少年、異世界で母になる

ミウラジオ

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少年、異世界で母になる

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「おはよう」
声が聞こえて目を開けた。
横を向くと、小さな鼠が僕を見る。
おはよう、と挨拶を返し、僕は起き上がった。
「起きたかい、ケイゴ」
ドアの方を見ると、人の骨格をした鷺が部屋に入って来た。
僕は窓の外を見る。
真っ青な空に、ドラゴンが飛んでいた。

僕、圭吾は、異世界で母になった。


少年、異世界で母になる


元の世界を思い出す。
地球という星の、日本という国に住んでいた。
中学一年生、帰宅部。
友達は居ない。勿論恋人も居ない。
良くも悪くも注目されない、空気の様な存在だった。
寂しいという感情は最早無い。ただこのまま静かに生きるだけだと思ってた。
そう、昨日までは。

昨日の事を思い出す。
何故か朝から咳が出て、風邪かな、と思っていた。
咳止めを飲んだけど咳は止まらなかった。一応安静にしようと学校を休み、その日はずっとベットに居た。
げほごほと言いつつ、食欲も出ず、スマホを弄ったりぼーっとしたりしていた。
そうしていたら夜になって、違和感を感じた。
異様な吐き気。
げほ、ごほ、
あ、吐く、と察して、起き上がり口を手で覆う。
おぇ、と声を出して、僕は吐いてしまった。
咄嗟に手の中を見る。
見てしまったのだ。
小さな、赤い塊を。
「う、うわっ!!!!」
僕は掛け布団に塊を投げ出す。すると塊は、高い鳴き声を上げた。
がたっ、という音と風。僕は風を感じた方を見た。
人影が月の光に照らされている。良く見たらそれは、

人の骨格の鷺だった。

僕は驚き過ぎて、ぽかんと口を開けていた。
「その子を掬ってあげて」
鷺は言う。
僕は思考が追い付かなかった。すると人鷺は赤い塊を指差す。
僕は慌ててその塊を両手で包んだ。
どくどくと鼓動を感じる。それは、生きていた。
「さあ、行くよ」
人鷺は言った。僕は思考が追い付かなかったが、人鷺は待ってくれなかった。
「ちょっ!!」
「早くしないと勘付かれるからね」
人鷺は僕をお姫様抱っこし、窓から飛び降りる。
僕は悲鳴を上げ目を瞑った。風が冷たかったが、手の中は温かかった。
ふわり、と違和感を感じ、恐る恐る目を開ける。
そこは、知らない世界だった。

未だに頭が混乱している。
だけど、不思議と挨拶をする余裕は有った。
赤い小鼠が自分が吐いたモノだと認知していたし、あの人鷺が僕をベッドに寝かせたのも知っている。
「この香りは嫌いじゃないかい?心を落ち着かせるお香なんだけど」
人鷺は、ふわりと優しい香りのする壺を持っていた。
僕は頷く。人鷺はベットに腰掛け、備え付けの机にお香を置いた。
「ボクの名前はケリストス。さ、キミの質問に答えよう」
人鷺の言葉にワンクッション置いて、僕は流れる様に質問し、ケリストスはそれに答えた。
「此処は」
「チケルのトレイtド国のシャミ市」
「君は人間?」
「違うよ。この世界では「人」と括られる生き物で、鷺の人さ」
「此処は異世界?」
「此処は地球に似た環境の宇宙とは違うベクトルの世界。確かに異世界だね」
「なんで僕の名前を知ってるの?」
「ずっとキミを見てたからね。そう呼ばれているのを見ていた」
「この小鼠は何?」
「何って、君の子さ」
「子?」
「キミが産んだんだからね」
理解が追いつかず口を噤む。ケリストスは無言で僕を見ていた。
「なんで僕を攫った?」
「キミが母に選ばれたからだよ」
僕は言葉を失い、じ、とケリストスの黒い眼を見る。
沈黙の後、ケリストスは僕の頭を撫でた。
ほっとしたのは、お香の香りのせいか。

「この世界の話をしよう」

人鷺は語り始めた。

このチケルという世界が地球と違う所は、魔の概念が有る所だ。
簡単に言えば魔法という概念で、地球には居ない様々な生き物が居る。
地球は人間が一番繁栄してるけど、チケルに生きる「人」の文明は一番強いわけではない。
人より魔に近い生き物、例えば竜や魔獣がいつだって人を狙っている。
そして地球と一番違うのは、「母親」の概念かもしれないね。

「母親は週に一度、子供を吐き産む」

「ちょっと待って」
僕はそこで手のひらを突き出す。
「僕が吐いちゃったこの子が、子供なの?」
ケリストスは頷く。
「暫く君を守るけど、将来は人として巣立つんだよ」
「母親…っていうのは、僕以外に居るの?」
「そうだね。一つの集落に一人くらいの割合で居るよ」
「ていうか大体僕男なんだけど」
「チケルに性別は関係無いよ。子作りの必要がないからね。まあ色んな体型や考え方の人が居るけど」
小鼠が僕の手をすんすんと嗅ぐ。その姿は可愛いけど、それは母性本能なのだろうか。
「ところで、お腹空かない?」
ケリストスに言われ、空腹で有ることに気付いた。お腹を触ると、ケリストスは小さく笑う。
「喉も渇くでしょ。リビングに行こうか」
ベットから降りケリストスの後に続いて部屋を出た。ケリストスの手の中に小鼠は収まっている。
フローリングの床はぴかぴかで、窓の外の光を反射する。
階段を降りるとドアが四つあり、洗面所、風呂場、玄関を見せてもらった後、リビングに入った。
大きな窓の先に広い庭が見える。キッチンは対面式で使いやすそうだ。
座って、と言われ椅子を引かれる。テーブルも木製だった。
小鼠は緑のラグの上に置いてあったクッションの上に乗る。僕はケリストスが出してくれたグラスの水を飲み干した。
ケリストスがキッチンに居る間に洗面台で顔を洗う。顔をタオルで拭き、ふと鏡を見て、

僕は悲鳴を上げた。

「どうしたの?」
ケリストスがどたどたと走って来る。腰を抜かした僕が耳を指差すと、ああ、と人鷺の彼はああ、と言った。
「み、みみみみ!!!!!!」
耳に、ざらりとしたひだが生えていた。
僕はパニックになっていたが、ケリストスは冷静だ。
「竜の耳だね」
「な、何これ!?!?!?」
「だから竜の耳だって。母親だからね」
「母親だから!?!?!?」
落ち着いて、と頭を撫でられる。どうどう、と深呼吸を促された。
「このチケルの一人になったって証拠さ。尻尾は…まだみたいだね」
「尻尾生えるの!?!?!?」
「おや、尻尾は嫌かい?」
「い、嫌だよ!!怖いよ!!」
「チケルに住むんだから有る方が自然だよ」
「そんな事言われても…!!」
自分の身体に不安を持つようになるなんて、思わなかった。
人間ではなくなるという感覚は、思いの外恐い。
「まあ落ち着いて。取り敢えずごはんを食べて街に出てみよう。チケルを知ってもらうにはそれが早い」
ケリストスは尻餅をついた僕の手を引っ張り、立たせる。
僕は、自分が自分じゃない様で、吐き気を覚えた。
「うええ…」
取り敢えずリビングに戻り椅子に座ったが、とても何かを食べる気にならなかった。
「ダメそうかい?」
ケリストスに出されたマグカップを手にして、頷く。
「そのお茶を飲んで。リラックス出来るようにボクがブレンドしたんだ」
ケリストスと小鼠に見守られながら一口飲む。じんわりと体に染み込み、ほっとできた。
「散歩しようか。外の空気を吸えば気が楽になるよ。そしてまずはこの世界に慣れてね」
僕は元々の性格で、誰かに提案されると弱い。いつの間にか頷いていた。
昨日から着ていたTシャツとステテコの上に、長い上着を被される。ケリストスに手を握られ、玄関を出た。

外は暖かい日差しと、澄んだ空気に包まれていた。

外へ繋がる扉の前で止まっていると、ケリストスは木の靴を差し出してくれた。
「取り敢えずこれで。街で新しい靴を買おうね」
ケリストスは裸足だ。黒くて長細い足は、鷺のものである。
木の靴は僕には少し大きいが、石畳を裸足で歩くよりはましだ。
今日は雲が無い。真っ青な空を見上げると、大きな影が通り過ぎて行く。
「今は春なんだ。あの鳥は母鳥だね。子の餌に人を襲うから気を付けてね」
「ひっ人を襲う…!?」
「あ、ビビらせちゃった?ケイゴはボクが護るから大丈夫だよ」
冗談じゃないみたいで、本当に恐い。
僕らは坂道を下って行った。道中通り過ぎる人をつい見てしまう。
皆動物の顔をしている。
道が平らになった頃、建物が増え街に出た事が分かった。
建物は昔テレビで見たヨーロッパの街に似ている。石垣の塀に白い壁、屋根は瓦だろうか。大体が似た造りだけど、扉に掛かっているリースは個性的だ。
「ケリィー!」
ケリストスが声に反応する。爬虫類の顔をした女性が手を振りながら走って来た。
何故女性と分かったかというと、大きな胸を揺らしながら走って来たからだ。
僕はその人を見上げる。190cmくらいの背の高い人竜だった。
「その人が新しい母親だね?うんうん、可愛い少年じゃないか!」
アッハッハ!とその人は笑う。
「この人はアリアさん。パン屋の店長だよ。アリア、この子はケイゴ仲良くしてね」
「この辺の朝ご飯はアタシが焼いてるもんさ。ケイゴ、朝ご飯に何のパン食べた?」
ずい、と顔を近づかせるので、首を横に振るのが精一杯だった。
「ああ、朝食はまだ摂ってないよ」
ケリストスはアリアさんを一歩引かせる。
「おや、それはいけないねえ!何か出すから寄って来な!」
アリアさんはパンの絵が描いてある看板の扉を開け、僕とケリストスを中へ入れた。
中に入ると、香ばしい香りに包まれる。地球で見慣れた店内で、美味しそうなパンが沢山並んでいた。
「焼きたてのパンはこれ、柔らかいパン、肉詰めのパン、甘いパンはこれがオススメ!」
アリアさんは次々と並んでいるパンを指差す。待って待って、とケリストスは羽を突き出した。
「ケイゴは食欲が無いんだ。そんないっぺんに言われても困るよ」
「おや、そうなのかい?じゃあ食べ易いお菓子はどう?」
アリアさんはレジから青い缶を出す。中には丸いクッキーがぎっしり詰まっていた。
アリアは一つ手に取り僕に差し出す。拒否するのも気が引けて、それを受け取った。
「ありがとうございます…いただきます」
僕はぎこちなく口に入れる。
「…美味しい」
ついそんな言葉が出た。
「だろう?このクッキーには元気が出る魔法をかけてるからねえ!」
アリアさんは豪快に笑う。僕はもう一枚口に入れた。
「この缶はあげるから、しっかり食べるんだぞ!」
「いいのかい?」
アリアさんはぐい、と僕に青い缶を押しつけ、ケリストスは当たり前な疑問を口にする。
「いいさいいさ!母親さんのご祝儀だよ!」
ありがとうございます、と頭を下げると、アリアさんは僕の背中を叩いた。
「体には気をつけな!なんせお前は母親なんだからね!」
僕とケリストスはアリアさんのパン屋を出る。じっ、と青い缶を見ていると、ケリストスは声を掛けてきた。
「随分と真剣な表情だけど、何か思い当たった?」
「うん…いや、母親ってそんなに大変な事なのかなあって」
「ケイゴは母親が腹を痛めて産んだ子だろう?それがどれだけ大変な事か分かるかい?」
僕は少し黙る。
「そうだね…一年近くお腹に居て、産まれてからも凄い迷惑かけた。…僕には到底できない事だよ」
「君は子を産む身なんだ。一週間に一度、小さな命をね」
だんだんプレッシャーに負けそうになってきた。
「まあ慣れるよ」
「慣れるの…?」
「ボクは色んな母親と過ごしたけど、みんな最初は不安だったよ。でもみんなすぐ慣れたから、そんな心配しなくて大丈夫さ」
「そう、なんだ」
クッキーのおかげか、不安な気持ちはゆるゆると無くなっていく。改めてケリストスを見て、疑問が浮かんだ。
「ケリストスは色んな母親と過ごしたって言うけど、ケリストスは母親と過ごす仕事なの?」「うん。ボクは母親の世話係さ」
「色んな…って言ったけど、母親ってそんな入れ替わるものなの?」
「ううん。母親は200年くらい生きるよ」
「ええっ!?に、にしゃくねん!?ぼ、僕そんな生きれるかな…」
「まあそんな硬く考えなくていいよ。200年なんてあっという間さ」
「あっという間じゃないと思うけど…てか、ケリストスって今いくつ…?」
「んー、今の仕事に就いて600年くらいかな。その前は記憶にないけど」
「え、この世界の人ってそんな長生きなの…?」
「いや、結構バラつくけど寿命は100年くらいが多いかな」
「そう、なんだ…」
歩いていくうちに空気が暖かくなるのが分かる。
 街は活気に溢れていた。

結局、白い革の靴を買って貰った。
服屋へ向かうまでの道を俯いて歩く。
観察したら、靴を履いていない人の方が多かった。
足痛くないの?とケリストスに訊くと、痛くないよ、と返される。
元人間である僕の非力さを感じた。
ケリストスが赤いスカーフを掛けた扉を開ける。
いらっしゃい、と店主は小声で言った。
彼は黒い眼帯を付けた灰色の人狼だった。
片方の金の眼で僕を舐める様に見て、無言で店内の洋服を集め出す。
「彼はジック。この陰気臭い洋服屋をやってる。洋服屋の店長にしては愛想が無いけど、服のセンスはピカイチだから通は此処に来るんだよ」
「文句が有るなら帰んな」
ジックは一瞥もせず言う。
「ごめんごめん、褒めてるよ。この子はケイゴ。新しい母親だよ」
灰人狼が目を向けた。僕は、よろしくお願いします、と緊張して頭を下げる。
「うん。宜しくな、母親さん」
冷たさを感じる声色だったが、その眼は慈しみを含んだものだった。
「お前小さいな。サイズが合わん。人鼠用しか無いぞ」
「また買いに来るから入荷宜しくね」
「ああ。一週間後また来な」
無い、と言いつつそこそこの量の洋服をレジに出す。ケリストスは確認もせずその洋服を買った。
「大丈夫。ジックのセンスは信用してるんだ」
僕の視線に気付き、ケリストスはウインクをする。ジックは鼻で笑った。
じゃよろしく、と店を出る時、ジックはありがとう、と声を掛けた。少し恐いけど、悪い人ではないんだろうな、と思った。
「調子はどうだい?」
思い出した様にケリストスは言う。僕は改めて自分の体に意識を向けた。
「…うん…お腹すいたかな」
クッキーを食べたのに食欲がまだある。ケリストスはクツ、と笑った。
「良かった。食欲があるのは元気な証拠だよ」
ケリストスは歩く速度を緩める。
「何か食べ物を買おう。丁度屋台市が近くだから」
ケリストスが言う様に、美味しそうな匂いが鼻をくすぐってきた。何かを焼く音もする。屋台市に入ったようだ。
「何が食べたい?」
僕はきょろきょろと辺りを見る。どれも美味しそうで、決められない。
「ケリストスのおすすめで」
「ふむ、じゃあポテトと魚の揚げ物とかどうかな」
目の前の屋台を見ながらケリストスは言う。
「お前適当に決めたな!」
垂れ耳の屈強な男は、がはは、と笑った。嫌味を感じさせない屋台の店主はささっと揚げ物を差し出す。
「いいや、ボクの好物だからだよ」
ケリストスは小銭を店主に渡し食べ物を受け取った。
「母親さん、名前は?」
男は兎の耳をしていたが、顔は人間だった。
「彼はタム、…そうか。獣人を見るのは初めてだろうね」
「ケリィ、人獣と獣人の事説明してないのかい?」
僕が狼狽ると、ケリストスは説明した、
「人の形をした獣は人獣、獣の特徴を一部持った人は獣人、と区別されるんだ。元々は先祖が別でその所為で戦争とか有ったんだけど、この世界の仕組みが変わってからは仲良くやってるよ」
「世界の仕組みが…変わる…?」
「そう、人は地球と同じ産まれ方をしてたんだ」
「まあ今となっては伝承みたいになってるがな。今は母親の口から産まれるからな、人は」
二人の言い草に頭が混乱する。タムはまあまあ、と僕の頭を叩いた。
「詳しい事は本読め本!本は何でも書いてあるからな!」
「こう見えてタムは読書家なんだ」
「こう見えては余計だぜケリィ!ま、そう言う事で宜しくな!母親さん…て、名前教えろって!」
「ご、ごめんなさい、僕は圭吾です。宜しくお願いします」
タムは豪快に笑う。
「そう固くなんなよ!宜しくな!ケイゴ!」
タムは無理矢理握手をしてきた。ケリストスがじゃ、またね、と切り出したので、ボクはその後に続き来た道を戻って行った。

その時、空が啼いた。
赤い世界が更に赤くなる。
夕陽と錆の匂い。

それは、血の感覚だった。

僕は目を開け、その混乱に動けなくなる、
赤い小鼠は覗き込み、おかあさんおきた、と言った。
すぐに白い鷺の顔も認識する。何も言えずにいると、ケリストスはふわりと羽根を顔に被せてきた。
「大丈夫。ゆっくり呼吸をして」
言われて息を吸う。ひゅう、と胸が鳴った。
だんだん頭が働く様になり、あの映像が夢だと認識する。その途端、どんな夢だったか思い出せなくなった。
「僕、は、」
「魘されていたよ。余りにも辛そうだったから、夢喰い人を呼ぼうかと思った」
「ゆめくいびと…?」
「名の通り、悪夢を喰べてもらう人だよ」
知らない職業なので想像がつかない。なんとなく、バクの人なのかな、と思った。
「今リラックスできるお香を取ってくるからね」
ケリストスが羽根を離し、視界が回復する、部屋は記憶に比べると薄暗い。
「僕、は、」
言葉が途切れ途切れになった。
「おかあさん、きゅうにたおれて」
小鼠が言う。自分の状況を把握出来た。
「ごめんね」
僕は小声で謝る。小鼠はふるふると首を横に振った。
「思ったより疲れてたみたいだね」
小さな壺を持ったケリストスは言う。
「大丈夫。最初は皆そうだから」
申し訳ないと思ったのが分かったのだろうか。僕はその言葉に少し安心した。
「この香り、嫌いじゃない?」
ふわりと良い香りがする。頷くと、ケリストスはベッドの隣に有る机に小壺を置いた。
「大丈夫。此処は安全な場所だからね。お腹は空かない?」
「うん」
「喉は渇いたでしょ?水なら有るよ」
ケリストスは窓際の机に有った水差しからコップに水を汲み、僕に差し出す。僕は受け取り一気飲みし、ありがとう、とお礼を言った。
小鼠が僕の目の前に来て、手をひすひすと嗅いでくる。そんな子を見て、ふと思った。
「この子の名前、決めてなかった」
親が子に名付けるのは普通だ、という思考が出たが、しかし名前など思いつかなかった。
ケリストスは、ふむ、と頷く。
「勝手にキューって呼んでたけど」
「…キュー…?」
確かに小鼠はきゅう、と鳴いた。しかしそれは名前としてどうなのだろうか。
「んー、名前…」
考えても思いつかない。こういう場面に出くわすのは初めてだった。
「ネズミ、とか、イチバンメ、とか」
ケリストスもネーミングセンスが無い。
「きゅーがいい」
小鼠がそう言ったので、この子の名前はキューになった。きゅーちゃん、と呼ぶと小鼠は嬉しそうに鳴いた。
お香の香りを胸一杯吸い込むと、だんだん意識が朦朧としてくる。欠伸が出て、本格的に眠気を感じた。
「ケイゴ、眠いかい?」
ケリストスに言われ、目を擦りながら頷く。
「さっきまで寝てたのになぁ…」
「それだけ疲れてるんだよ。母親になった子達は皆最初は良く寝るから大丈夫だよ」
ケリストスが羽で僕を倒す。掛け布団を掛けられ、眠気に勝てなくなった。
「またうなされてたら起こして」
ケリストスは分かった、と返す。
「おやすみ、ケイゴ」
ふわりと目を閉じさせられ、意識を失った。


