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本編
24.
帝都を覆う初夏の陽光が、白磁の宮殿を眩しく照らし出していた。正妃としての地位を確立しつつあるエリオットにとって、午前中の政務は自分を救い出したアルフレッドの期待に応えるための、神聖な義務となっていた。属領から届く陳情書に目を通し、慈善院への予算配分を決定し、さらには複雑な宮廷内の人間関係を調整する。その細い指先でペンを動かし続ける時間は、かつての人形としての生とは異なり、自分の意志が国を動かしているという確かな充足感を彼に与えていた。
しかし、根が真面目なエリオットは、つい限界を超えて頑張りすぎてしまう傾向にある。ようやく最後の書類に署名を終え、深く椅子に身を預けたエリオットの元へ、待機していた小さな影が音もなく飛び込んできた。
「きゅいっ!」
机の上に軽やかに着地したのは、白銀の毛並みを輝かせた仔聖獣の琥珀だった。琥珀はその澄んだ瞳でエリオットを覗き込み、疲労の色が差した彼の頬を、慈しむように小さな舌で舐め上げた。
「……ありがとう、琥珀。そうだね、少しだけ、お外へ行こうか」
エリオットは微笑み、琥珀を腕の中に抱き上げた。アルフレッドは今、軍部との緊急会議に出席しており、しばらくは戻らない。エリオットは侍女たちに、庭園で少しだけ息抜きをしたいと告げ、琥珀と共に陽だまりの中へと踏み出した。
皇太子宮の私設庭園は、エリオットの回復を祝うように色とりどりの花々が咲き誇っていた。周囲には、目立たぬように配置された護衛騎士たちが控えているが、琥珀が傍にいる限り、不埒な者がエリオットに近づくことは叶わない。神の使いである仔獣は、エリオットに害をなそうとする微かな殺気さえも、その鋭い感覚で察知してしまうからだ。
芝生の上に降り立った琥珀は、嬉しそうに短い翼を羽ばたかせ、エリオットの周りをくるくると駆け回り始めた。エリオットは、アルフレッドが自分を甘やかすために用意してくれた、柔らかな革製のボールを取り出し、それを遠くへと投げた。
「さあ、琥珀、あっちだよ!」
仔聖獣は、小さな体をバネのように弾ませてボールを追いかける。空中で一回転し、見事に口でそれを受け止める姿は、神獣としての威厳よりも、飼い主に褒められたい子犬のような愛らしさに満ちていた。琥珀は誇らしげにボールをエリオットの足元に運び、褒めてほしいと言わんばかりに尻尾を振り、エリオットの膝に顔を押し付ける。
エリオットは笑いながら、琥珀の柔らかな毛並みに指を沈めた。
こうして土の匂いを嗅ぎ、生き物の温もりに触れていると、頭を悩ませていた複雑な政務の疲れが、潮が引くように消えていくのを感じる。かつての自分には、こんな風に純粋に遊ぶという概念さえ欠落していた。完璧であらねばならないという強迫観念が、彼から子供らしい幼さを全て奪い去っていたからだ。
「……琥珀、貴方を見ていると、私は本当に自由になれたのだと思えるんだ」
エリオットは木陰のベンチに腰を下ろし、琥珀を隣に座らせた。仔獣はエリオットの言葉を理解しているかのように、その銀色の頭を彼の掌に預ける。
ふと、琥珀が耳をぴんと立て、庭園の入り口の方を向いて短い声を上げた。
エリオットが視線を向けると、そこには軍服を纏ったまま、肩を揺らしてこちらへ歩いてくるアルフレッドの姿があった。予定よりも早く会議を切り上げたのだろう。その琥珀色の瞳には、エリオットを見つけた瞬間の安堵と、自分抜きで楽しそうに遊んでいた一人と一匹に対する、僅かな嫉妬が混ざり合っていた。
「……私のいない間に、随分と楽しそうではないか。エリオット」
アルフレッドはエリオットの前に立つと、その細い腰をぐいと引き寄せ、有無を言わさぬ抱擁で彼を包み込んだ。琥珀が二人の間に割り込もうとしてアルフレッドの脚に鼻先をぶつけていたが、アルフレッドはそれを無視し、エリオットの首筋に深く顔を埋めてその香りを吸い込んだ。
「会議は終わったのですか、アルフレッド様? お疲れ様です」
「お前が足りなくて死にそうだったのでな。反対する老人たちの言葉を力ずくでねじ伏せて戻ってきた。……リハビリの散歩を越えて、遊びに興じるほど元気になったのなら、今夜は覚悟しておけ」
アルフレッドの低く、熱を持った囁きに、エリオットは顔を真っ赤にして俯いた。琥珀が不機嫌そうにアルフレッドの軍靴を甘噛みしていたが、アルフレッドはようやく仔獣を見下ろし、その首元を乱暴に、しかしどこか親愛を込めて撫でた。
「……お前も、私の妃をよく守った。褒美に、後で最高級の魔導肉を与えてやろう」
「きゅいっ!」
食べ物の名前に一瞬で機嫌を直した琥珀を見て、エリオットは声を立てて笑った。
かつては絶望と冷たい静寂しかなかったこの庭園は、今や、愛する男の熱い執着と、神獣の無垢な信頼、そしてエリオット自身の幸せな笑い声に満たされている。
アルフレッドは、エリオットの指先に残る芝生の香りを愛おしそうに嗅ぎ、二度と離さぬよう、その手を強く、永遠を誓うように握りしめた。
「さあ、戻ろう。お前の午後の公務は、私が全て引き受けてやった。これからは、私と二人きりで過ごす時間だ」
エリオットは、自分を支配し、守り抜こうとする王の瞳を見つめ返し、幸せに満ちた声で返事をした。
「はい、アルフレッド様。……どこまでも、貴方について行きます」
一人の青年に戻ったエリオットと、彼を永遠に琥珀の中に閉じ込めようとする王。そして、その影を追いかけるように跳ねる銀色の聖獣。三人の幸福な足跡は、黄金色の夕暮れの中に、いつまでも鮮やかに刻まれていくのであった。
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