
「よし、いい子だ。……もう大丈夫、痛くないよ」
エリオットが仔獣の角を優しく撫で、包帯を巻き終えたその時だった。
空気が、一瞬にして凍りついた。
森の奥から、大地を揺らすような重圧が押し寄せ、草木が一斉にひれ伏す。
現れたのは、巨大な獅子のような体躯に、銀色に輝く翼を持つ親の聖獣だった。その瞳は怒りに燃え、我が子を人間が囲んでいる光景に、峻烈な殺意を漲らせている。
「まさか……この地の主か。……エリオット、下がれ!」
アルフレッドは瞬時にエリオットを背後に隠し、腰の剣に手をかけた。だが、相手はこの国の守護神とも呼べる存在。敬意を示すべき対象でありながら、エリオットを守るためには剣を抜かざるを得ないという、極限の矛盾にアルフレッドの額に汗が滲む。
しかし、親聖獣にはエリオットが手当てをしていた事実は届かなかった。
彼女の視界には、血を流す我が子と、それを囲む不遜な人間、そして血に汚れた布を持つエリオットの姿しかなかった。親聖獣は、エリオットこそが我が子を傷つけた張本人だと断定した。
「グルアアアアッ!」
凄まじい咆哮と共に、親聖獣が前脚を振り上げた。その爪は岩をも容易に砕く一撃。
アルフレッドがエリオットを抱き込み、自分の背でその一撃を受けようと身を挺した、その刹那。
「キュイッ!」
甲高い鳴き声と共に、手当てを終えたばかりの仔獣が、よろめきながらもエリオットの前に飛び出した。
親聖獣の鋭い爪が、エリオットの喉元を掠める寸前で止まる。
仔獣は小さな体を精一杯広げ、エリオットの胸元に顔を擦り寄せながら、親に向かって必死に何かを訴えかけるように鳴き続けた。
親聖獣の瞳から、殺意が消え、困惑と驚愕が広がる。
彼女は鼻先を寄せ、エリオットの手元に残る、自分の子供を救った慈愛の香りを嗅いだ。
そして、仔獣の傷口に丁寧に巻かれた包帯と、それがもたらした安らぎを理解した。
森に満ちていた殺気が、潮が引くように消えていく。
親聖獣は、低く、慇懃な音を喉で鳴らし、アルフレッドを庇うように立っていたエリオットに対して、深く、深く頭を垂れた。それは神の化身が、一人の人間に示した、最大級の感謝と敬意の礼だった。
エリオットは呆然と立ち尽くし、足元で甘える仔獣をそっと抱き上げた。
アルフレッドは、自分の腕の中で震えるエリオットを今一度強く抱きしめ、天を仰いで大きく息を吐いた。
「……心臓が止まるかと思ったぞ。……エリオット、お前は本当に、人だけでなく神獣までもを狂わせるのだな」
「……すみません、アルフレッド様。……でも、助かってよかったです。本当に……」
親聖獣は、仔獣を優しく口に咥えると、最後にもう一度だけエリオットを慈しむように見つめ、森の奥へと消えていった。
後に残されたのは、血に汚れた包帯と、湖を渡る穏やかな風だけ。
アルフレッドは、エリオットの腰を抱き寄せ、その頬に残る恐怖の跡を消し去るように何度も唇を寄せた。
「お前は正妃としての慈愛を、神にまで証明した。……だが、私の前では、ただの危なっかしい私の所有物でいろ。……わかったな」
「はい。……気をつけます」
湖畔の休暇は、神獣との邂逅という奇跡を刻み、二人の絆をさらに神聖なものへと変えていったのだった。
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