懐かしい声。
あたたかなその声。
それは子守唄だ。
ゆらゆらと揺らされ、とんとんと叩かれる。
僕は安堵して眠っている。
そのぬくもりは

おかあさん





ぱち、と目が覚めた。
体を起こし大きく伸びをする。驚くほど気分が軽かった。
カーテンを開けると朝日が飛びこんでくる。目を薄め、大きく息を吸い込んだ。
「おはようおかあさん」
キューの声に振り向き挨拶をしようとして固まる。そこには、キューとは思えない生き物が居た。
大きな鼠。テレビで見たことしかない、クロハラハムスター程の大きさの鼠だ。
しかし体毛は赤く、その視線も声も昨日と同じだったのでキューだと認識できた。
「き、きゅーちゃん…?」
「そうだよ!」
赤い鼠はきゅう、と鳴く。
「随分大きくなったね…?」
「そうかなあ?」
そんなやりとりをしていたら白人鷺が部屋に入ってきた。
「おはようケイゴ、キュー」
ケリストスに視線を送ると、彼は瞬きをした。
「ああ、子供の成長に驚いた感じ?」
頷くと、ケリストスはそうだね、と言った。
「だってすぐ母親を護れるようにならなきゃだからね、最初の子は尚更成長が速いんだ」
そう言われてなんとなく頷いてはみせる。
「成長のスピードは生き物によって違うのは地球もそうでしょ?」
「まあ…確かにそうか…」
まだこの世界に慣れるのは時間が掛かりそうだな、と思った。

朝食はお粥だった。少し熱めで優しい味がした。
そういえばこの世界で初めてちゃんとしたごはんを食べるな、と思い、尚更美味しく感じる。
「昨日のポテトと魚の揚げ物はボクとキューで食べちゃったからね」
「うん。揚げ物だから悪くなるもんね」
食べ終わるとケリストスはお茶を出してくれた。とても良い香りで、ほっとする。
「あのお香と同じ香りだよ。メイソーンっていう花で出来てるんだ」
「どうりで。聞いた事の無いお花だ」
「トレイド国の特産品だよ。此処から一つ山を越えた所で作ってる」
「そうなんだ」
メイソーン茶でほっとしていると、コンコンコン、と叩く音がした。
ケリストスはリビングを出、玄関の扉を開ける。ケリィー!!と大声が聞こえて、僕はビクついた。
ケリストスがひょい、とリビングの外から顔を出す。
「ケイゴ、皆来ちゃったから顔出して」
いきなりの事で僕は戸惑ったけど、恐る恐るリビングを出た。
「母親だーーー!!!」
玄関に居た人達が、わっと叫ぶ。僕が驚いて固まると、ケリストスが羽を口の前に当てて静かに!と言った。
「ケイゴいきなりごめんね。でもそんな警戒しなくて大丈夫だよ」
僕はケリストスの影に隠れる。すると玄関の人達は笑った。
「ごめんごめん!でもどうしても顔が見たくてなあ!」
ワニの顔の人が言う。
「これお祝い!今朝採れたやつだよ!」
果物を差し出す人も居た。皆玄関にお祝いを置いていく。
「わかったからわかったから。少しずつ慣れてから紹介するから」
「おお、それならいいんだ!顔見れたからみんな帰るぞ!」
人鰐がそう言うと人々はぞろぞろと家の外へ出た。どうやら、この男がリーダーのようだ。
「あ、ありがとうございます…」
僕がぼそぼそと礼を言うと、人々は口々に構わないと言った。
リビングに戻りお茶で落ち着くと、向かいに座るケリストスは言ってきた。
「皆良い人なんだ。それだけは勘違いしないでね」
「うん…歓迎されててほっとした」
「そりゃそうだよ。一年ほど母親は居なかったんだ」
一年。時の感覚はわからないけど。
「新しい人が居ないってのは辛いよ。この街は平和だけど、侵略者が現れたら根こそぎ狩られ、最終的に街がなくなることもある」
「そうなんだ…」
「母親が寿命以外で死んでしまうのだけは阻止しなければならない。皆そう思ってる」
「うーん…僕も頑張らなきゃなんだね」
頑張るって、何を?と心の中で自問したけど。
「まあ気負わないで。子を産むのだけが仕事だと思ってくれればいいよ」
「それがなあ…」
今まで生きてきた中でこんなに求められる事は初めてだった。

ただの空気だった僕が。

ケリストスは僕の心境を汲み取ったのか、まあ、と話題を変えた。
「取り敢えず字を読めるようにしないとだね」
「えっ?字?」
「字が読めないと本も読めないからね」
僕がきょとんとしてると、ケリストスは席を立った。
「これから教師を呼ぶから」

ケリストスの手には棒が有った。
ケリストスは空気上に棒を振る。白く光る線が伸び、空間を歪めた。
「先生に連絡しておいたから。ケイゴもお粧ししないとだね」
ケリストスは棒をしまう。空中に書かれた模様はじわじわと消えた。
ケリストスは僕の部屋に有るクローゼットに服が有るよ、と教える、確かにその部屋の隅には木製のクローゼットが有った。
特に服に頓着が無い僕は端に掛かってた白い七部袖と深緑の長ズボンに着替える。
一階に降りるとケリストスも真っ白のシャツと黒い半ズボンに着替えており、少しファッションが被ってしまったな、なんて思った。
「先生がすぐ来るから窓を開けといて」
「えっ、なんで?」
「先生が入れないだろう?」
ケリストスの返答の意味がいまいちわからなかったが、とりあえず窓を開ける。
するとバサバサ、という音と共に、何かが僕の隣を通り過ぎた。
僕は驚いて声を上げる。中に入ってきたのは翼の生えた白い大蛇だった。
「えっ!?何でかい!!!」
僕は混乱してそんな言葉しか出なかった。
「あ、先生早かったね」
ケリストスは平然としている。大蛇は金の眼で僕を睨みつけた。
「フン、失礼な小僧だね」
嗄れた声で大蛇は言う。もう蛇が喋ってるくらい驚かないが、その言葉にごめんなさい、と返す。
「こんにちは先生。こっちは新しい母親のケイゴ。ケイゴ、この方はシケシイ先生。言葉を司るフエィガルの使いだよ」
知らない単語に少し驚いた。
「は、はじめまして、圭吾と言います」
「フン、また華奢な母親だね。初めまして、ケイゴ」
シケシイは舌をちらちらと出す。本当に蛇の様だ。
「一つ確認するが、言葉は認識できるかい」
「…えっ?」
「できるのかい、できないのかい」
その言葉の意味がわからず、返答出来なかった。
「少なくとも不自由ではないよ。ちゃんと会話は出来ている」
ケリストスが助け舟を出す。僕はきょろきょろと二人を見比べた。
「フン。ケイゴ、お前は何故言葉を理解出来るかわかるかい」
突然の質問に僕は変な声を出してしまう。
「じゃあこれはどうだ。地球の、それも日本語をこのチケルの人が話すを思うかい」
「あ…確かに…」
そう言うシケシイは日本語を話している。いや、日本語の様ではあるが、
「もしかして、皆日本語じゃない言葉で話してる…?」
「フン。それは少し違う。我々は”話していない”」
「…えっ?」
じゃあ僕が認識しているものは何なんだ。
「テレパシーだよ」
シケシイのその一言で理解した。思えば、ケリストスもキューも喋る時に口を動かしていない。
しかしどういう仕組みなんだろう。この世界は科学ではわからない魔法という仕組みがあるのだと改めて感じた。
「お前に文字を教えよう」
シケシイはずい、と顔を近づける。僕は後ずさりしそうになった。
シケシイの舌が額に触れる。その瞬間、頭がくらくらして、僕は尻餅をついた。
見た事の無い映像が脳を駆け巡り、意識が朦朧とする。
「大丈夫かい」
ケリストスに支えられ、なんとか立ち上がる。
「これでお前は字が読める様になったからね」
文字を教えられたという感覚が全く無いが、脳を使った感じはあった。
「じゃあ俺は帰るからね」
シケシイはさっさと窓から出る。
「相変わらず先生はドライだよね」
ケリストスは感情の無い言い方をした。シケシイは振り返り鼻を鳴らす。
「俺は忙しいんだ。それに下界は落ち着かない」
またね、とケリストスが言うと、シケシイは飛び立っていった。

「ケイゴ、これは読める?」
ケリストスは一冊の古びた本を差し出してきた。
「チケルの歴史」
題名が何故かそう読めた。
日本語ではない様だが、知らない言語ではない。これが”認知している”という事なのだろう。
「そう、この本は歴史の本なんだ。まずはこれを読んでほしい。他にも本はリビングの本棚に有るし、もっと読みたければ図書館に行くのもいいね」
僕はその本を受け取り、ありがとうと礼を言った。
「そういえば、キューは文字が読めるの?」
赤鼠の目の高さに本を下ろす。キューは一回首を捻ったが、よめるよ、と言った。
「そりゃこの世界の子なんだから読めるよ」
さも当然とケリストスは言う。この世界の基準はまだ把握しきれない。
僕は椅子に座り本を開く。キューは隣に座り本を覗き込んできた。

遠い昔、この世界は海しかなかった。
そして雨が降った。
三万と千回の雨の後、空から初めての神が現れた。
その名はフェリア。
フェリアは深層から陸を持ち上げ、山を作った。
フェリアの息が大気と成り、草を生やした。
それから一万の時の中で、植物は栄えこの世界の土台となった。
フェリアは太陽に声を掛け、太陽はその声に答えた。
そうして二番目の神、ササンが世界に関与した。
そしてササンが眠る夜に、星々と月が世界に関与した。
月はルゥナと言った。星々はルゥナの下部だった。
三つの神はまず兎を造った。兎はルゥナの手下であった。
次に狼を造った。狼はササンの手下だった。
狼と兎は沢山の子を生した。子達は愛を知り、また多くの子を生した。
しかし、全ての末の子である人間が兎を殺し、食した。
狼は大いに悲しみ、また三神も悲しんだ。
人間は全ての生命から呪いを受けた。
その呪いとは、食べなければいけないというものだった。
人間はすぐに空腹になった。そのため直ぐに植物を食べた。
しかし植物にも限りがあり、人間は空腹の苦しみに悶えた。
そして人間もまた呪いを謳った。その呪いとは、子を生す為に親の条件を付随させる、というものだった。
その為に多くの血筋が途絶え、動物達は絶滅していった。
そして人間達はその死肉を食べ、一部の力を吸収した。
それが獣人の始まりだった。
獣人達は植物も肉も食べた。そして恐るべき速さで増殖した。
その獣人達を恐れた神々は人の形の獣を創り、獣人を殺させた。
それが人獣の始まりだった。
獣人と人獣の戦争は永い間続いた。

きりがいいところで、僕は首を捻った。
「これは本当の話?」
「そうだよ」
「そうなの?これはただの神話でしょ?」
「まあとても古い話だけど、フェリアもササンもルゥナも居るからね」
「えっ!?神様って居るの!?」
「何言ってるの?居るに決まってるじゃない」
ただの御伽話かと思ったら、どうやら本当にあった話の様だ。やっぱりまだ価値感がわからない。

戦争は続いた。
あまりにも永い戦いだった。
戦いは戦いのみを生んだ。
沢山の命を失い、ルゥナは嘆き悲しんだ。
その涙で海が競り上がり、幾つもの陸が沈んだ。
そして生き物が死んでいき、やっと争いは終わった。
生き残った生き物の中にある兎人と人兎が居た。
その二人は恋に落ち、人々の弾圧から離れ、ルゥナを祀る神殿に住み着いた。
ルゥナはその二人を歓迎し、二人が望んだ命を授けた。
そして二人の間に、兎と人間の双子が産まれた。
その家族はルゥナに使えた。
しかし、その小さな幸せも長くは無かった。
獣人と人獣は家族を暴き、親と人間の子を殺した。
残された兎だけは、神官として祀られた。
しかし、その兎も世界を呪いながら短い生涯を終えた。
ルゥナは悲しんだ。そして、生命の仕組みを変えた。
そうして「母親」という存在が生まれた。

「そして色々あったけど、この1000年比較的平和に過ごしてきたんだよ」
ケリストスがそう付け加えて、この章は終わった。
「本当に有った事だなんて、やっぱり信じられないな」
そう言うとケリストスは首を傾げた。
「地球に似て地球ではない。このチケルはそういう世界なんだよ」
そう言われるとそうなんだろうけど、やはり慣れない。
しかし、興味深くはあった。おとぎ話は好きな方だ。

暫く歴史書を読んで、この世界の仕組みがわかってきた。
フェリアが生み出した神々の事、海の文化、植物の進化、他にも色々な話。
普段本を読まないから少しずつしか進まないけど、知っておくべき事なのはわかる。
「おなかすいたー」
キューは飽きたのかそう言い出した。
「そうだね。そろそろお昼にしようか」
ケリストスはキッチンに向かう。そして外がとても明るくなっているのに気付いた。
「何か食べたい物はあるかい?」
「うーん…何でもいいかな」
キューが膝の上に乗る。昨日よりも重かった。
ケリストスは手早くチャーハンを作る。キューにはリンゴの様な黄色い果物を出した。
「これはキキンゴっていう果物。林檎みたいな食感でマンゴーみたいな味がするんだよ」
南の国の果物だという。キューが一口くれたが、確かにケリストスの言うとおりだった。
「ケリストスって、結構地球について詳しいよね」
チャーハンには卵と色々な菜野菜が入っている。塩胡椒の味が濃い。
「まあ、母親が不自由無く暮らすために要る知識だからね。異世界師が資料を送ってくれるし」
聞き慣れない言葉に、いせかいし?と聞き返した。
「名のままで、チケルではない世界を研究する人さ。地球人だって宇宙の研究をするだろう?あんな感じだよ」
きっと色々違うんだろうな、と思う。
「彼等のおかげで地球が最適な世界だと分かったんだ。それこそ1000年前にね」
「え、神様が決めたんじゃないんだ」
「確かにササンが候補を幾つか挙げてくれたけど、最終的に決めたのは異世界師さ」
異世界師。その存在は少し興味を持った。
「まあ地球が異世界って言っても、チケルにだって密接した異世界が在るからね」
「えっそうなの?」
ケリストスは皿を片付けながら相槌を打つ。
「魔界と呼ばれる異世界さ。魔の力によって色んな事が曖昧な世界。そこに行くのは簡単で難しい、チケルとは切っても離せない世界さ」
キューも興味深々にケリストスを見る。
「魔界には不思議な生き物が沢山いるよ。チケルにも居るドラゴンとか妖精、他にも空を飛ぶ魚とか、あと魔人とかね」
ふうん、と相槌を打った。
「魔人は人じゃないの?」
「うん、チケルの人とは違うよ。んー、何て言ったらいいかなぁ…自由というか…会ってみればわかるけど」
ケリストスを悩ませてしまい、申し訳なく思う。
「ところでケイゴ。体調は大丈夫かい?」
ケリストスに言われて、なんとなく頭が痛い事に気がついた。
「まだ体が慣れてないと思うから、お昼寝してもいいよ」
「いいの?」
「うん。母親は体調を崩しやすいから、普通の人より良く寝るものなんだよ」
「そうなんだ…じゃあお言葉に甘えて寝かせてもらおうかな」
「そうして。あ、頭痛に効くお香を焚こうか。持っていくから先に行ってて」
ケリストスはよくお香を焚くなぁ。と思いながらキューと二階へ上がった。
自室に入り、違和感を感じる。
なんとなく部屋が広くなっているような気がした。
キューも念入りに歩き回る。僕はカーテンを開き、窓を開けた。
「ねえ母親さん」
聞き慣れない声に驚き振り返る。するとそこには人が立っていた。
ふわりとしたピンクのスカートで、手足は白い毛に覆われている。顔は黒く、三日月を横にした様な眼をしていた。
人羊の少女だ。
「此処には椅子が一つしかないの?」
少女は襟のリボンをいじりながらそう言った。
「ご、ごめん」
なんとなく謝ってしまう。何故かはわからないが、その人羊から威圧を感じていた。
キューが威嚇する。僕はだめだよ、と注意した。
「まあいいわ。浮いてればいいから」
そう言うと少女は宙に足を組み座る。僕の驚いた顔を見て、メェ、と笑った。
「君は…?」
僕はありきたりな質問をする。
「まず自分が名乗るのが筋でしょ?」
「あっごめん。僕は圭吾。この子はキュー」
「私はメリィ。宜しくね」
なんとなく椅子に座るのは申し訳ない気がしてベッドに腰掛けた。
「取り敢えず、チケルへようこそ。歓迎するわ」
「あ、ありがとう」
「ケリィは貴方に優しいかしら?」
「えっ」
突然の質問に、僕は少し間を開ける。
「ケリストスは良い人だと思う。まあ、よくわからないんだけど」
考えてみればケリストスの事はよくわからない。まあまだ会って3日しか経ってないんだから当たり前だ。
だけどケリストスはよくしてくれていると思う。チケルの事を教えてくれるし、ごはんも作ってくれた。
「じゃあ良かった。あの子も学んだようね」
「え、どういうこと…?」
僕が不審に思うと、メリィは首を傾げる。
「あら、聞いてなかった?」
僕は彼女が続けて言った言葉に、耳を疑った。

「あの子は一代前の母親を殺したのよ?」

僕は言葉が出せなかった。メリィは冗談を言ったかの様な笑みを浮かべ首を傾げる。
「それは風評被害だね」
小さな壺を持ったケリストスが部屋に入ってきた。
「あら、本当の事じゃない」
「ボクだって死んでほしくなかったんだよ」
僕は二人の会話が理解出来ず、見比べる。
「確かにケリィが手を下した訳じゃないけど、あれはケリィが悪いわ」
「そんな言い方しないでほしいな」
ケリストスはちらりと僕を見る。
「まだ言いたくなかったけど、ケイゴには本当の事を話した方がいいみたいだね」
ケリストスは壺を机に置き、椅子に座った。
メイソーンの香りが部屋に広がる。
「一代前の母親、マキはこの世界に馴染めなかっただけなんだ」
「それは荒れたわよねえ。でも一度母親にしてしまった地球人を元の世界に戻すなんて出来ないから」
「そう。マキは精神を病んでしまってね。結局此処に来てから2年で自殺してしまったんだ」
「そ、そんな」
違和感が有る。
二人の話は深刻でセンシティブな筈なのに、それを感じない。
二人の表情が怖い。普通の顔をしているのに、それが怖かった。
それはあまりにも、
「酷い」
僕はそう呟いた。
「だから、ケイゴの事は慎重に選んだのよ」
やはりこの世界は異常だ。
薄々感じていたが、はっきりと確信した。
ケリストスの眼は闇よりも深い黒で
メリィの眼は三日月の様だ。
何故そんな顔が出来るんだろう。
なんだか苛立ちすら沸いてきた。
僕は立ち上がり、無言で部屋を出る。
キューがついてくる気配を感じたが、気にしないで家から出て行った。
おかあさん、と子供の声がする。
僕は坂を降りていった。

俯いたまま道を歩いていたので、衝撃を感じてから足を止めた。
「母親さん?」
聞いたことのある声にやっと顔を上げる。しかし、その人の顔を認識するまで首を上げるのは大変だった。
人竜のその人は、手に袋を持っている。
「どうしたんだい?ケリィは?」
僕は何も言えなかった。キューが鳴いている。
「何かあった様だね。よし!取り敢えずうちに来な」
アリアさんは僕の手を取り歩き出した。僕はついて行くのに早歩きになる。
「えと、あの」
「まあまあ、お茶しながら話をしようじゃないか」
アリアさんはパンの看板の扉をくぐり、僕らを家へ入れた。
促されるままレジ横の階段を上がると、生活スペースに入る。
「今お茶を用意するからそこ座ってて」
部屋の真ん中に有ったちゃぶ台の前に座らせてアリアさんは部屋を出た。僕が目を泳がせていると、キューは僕の膝の上に陣取った。
部屋は特別広くなく、ちゃぶ台の他はベッドとタンスしか無かった。ベッドの横は窓で、今はカーテンの隙間から光が差していた。
「こういう時はハーブティーが良いね。トレイド国名産のお菓子を持ってきたよ!」
そう言ってアリアさんはマグカップとポットと菓子入れの乗った盆を机に置く。僕はありがとうどざいます、と言って頭を下げた。
「アリアさん特製気紛れブレンドだよ!ちょっとの癖と栄養が入ってるのさ」
アリアさんの笑顔は太陽の様に明るくてほっとする。
いただきます、と言って一口飲んだ。が、苦味を感じて咽せる。
「あっはっは!今日は失敗作かねえ!」
アリアさんも一口飲み、顔をしかめた。
「悪い悪い、気紛れ過ぎたねえ」
僕はマグカップを机に置き、一つ咳払いする。
「でも菓子は他で買った物だから美味しいよ!」
アリアさんはその赤い菓子を頬張り僕に差し出した。恐る恐る食べてみたが、美味しくて目を丸くする。
「この菓子は見た目から赤林檎って呼ばれててね。しゅわっとして甘いだろう?アタシの大好物なんだ」
確かにしゅわっとして甘い。飲みこむのに時間が掛かったが、アリアさんはにこにことした顔で待っててくれた。
「美味しいです」
「じゃあ良かった!」
アリアさんはもう一口ハーブティーを飲み、苦い苦いと言う。
「で、何があったんだい?」
聞かれて僕は一瞬口ごもり、小声でケリストスとメリィの会話の事を言った。
「ああ…メリィが来たのか。まああの子は魔人だからねえ。ケリィもそういうとこあるんだよね」
「あの子が、魔人…?」
想像していた魔人とだいぶ違ったので驚く。
「普通の人羊の女の子かと思ったけど…」
「魔人も色々だからねえ。あの子は生贄にされた口だから生前の姿でいる事が多いしね」
「えっ?生贄?」
僕は聞き返してしまった。
「そう、大昔は神に人を捧げて加護を貰ったのさ。今はそういう風習は無くなったけどね」
きっと本当に昔の風習なんだろうな、と思う。
「実際メリィはそうなんだけど、生贄にされた子は皆魔人に転生すると言われててね。メリィなんかアタシの子供の頃も知ってるよ」
「アリアさんより長生きなんですね」
「アタシが今266歳なんだけど、ケリィが母親の世話役になる前からあの子達顔見知りみたいだよ」
色々と仰天ポイントが有って言葉が出なかった。
「まああの子達を責めないでね。長く生きると感情の感覚も鈍くなるもんだよ」
そういう問題なのだろうか、と思いつつも頷いておいた。
「確かに地球の人とも価値観や考え方が違うんだろうけど、何かと意見が喰い違うのは世の常だからね」
確かに、と小声で返す。
「それでも許せない時はこの言葉を思い出してほしい」
アリアさんの真剣な眼差しに緊張して座り直した。
「あいつはトマトが苦手だ」
打って変わってアッハッハ!と笑う。
「どうだ、可愛い奴だろう!」
そう言われて僕も曖昧に笑った。
「僕も苦手です、トマト」
「なんだ!だったら気が合うじゃないか!」
ばしばしと頭を叩かれる。
そうか、ケリストスはトマトが苦手なのか。
確かにそれは可愛いかもしれない。
「ねえアリアさん、ケリストスの事もっと教えてくれませんか?」
改めて考え直した。僕はケリストスの事を知らなすぎる。
このチケルの事もあまりわからないけれど、ずっとお世話になる人の事は知っておくべきだ。
アリアさんは目を丸くしてからまた笑った。
「ああいいよ!そうだねえ…まず初めて会った時にね…

ケリストスが迎えに来た時には、空は赤くなっていた。
ケリストスはアリアさんと話をして、帰るよ、と僕に言った。
僕はキューを抱きかかえてケリストスの後ろを歩く。ケリストスは何も言わなかったから、なんとなく気まずい気がしていた。
僕らの家に入り、ケリストスはキッチンに立った。
「ああ、メリィは帰ったから」
「あ、うん」
「お腹は空かないかい?」
「うん、ちょっと空いた」
「何が食べたい?」
「うーん…何でもいい」
「分かった」
フライパンに油を引いた音がする。僕とキューはリビングの席に座り、大人しく料理を待った。
今日の夕飯はハンバーグだった。
「ごめんなさい」
僕が謝ると、ケリストスは丸い目をぱちくりとさせる。
「何が?」
「いや、突然家出たから」
「ああ、それはボクとメリィが悪いからいいよ」
「怒ってない?」
「怒ってないよ。ていうかケイゴが怒ったでしょ」
「いや、あれは」
怒った、と言えば怒った事になるけれど。
「やっぱりごめん」
「謝らなくていいよ」
その言葉が本心なのか図れなくて困る。
夕飯を食べている間、それから会話は無かった。
なんとなく気まずくて食べ終わった後すぐ自室へ戻る。
部屋は暗く、まだ微かにお香の香りがした。
なんだか疲れた、と思いベッドに横になり目を閉じる。
キューが僕の隣に来て丸くなった。
「おもったんだけど」
キューの言葉に目を開ける。
「ケリィにあったことあるきがする」
「?それはそうでしょ」
「そうじゃなくて、おかあさんにうんでもらううまえ」
「それは…前世ってこと?」
「なのかな。なんかあったきがする」
気がする?と返した時、ドアを叩く音がした。
「ケイゴ、まだ灯りの付け方教えてなかったけど、入っていいかい?」
いいよ、と言うと、ケリストスが入って来た。
「ここを回せば灯りが点くから」
ケリストスがベッドの隣に在る机の引き出しに有った突起を回すと天井の照明が点いた。
どういう仕組みだろう。とりあえずわかった、と言った。
「ケリィさ、ぼくにあったことある?」
キューは突然そんな事を言い始める。ケリストスはキューをじっと見たが、窓のカーテンを開けた。
「ボクは星を観るのが苦手でね」
窓の外を見ながらケリストスは言う。
「皆は綺麗だ、って言うけど、どうしてもボクは霊にしか見えないんだ」
僕もケリストスの隣に立ち夜空を見上げる。
「確か、肉体が死んだ魂はお星様になってルゥナに仕えるんでしょ?」
「そう。ボクは昔ルゥナに仕えててね、あの星々をずっと見てたんだ」
驚いた。それはアリアさんも言ってない話だ。
「仕えてたって、何の仕事?」
「今はまだ秘密」
秘密にしなきゃいけない仕事なのか。
「霊達は星になってチケルを見守るけど、意思は無い。けれど流星になって地上に落ちて生まれ変わるんだ」
ケリストスはキューを抱きかかえる。
「キューは星でいた時の記憶があるんだね」
「すごくうろおぼえだけど」
「そりゃあそうさ。軽く600年以上前の記憶だもの」
ケリストスの表情は見えなかったけど、その声色に少し悲しみが伺えた。
「まあ、空の時空も曖昧でね。確実な時間は測れないけど」
そうなんだ、と言うとケリストスはキューを降ろしカーテンを閉める。
「もう寝るかい?」
「そうだね。なんか疲れた」
ケリストスはフフ、と笑う。
僕がベッドに横になると、掛け布団を掛けてくれた。
「じゃあおやすみ、ケイゴ、キュー」
僕はキューと声を揃えておやすみなさい、と目を閉じた。
灯りが消えて、まぶたの裏も黒くなる。
ケリストスが部屋を出た時には、意識が無くなっていた。


昼に目が覚めて、少し罪悪感が有った。
ケリストスはそんなものだと言ってくれたけど。
「ケイゴ、体調はどうだい?」
「うん、だいぶいい」
乾燥果物と穀物に牛乳を掛けた物、所謂フルーツグラノーラを食べながら会話をした。
「じゃあ街を見ない?色々店を紹介したいんだ」
僕はいいよ、と頷く。
「キューも連れてっていい?」
「勿論」
当のキューはまた成長し、カピバラの様な姿になっていた。毛色は勿論赤い。
外に出ると、日は真ん中辺りに昇っていた。
からっとした空気と風が心地良い。僕達は街へと続く坂を降っていった。
坂の道沿いにも建物が在るが、平地に着くとその活気は凄いものだった。
屋台市は人の波が凄い。ケリストスは自然と羽で手を握ってくれた。
屋台市を抜け、広い道路に出る。道は石畳で少し歩きやすくなった。
少し高い建物が道沿いに並んでいる。一階は店で二階から上は住宅になっているとケリストスは言った。
ケリストスは標識の前で足を止める。見ると、恐竜の様な絵が描いてあった。
「すぐ来ると思うから」
「何が?」
「タクシー」
がらがら、と車輪の音がする。
緑色の小型の恐竜の様な生き物が馬車を引いてきた。標識の前で止まり、馬車の扉が開く。
「どちらまで?」
人蜥蜴の運転手が短く言った。ケリストスは乗りながら市長館まで、と告げる。
更に僕とキューが乗っても中は窮屈ではなかった。
「おや、母親さんじゃないか」
馬車が動き出すと、運転手はゆったりした声で言う。
「陸竜を見るのは初めてでしょう。確か地球には居ない生き物だから」
「えっ、あ、はい」
「この子達は良い子でね、昔から人の助けをしてくれるんですよ」
「そうなんですか」
「リクリュウ、とは言うけど、ドラゴンとは違う生き物なんだよ」
ケリストスはそう補足した。
「地球で言う小型の恐竜だと思ってくれればいい。馬の様な付き合い方をしてるね。チケルでは人と共存する生き物も色々居るんだよ」
僕は相槌を打つ。と言っても、人とそれ以外の生き物の差が正直ついていない。
がらがらと車輪の音と一緒に景色が変わる。いつの間にか若葉の茂る木々の中を進んでいた。
た。
「こんにちは、ケリストスです。母親を連れて来ました」
入り口の柵に付いたライオンの胸像にケリストスは話かける。すると像はぎょろりと目を動かし、少々お待ち下さい、と言った。
柵の扉が開き、ケリストスの後ろで屋敷に入った。
「こんにちは、ケリストスさん」
玄関の大きな扉が開き、猫人の女性が挨拶してきた。
「彼女はお手伝いさんのミズキさん。ミズキさん、この子が新しい母親のケイゴだよ」
「話は聞いております。宜しくお願いしますね」
ミズキがお辞儀をし、僕も小さく頭を下げる。
「市長にご用事で?」
「うん。ケイゴの事紹介しようと思って」
「わざわざありがとうございますね」
ミズキの案内で屋敷を歩いていく。絨毯張りの廊下は広く階段も豪奢で、部屋へ繋がる扉も全て大きい。
キューが辺りをきょろきょろと見渡すので、どうしたの?と小声を掛けると、視線を感じると言ってきた。
「ええ。此処のガーゴイル達は好奇心が旺盛ですから」
ミズキがそう言うので改めて辺りを見渡すと、鳥の様な生き物の像が沢山設置されていて、それがこちらを見ている様な気がした。
階段を三回上り、ミズキが奥の部屋の前で止まる。
「市長、お客様です」
コンコン、と叩くと、自動で扉が開いた。
「初めまして。良くいらっしゃいましたね」
煌びやかな机に座っていたのは、七色の眼をした白竜人だった。
「初めまして、母親さん。わたしはこのシャミ市の市長をさせて頂いてます、ホウシィと言います」
ホウシィはお辞儀をする。僕もお辞儀をして、はじめましてと返した。
「この子が母親のケイゴ。こっちの子供はキューと言う名前です」
ケリストスはそう紹介した。キューも小さく鳴く。
「顔が見られて良かった。とても可愛らしい方ですね」
ホウシィの笑顔に、可愛らしいと言われた事への反感も湧かなかった。
「この地には慣れましたか?」
「ま、まだ来て4日なので、なんとも…」
「それもそうですね。贔屓目に思うかもしれませんが、このシャミ市は豊かでのんびりとした街ですから。気に入って頂けたらわたしも嬉しいです」
「はい、気に入ってます!」
声が裏返ってしまったが、ホウシィは小さく笑って頷く。
「しかし、貴方も竜の耳を持っていてわたしは嬉しいですよ。中々仲間が居ないので」
ホウシィはさらりと流れる白髪をかきあげ、左の竜耳を見せた。赤い耳飾りが付いている。
「シャミ市で竜人は市長しか居ないんだ。人竜はそこそこ居るんだけどね」
ケリストスの言葉にアリアさんの事を思い出した。
「そうだ。ケリィには前に提案したけど、少しお茶をしていってくれませんか?良い茶葉とお菓子が有りますから」
手を合わせてホウシィは言う。七色の眼が子供の様にきらきらと輝いている。
「そう言って市長はお茶したいだけなんですけど」
ミズキがそう小さく笑い、ホウシィも否定しなかった。
「どうする?ケイゴ」
ケリストスが問う。少しおこがましい気もしたが、断るのも失礼だと思ったので頷く。
「宜しければ前の生活の事や地球についてのお話を聞かせて下さい。チケルの事で気になる事が有れば話しましょう」
「いいんですか?」
「ええ。勿論お茶を飲みながらね」
ホウシィは茶目っ気たっぷりにウインクをした。
ミズキの案内で僕達は客間へ向かう。階段を一階降りすぐの所の扉をくぐった。
客間はとても広い。豪華なテーブルと椅子、大きなシャンデリアが目を惹き、窓からの眺めも良かった。
ミズキにどうぞ、と椅子を勧められ、座る。
テーブルの上には既にお菓子が並んでいた。
「わたしは異世界の話が好きでね」
ホウシィはミズキが淹れたカップに口をつける。
「良く異世界師に研究資料を頂いたりするんですけど、やはり現地の方の話が好きなんです」
「そうなんですか」
「だから貴方の話が聞きたい。どんな些細な事でもいいので」
「と…言われましても…」
「母親さんの趣味とか、好きな事とか」
「僕は…趣味とかないですし…」
僕は戸惑う。何もないからだ。
思い返すと本当に何もなかった。
「がっこうという所の友達とか、ぶかつ活動とかも?」
「はい…僕は友達居ませんし、部活もやってません」
僕は頑張って話せる事を探した。しかし、何故かあの頃の事を思い出そうとすると、急に頭にもやが掛かる。
「ごめんなさい、なんか思い出せなくて…」
僕が俯いて会話を終わらせると、その事がわかったのかホウシィは、いいえ、と言った。
「それなら仕方が無いです。何か思い出せたら気軽に教えてくださいね」
「ごめんなさい」
「いいえ、謝る事ではありませんよ」
何故か口内の渇きを感じて出されたお茶を飲む。冷たくて、すっとした味だった。
「ミズキさん、今日のお茶は?」
ケリストスが尋ねる。
「オハバハ国の特産物のハーブティーです。10種のハーブのブレンドティーが有名なんですよ」
「ああ、オハバハのですか。高級品ですね」
「お客様に出す物ですから」
ハーブティーは、つい飲んでしまうくらい美味しかった。
「さ、こちらもどうぞ。シャミ市自慢の物です」
ミズキさんは目の前に皿を差し出す。三角の黒いケーキの様だ。
「少しビターなチョコレートのケーキです。中に甘いクリームを入れてあります」
ケリストスに倣いフォークで中を開く。白くふわふわのクリームが入っていた。
「やった!わたしの好物だ!」
ホウシィもにこにこ顔で頬張る。僕も恐る恐る食べてみて、その美味しさに目を開いた。チョコレートのほろ苦さとクリームの甘さが合わさってちょうどいい。
「ケイゴ君、こんな美味しい物が有るんだ、この世界も捨てたものじゃないでしょう?」
ホウシィにそう言われ、僕は頷いた。
「何か有ったらわたしが何とかします。だから、長生きして下さいね」
何気ない一言だったけど、先代への無念を感じられる。
チョコケーキを食べ終わった時、ミズキが食器を片付けながらホウシィに耳打ちした。
「ああ、すみません、仕事が入ってしまいました」
ホウシィは残念そうに言う。
「また気軽に訪ねてください。また美味しいお茶を用意します」
「ミズキさんがね」
「まあそうですけど」
ケリストスとホウシィはそんなやり取りをして、ミズキはくすくすと笑った。
二人と沢山の視線に見送られ、僕達は屋敷を出る。門の前に居た馬車に乗り、市長宅を後にした。

ホウシィと話してみてはっきりわかった事があった。
僕は昔の事を忘れている。
知識として覚えている事も有ったが、どんな暮らしをして、どんな事をしていたか記憶が無くなっている。
でもそれは悪い事だとは思わなかった。昔の記憶なんて役立たないだろう。
そんな事を考えて無口でいると、キューが膝の上に乗ってきた。昨日よりも大きくて重い。
「ほらケイゴ、海が見えてきた」
ケリストスの一言で僕は外の景色を見た。いつの間にか中心街に来ていて、建物の合間から海が見える。
「海かあ…」
馬車はどんどん海に向かっている。波の音が聞こえてきた。
生臭い風が通り抜ける。海岸の標識の前で馬車は止まった。
「少し魚を見てこよう。海岸の魚市場はいつも新鮮な魚が有るんだ」
馬車を降りると、赤い空とそれを映した海が広がっていた。
「いつの間にかもう夕方か」
体感時間は短く感じたが、起きる時間が遅かったからだろうか。
「ほら、漁船が帰ってくるところだ」
ケリストスが指差す先に大きな船が浮かんでいた。その他にも大小様々な船が泳いでいる。
「おさかな、たくさん?」
キューはそわそわしている。
「そうだよ。お腹空いたのかい?」
「うん!」
「魚市場には美味しい魚料理の店もあるよ。今日の夕飯はそれにしようか」
ケリストスの提案にキューは喜んだ。
船着場には猫が沢山居る。どの猫もキューに威嚇してきた。キューはそれにいちいち反応し、ケリストスは笑う。
ケリストスは魚を咥えた猫の看板の店の前で止まり、店先に出たメニュー表を睨んだ。
「今日の海鮮丼はギギライかあ。旬だもんね」
そう言って店内に入る。それに続いて入った。
「いらっしゃい」
三毛の女人猫の店主が声を掛ける。中は他に人は居なかった。
「あれ、まだだった?」
「いいや、今開けたとこさ」
店主はパイプを咥えている。煙が漂ってきたが、嫌な匂いじゃなかった。
「お前は新しい母親さんだね。旦那がアンタの事を言ってたよ」
「だってさ。ケイゴは有名人だね」
「からかうんじゃないよ。困ってるじゃないか」
ケリストスはケッケと笑いカウンターに座る。その隣に座ると、店主はメニューの板を渡してくれた。
ケリストスはギギライの海鮮丼を頼み、僕はよくわからないからオススメを選ぶ。キューは雑魚三匹盛りを頼んだ。
「ギギライは春の魚でね、この辺で一番獲れる魚なんだ」
「梅雨まで獲れて大きさも申し分ない。白身でさっぱりした味さ。ただ」
店主はその魚を見せる。
「見た目がこれだから猫に人気が無い」
ぎょろりと大きな目とぎらぎらと橙色に輝く鱗、ヒレはどれも尖っていて。尻尾には赤い斑点が有った。
それが結構な大きさだったから、僕はうわっと声が出てしまった。
それを見て店主は笑いながら捌き始める。物騒な音が響き渡った。
「旦那さんは元気かい?」
「いやあ、最近は腰が痛いとか言い始めたよ」
「よくないじゃないか。病院行った方がいいよ」
「そりゃわかってるけど今魚が漁れる時期で忙しいんだよ」
「じゃあマッサージとか、湿布貼るとか」
「そうさねえ。考えとくよ」
ケリストスとそんな会話をしながら包丁を操り料理を作っていた。へいお待ち、と出されたのは赤身の魚のお造りだった。
突き刺された頭の目がこっちを見ている気がする。
少し躊躇しながらもいただきます、と手をつけた。
シャミ市は箸の文化が無く、何でもスプーンで食べる。丼も大きめのスプーンを使用していた。
「やっぱ新鮮な魚は刺身に限る」
ケリストスはそう言いながらスプーンを進める。確かにお刺身は凄く美味しかった。キューも同意した。
店主はパイプを吹かしながら僕達を見守る。食べ終わる頃には来客もちらほら現れ、店は活気づいていった。
「あ、そうだ醤油切らしそうだったんだ。一瓶買っていい?」
「はいよ。魚に合うやつ」
ケリストスはお代を払い黒い小瓶を受け取る。ごちそうさまでしたと言って店を出ていった。
夕空は紫が掛かっている。海はそれを映し、きらきらと輝いていた。
綺麗、とこぼすと、ケリストスは頷く。
「夕の水揚げが終わった頃だから魚を見ていこう」
ケリストスに着いて歩いていくと、船から魚を入れた網が運ばれて来るのが見えた。
「あっ!母親さん!!」
「母親さんだー!!」
船員達が手を振ってくる。鱗の人や人海獣が多く見受けられた。
魚市場は賑わっている。そして猫も沢山居た。
ケリストスは悩む様子無く魚を買っていく。今日は良い魚が入ってる、と言われ、曖昧に返事をした。
「冷蔵庫が有るとはいえ、魚は新鮮なうちに食べたいよね」
魚の入った袋を手にケリストスは言う。
「冷蔵庫あるの?」
「うん。魔道式のやつ。古いから最近動きが怪しいんだけど」
そういえばキッチンに大きな箱が有ったな、と思い返す。そしてうちの冷蔵庫もたまに凄い音がしたな、と思った。
気がついたけど、それは前の世界での記憶だ。
無くしたと思った記憶をこんな形で取り戻すなんて、と思ったが、その考えは口にしなかった。
帰路に着く頃には道が暗くてわからなくなる。ケリストスが僕の手をひいてくれたおかげで転ぶ事無く歩けた。
建物に灯りが燈り、人通りは少なくなる。家に着く頃には道は寂しくなった。

次の日に起き上がれた時はやはり太陽が高い位置に有った。
僕は体を起こす。
おはよう、とキューに挨拶をしたつもりだったが、そこには白い袖なしを着た人鼠しか居なくて少し動揺した。
その小さな人獣が赤い毛並だったのでキューだと分かったが、成長が急過ぎでは、と思う。
「えへへ、おはようお母さん」
「キュー、大きくなったね」
「ううん、まだまだボクは大きくなるよ」
心なしか喋りも流暢になった気がした。まあテレパシーなんだけど。
お母さん起きたよー!!とキューが元気良く言うと、はあい、とケリストスの声が遠くからした。
リビングに着くと、既に食卓に料理が並んでいた。赤魚のムニエルと白いパン、それに野菜のスープだ。
「今日は図書館に行こう。丁度返さなきゃいけない本が有るし」
図書館?と僕は聞き返す。
「読書はシャミ市の一番の娯楽なんだ。勿論本屋も色々在るんだけど、お金が掛からないから大体の人は図書館に行くんだよ」
へえ、と感心した。図書館なんて人生で三回くらいしか行ったことがない。
いつものように坂の降るのかと思えば今日は反対の方に歩き出す。
不思議に思いつつ付いて行くと、大きな白い建物に入っていった。
中はがらんとしていて、足音が良く響く。
「此処は図書館直通の転送装置なんだ」
ケリストスが指を指し、床に魔法陣が描かれているのに気付いた。
重い音がして、其処から人が現れる。
僕が驚いていると、フードを被ったその人は軽く会釈をして僕らの横を通り過ぎた。
しゃがみ込んでじっくり魔法陣を見てるキューを立たせ、僕の手を取りケリストスは魔法陣の上に立つ。
かん、とケリストスが一つ足を鳴らすと、視界が歪んだ。
それも一瞬で、ぐらっとしたな、と思ったら違う場所に来ていた。
急に開けた場所に出て僕は動揺した。
大理石の床は人々の足音がする。高い天井にはいくつものシャンデリアが並んでいるが、光源は大きな窓から入る日の光のようだ。
「此処は図書館の1号館だよ。図書館の中でも一番古くて大きいんだ」
そう言うケリストスについていった。
僕達が使った魔法陣以外にも各所に魔法陣が描かれており、その上で人が消えたり現れたりしている。
「このエントランスはどの部屋にも繋がっていて誰もが通るんだ。本の返却はあそこ」
ケリストスが指差す先には大量の本が積まれている。不思議に思っていると、複数の小さな生き物が本を運んでいた。
「彼らは本運びの司書手伝い。正式名称はウククって言うんだけど、地球には居ない生き物だね」
僕は頷く。ウククは猫の様な二足歩行の生き物で、背中の小さな翅で宙に浮いていた。
ケリストスは袖から本を出しウククに渡す。そのウククは受け取った本の表紙を見ると、すーっと飛んでいってしまった。
「ケイゴは何か読みたい本は有る?」
「うーん…特には思いつかないかな」
「じゃあ絵本とかどう?キューも楽しいと思うし」
絵本は子供っぽいなあ、と思ったけど、キューはまだ子供なんだった。
ケリストスはすぐ手前の部屋に入る。部屋は思ったより広く、本棚が沢山並んでいた。
「絵本は良いよ。書いてある事も簡単で読みやすいし、絵も楽しめる」
そう言ってケリストスは何冊か本棚から取り、椅子に座る。
「これ、ボクのおすすめ。絵がとても綺麗なんだ」
僕とキューは両隣に座り、ケリストスの手元を覗き込んだ。題名は、「さかなのおはなし」。
ページを捲ると、青い世界に小さな魚が居た。
「うみにはさかながいます。たくさんいるのはちいさなさかな」
ケリストスは小さな声で読み聞かせる。
「ちいさなさかなはたべられます」
ページを捲る音が響く。
「たべたさかなもたべられます」
「どんどん、どんどん、おおきいさかなにたべられます」
ケリストスの声は優しい声色ながら弱肉強食の緊張感を感じさせる。
「あっ!ギギライ!」
キューは昨日見た魚を指差した。
「うん、そうだね。…そして、おおきなさかなはひとがたべます。しかし、おおきなさかなもひとをたべます」
猫人が巨大な魚に食べられる絵は、なかなかに迫力がある。
「だから、うみであそぶときはきをつけましょう」
最後のページを捲り、ケリストスの朗読は終わった。
「どうだった?」
「うん、凄かった、ケリストスは読み聞かせが上手いね」
「ふふ、ありがとう」
「ケリィ、もっと読んでよ!」
「じゃあ借りてくから家に帰ったらね」
ケリストスは絵本を3冊持って僕達は部屋を出た。
通路は等間隔でドアが設置されていて、上に絵が描かれている。
歴史、科学、魔法、小説、とケリストスは読み上げてくれた。
「やっぱり最初は歴史の本がいいかな。でもうちにも有るから、図鑑の方がいいか…」
ふむ、と悩むケリストスになんとなく悪い気がしてくる。
ケリストスに付いて廊下を歩いていくと、だんだん視界が暗くなってきた気がした。
なんでだろう、と辺りを見渡すと、照明と窓の数が少なくなってきている事に気付く。
「ねえケリストス」
僕はケリストスの裾を引っ張る。
「ん?何ケイゴ…ああ、こんな所に来ちゃったか」
ケリストスはきょろきょろと辺りを見渡し、僕とキューの手を取った。
「此処は通常じゃ入れない、「記憶の間」っていう所だよ」
「記憶の間?」
なんとなく小声になってしまう。
「シャミ市の人達は皆日記をつけるんだけど、それも「表の日記」と「裏の日記」に分かれていてね。表の日記は誰にでも見せられるもの、として日々の事を書き、裏の日記は人に言えない思いや愚痴を書くものなんだ。日記は原則として死んだら図書館に寄贈されるんだけど、表の日記は誰でも読めて、裏の日記は通常は入れない部屋に納められるんだ」
「ここが裏の日記を保管してる所なの?」
キューの質問にケリストスは頷く。
「この記憶の間は結界が張られていて、入りたくても入れない場所なんだ。でも稀に入れてしまう時がある。それが今みたいな時さ」
だんだん視界が暗くなってきている気がする、僕はケリストスの手を握る手に力を入れた。

笑っている様にも泣いている様にも聞こえる声。

「えっ、ケリストス、今何か言った?」
どう聞いてもケリストスの声ではないが、つい聞いてしまった。
「ん?何も言ってないよ?」
ケリストスは不審そうに首を傾げる。
「もしかして、何か聞こえるの?」
僕は頷く。今でも声がした。
その声に釣られる様に手を離し、僕は歩き出した。
「お母さん…?」
キューの呼びかけには答えず、暗闇の中にあったドアノブに手を掛ける。
ケリストスの声よりも、その女性の声が鳴り響いた。
部屋に入ると、急に視界が眩しくなり目を細める。
「これは…」
部屋の中には小さな机が一つだけ有り、その上に書物が置いてあった。
題名は書いていない。僕はその本に手を伸ばした。
「ケイゴ!!」
僕の手をふわりとした羽が掴む。はっ、として振り返る。
「その日記に触ってはいけない」
女性の声が消え、ケリストスの言葉が耳に入った。
「…僕は」
「呼ばれたんだね」
僕は頷く。ケリストスは僕を引き寄せた。
「マキの裏の日記…なんでケイゴを」
「これが、マキさんの…」
普通の本に見えるのに、禍々しい気配を感じる。
「ホウシィが厳重に封印した筈なのに」
キューが僕の背中に張り付いて震えていた。
「なんで、この本はこんなに怖いの?」
キューの問いにケリストスは頭を撫でた。
「マキはずっと呪いを吐いていた。その気持ちを込めた文章が恐ろしい呪いになったんだ」
「呪い…?」
「うん。この日記を読んで生きているのはホウシィだけだよ」
人を殺す程の呪い。背中がゾッとした。
「マキ、なんでケイゴを呼んだの?」
ケリストスの問いに答える様に弾ける音がした。もしかしてラップ音だろうか。
ケリストスはじりじりと後退りをして、僕とキューを部屋の外に出した。
甲高い音と空気の流れを感じる。ケリストスも部屋を出てドアを閉めた。
「ケイゴ、キュー、走って」
僕は、えっ?と言ってしまったが、キューが僕の手を引いてくる。僕らはそのまま走り出した。
息が切れるくらいのスピードで走っているとだんだん辺りが明るくなってくる。キューが止まった時にエントランスへ着いていた。
「誰か!ケリィが!!」
ケリストスの姿が見えない。
キューが叫ぶと、すぐに2匹のウククが駆けつけた。利用者の人達も何事かと視線を向けてくる。
ウククの片方がどこかへ飛んでいき、もう片方はキューの頭を撫でた。
「ケリィに何か?」
聞いたことのある声に振り向くと、虹色の眼とかち合った。
「市長さん…!どうしてここに…?」
「業務の一環で定期視察に来ました。それより、ケリィに何が?」
混乱してしどろもどろになると、キューが経緯を説明した。
するとホウシィは真剣な顔になる。
「母親さんは此処に居てください。絶対ウクク達の側を離れないように」
そう言ってホウシィは飛び出す様に走り出した。ウククも三匹それに続く。
キューがしっかりと手を握ってきた。
「お母さんは僕が護るから、手を離さないで」
キューの手の温もりに救われる。ケリストスは大丈夫だろうか。

未だにマキの甲高い声が聞こえる。しかしそれも徐々に小さくなっていた。

二人がエントランスに帰って来たのは10分ほど経った時だった。
エントランスに居た者は皆騒めく。ケリストスはよろよろと床に突っ伏し、ホウシィも立っているのがやっとのようだ。
「ケリストス!!ホウシィさん!!」
僕は堪らず二人に駆け寄る。ホウシィは大丈夫、と小声で言った。
「ちょっと手こずったよ…」
うつ伏せのままケリストスは言う。取り敢えず命に別状が無いみたいで安心した。
「どのくらい、時間が、経ちました…?」
息の切れたホウシィの問いにキューは10分ほど、と答える。
「ああ、じゃあ良かった…1日位経ったかと…」
僕は驚いて口を塞ぐ。呪いとの対峙で時間の感覚が狂ってしまうのか。
「大丈夫ですか!?」
悲鳴に似た声が聞こえる。赤いエプロンをした人犬が駆け寄ってきた。
赤い十字が描かれたドアの向こうにウクク達と人犬は二人を運ぶ。中にはベッドが三台置いてあった。
ケリストスとホウシィはベッドに横たわり、唸りながら目を瞑る。
「取り敢えず安静にして…貴方達はどこか痛くないですか?」
人犬は僕とキューを触診してきた。大丈夫です、と言うと安心した様に溜息を吐く。
胸のプレートに「司書」と書いてあるので、その人が司書である事が分かった。
「ケリィ、大丈夫?」
キューがおずおずと聞くと、ケリストスは唸った。
「マキの呪いは強過ぎる…ホウシィと二人がかりで封印するしかなかった…」
ケリストスは小声で言う。
「浄化出来ないなんて、わたしも非力になりましたね…」
ホウシィも弱音を吐いた。
僕は何も言えなかった。元はといえば僕があの部屋に入ってしまったのがいけないのに。
「取り敢えず気が滅入る時はこれを飲んで」
司書がコップを差し出す。僕は礼を言いつつ受け取った。
ケリストスとホウシィもコップに口を付ける。その飲み物は、すっとした味だった。
「ごめん、ケイゴ。今日はもう家で休みたい」
「ううん、体を大事にして。病院に行かなくていいの?」
「うん。体に怪我は無いからね。精神力を削られただけだから、寝れば治る」
「何言ってるんだいケリィ!君はいつもそうやって自分を軽く見るんだから!」
司書はケリストスの頭を軽く叩く。ホウシィはそれを見て笑った。
「いや、本当に診てもらいましょう。魔力を相当使ったから」
ホウシィは飲み干したコップを司書に返しながら言う。
「じゃあ病院に連絡しますからね。母親さんとお子さんも、一応先生に診てもらって」
司書は机に有った紙にペンで走り書きをする。文字は紙に染み込み消えた。
「すぐ馬車が来ますからね」
司書はそう言ってホウシィに二杯目のコップを渡す。
僕がちびちびと飲みきる頃、部屋に人が入ってきた。
「どうも、病人を預かりに来ました」
ペストマスクをした、人烏だと思われる人だった。
「お疲れ様です。取り敢えずこの人達をお願いします」
司書はケリストスを担ぎ、ホウシィに手を貸す。
「では四名、しかと預かりました」
人烏について行くと、エントランスに馬車が居た。きっと救急車なのだろう。引いているのは馬くらい有る青い烏だ。
人烏は僕らを馬車に押し込む。扉が閉まると、すぐに振動が来た。
ふわりと脳が揺れる。窓の外を見ると、建物より高い所を飛んでいた。
キューも窓の外を見ていて、あとの二人はしんどそうな顔で目を瞑っている。
「着きましたよ」
救急車が白くて大きな建物の屋上に着地し、僕らは降りた。
ケリストスとホウシィは車椅子に乗せられ看護師に運ばれていく。ペストマスクの人烏は僕とキューを先導してくれた。
階段とスロープがあり、それを下っていく。中は白を基調としていて、大きな窓が日光を取り込んでいた。
ケリストスとホウシィを乗せた車椅子は更に降りていったが、僕とキューはそのまま廊下に先導される。
「こちらへ」
人烏が開けたドアの先からメイソーンの香りが漂ってきた。
中は小さな部屋だ。観葉植物の鉢が目立ち、机と椅子とベッドが在る。
「やあ、元気かい」
そう言ったのは白衣を着た黒い人馬だ。医者なのだろう。
額に折られた角の痕が分かる。もしかしてユニコーンなのだろうか。
「私は元人型のユニコーンだよ」
思っている事を当てられて焦った。医師は笑っている。
「皆考える事だから気にしないでおくれ。別に思った事をを読めるわけでは無いよ」
そう言われほっとした。もしかして緊張を解すための鉄板なのだろうか。
「私はユウド。心療内科おやっているよ。お名前を聞いてもいいかな?」
「あっ、はい。圭吾と言います。こっちはキュー」
キューもお辞儀をした。
「宜しくね。まあ診察と言ってもちょっとお話を聞くだけだから気負わずにね」
ユウドはそう言って僕も頭を撫でる。柔らかい感触に何故か気持ちが落ち着いた。
「今何か不安とか、怖いとか、心配事が有るとか思うかい?」
「うーん…いえ…強いて言うと、ケリストスとホウシィが心配です」
「うんうん、そうだよね。うん、この紙は何色に見える?」
「白に見えます」
「耳鳴りは有る?」
「無いです」
「何かを壊したいと考えてる?」
「いえ、考えてません」
最後にユウドは僕の目の下をめくり、じっくり見てきた。
「…うん、大丈夫だね。呪いの影響は無いようだ」
ユウドはキューの頭も撫で、目の下をめくりじっくり見る。
「うん。キュー君、これを見てごらん」
ユウドは白衣の胸ポケットから緑色の宝石の付いたチェーンを出し、キューの目の前に垂らした。
キューはその揺れる宝石を目で追う。5秒ほど見つめると、ユウドは宝石をしまった。
「大丈夫。君のお母さんは健康だよ。心配要らないからね」
ユウドが優しい低音でそう言うと、キューは息を吐いて頷いた。
「お疲れ様。診察は終わりだよ。ローウ、一応二人に魔戻しを出してね」
本当にすぐ終わって拍子が抜ける。
ペストマスクの人烏はローウという名らしい。ローウはドアを開けてくれた。
「ありがとうございました」
「どういたしまして」
ユウドの笑顔に肩の力が抜ける。僕達はローウに連れられ階段を降りていった。
階段を三階降りると、そこは待合室だった。
広い空間に人が少し居る。ローウはカツカツと歩いて行った。
それについて行くと人気の無い廊下に出る。等間隔で部屋が在り、ローウはその中の一部屋に僕達を通した。
中はベンチとローテーブルと観葉植物が有り、ミントの様な、すっとした香りが漂っている。
思考が捗るような気がした。
「魔戻しをどうぞ」
ローウはテーブルに置いてあったコップにジャグを注ぐ。受け取って一口飲んだが、それは図書館で飲んだ物と同じ味がした。
「あなた達は魔力が少ないので薄めました。ですから飲みやすいかと」
そう言われれば確かに味が薄い。キューも頷いた。
「魔戻しって何なんですか?」
「文字通り体の魔力を回復させる飲み物です。山の湖の清流にファッファという花の蜜を加え、回復魔法の魔力を注いで作ります。ただ飲み過ぎると魔力を持ち過ぎ体調を壊すので、医療の場でしか提供出来ません」
「飲む薬…って事ですか?」
「そうですね」
薬にしては美味しいな、と思った。
コンコン、ドアをノックする音がする。ローウがどうぞ、と言うと、灰色の耳の猫人が入ってきた。
「母親さん、キューくん、昨日ぶりです」
「ミズキさん!」
ミズキさんは昨日と違う格好をしていた。昨日は黒のフレアスカートだったが、今日はフリルが沢山付いた青いスカートだった。
「お迎えですか?」
ローウが聞くと、ミズキは何やら紙を渡した。
「ええ。ケリストスさんが悪い様なので」
ローウはその紙に何やら書き、胸ポケットにしまう。
「ケリストスと市長さん、よくないんですか」
僕は心配で尋ねると、ミズキさんは微笑んだ。
「大丈夫ですよ。一日入院するだけですから」
それは大丈夫なのだろうか。
「待たせてごめんなさいね。ケリストスさんとホウシィ様が退院するまで身の回りの世話をさせていただきます」
「えっ、そんな、大丈夫なのに」
「大丈夫なわけありません!明日は出産曜日なんですから」
ミズキは、めっと僕の額を押した。
「しゅっさんようび…?」
「そうですよ。母親さんの大事な仕事、出産をする曜日です」
僕は一瞬考え、思い出した。
自分がこの世界に連れられ母親と呼ばれるのは、出産をするためなんだと。
確かにサポートしてもらえたらとても助かる。何せ初めての事だから。
「宜しくお願いします」
僕が頭を下げると、ミズキも会釈をした。
「じゃあ帰りましょう。馬車を用意してありますよ」
ミズキについて行くと、玄関前に陸竜の馬車が居た。
ミズキがドアを開けてくれる。僕とキューが乗ると、馬車は動き出した。
空はもう赤みを帯びている。夜が近い。
家に帰るとミズキさんは夕飯を作ってくれた。その慣れた様子はここを熟知してる様に見える。
「ふたつ前の母親さんの時からたまにお手伝いに来てたんです」
キッチンで魚を焼きながらミズキさんは言った。
「じゃあ僕なんかよりこの家の事分かるんですね」
「ええ。それに市長屋敷より大変じゃないですし」
確かにあの屋敷は掃除だけでも大変そうだ。
焼き魚と白パンは美味しかった。
その後早い風呂をいただく。出たらどっと疲れが出た。
「明日の為に体が働いているんですよ」
まだ空に星が無い時間だ。なのにもう体が動かない。
ミズキさんに掛け布団を掛けられ、僕は目を瞑る。
「おやすみ、お母さん」
キューが手を握ってくれて、安心した。
「おやすみ、キュー、ミズキさん」
体が重く沈んでいく感覚。
僕は直ぐに意識を手放した。


ねんねんころりよ
おころりよ
ねないこだれだ
とおりがくるぞ

頭痛で目が覚めた。
吐き気と腹痛もある。
ゆっくりと起き上がると、キューが僕の手を握ったまま眠っていた。
「キュー、そのまま寝ちゃだめだよ」
そう声を掛けて揺するが、頭痛でその動作も止める。
何かを急かす様な咳が出た。
あまりの苦しさに僕は両手で口を押さえる。
「…お母さん、起きたの?」
キューはゆるゆると目を開け、僕を見た途端にぱっと部屋を出た。
お母さん起きた、と大声を廊下で出す。僕はただ咳き込む事しか出来なかった。
すぐに階段を上がる足音がして、ミズキさんが部屋に入って来た。
「母親さん!深呼吸をして!」
ミズキさんに背中を撫でられ、咳の合間に肺を開く。
頭痛も腹痛も吐き気も、どんどん酷くなった。
咳のし過ぎで横隔膜が動き、そのまま吐き出す。
びちゃ、と吐いた「それ」を見て、パニックになった。

それは、赤い塊。

僕は咳き込みながら震える。
「母親さん、良く頑張りましたね。産まれましたよ」
ミズキさんの優しい言葉のおかげで少し冷静になれた。
咳がおさまり、深呼吸をする。確かこうするんだ、と思い赤い塊をそっと掬った。
塊の心音がどくどくと伝わる。それは僕の鼓動と同じ速さだった。
そっと手で包み心音に集中する。ミズキさんの手の温度を背中で感じていた。

ぴい、と鳴きがして、僕は手を開いた。

それはひよこの雛の様だった。まだ毛が濡れていて、よろよろとしている。
またぴいと鳴き、開いてない目で僕を探している。
僕は何も言えなかった。嬉しいとか安心という感情より、戸惑いが大きい。
本当に子を産んだんだ、という実感が来るまで時間が掛かった。
「可愛らしい鳥の子ですね。良く頑張りましたね」
良かったです、良かったです、とミズキさんは繰り返す。
荒かった呼吸も正常に戻り、頭痛と腹痛も無くなってきたが、酷い倦怠感があった。
僕は倒れる様に枕に寄り掛かる。ミズキさんは産まれた雛を籠に乗せ、キューに水を持ってくるよう言った。
籠の中で雛はよろよろしていたが元気そうに鳴いている。僕はそれを見て安堵した。
キューが持ってきてくれた水を飲み一息吐く。静かにしていたらだいぶ体調が回復した。
何か香りがする。と思っていたら、ミズキさんが香炉を机に置いていた。
「産後の気持ちを安らげるラスマルのお香を焚きました。嫌じゃないですか?」
メイソーンとは違うがリラックス出来る香りで、確かに頭痛や倦怠感が和らいでいく。
「ありがとうございます。良い香りです」
僕がそう言うと、ミズキさんは笑った。
「それでは暫くゆっくりして下さい。私は一階に居るので、何かあったらキューくんに言って下さい」
雛はいつの間にか静かになっていた。
心配になって覗き込み、呼吸をしているのが分かって安心する。
目を瞑って静かにしていたらまた眠ってしまったようだ。
カーテンが開けられていて、入ってくる日の光が温かかった。
視線を動かすと白が目に入る。
「おはよう、ケイゴ」
「ケリストス、おはよう。…帰って来てたんだ」
「心配掛けてごめんね」
ふわりと羽が頭を撫でた。
「無事出産したようで良かった。頑張ったね」
ふわふわと頭を撫でられるのは気持ち良い。
「ケリストスは体調大丈夫?」
「うん。すっかり良くなったよ」
ぴい、と甲高い鳴き声が聞こえて、見てみると黄色い雛が布団の上を走っていた。
「元気な子だね。良い事だ」
手を出すと、雛は乗ってきた。本当に元気で良かった。
「キューは?」
「今昼ごはん中。ケイゴはお腹すかない?」
言われて腹の音が返事をして、ケリストスは小さく笑う。
「ここに持って来ようか?」
「いや、下で食べる」
僕は雛を手にしたままベッドから立った。とにかく空腹感で胃が辛い。
リビングに降りると、キューとミズキさんはキッチンに居た。
「おはよう、お母さん」
「おはようございます、母親さん」
僕もおはよう、と挨拶をして椅子に座る。
「今皿洗いの仕方を習ってたんだ」
キューはそう言った。
「偉いね、キュー」
「家事でもお母さんを楽にさせたいから!」
「おや、じゃあボクの仕事がなくなっちゃうね」
温かい会話が体の緊張を解す。ミズキさんがお粥とスープを机に並べてくれた。
「出産の後は胃も弱りますから」
僕はいただきます、と一口食べる。お粥は少しぬるめで、醤油の味がした。
体にスッと入るからすぐに完食する。スープも野菜の優しい味がした。
一息吐いて、改めて辺りを見た。
ケリストスが元気そうで本当に良かったし、ミズキさんにも頭が上がらない。
キューが雛に穀物をあげていて、この子を「産んだ」という実感が湧いて来た。
「この子の名前、どうする?」
ケリストスに言われ、僕は考え込む。
「ミズキさん、何か思いつく?」
キューに振られミズキさんは小さく驚いていた。
「そうですねぇ…強い子に育つように、ストローなんてどうです?」
「ストロー…なんか可愛い気もするけど、良いと思う!」
キューが言ってケリストスもうんうんと頷く。
「ボクらには思い付かない名前だ。ね、ケイゴ」
「うん。流石ミズキさんだよ」
僕達が賞賛するとミズキさんは少し照れる。
ストローも自分の話題だと分かったのか、ぴいと鳴いた。
「では私はそろそろお暇しますね。ホウシィ様が帰宅してる筈なので」
ミズキさんはそう言ってさくさくとリビングを出ていく。
「うん、何から何までありがとう」
玄関を出ると馬車が停まっていた。ミズキさんは運転席に座ると、手綱をぴしりと振る。
「母親さん、また何かあったら遠慮せず連絡をくださいね。ではさようなら」
馬車は道を下っていく。僕達はそれが見えなくなるまで手を振った。

何故かどっと疲れが出て、結局その後はずっとベッドで横になっていた。
ずっと残る倦怠感は出産後の後遺症だとケリストスは言った。
「子を産むのは体に負担が大きいんだ。だから母親は他に仕事が出来ない」
確かにこんなに大変なら他に仕事なんて出来ないだろう。
「体が慣れれば後遺症もマシになるよ」
「ならいいんだけど…」
目を瞑ると光の膜が見える。本当にこの怠さが良くなるか心配だった。
ケリストスに言われキューが香炉に火を点ける。ラスマルの薫りだ。
「ねえお母さん、今日は一緒に寝ていい?」
キューは少し小さい声で言う。
「いいけど、布団は有るの?」
「床でもいい。お母さんと一緒に寝たい」
キューのそれは母を想う子供の様だったし、僕を心配する用心棒の様にも思えた。
「じゃあボクも一緒に寝ようかな。ストローも一緒に」
ケリストスは小さく笑って言う。
なんだかお泊まり会みたいだな、とも思ったが、心強かった。
ケリストスとキューは収納棚から布団を引っ張り出して敷く。掛け布団は僕の物より薄かった。
「ケイゴ、眠いんじゃない?」
「うん…でもまだ昼間だし…」
「体が疲れてるから当たり前だよ。大丈夫、ぐっすり寝たら良くなるよ」
ケリストスは羽で僕の頭を撫でる。ふわふわと気持ち良くて、だんだん瞼が重くなった。
「おやすみ、ケイゴ」
「うん…おやすみ、みんな」
体が重い、と感じた時にはもう意識が無かった。


誰かが泣いている。
それは誰かはわからない。
ただ泣いている事だけはわかって、声を掛けようとした。
自分が何を言ったかもわからない。
ただ、誰かが泣いていた。


目が覚めて、横になったまま今見た夢の事を思い出そうとした。
しかし時間が経てば経つほど思い出せなくなっていく。僕は何を見たんだろう。
「おはよう、お母さん」
キューは窓辺の椅子に座り読書をしていた。
「おはよ
「おはようございます!!!!!!」
キン、と甲高い声が響く。驚いていたら、黄色い鶏が僕の上に乗ってきた。
「…ストロー?」
「そうです!!!!!!」
元気が有り余っている、という感じだ。
「体はどうだい?」
同じく敷布団の中で読書をしていたケリストスが聞いてきた。
起き上がってみたが、体は軽い。
「うん。すこぶる良い」
「それは良かった。丁度ジックから連絡が有ったから店に行くつもりなんだ」
「ジックさん…って、洋服屋さんの?」
「うん。新しい服が届いたって」
「そうなんだ。じゃあ行かなきゃだね」
僕が立ち上がると皆立ち上がる。キューの目線は僕と一緒になっていた。
「キュー、大きくなったね」
毎朝その成長に驚く。
「お母さんを護れるように大きくなりたい!」
キューは両手を上げて言った。頼もしい。
僕達は朝食を摂り家を出た。ストローも一緒だ。
日は真ん中よりも上がってなかったが気候は十分暖かい。アリアさんのパン屋から人が出てくるのが見れた。
この世界に来てから一週間しか経っていないのに、ジックさんの店に入る時の心境はだいぶ違う。チケルの世界観に慣れてきたという事なんだと思った。
「ジック、洋服取りに来たよ」
ケリストスが声を掛けると洋服の整理をしていたジックは、ああ、と言う。
ジックはカウンターにどさりと服を置く。
「ありがとう」
ケリストスは洋服を鞄に詰め、紙幣をジックに渡した。
ジックは無言でそれを受け取り、何故かじっとキューを見る。
「お前、まだ大きくなるな」
ジックはぼそりと言った。
「三日後にまた顔を見せろ。見立ててやる」
キューは驚いた様子で瞬きをする。ケリストスは小さく笑った。
「良かったね、キュー」
「うん!ありがとうおじさん!」
ジックはふん、と鼻を鳴らす。
「じゃあまたね、ジック」
「ご来店有難うございました」
ジックは皮肉じみた棒読みをし、僕らは店を後にした。

家に着いた時、どこからか、ゴウン、ゴウンと鐘の音がした。
「雨が降るね」
ケリストスは空を見上げる。
「どうしてわかるの?」
「雨が降る時は気象局がシャミ市に点々と置かれている鐘を鳴らすんだ」
「へぇ。天気予報みたいな感じ?」
「まあそうだね。時々外れるけど」
僕達が家に上がると、雨が降ってきた。
だが空は明るい。陽の光に雨が反射して変わった風景になる。
天気雨だ。
「天気雨はササンの涙と言われてるんだよ。ボクは迷信だと思うけどね」
「どうして?」
キューが窓から外を見ながら尋ねる。
「ササンはそんな泣き虫じゃないからさ」
「それは本当?」
「うん。実際に見たからね」
神と交流が有るケリストスはどんな人生を送ってきたんだろう、と考えつつ、僕も外を見ていた。
天気雨は、なんだか神秘的に見える。
好きなものが少ない僕だけど、天気雨は好きだった。
地球に居た時も自室から眺めていた記憶が戻る。
それは言葉にしなかった。

僕の部屋のクローゼットに買った洋服をしまう。
わりと無地の服が多く思えた。
「ジックはそういう安くてシンプルな服を置くんだ。あ、これはキューも似合いそうだね」
ケリストスはそう言ってキューに青い半袖を合わせる。
「どう?かっこいい?」
「うん。似合ってるよ」
正直ファッションを気にした事が無いので乏しい主観だったけど、キューは何でも着こなせそうに見えた。
「そろそろ魔法の訓練をした方がいいね」
全ての洋服をしまった時、ケリストスはそう言う。
「魔法の訓練?」
「うん。此処では魔法で色んな事をするからね」
僕は訓練という言葉に少し緊張した。
「まあ訓練って言っても補助魔石も有るし、そんな難しいものじゃないから。本当に生活範囲の事だよ」
そう言ってケリストスは袖から何やら取り出す。
「これが補助魔石」
それはペンの様に見えた。先に虹色の輝く石がはまっている。
「魔法の基礎はイメージから。文字を書く、という意識で空を振ってごらん」
ケリストスはお手本を見せてくれた。補助魔石を振ると、そこに光の線が浮かんだ。何度か見た光景だ。
ケリストスに補助魔石を渡される。振ってみたが、特に何も起こらなかった。
「目を閉じて、血の様に魔力が身体を巡っているのを感じて。心の中で書きたい言葉を言いながら魔石を振るんだ」
僕はケリストスに言われたように集中したが、やはり魔石は何も反応も無い。
「まあ最初は皆そんな感じだから」
落ち込む僕をケリストスは慰めてくれた。
キューも試してみたが、なかなか上手くいかない。
「これ難しいよ。本当に出来るようになるの?」
「焦らず何回か練習すればなるよ。大丈夫。コツさえ掴めば誰だって出来るよ」
そう言われても本当に自分に出来るのか心配になる。まあ心配がってもどうにもならないけど。
その後も訓練してみたが、キューは10回くらいで書けるようになり、結局僕は書けるようにならなかった。
僕は身体の疲れを訴え、ベッドに腰掛ける。
「まだ魔力に身体が慣れてないんだよ。急に体内の魔力を動かせばそりゃ疲れるさ」
「そういうものなんだ…」
自分だけが疲れやすいのかと思ったが、キューも椅子に座っていた。
「焦らず毎日コツコツと、が人生の基本だよ」
そう言ってケリストスは飲み物を取りに行った。

魔力というものは不思議だ。
血が巡る感覚もわからないのに魔力の流れがわかるわけがない。
見つめていてもわからないけど、じっと手の平を見ていた。
僕が挫けている間も、キューは補助魔石を振っている。ストローはそれを興味津々で観察し、時々首を傾げていた。
ケリストスが盆を持って入って来る。
「休憩しながらでいいからね」
そう言ってキューにコップを渡した。僕にも渡してくれたので、礼を言って一口飲む。
白いジュースは甘かった。
「これは魔力を回復させる飲み物だよ」
「魔戻しは医薬品なんじゃないの?」
「これは魔戻しよりも濃度が低いからね。ミキシーと言って、疲れた時に良く飲まれるんだ。」
ニュアンスとしてはスポーツドリンクだろうか。甘い味は疲労に効いてると思った。
キューが引き続き空に字を書いているのを眺めているとケリストスは小さく笑った。
「ケイゴは挫けたのかい?」
「僕は訓練に向いてないから」
努力は諦めてきた人生だった。
「確かに何事も向き不向きはあるけど、それと努力しない事は別だよ」
割と刺さる言葉だ。
「諦める事は時に必要だけど、習得しないと人生を諦める事になるものもあるんだよ。日常魔法が使えないって言ったら箸が使えないって言ってる様なものなんだからね」
そう言われても躊躇をしてしまう。
「いいじゃない、初めての努力だって思えば」
僕は溜息を吐く。ケリストスは黒い瞳を僕に向けていた。
「まあ今日はもういいよ。ゆっくりでいいのは本当だからね」
ケリストスはキューから補助魔石を受け取る。
「あ、それと」
ケリストスは袖から分厚い本を出す。
「そろそろ日記もつけていいかなって思って」
渡された茶色の日記を捲ってみると、中は白紙だった。
「毎日寝る前に日記をつけるのがこの市の法律みたいなものだからね」
ケリストスはキューにも緑の表紙の日記を渡す。
「ストローはまだ書けないからね」
うきうきしてるストローにケリストスは言った。
「裏の日記も」
ケリストスは僕とキューに黒い日記も渡す。
「裏の日記は誰にも分からないように保管してね」
そう言われ少し緊張した。
「書くのは何でもいいんだ。今日食べた物とか、天気の様子とか。読まれてもいい事を1行だけでもいいから毎日書いてね」
持続は力、だよ。とケリストスは付け足す。
「裏の日記も?」
キューが聞いた。
「いや、裏の日記は書きたい時だけ書けばいい。基本誰にも読まれないしね」
「誰も読まないのに書く意味有るの?」
「書き出す、って事が重要なんだよ。そのうち解るさ」
僕は日記なんて書いた事が無いから色々わからなかったけど、1行だけならなんとかなるかな、と思った。

初春14の日 晴れ時々天気雨
今日はジックさんの店に行った。
その後魔法の訓練をした。

文字が書けるか心配だったけど、自然と手が動いた。
3行書いて筆を止める。
裏の日記はなんだか怖くて開けなかった。
キューは何と書いたんだろう。明日見せてもらおうかな、と思いながらベッドに入った。
ストローは既に籠の中で寝息をたてている。僕は電気を消して目を瞑った。


初春15の日 晴れ
魔法の訓練をしたけど成功しなかった。
キューの背がまた伸びた。
ストローは僕くらいの背丈だ。
今日はパパイヤが特に美味しかった。

聞いてみたらキューは美味しかった料理の事も書いていると言っていたので真似してみる。
どうしても長文が書けなくて小学生みたいな文になってしまう。それでいいんだとケリストスは言うが。
キューの成長は本当に凄くて昨日から10cmは伸びていた。人鼠の中でも珍しい高身長だとケリストスは言った。
「身長かぁ」
なんとなく溜息を吐く。まだ子供だからだと思うけど、僕は背が低い。
この世界で身長が伸びるかはわからなかった。

昨日よりもはっきりとした夢を見た。
そのすすり泣きに覚えがある。
そう、見た事があるのだ。
その涙を。

カーテンの隙間から日の光を感じるつつ、ぼんやりと思い出そうとする。
しかし、何か引っかかるけれど思い出せない。
なんとなく、嫌な夢なような気がした。
「おはようございます!!!!!!」
相変わらずストローの声はキンと大きい。
おはよう、と元気の無い声で返した。
リビングに行くとキューがランチョンマットをひいているところだった。
「おはよう、お母さん」
「うん、おはよう」
ケリストスもキッチンから顔を出して挨拶をする。
今日の朝食はお粥だった。かき卵と知らない野菜の味がする。
「これはサバサ菜だよ。カブの一種なんだけど根は小さくて葉っぱの部分を食べるんだ」
「不思議な味がする」
「口に合わなかったかな?」
「ううん、美味しい」
ストローも啄むが、一口でやめていた。
「ここではお粥って良く食べるの?」
「そうだね。シャミ市では朝に粥を食べる人が多いよ。嫌いかい?」
「ううん、好きだよ」
僕はまた一口食べる。癖になる味だ。
良く考えるとこの生活になって食べた物はどれも初めての味で美味しく感じた。
地球にいた時に何を食べていたか思い出せない。ただこの舌を信用するならチケルで食べた物はみんな地球で食べていなかった。
食べ終わってお椀を片付ける。キューが洗い物をした。
「そういやジックから連絡が有ったよ。キューの服を見繕ってくれるって」
水道の音に負けないようにケリストスは声を張る。
「それはありがたいぁ。もうつんつるてんだもん」
そう返すキューの着ている物は確かに短くなっていた。ズボンの裾から赤い足が見える。
「じゃあ洗い物終わったし行こうか」
ケリストスを先頭に僕らは家を出た。
今日は雲一つ無い晴天だ。

今日も天気が良い。春の空気は暖かく爽やかだ。
ジックの家は坂道に在る。勾配が緩やかになってくる辺りの右手側に建っていた。
服屋のドアを開けると、からん、と小鐘が鳴る。中に入るとカウンターに人狼は居た。
「いらっしゃい」
相変わらず無愛想に言いカウンターに服の山を置く。
ジックはキューを呼びカウンターの服を体に合わせた。
誰も話さない。ジックは服を選別して何枚かカウンター裏に戻す。
「…で、訓練所はいつ行くんだ」
静かな低い声でジックは言った。
「そろそろかな、って思ってたよ」
ケリストスの返事に僕は首を傾げる。それを見てケリストスはキューを指差した。
「母親を護るのが第一子の役目。それには強くなければならない。だからキューは訓練所で武術を習わなきゃいけないんだよ」
「えっ?戦う、の?」
「母親に危害を与えようとする生き物も居ないわけじゃないからね。母親を失う事の危機感はわかるでしょ?」
僕は頷くしかなかった。
「でもキューはいいの?」
「うん。僕はお母さんを護りたいから」
そう思うのは本能なのだろうか。
「まあ訓練所は歩いて行ける所だし、夕方には帰って来るからね。大体季節が変わるくらいに訓練も終わるから」
学校のようなものか、と理解はしたが、それでも寂しさを感じた。
「大丈夫だよお母さん。ストローがいるんだから」
キューは強い意志を見せる眼を向ける。
寂しいのは僕だけなのかもしれない。
「じゃあ明日からだな」
ジックはしっかりとそう言った。
「ジックは武術初心者の先生をやってくれてるんだ。特に強いのは棒術だよ」
ケリストスの説明になんとなく緊張する。ジックの指導は厳しそうだと思った。
「明日の昼に迎えに行く」
ジックは短く伝える。ケリストスから紙幣を受け取ると渡さなかった服を店頭に並び直し始めた。
「用は済んだだろ」
同じ淡々とした口調は壁を感じる。じゃあ明日ね、と言って僕らは店を出た。
「ジックはあんなだけど良い教師だよ。指導も褒めもドライだけどそれは考える余地をくれてるんだ。ちょっと恐く見えるけど怯えないであげてね」
坂を登りながらケリストスはそうフォローする。キューも真剣な顔で頷いていた。
「私もご指導頂きたい!!!!!!」
ストローの大声にケリストスは小さく笑う。
「ストローはとりあえず成体にならないと。しっかり食べてしっかり寝なさい」
「ストロー、朝サバサ菜残したでしょ。あれは栄養有るんだよ」
「あれは口に合わなかった!!」
そんな会話をしながら帰路に着く。なんだかどっと疲れた。

その後魔法の訓練を少しして、絵本をキューとストローに読み聞かせた。
夕飯の紫のステーキはたんぱくな味がしたけどパンに合った。

表の日記は少しずつ内容を書けるようになってきた。ただまだ裏の日記は開きさえしていない。
黒い表紙は威圧を感じる。
ケリストスとキューは何か書いてるのだろうか。それを聞くのは憚れるが。
日が経つにつれ色んな事を考えるようになった気がする。前の世界の記憶が無いからそれは比べようが無いけど。
ベッドに入り目を閉じると途端に意識がぼんやりとしてくる。疲れたんだな、と思った瞬間に何も無くなった。


「おはようございますお母様!!!!!!」
ストローの大声に驚いて起きた。
「お、おはようストロー」
カーテンの隙間から漏れる日光でキラキラと体毛が輝いている。それを眺めながら頭が働くまで起き上がれなかった。
ストローは立派な人鶏になっていた。鶏冠が小さいので女体だと分かったが、意外だ。
カーテンを開けられ外が明るいと知る。眩しくて目を細めた。
「もうすぐ正午です!!キューがもうすぐ出立します!!!!!!」
「えっ、もうそんな時間なの」
また寝坊をしてしまったようだ。急いでベッドから立ち上がった。
「あ、お母さん起きた?」
赤毛の人鼠がドアを開け入ってくる。
「おはようキュー。もう行くの?」
「丁度今ジックさんから連絡有った。10分くらいで迎えに来るって」
僕達が一階に降りるとケリストスはキッチンに居た。
「おはようケイゴ。今キューのお弁当詰め終わったから昼食作るね」
リビングの机に青い包みが有る。これが弁当のようだ。
わたわたと身支度をしていたら玄関のチャイムが鳴る。ケリストスが出ると、ジックさんの声がした。
「じゃあ行ってくるね!」
ジックについてキューは家を出て行く。僕も行ってらっしゃい、と手を振った。
「心配なのかい?」
ケリストスは小声で言う。
「別にそういうわけじゃないけど…」
考えてみればキューと離れるのは初めてだった。いつでも僕の側に居てくれたから、この状況が新鮮というか、寂しいのはある。
普通の母親も子供が保育園とか幼稚園に行くようになったらこんな心境なんだろうか。
リビングに戻るとストローが眉間に皺を寄せていた。どうしたの?と聞くと、いいえ別に!!とはっきり言われた。
「まあキューに心配は要らないよ。夕方には帰ってくるし、気楽に待ってよう」
ケリストスは白パンの籠を机に置き言う。僕は頷いてパンに手を伸ばした。

日が落ちかけて空が赤い。
カラスの鳴き声を聞きながら窓を閉めた。
「ただいまー!!」
キューの元気な声がする。僕は小走りで階段を降り出迎えた。
「おかえり。訓練どうだった?」
ケリストスの問いにキューは黒い目をキラキラさせる。
「柔軟から走り込みとかしたよ!一回だけ手合わせもしたんだけど、ジックさん凄い強かった!!」
「そうかそうか。まだ元気そうだねえ」
「ううん!凄い疲れてるしあちこち痛いよ!!」
ハイになってる、と言うのが正しいようだ。
キューは椅子に座りケリストスが出したお茶を一気飲みした。
「他にも色んな人が居たけど、皆強かった!走り込みも追いつけないし、凄い重いダンベルとか持ってたし、筋肉むきむきだし!」
キューは捲し立てる様に喋る。
「ボクも筋肉付けたいなあ…そうしたら強く見えるでしょ?」
なんとなく筋肉隆々のキューが想像出来なかったけど、頷いておいた。
「お母さんは何かあった?」
「うーん…魔法の訓練したけどやっぱり使えなかったな…ストローはすぐ使えるようになったけど」
「面目無い!!」
「ストローその言葉の使い方は間違ってるよ」
そんな会話をしながら夕飯を摂る。キューは本当に疲れてたみたいで食事の後ソファに座ったまま寝息を立てた。
そんなキューの寝顔を見ていて感慨深い気持ちでいる。まだ産んで二週間も経ってないのに、大きくなったなあ、と思った。
これが母性というものだろうか。


がた、という音で目が覚めた。
部屋は暗い。照明を少し明るくして辺りを見渡す。
音は窓からしていた。強風かな、と思ったが、何かが窓の外にいるのを認識してベッドから立った。
恐る恐る窓に近寄る。何か黒い塊が窓を叩いていた。
「母親さん、中に入れてくださらない?」
その声に聞き覚えを感じ、窓を開ける。黒い塊はぼすんぼすんと跳ねて床に立った。
「メリィさん…なの…?」
尋ねると塊は、ぬ、と伸びて人の形になっていく。ふわりとしたピンクのスカートを着た人羊の少女になった。
「おはようケイゴ。お元気?」
この前会った時と同じ姿で面食らう。
「う、うん、元気だよ」
「なら良かったわ」
メリィはクスクスと笑う。その姿とさっきの姿を頭で結びつけるのは少し難しかったが、その変形が魔人である所以だと思った。
「こんな時間にどうしたの?」
まだ朝焼けと呼ぶのにも早い。メリィは、あら?と首を傾げた。
「ごめんなさいね。ケリィに見つからないように、と思ったらこんな時間になっちゃったわ」
僕が返答に詰まるとメリィは空中に座る。
「時間の感覚って難しいわ。それに人は睡眠を取らなきゃなのよねぇ。難義難義」
「メリィは寝ないの?」
「寝ないわよ。魔人は魔力で形を造っているから疲れないの」
「そうなんだ…凄いね」
「そう?魔力が無い所には居れないから行動が制限されちゃうの不便よ」
「魔力が無い所ってあるの?」
「そりゃ在るわよ。シャミ市は大気に満ちてるけど、砂漠にも無いし、人工的に消してる土地も在るわ」
僕は、へぇ、と相槌を打った。
「で、どうしてここに?」
「ええ、ケイゴが困ってる頃かしら、と思って」
メリィはにやつく。
「魔法に苦戦してるんじゃない?」
全くもってその通りだったので、僕は大きく頷いてしまった。
「異世界から来た人は皆そうなのよね。感覚分からないでしょ」
僕は思いっきり頷く。メリィは笑った。
「魔法を使えるようになる手助けをしてあげようと思って来たのよ」
「えっ?…そんな事できるの?」
メリィは僕の額を指差す。
「身体の細胞を開くの。簡単で直ぐ終わるわ。やるでしょ?」
僕は躊躇した。メリィは気にせず僕の額に指を付ける。
「直ぐ終わるわ」
「えっちょっと待
ぐわ、と身体が膨張した。
そんな感覚が有った。
急に目眩が起こり立っていられなくなる。僕は倒れた。
血が巡り混乱する。息苦しく呼吸が荒くなる。
目を閉じて唸ると、ドアが開く音がした。
「お母さん!!」
キューの声に反応したかったが、肩で息をする事しか出来なかった。
「あらキュー。大きくなったわね」
「お母さんに何をした!?」
「ちょっと魔法を身体に教えただけよ」
キューが僕を抱き上げ呼び掛ける。なんとか目を開けると、キューは涙目になっていた。
「大袈裟ねぇ」
メリィがそう言いキューは怒りの表情で睨みつける。
「キュー、氷袋持って来て」
ケリストスの声がした。ふわりと羽が僕を包みあげる。
どたどたと階段を降りる音でキューがキッチンに向かったのが分かった。
「メリィ、またこんな事を」
淡々とした口調だったが、その言葉に静かな怒りを感じる。
「手伝ってあげたんだから褒めてほしいわ」
「この開花方法は危険だと言ったろう」
「あら、そうだった?」
メリィは首を傾げた。
頭に冷たい感覚が有る。キューが氷袋を当ててくれたようだ。
ベッドに担ぎ込まれ寝かされる。少し楽になった。
「メリィ、帰って」
「えー?冷たいわねぇ」
「魔法で吹っ飛ばそうか?」
ケリストスは一段低い声で言う。
「分かったわよぉ」
メリィは黒い塊に変形し窓から外に出る。じゃあね、と残し去っていった。
キューが手を握ってくれたので握り返す。氷のおかげかだいぶ楽になってきた。
太陽が昇ってきたのか、部屋の中が明るくなってきた気がする。
「ケイゴ、大丈夫?」
僕は唸ることが出来た。
ストローの甲高い悲鳴が聞こえ、耳が痛い。キューが静かに、と宥め、ストローは羽で口を塞いだ。
荒い呼吸が深呼吸に変わる。身体の血が落ち着いてきたのを感じた。
僕はだいじょうぶ、とうわ言の様に唸る。三人に見守られ、呼吸を整える事しか出来なかった。


水の音がする。
川の流れの様な、澄んだ音。
僕は目を開けて驚いた。
視界がふわふわとあやふやで。
そう、プールの中でゴーグルが取れてしまった時の様な。
でも息苦しくなかったから水中ではないとわかった。
麗かな日差しがカーテンの隙間から入ってくる。キラキラと光っているのが綺麗だった。
僕は目を擦りながらベッドから降りる。カーテンを開け、外を見た。
ぼんやりとした風景と水のせせらぎに現実味が無い。
僕は、どうしちゃったんだろう。

何かの鳴き声。

部屋の中に視線を戻すと、そこには青い生き物が居た。
宙を浮くその子犬ほどの生き物は、対のヒレと尻尾にもヒレが付いている。
今日は部屋に来客が多いな、と意外にも冷静でいた。
「君は?」
話しかけるとその生き物は、きゅい、と鳴いた。
水の音が引き、視界も定まってくる。
僕が手を伸ばすと、その生き物は嘴をくっ付けた。

…そう、君がフェリアか。

僕は言葉ではない念を言葉に直し、受け止める。
その生き物は創造神フェリアだった。本人が言うからそうなんだろうし、確かに絵本で見た姿だ。
その金の眼は何かを伝えようとしている。しかし、その意図はわからなかった。

ねえ、君は、

「ケイゴ」
ケリストスの声に目を覚ます。
知っている天井に頭が混乱していた。
「あ、フェリア、」
考えがまとまらず焦ったが、それは寝ぼけているからだ。
「フェリア?」
キューはそう呟く。僕はやっと頭が回ってきた。
「会ったんだ、フェリアに」
起き上がって部屋を見渡す。何の変わりの無い部屋に、変わりない視界だ。
「寝惚けてるね」
キューはクスクスと笑う。僕は少しむっとした。
「本当に会ったんだ!さっき部屋の中に入ってきて、嘴を手につけて、水の音がして!!」
ケリストスは、ふむ、と嘴を撫でる。
「なるほど。確かにフェリアかもしれないね。フェリアは水の神でもあるから、水の音を立てると言われてるし」
ほらあ!と僕はキューに言う。キューも分かったよとやれやれポーズをとった。
「で、フェリアは何しに来たの?」
ケリストスの問いに僕は詰まる。
「よく分からない…何がしたかったんだろう」
フェリアの行動を振り返り、あの視線の意味を考えたが、僕には読み取れなかった。
「まあ神のする事なんて分からない事もあるよ。フェリアは特にね」
そうなんだろうか。それなら少し焦りが無くなる。
「ところでケイゴ、体の具合はどうだい?」
ケリストスに言われ体調に気を向けた。
「うん、大丈夫」
肩を回し腕を上げてみる。寝起きのすっきり感があった。
「じゃあ良かった。少しでも不調があったら言ってね。何せ血流を無理に広げさせたんだ、身体に負担が掛かるからね」
ケリストスは無自覚に脅かす。僕は頷いた。

良く見てみると、外は少し赤みを帯びている。
「また寝過ぎちゃった…」
「そういうものだから大丈夫だよ」
ケリストスは魔法でお香に火を付けた。メイソーンの優しい薫りが漂う。
「ただ食事はちゃんと摂ろうね。身体に栄養をとらないのは悪い事しかないんだから」
それもそうだなぁ、と考えていると、急にお腹が鳴った。それを見てケリストスは笑う。
「じゃあおやつにしようか。キュー、ストローにリビングに行くよう伝えてきて」
キューははぁい、と言って部屋を出た。
「ストロー、なんか読書が楽しいらしくてずっと隣の部屋で本読んでるよ。徹夜明けで今は寝てるみたい」
そうなんだ、と言って少し心配になる。本の虫というやつだろうか。
「徹夜もよくないし、ちゃんと食べてるかな…」
「パンとか日持ちする物を持っていったから片手間に食べてると思うよ」
「それならいいけど…」
僕とケリストスがリビングに降りると、既にキューとストローが座っていた。
「お母様、お早う御座います!!!!!!」
ストローのできた発声に安心する。元気そうだ。
僕もおはようと挨拶を返し椅子に座る。机の上に本が有った。
「今日はミキシーのアイスだよ」
ケリストスが白いアイスが盛られた器を人数分並べる。いただきます、と食べてみると、とても冷えていて甘かった。さっぱりともしてるミキシーのアイスはヨーグルトアイスに近い。なんだか身体に沁みた。
「ストロー、読書楽しい?」
僕はストローに聞く。
「はい!!!!!!とっても楽しいです!!!!!!色々な事が知れるので!!」
ストローは笑顔で言った。
「でも根を詰めすぎるのは良くないよ」
ケリストスは流しから嗜める。
「睡眠不足も栄養不足も心身の敵。そんなんじゃ目の下に隈もできるよ」
「…はぁい」
珍しくストローは小声で答えた。キューも笑う。
「あの…それでお願いが有るのですが」
「何だい?」
おずおずと、しかしそれなりの声量でストローは聞いた。
「明日、図書館に行ってもいいでしょうか?この家に無い本が読みたいのです」
「いいよ。ケイゴも一緒にね?」
ケリストスに目配せされ、僕も頷いた。
「ありがとうございます!!!!!!」
ストローはとても嬉しそうに頭を下げる。

…と、今日はそんな事があった。」
表の日記を書き終え、表紙を閉じた。
机に立てたブックエンドに挟まれた書物の間の黒い背表紙を見る。
裏の日記。
まだ書く事が思いつかない。


図書館に着くと、ストローはきらきらした目で辺りを見渡した。
「凄い!!本がこんなに!!!!!!」
「ストロー、声が大きいよ」
ケリストスが注意してストローは嘴を塞ぐ。
先週した様にケリストスが図書館を案内して、暫く自由行動とした。
ストローはすぐに離れる。僕はケリストスについていく形で図書館をまわった。
キューは朝から訓練に行っている。帰ってくる夕方まで時間は有った。
「ケイゴは何か読みたい本有る?」
「うーん…特には無いけど…」
僕は辺りをきょろきょろと見てからケリストスの服の裾を掴む。
「どうしたんだい?」
「うん…また記憶の間に行ったら怖いなって…」
そうこぼすとケリストスは僕の頭を撫でた。
「あそこには簡単に行けないから大丈夫。行ったとしても僕が護るから」
ふわふわとした羽の感触に安心する。僕は頷いて裾を掴む手を離した。

僕らが絵本の部屋で読書をしていると、ケリストスの裾から何かが出てきた。
それは白い紙でできた小鳥だ。ケリストスは紙鳥を掴み中身を広げる。
「ストロー、借りる本決めたから帰りたいって」
それは連絡用の魔法のようだった。地球で言うところのメールみたいなものだろう。
ケリストスに付いてエントランスに戻ると、本を数冊抱えたストローが手を振ってきた。
「図書館楽しかった?」
ケリストスの質問にストローは頭をぶんぶんと振った。
「凄いです!!こんなに沢山本が有るなんて!!読みたい本が沢山有って、手が足りません!!!!!!」
興奮したストローに静かに、と注意する。ストローは嘴を塞いだ。
「楽しんでくれて良かった。でも一度にそんな読めないでしょ?」
ケリストスはストローが抱えた本の束を指差す。
「また借りに来ればいいから、読めるだけ借りていきなよ」
「それもそうですね…何冊か置いていきます!!」
ストローは返却場に居るウククに本を何冊か渡してきた。
それでも残った本は読むのに時間が掛かりそうな物ばかりだ。
僕達が家に着いた時には、太陽が真上より少し傾いていた。
少し遅い昼食を取り、早速ストローは自室に篭り読書をする。
僕はリビングで掃除を手伝った後、する事も無いので絵本を読んだりした。

異変が有ったのは、空が赤くなってきた頃。
最初に出たのは、ビキッとした頭痛だった。
あまりの痛さに頭を抱え唸る。キッチンに居たケリストスがすぐ駆けつけてくれた。
息苦しさと腹痛も現れ、混乱する。
キューが帰って来たのはその時だった。
「お母さん!?」
キューがおろおろとしていた時、ストローも降りてくる。
「ケイゴの部屋へ運んで」
ケリストスは冷静だった。指示に従い、キューは僕を背負い階段を上がる。
自室のベッドに横になると、少しだけ楽になった。
息が上がり目が開けられない。ストローの羽の手に握られ、少し気が落ち着いた。
優しい香りがする。これはラスマルのお香の香りだ。
「僕…どうしたの…?」
不調の苦しみにそんな言葉が出た。
「明日は出産曜日だから」
ケリストスは小声で言う。それで合点がいった。
産みの苦しみというものだろう。先週より辛い気がする。
「取り敢えず、寝れたら寝て」
ケリストスは僕の額に羽を乗せ、何か呪文を唱えた。
お経の様な、知らない言葉の羅列だ。羽の当たる部分がじんわりと温かく、意識が朦朧としてきた。
「おやすみ、ケイゴ」
ケリストスの優しい声に、全ての苦しみが薄れ、眠っていた。

どうして

どうして わたしはここにいるの?

その声に、答えられなかった。


咳で目を開けた。
苦しくて体を起こし、咳き込む。
ふわりとした感触が背中を撫でる。それはケリストスの羽だと分かった。
「呼吸をしっかりと、ゆっくりでいいから」
ケリストスの言葉に深呼吸をする。肺に酸素が入り、少し頭が動くようになった。
体の中から異物がせり上がってくる。大きく横隔膜が動き、
僕は産んだ。
両手でその塊を受け止める。背中を擦ってもらい、少し安心した。
塊の鼓動を感じる。恐る恐る手を開き、その子を見た。
毛も生えてない、小さな命。
みゃあ、みゃあ、と鳴いていた。
「おめでとう、猫の子だよ」
ケリストスに祝福されたが、お礼を言う気力は無かった。
ベッドに横になり、初めてキューとストローが見守ってくれている事に気付く。
「おめでとう、お母さん」
「おめでとうございます…おめでとうございます!!」
二人の子に言われ、僕は頷くだけだった。
産まれたばかりの子は籠に入れられベッド横の机に置かれる。
みゃあみゃあと元気良く鳴く子を、ストローは興味深々と見つめていた。
ストローもここに居たんだよ、とケリストスが言うと、ストローは瞬きをした。
ラスマルの香りがする。それを胸いっぱいに吸うと、少し体が楽になった。
「この子はボクが見てるから寝ていいよ」
ケリストスに言われ、頷く。
僕は目を閉じた。

本当に、この世界は不思議だ。
不思議で、でも地球より良い。
何故かそう思っていた。

目を開けたら日の光が眩しくてまた目を閉じる。
ぎゅ、と瞼に力を入れ、またうっすら目を開けた。
「お母さん、起きた?」
赤い顔が僕を覗きこむ。僕は頷いた。
「おはよう。調子はどう?」
うーん、と唸り、考える。
「まだちょっと頭痛いけど、だいぶ良くなった」
「じゃあ良かった。お水持ってくるから待ってて」
キューは部屋を出ていく。
改めて横を見ると、小さな生き物が籠の中に居た。
白い毛が生えている。目は開いていなく、呼吸に合わせ震えていた。
つんつんと頭を突くと、みゃあと鳴く。
この子は自分が産んだ子なのだと思うと、やっぱり不思議な気持ちだった。
キューがお盆を持って部屋に入ってくる。水を汲んでもらい、僕はそれを飲み干した。
「お腹空いたでしょ?お粥なら食べれそう?持って来るよ」
「ありがとう。なんかいたせり尽せりだね」
「出産後は大変だもん。補助するのが僕の役目だし」
なんだか申し訳ないなぁ、と思ったが、甘える事にした。実際周りの補助が無くては何も出来ないくらい体がだるかった。

お粥はとても美味しかったけれど、結局残してしまった。
今はこうして座っていられるけど、それも夕方までは起き上がれなくて。
食欲は無かったけれど、夕飯代わりに飲んだ蜂蜜入り牛乳で少し元気になれた。
産まれた子は片手で持つくらいの大きさになり、ぐんにゃりと湿っている。
それは産まれて3日の子猫くらいだとケリストスは言っていた。

僕は茶色の表紙の日記を閉じる。カーテンが閉められた先の空は闇だ。
僕はクローゼットの下に付いている引き出しを開ける。中には黒い表紙の書物が有った。
裏の日記だ。
机に置き表紙を開く。少し考えて、ペンをつけた。

不安は無いと思っていたけど、それは強がりだったのかもしれない。
産むのが辛い。
期待されているのに。

断片的だったけど、そう書いた。
初めての日記がこれなのはなんだか情けない。でも、それは心の端に有った本音だった。
出産は、結構身体が辛い。
これが毎週有るというと、なかなか苦痛だ。
しかしそんな弱音も言えない。
産む事が、僕の存在意義なのだから。
マキさんも辛かったんだろうな、と先代母親に思う。
他の母親はどう思っているのだろう。
そんな事を考えていたら、猫の子がみゃあと鳴いた。


「おはよう、ケイゴ。今日は体調どうだい?」
久しぶりに朝に起きられた僕にケリストスは聞いてきた。
僕は白い子猫を椅子の上に置く。ケリストスはキッチンに居た。
「うん、だいぶ良いよ」
「それは良かった」
子猫が机の上に登ろうとするのをストローが阻止する。僕はきょろきょろと辺りを見渡した。
「キューは?」
息子の赤い人鼠は居ない。
「訓練に行ったよ。今日はザックの予定が有るから早上がりなんだって」
「えっ、あの子何時に家出たの?」
「日が顔を出す前だよ」
今日は早起き出来たと思ったのに、キューはもっと早起きだったのか。
「で、今日の予定なんだけど」
朝食の卵粥食べ終わった後、ケリストスは魔式冷蔵庫の中を見ながら言った。
「卵と肉が切れたから買い出しに行きたい。ケイゴが調子良いなら一緒に行かない?」
僕は視線を左上に向ける。
「うーん…うん、一緒に行く」
「ストローはどうする?」
「是非ご一緒したい!!!!!!」
ストローは子猫を抱き抱えていた。
「この子は!?この家に1匹で居させるわけにもいかないですよね!?」
「そうだね。ストローがだっこしててくれるなら連れて行けるけど」
「お安い御用!!!!!!」
ストローの声量に子猫は鳴くが、抱き抱えられる感触は気に入ったらしい。胸ふかふかなんだろうな。

空は晴れ、太陽が見える。
街へ向かう道から外れ、途中から追い越してきた荷馬車の後ろに乗せてもらった。
「商店街に行かないのです?」
ストローはケリストスに聞く。
「確かに卵と肉を買うだけなら商店街でいいんだけど、牧場を見てもらいたくてね」
ふむ、とストローは納得したようだった。
段々と道が悪くなっていく。視界は青空と草原が映り、その中をちらほらと牛と人が歩いていた。
「ほら、あれが牛舎」
煉瓦仕立ての大きな建物が並んでいる。それに近づいてきたら動物臭さが漂ってきた。
荷馬車を降り赤い屋根の牛舎に入る。中には牛小屋がずらりと並んでいた。
黒い牛が多いが、白やブチの牛も居る。牛達は興味津々と僕達を見ていた。
「おや、ケリィじゃないか。そちらは母親さんだね?」
声を掛けられ視線を前に戻す。わら帽子を被った人黒豹の男が居た。
「そうだよ、この子は母親のケイゴ。こっちは子供のストローと…ああ、まだこの子の名前を決めてなかったね」
子猫はにゃあ、と鳴く。
「おや、そうなのかい。早く決めてやりなさいよ」
人豹は子猫の頭を撫でた。
「自己紹介がまだだったね。俺はコゴロウ。この牧場の主をやっている。宜しく」
コゴロウが手を差し出して来たので握手をする。ごつごつとした手だった。
「良かったらこの子の名前、コゴロウが付けてよ」
ケリストスの提案に全員が、えっ、と言う。
「おいおい、それは母親さんの役目じゃないのかい?」
コゴロウは呆れたという顔をした。
「ストローだってミズキさんが付けたからアリだよ。ね?ケイゴ」
「うーん…確かに僕らも良い名前が浮かばないし、外部の意見も大切だと思うし。コゴロウさん、お願いできますか?」
僕も懇願するとコゴロウは顎に手をやり唸る。
「そうだねぇ…じゃあ「ユキ」はどうだい?」
ユキ、と僕らは繰り返した。
「白いからユキか…良いね」
「そうですね。可愛い響きで良いと思う」
「語感が良いです!!!!!!」
じゃあユキだね、とケリストスが話し掛けると、ユキはまた返事をした。
「んで、今日は何をしに来たんだい?」
コゴロウは僕の頭を撫でる。
「少し見学と、食材を買いに」
ケリストスが答えると、コゴロウはそうかいと言った。
「何なら俺が案内しよう。丁度休憩にしててね」
「悪いね。でも頼んでいい?」
「ああ、じゃあついてきな」
僕達はコゴロウの後ろを歩く。牛舎を抜けると通りに出た。
「あっちは乳牛の牛舎。5棟在る。こっちは鶏舎。食肉用と産卵用、それぞれ10棟。俺の牧畜はそれだけだ。ちゃんと売店も在るぜ。搾りたての牛乳をそのまま飲めるが売りでな。ちょっとした食堂も在る」
売店も大きい建物だ。コゴロウは躊躇わず中に入っていった。
中は冷凍の棚やボックスが並んでいる。
ちら、と棚を見ると、色んな部位の肉が並んでいた。
「折角だから朝搾取した牛乳、飲んでくかい?」
「いいの?」
「ああ。今日は特別だ」
コゴロウは冷蔵庫から牛乳瓶を三本出す。ガラスの瓶に紙蓋が乗っていた。
売店横のテーブルに着き、牛乳瓶の蓋を開ける。
飲んでみると、今まで飲んだ牛乳と全然違った。
「凄く美味しいです!!!!!!」
ストローの大声に僕とケリストスも賛同する。
「新鮮じゃなきゃ出ない味だろう?」
コゴロウは満足そうな笑顔になった。
牛乳瓶を飲みきった後、肉や卵を品定めしケリストスは買っていく。
木製の冷蔵箱に買った物を詰め、それを郵送した。
「この箱は内面に氷石を貼っているよ。郵送は転送機に掛けたから、夕方には家に着くんだ」
氷石とは冷気を放つ魔石で、外国の氷山で採れ、良く輸入される物だという。冷蔵庫にも使われるとケリストスは説明してくれた。
「転送機が有る家は良い家だよ。一般住宅で設置されてるのは裕福な証拠さ」
裕福な家庭、という事なんだろうか。
「要するに僕らの家はお金持ちなの?」
確かに良い家だと思うが、財源は何なのだろう。
「そりゃあそうさ。母親ってのは市長の次に重要な職業だからね。市が援助してくれてるよ」
そうだったんだ、と言うと、コゴロウもうんうんと首を縦に振った。
「人か居なきゃ街は成立しない。俺からしたら市長よりも重要だと思うね」
そんな大役を自分が担っていいのだろうか…と、いつもの様に僕は思う。
「放牧、帰って来ました~」
ガチャン、と扉が開き、四人ほど人が入ってきた。
「おう、ご苦労さん。今ちょうど母親さんが来てたんだ」
コゴロウがそう言うとその人達は、わあ!喜ぶ。
「「「「初めまして!カメムシ四兄弟でーす!」」」」
その人猫四人組はそう声を揃えた。
「カメムシ…?」
僕とストローは頭にはてなを浮かべる。
「そ!カーリ、メミト、ムーサ、シシナの四人だからカメムシ四兄弟だよ!」
なるほど、と納得すると四兄弟は拍手をした。ノリが芸人みたいだ。
「コイツらはこの牧場の作業員さ。元々俺が親みたいなもんでな。まあ仲良くやってるよ」
宜しくねー!とカメムシ四兄弟は手を振る。
「紹介するね。この子が母親のケイゴ。こっちは2人目の子のストロー。で、子猫が昨日産まれたばかりのユキ。ユキの名付け親はコゴロウだよ」
ケリストスが紹介してくれたので僕らも宜しく、と言った。
「えー!コゴさんが名前つけたのー!?ずるい!」
白毛に黒ブチのカーリはユキの頭を撫でる。
「次の子の名前、オレに付けさせてよ!」
縞トラのメミトがそう言った。
「こらこら!君はネーミングセンスなんて無いじゃないか!」
ツッコミを入れたのは黒人猫のムーサだ。
青灰毛のシシナは笑っていた。
「じゃあ次の子が産まれた時に家に来てよ。それでいいよね?ケイゴ」
ケリストスの問いに僕は頷く。正直名付けは悩むので他の人の意見はありがたかった。
「じゃあお忙しい中失礼したね。ボクらは行くよ」
「えー!!もう帰っちゃうの!?せっかく会えたのにー!!」
カメムシ四兄弟は膨れる。
「こら、母親さん達は忙しいんだよ。次の牧場に行くんだろ?ケリィ」
コゴロウに言われケリストスは頷いた。
「羊とか他の肉買いたいからね。勿論ココの肉も美味しいけど」
「ありがとさん。じゃあまたな」
僕らは五人に見送られ、コゴロウの牧場をあとにした。

その牧場は隣だから、とケリストスに付いて歩く。
近いと言っても少々歩き、運動不足だった僕は少し足が痛くなった。
コゴロウの牧場よりも狭い牧草地に色取り取りの羊が沢山居る。今は放牧の時間なのだろうか。
着いた牧場はさっきと違う獣臭がする。
「いらっしゃいケリィ」
巨大なフォークを持った赤い短髪の女性が声を掛けてきた。良く見ると皮膚は鱗が薄ら見え、長い尾を持っている。
「こんにちはカキ。こっちは母親のケイゴとストローとユキ」
ケリストスが先手をとって紹介すると蜥蜴人は頷いた。
「うん。母親さんは挨拶しに行ったから知ってる。アタシはカキ。この牧場の主だよ」
カキが手を差し出したので恐る恐る握る。
「カキはミズキの妹なんだよ」
ケリストスが言うとカキは顔を掻いた。
「まあ産まれたのが一週間違いなだけだけど…ミズ姉は自慢の姉ちゃんさ」
僕は二人を見比べる。カメムシ兄弟に会った時も思ったが、チケルは「兄弟」という概念があるのか。
「兄弟とか姉妹って確かにあまり関係無いんだけど、同じ家で過ごした家族というものは他人とは持ち得ない絆があるんだよね」
「まあそれを言ったら結婚すると他人では無くなるんだけど」
結婚、と僕は呟いた。
「気が合うから同じ家に住む、ってだけなんだけどね。「結婚」って言っても地球のほど堅苦しいもんじゃないよ」
カキは笑う。
「まあ結婚は良いよ。何せ家事を分担できるし、税金安くなるし、寂しくない」
ケリストスも頷いた。
「確かに一人だと寂しいから結婚する、って人は多いね」
そういうものなのか、と僕は思った。
メェ、メェと羊の鳴き声が聞こえる。振り返ると、ピンク色の子羊が走ってきていた。
「こらあピンク12号!!」
怒鳴り声が響き、子羊はカキの後ろに隠れる。
茶の長髪の女性が追ってきた。
「こらピンク12!また脱走したのかい?」
カキは子羊を抱き抱える。
「そうなのよー!柵扉閉めようとしたら、するって…って、お客さんじゃない!」
女性は着ていた作業着を整え髪を直した。
「ごめんなさい見苦しいところを…って、ケリィと、もしかして母親さん?」
そうだよ、とケリストスは答える。
「あら~!初めてまして!私はユイ!カキと一緒にこの牧場をやってるの!勿論他にも従業員は居るけどね!」
「ユイは羊の毛刈りが得意なんだ」
「もうケリィったら!褒めても何も出ないわよぉ!」
ユイの笑顔はとても美しい、という思考が出て、僕は自分で少し驚いた。
「まさか貴女は…」
ストローが小声で呟く。珍しい事だったので僕はそっちにもっと驚いた。
「エルフ…ですか?」
ストローが恐る恐る言うと、ユイは小さく笑う。
「あら?わかった?そう、私は500歳のエルフよ」
ユイは髪を避け、その長い耳を見せた。
エルフ!とストローは悲鳴の様な声をあげる。いつも通り大声だ。
エルフの事なら絵本で読んだので知っている。長寿で美しく、人間に近い形であるが魔に近い人種。耳が長いのが特徴で、どんな生物も魅了する魔力が宿っていた。
だからユイを美しいと思ったんだな、と合点がいく。
「私、エルフに会いたかったんです!!!!!!本当に美しいのですね!?!?!?憧れています!!!!!!」
ストローのあまりの大声にユキは僕の肩に逃げてきた。
「あらあら、ありがとう!でもこんな所で土塗れになってるなんてイメージ崩れたでしょ?」
「いいえ全然!!!!!!寧ろ牧歌的な美しさが際立ち、感動しています!!!!!!」
ストローは興奮していつも以上に大声になる。カキが耳を塞いでるのを見てストローは嘴を手で押さえた。
「あらあら、元気なのは良いことよ」
ユイはそう笑う。
「ユイちゃん、この子連れてって」
ピンクの子羊が暴れたのでカキは地面に降ろした。
「はいはい!じゃあまたね~!」
ユイは子羊を押しやりながら羊舎へと戻る。ストローはそわそわしていたが、ケリストスがその背中を叩いた。
「それにしても、チケルの羊って色んな色をしているんですね」
放牧されている羊達は様々な色をしている。赤、青、ピンク、何なら虹色…そして勿論白い毛の羊を見かけた。
「今は品種改良されて魔法でどんな色の羊も作れるんだよ」
「魔法ってそういうのもあるんですね」
「今人気はピンクと黄緑。金色の毛だって居るよ」
魔法って凄い、と改めて思った。
「この牧場は羊をメインに飼育してるけど、すぐ裏の山での狩猟も任されているんだよ」
「春は特に獲れるからね。羊飼育と半々くらいでやってるよ。今も此処で働いてる子達が狩りに行ってるんだ」
僕は相槌を打つ。
「で、今日はわざわざ何しに?」
カキに問われ、さっきも聞いたセリフだと思った。
「肉を買いに。あとケイゴに牧場を見てもらいたくて」
「ああ、牧場見学的な?って言っても面白いものは無いけどねぇ…。肉は今買ってくかい?」
「そうだね。買っていいなら」
カキに連れられ売店へ行く。コゴロウの牧場の売店とはあまり変わらない外見だったが、店内は少し違った。
肉売り場の他に洋服棚や小物棚が有る。この牧場で採れた羊毛を使った加工品だろうか。
ケリストスがカキと話をしている間、僕とストロー達は店内を見ていた。
ストローは何かを手に取りじっくり見ている。
僕が欲しいの?と声を掛けると、ストローはいいえ!と言いその羊の人形を棚に戻した。
「買い物終わったよ。ところで、お腹空かない?」
ケリストスはそう言われ、お腹の様子を見る。
「うん、空いたな」
「お腹空きました!!!!!!」
カキはからからと笑った。
「じゃあ何か食べてきな。肉巻きなら直ぐ出せるよ」
「じゃあそれを3人分いただこうかな」
売店内のイートインスペースで僕らは昼食を食べる。肉巻きはケバブの様な食べ物だった。羊肉は癖のある味だけど、野菜とナンの様な生地に良く合う。
ユキは中の羊肉だけ皿に盛られているのを食べた。
食べ終わりごちそうさまでした、とカキに言う。僕らはそのまま牧場を出て行った。
帰り道もたまたま出荷馬車に出くわし、歩かずに済んだ。運転していたのはカーリだった。
「牧場見学、楽しかったかい?」
カーリに言われ僕は頷く。
「なら良かったよ。ユイさん可愛かったろう?」
その質問になんとなくまごつくと、カーリは笑う。
「誰だってユイさんを好きになるからねぇ。オレもプロポーズした事有ったよ」
えっ、と思わず声が出ると、カーリは笑って頷いていた。
馬車が市場で止まったのでそこからは歩いて帰った。家に続く一本坂の登りは地味に足にくる。
家に着いた時は太陽が少し傾いていた。リビングで水を飲んでいたら、ただいまと声がした。キューが帰って来たようだ。
「おかえり、キュー」
リビングに入ってきたキューに挨拶をする。キューは鞄を机の上に置いてソファーに沈み込んだ。
「お疲れ様。今日はどうだった?」
ケリストスは鞄から弁当箱を回収しながら問う。
「今日も筋トレしかしてない!でもヘトヘトだよ~」
声は元気だが目は開いていない。その様子で鍛錬がどれだけ大変だったかわかった。
そう思った矢先にキューはいびきをかきだす。そんな姿にケリストスは小さく笑った。

「ケイゴ、キュー、夕飯にしよう」
ケリストスに肩を揺さぶられ意識を取り戻す。目を開けたけれど、まだ頭は動いていなかった。
「あれ…寝てた?」
僕が聞くとケリストスは頷く。
「今日も疲れたんだね。ぐっすり寝てたよ」
座ったまま寝るとか、少し恥ずかしかった。
キッチンから良い匂いがする。ストローも2階から降りてきた。
ユキに顔を叩かれキューも目覚める。欠伸をして腹の音を鳴らしていた。
今日の夕飯はステーキだ。今日買ってきた羊肉だとケリストスは言った。
一口食べて僕は無言になる。
「口に合わないかい?」
ケリストスが聞いてきて僕は首を傾げた。
「食べた事無い味でびっくりしただけ」
何と言えばいいのか、一瞬わからなかった。
甘いようなしょっぱいような、羊肉の臭みとは違う複雑な味だ。
少しパチパチするし、噛むごとに味が変わる。
「ソースが独特でしょ?羊のステーキと言えばこのソースを使うのがシャミ市の定番なんだ」
「あーソースか」
僕はそう呟いてもう一口食べた。なんだかんだ手が止まらない。
「これはコーハスっていう果物で作るソースなんだ。コーハスは生ではとても食べらればいけど、砕いた魔石をちょっと加えて煮詰めると肉に合うソースになるんだ。このソースを使うのはシャミ市くらいだけどね」
キューもストローも美味い美味いと食べている。付け合わせの蒸しジャガイモと一緒に食べるのも美味しかった。

「でね!ジックさんってさあ!」
キューが今日の訓練の話をしてくれた。
腹筋が苦しい話、ジックさんの昼食が食パン一枚だった事、走り込みでタイムが縮んできたとか、体が痛い話とか、煎り大豆をつまみつつ語る。
訓練を始めてからやたらタンパク質を摂りたいらしい。大豆のタンパク質は良いとケリストスが出してくれた。
ストローは夕飯の後自室に戻った。読書をしているのだろう。
僕も今日見た事を話した。説明が得意じゃないから言葉選びに自信が無かったけど、キューは興味有る様に聞いてくれた。

シャミ市の家に風呂場が有るのは良い家だとケリストスは言った。普通の家庭は銭湯に行くらしく、毎日入るものでもないそうだ。
「でも筋肉の疲れを癒すには睡眠と風呂が大事だからね。訓練する間は毎日入る子も居るよ」
そう言ってケリストスは湯槽にお湯を溜めた。
キューはまた寝ていたので、先にお風呂をいただく。
菫色に染まったお湯は少し甘い花の香りがし、温かかった。
湯槽に浸かり天井を見ていると、ベッドで寝る時の感覚と同じものを感じる。
要するに、ぼーっと今日あった事を思い返していた。
体を洗うと石鹸の香りに包まれる。前も思ったのだが、この竜の耳は体洗い石鹸で洗うのが正しいのか、洗顔石鹸で洗うのが正しいのか。
脱衣場に出てふわふわのタオルで体を拭き、リビングに戻るとキューは起きていた。すれ違い風呂場に向かう。
そういえばドライヤーという物体を見ないけど、髪は乾かせないのだろうか、と思っていたらケリストスがわしゃわしゃと髪を掻き撫でてくれた。それで髪は乾く。これも魔法の技なのだと教わった。
ほっこりとした体で2階へ上がる。ストローは部屋から出てこなかった。

何かが顔を踏み目が覚める。白い猫が覗き込んでいた。
「…ユキ?」
白猫はベッドから降りる。白猫なんてこの家にユキしか居ないので、消去法でユキだと分かった。
「おはようございます。おなかすいた」
少年の声でユキはそう言った。
「お、おはようユキ」
僕が廊下へ続くドアを開けるとユキはするりと部屋を出ていく。日の光が照らす階段を降りリビングに入ると、既にキューが朝食を食べていた。
おはよう、と挨拶を交わし椅子に座る。するとケリストスが目玉焼きとサラダのプレートと白いパンの籠を出してくれた。
「キュー、今日は行くのも帰るのも遅くなるって」
ジックからそう連絡が来たらしい。
「でも朝ジョギングしようと思って」
「えっ、偉いね」
凄い意欲だと思った。僕だったら訓練自体遠慮する。
「早く強くなりたくて」
「ジックさんを見返したくて?」
「それもあるけど、早くお母さんを護れるようになりたいから」
良い子過ぎる。第一子はそういうものだと聞いたけど、やっぱりその精神は健気だと思う。
僕が朝食を食べている間にキューは走りに行ってしまった。
ユキは専用の皿に入れられた柔らかい鶏肉を一瞬で食べきり床に寝転ぶ。ユキ、と声を掛けたが、もう寝息を立てていた。
「そういえば、もうすぐ花祭だね」
ケリストスは白パンを食べながら言う。
「春の祭でね、生命の躍動に感謝し、街を花で埋めるんだ。とても綺麗な光景だよ」
「へぇ、そんなお祭りが有るんだ」
ケリストスは頷いた。
「屋台市では花に関する食べ物が食べれるし、お店も花祭仕様になるよ。何にせよ楽しい祭さ」
「それは楽しみだなぁ」
デザートのヨーグルトを食べながら僕は想像する。お花見みたいな感じなのだろうか。
「そろそろ街は準備し始めるね。散歩がてら見に行くかい?」
「そうなんだ。ちょっと気になるから、良かったら」
「じゃあキューが訓練所に行くのを見送ってから行こう。ストローとユキもね」

キューが帰ってきたのはそれから時間が経ってからで、帰ってきてもまたすぐ家を出ていった。
正午よりは前の空気は暖かい。欠伸をするストローはユキを抱えている。
「ちゃんと寝たかい?」
ケリストスがそう問うとストローは緩く首を縦に振った。
「大丈夫です!!身体は休んでます!!」
ストローはそう言うが、僕は少し心配だ。
僕らは一本坂を降りていったが、その段階でいつもと違う風景だった。
立ち並ぶ家のドアに掛けられたリースが違う。どこも色とりどりのドライフラワーで作られていた。
屋台市もいつもとは違う。花の入った木箱を良く見掛けた。
「お昼、この辺で買おうか」
ケリストスの提案にストローは腹の音で答える。恥ずかしそうにしてたが、僕は微笑ましいと笑った。
僕らは屋台でソース焼きそばを買いベンチで食べる。忙しそうにしている人々を観察しながら食べる焼きそばは美味しかった。
その後、街の中まで足を伸ばす。一度来たことのある街は、前とは様子が違った。
道路に点々と大きな洗濯籠が有る。どの籠もその中に白いシーツの様な布を水と入れていた。
「これはシーツじゃなくて、花布って言うんよ。花祭の主役さ」
「花布?」
「どう使うかは祭までの秘密にしとこう」
僕が首を傾けるとケリストスは小さく笑った。
どの建物のドアもドライフラワーのリースが掛かっている。その下に「閉店中」の看板が有る店が多かった。
「花祭の準備の所為で商売出来ないんだよ。平常運転なのは牧場くらいさ」
ケリストスはそう言う。
「その代わり明後日の花祭は皆気合いが違うよ。特に八百屋は凄い」
「八百屋さんが?」
「まあ見てみればわかるさ」
そんな話をしながらぐるりと海辺も周り、そのまま帰ってきた。
家に着いた時は日が傾き始めていて、結構歩いたのがわかる。
キューが帰って来たのは夜に差し掛かってきたくらいの時間で、帰宅の挨拶をした後僕はソファで眠ってしまった。

目覚めたのはベッドの上で、もう日が出ていて。
その日は何となく読書だけしていた。
そして次の日。
花祭のファンファーレで目が覚めた。
何事かと階段を降りると、どこの窓も開け放たれていて、外のトランペットの音が良く聴こえた。
「おはよう、ケイゴ」
既に皆リビングに集まっていた。
「おはよう、この音は…?)
「花祭だからね。開祭の合図だよ」
緑茶のグラスを出されたのでテーブルに着く。
「もう少ししたら市長の挨拶が有るから広場に行こう。朝食はその辺りで」
キューとストローはわくわくしているのが顔に出ていた。白虎になったユキは興味無さ気に寝転んでいる。
家を出て、驚いた。
坂一面の花。足が出せないくらいに敷き詰められていた。
「驚くのは早いよ」
そう言ってケリストスは花畑を歩いていく。一歩進む毎にふわりと花は揺れる。
坂を降りきると、人々が花畑を歩いていた。
笛を吹く者や花を踏み潰す者、太鼓を叩きながら歌う者などが居る。
皆楽しそうで、祭が始まったばかりだとは思えなかった。
僕らはケリストスの後をついていく。だんだん人手が増え、賑やかになっていくのがわかった。
そんな中で広場はぎゅうぎゅうに人が居る。高台を見上げると、丁度ホウシィ市長が登って来た。
「えー皆さん」
市長は白い花型のマイクに話し掛ける。
「今日は花祭です。沢山花を飾り、今年も一年花の様に明るい一年を祈りましょう」
ホウシィの宣言に会場は沸いた。
「今年は白い花が年花です。ではカーテンフラワーを飾ってください!」
バサ、と景気の良い音と共に、建物の窓から布が垂らされる。その布は二日前に洗濯されているのを見た。
白い布に水を掛けられる。すると布は金の脈を作り、そこから白い花を咲かせた。
「これも…魔法?」
その見事な光景に呟く。
「そうだよ。年に一日だけ使える魔法さ」
綺麗だろう?と言われ、僕は頷いた。
人々は白い布から溢れた花を毟り、近くの人の頭に飾る。僕達もそんな人々から花を贈られ、頭に乗せられた。
ユキは背中にまで乗せられ身動きが取れなくなっている。そんな姿を見てキューは笑っていた。
歩く度に白花を蹴り、舞わせる。広場を抜け屋台市に向かうと、甘い匂いが漂ってきた。
「花祭名物、飴細工だよー!」
あちこちからそんな声が聞こえる。甘い匂いは砂糖と花蜜の匂いのようだ。
どの屋台にも繊細な花の飴細工が置いてあった。本物の花の様な飴細工を皆食べている。
ケリストスは四輪買い、僕らに渡した。花飴を噛んでみると、パキッと折れる音がする。
砂糖でできているからだろう、とても甘かった。けれど魔戻しの様なすっきり感も有る。
「この店のはファッファの蜜が入ってるね」
「ああ、だから魔戻しっぽいんだ」
ケリストスが解析すると、キューも納得していた。
「大体の屋台に花飴が置いてあるから食べ比べも楽しいよ。使う香料で味が変わるんだ」
ケリストスは詳しい。僕らは三件ほど回り、花飴を食べ比べた。
芳醇な果物の味のもの、やたら甘いもの、それとちょっと辛い味の花飴を食べる。
屋台には飴細工以外にも花がモチーフの食べ物が有った。
鶏肉と花びらをふんだんに詰め込んんだ肉巻きや、揚げた花を挟んだサンドイッチ、特に薔薇の形をしたパンが美味しかった。
お腹を満たした僕達は、シャミ市の中心街に行く。
やはりどこも花で溢れていて、建物の上から白い花が降ってきた。
カーテンフラワーの布が風にはためき、白花を遠くまで飛ばす。
街の人達は両手いっぱいに花を摘んだり、蹴り上げたりして遊んでいた。
お店の野外にも花が生けられていたり、店内も花でいっぱいだ。
僕達は歩きながら店を見ていたが、ストローは特にきょろきょろと辺りを見ていた。
「花祭でしか買えない物も有るからね。何か欲しかったら買ってあげるよ」
そうケリストスが言うと、本当ですか!?!?!?とストローが大声で喜ぶ。
ストローは雑貨店が見たいと言い、皆でその店に入った。
入り口のドアに紫のヒヤシンスのリースが飾ってある。店内はこじんまりとしており、しかし沢山の人形が有った。
いらっしゃい、と人鼠の店員が挨拶をする。ストローは青い花を持った鼠の人形を手に取った。
「ストローって人形好きだよね」
キューがそう言うと、ストローはきょとんとしていた。
「そう、なのかな…?ぴんとくる物がこれだったんだけど」
「まあ全然悪い事じゃないけどね」
キューに言わせると、ストローは動く人形の童話や人形師の物語が好きらしい。知らない一面だった。
キューはアクセサリー店でマーガレットの柄お腕輪を買って貰った。ユキは特に何もいらないと顔を背ける。
「ケイゴは何か欲しい物は有るかい?」
ケリストスにそう問われ僕は考え込んだ。
「僕も特には…」
何かを買って貰う。そんな事今まで無かった、という、前の世界での記憶が戻った。
急な気付きに頭が痛くなる。右手で頭を押さえると、キュー達はおろおろと心配そうに顔を覗き込んできた。
「ケイゴ、大丈夫かい?」
「うん…ちょっと休めば…」
ケリストスにさえ心配を掛けてしまった。僕らは建物の間に在るベンチで少し休んだ。
キューにお茶を貰い、一息吐く。だんだん頭痛は治まってきた。
「ごめんね皆。色々見たいだろうに」
「ううん。お母さんが第一だから」
キューがそう言うとストローも頷く。ユキもこちらをチラッと見た。
「おやおや、こんな所に居たんですか」
声が降ってきて顔を上げる。ぬ、と背の高い青い人龍が話し掛けてきた。
ユキが威嚇の声を出す。僕は緊張した。
「ああ、そんな警戒しないで下さい…敵意は無いですよ」
人龍は袖で口元を隠す。ケリストスはユキの頭を撫でて宥めた。
「新しい母親さんですね。メリィから聞いてますよ」
メリィの名前が出て、この人は”人ではない”と確信する。
「この人はアジャル。魔人だよ」
ケリストスに紹介されアジャルは小さく笑う。
「ケイゴさんにキュー君にストローさん、そしてユキ君ですね」
「なんで僕らの名前を?」
キューが訝しげに聞くとアジャルは裾をひらひら揺らす。
「ワタシは人の名前が自然と浮かぶ、そういう能力が有るだけです」
キューは少し納得いかない顔をする。アジャルはそれを笑い飛ばした。
「魔人が何故こんな街中に?」
ストローが聞く。
「今日は花祭。魔人だってお祭りを楽しみたいのですよ…なんてね、魔力の籠った花を漁りに来たのです」
アジャルは降ってきた白花をひとつ捕まえて口に含んだ。
「今日は特別街に魔が溢れています。ワタシ以外の魔人も居ますし、何ならモンスターだって街に降りてきます」
気を付けて下さいね、と言い残してアジャルは立ち去っていった。
僕は吐き気に目を閉じて俯く。ケリストスの羽がふわりと背中を撫でてくれた。
「大丈夫かい?ケイゴ」
「うん…ちょっと緊張しちゃって…」
「メリィの所為で魔人がトラウマになったんだね。仕方ないよ」
自分で自覚がなかったけど、そう言われ納得する。深呼吸をして気持ちを落ち着かせた。
一際大きな太鼓の音がする。人々が吸い寄せられる様に移動していた。
「舞が始まるね」
ケリストスの呟きに、舞?とキューが聞き返す。
「お祭と言えば舞だよ。とても綺麗だから観ておいで」
キューはそわそわと道と僕を見比べた。
「でも、お母さん調子悪そうだし…」
「僕は大丈夫だから観てきていいよ」
僕が安心させようと笑うと、キューはやっぱりそわそわしていた。
「お母さんは私が付いているから!!」
ストローに後押しされ、キューは席を立った。ごめんね、と僕らに頭を下げ人々の流れに飲み込まれる。
「ストローも観たいんじゃない?」
そう言うとストローは首を横に振った。
「特に興味は無いです!」
ストローはあまりにも良い笑顔で言う。悪いな、と思ったけど、それは言わなかった。
太鼓と笛、それに手拍子が聴こえる。舞が始まったようだ。
ベンチからは見えなかったが、陽気でリズミカルな音楽に僕は少し救われる。
拍手と歓声の中、音楽が止む。帰って来たキューはとても興奮していた。
「踊りが凄く綺麗で!ふわっとひらめく衣装からお花が出てきて!!もう凄かった!!ストローも観れば良かったのに!!」
「語彙力というものがないのか君は」
ストローは呆れの溜息を吐く。そんな様子を見て僕は少し笑った。
調子が戻ってきたので街を散策する。道を埋める花は赤とピンクが多い地帯に来た。
「そろそろ正午だけど、お腹空いてない?」
ケリストスはハンバーグの絵に白い花を散りばめた絵が掛かっている建物を指差す。僕達は同意した。
レストランの中は思ったより広く、賑わっている。そんな中、誰かが僕らに手を振ってきた。
「母親さん!ケリィー!」
サングラスを掛けた長白髪の人、市長のホウシィだ。
「君達もお昼ごはん?良かったら一緒に食べません?」
「いいんですか?」
「勿論!」
ホウシィは隣のテーブルを寄せて場所を作ってくれる。僕達は椅子に座った。
「キュー君、大きくなったね!君がストローさんとユキくんですね?」
ホウシィはサングラスをしまいながら言う。
「はい!!!しかし何故名前をご存知なんですか?」
ストローはそこそこ大きな声で聞いた。
「風の噂…と言うか、小鳥達に聞いたよ。彼等はそういう噂話が大好きなんです」
ホウシィは小鳥の言葉が分かるのか。
人鳥のウェイターが注文を取りに来る。ホウシィが勧めてくれたハンバーグを僕らは頼んだ。
「此処のハンバーグは格別なんです。普段はミズキの料理をいただいてるけど、こういうお祭りの日だけは此処でハンバーグを食べてます」
ホウシィは嬉しそうに言う。周りを観察すると皆ハンバーグを食べていたので、看板メニューなんだなと思った。
「貴方達は、楽しく過ごせていますか?」
いきなりの質問に少し考えてしまったが、僕は頷く。キューもストローも元気良く頷いた。ユキは相変わらず目すら合わせないで伏せている。
「…そうですか。それは良かった」
ホウシィの慈愛に満ちた虹色の眼に軽くむず痒くなってしまった。
嘘は吐いていないが、その眼に本心を見透かされている気がする。
「何か有ったら気軽に言ってくださいね。いつでも力になりますから」
「それは有難いけど、市長の仕事もちゃんとしてくださいよ」
ケリストスの軽口にホウシィは苦笑した。
ハンバーグを食べながら近況の話をする。キューは訓練の話をうきうきでして、ストローは憧れのエルフ族に会えた話をそこそこ大きな声でした。
ユキは何も言わなかったが、ホウシィに撫でられ喉を鳴らす。
ハンバーグはナイフを入れるとじゅわりと肉汁が出て、口に運ぶと獣の味が広がる。獣の味、と言っても嫌な感じではない。牛でも豚でもない味だが凄く美味しかった。これはご飯が進む。
「このハンバーグは山に住む大蜥蜴の肉なんです。他では食べられませんよ」
「もしかして、キヤキサラマンダーの肉ですか!?」
「そうですよ。良く分かりましたね」
「本で読みました!!!!」
元気の良いストローにホウシィは笑顔になった。
「キヤキサラマンダーは名の通り木を焼いて食べる大蜥蜴のモンスターです。蜥蜴ですが草食で、調理しても肉に火の魔力が残るんです。だから昔は薬として食べられてたんですよ」
ホウシィの説明に僕は納得する。食べた事の無い味なのは魔力が篭ってるからだろうか。
お腹が満たされた僕らは店を出た。ホウシィは胸元にしまっていたサングラスを掛ける。
「ではわたしは支度が有るので。花祭、楽しんで下さいね」
それと、とホウシィは続ける。
「何事も溜め込まないようにしてくださいね。日記なり何なり、吐き出すのは大事ですよ。それで救われる事は意外と沢山有りますから。何ならわたしもお話、聞きますからね」
では、とホウシィは去っていく。その言葉と背中は、後悔の念が籠っている気がした。

暫く僕らは街を歩いた。
白い花びらが降り注ぎ、波の様な花を蹴って行く。
人々は皆笑顔で、幸せな空気でいっぱいだ。
そんな中、大きな爆発音が聞こえて上を見る。
何事か、と街は騒つく。誰かが指差す方を見ると、街にそぐわない物体が有った。
どぎつい色の大きな花。これも花祭の演出かと思ったが、誰もが困惑していたのでそれは違うとわかった。
高笑いが聞こえる。ストローの声よりも大きく、しゃがれていた。
「今年も来やがった!!」
誰かがそう言って指を指す。
その方向を見ると、灰色の飛竜が飛んでいた。
「ご機嫌様ヒトドモ!!今年も来てやったぞ!!」
飛竜は流暢に喋る。竜は人よりも頭が良い、という話を思い出した。
「ガーダー!!また変なもん造りよって!!」
その声でこの飛竜がガーダーと言う名前だと知る。ガーダーは巨花のオブジェに留まった。
「どうだい?今年の作品は!去年よりも配色にこだわったんだが!」
ガーダーは胸を張りそう言う。辺りはブーイングで満たされた。
「まあた邪魔なもん造ってきたな!?片付けろ!!」
「毎年毎年街をぐちゃぐちゃにしおって!!」
皆に罵声を浴びせられてもガーダーは傷付いていない。寧ろ誇らしげだ。
「あーあ、今年も来たか…」
「あれ、何?」
キューの率直な疑問にケリストスは溜息を吐く。
「あのワイバーンはガーダー。芸術家さ」
「ドラゴンなのに芸術家なの…?」
僕は地球の感覚からそう聞いた。ケリストスは頷く。
「別に変わった事じゃないよ。竜は人より感性が豊かだったりするからね」
ケリストスは疲れた様な顔をしていた。
「別に何か造るのはいいんだけど…」
爆発音に街は騒然とする。
「ガーダーの作品、街壊すんだよな…」
巨大な花は蔓の触手を伸ばし建物を貫いた。そ途端、建物に花が咲く。
そのおどろおどろしい色の花にガーダーは喜び、人々は悲鳴を上げた。
「今年の花はどうだい!?」
「最悪だよ!!」
ガーダーの作品は更に蔓を伸ばし、建物を破壊していく。瓦礫が降ってくるので人々は逃げ始めた。
ケリストスは僕の前に立つ。煉瓦の破片が襲ってきたが、ケリストスはシールドを張って僕らを護ってくれた。
「あ、ありがとう…ケリストス大丈夫?」
「うん。このくらいはね」
僕らもその場を離れる。ガーダーは高い所にいるので距離を取ってもその姿が見えた。
「いい加減にしろガーダー!!」
突然巨花が爆発する。建物の屋根に白いローブの一団が居た。
「おや、今年は早かったねえ」
ガーダーは空に逃げ、魔法の攻撃を避ける。その分作品の花に被弾した。
「毎年毎年懲りもせず!!」
「当たり前だ!祭は楽しいからなあ!!」
ローブの人々の攻撃で巨花は折れる。ガーダーは舌打ちをした。
「まあいい。今年も良い悲鳴を聞いたからな!!」
一つ旋回し、飛竜は山へ帰っていく。街の人々は道に出て歓声を上げた。
「全く…何なんだあいつは」
ケリストスは珍しく呆れている。
「毎年この調子なの?」
ローブの一団が魔法で建物修復しているのを見ながらキューは尋ねる。
「そうなんだよ…。契約があるから下手に殺しはできないんだよね」
「契約?」
「ガーダーとは殺し合わない、という契約。だから追い払う事しか出来ないんだ。ガーダーも、作品を通してとしか街を攻撃出来ないんだけど…。なんで街を破壊しようとするんだ、あいつ」
竜の思考は解らない、とケリストスは溜息を吐いた。

そんな様子で、街はまた祭を楽しむことに戻る。
日が傾き始め、花型の灯りをつけ始める店も出てきた。
「花祭、終わっちゃうね」
キューは揚げ花巻を食べながら寂しそうに言う。
「でも終わりも綺麗なんだよ」
ケリストスもキューと同じ物を食べていた。花祭でしか食べられない物だ、
空は赤から黒に変わっていった。美しい空だ。
「皆さん、花祭も終盤ですよ」
拡声されたホウシィの声が聞こえた。
「では、花送りの準備をしてください」
街の人達は了解の声を上げる。皆足元に落ちている花を両手いっぱいに拾った。
ケリストスに言われ僕達も花を拾う。
「では、今年も花々を咲かせてくれた自然に感謝を込めて…
花を空へ帰しましょう」
人々は掛け声と共に花を空に投げた。僕らもぎこちなく真似をする。
放り投げられた花は空中で光り輝き、空の彼方に吸い込まれた。それは夜空に星を散りばめた様だ。
建物の外に置かれた花型の灯りも輝きを増し、視界が夜とは思えない程眩しいかった。
「綺麗…」
ストローは感極まって呟く。全くその通りだ。
「この魔法でできた花々は、空へ帰った魂達が気紛れに落とした物だと言われていてね。魔へ帰った魂がまた転生できるように、という願いも込めて空へ帰すんだよ」
ケリストスはそう解説してくれた。なんだか神秘的に感じる。
僕はその光景から目が離せなかった。その魔花の一つ一つが魂なら、この世界には沢山の命が存在している。そんな当たり前の事に心が動いていた。
僕はその一つを毎週産み出していて、この世界に貢献している。そう思えたのだけど、それは過大評価だろうか。
思えばこの世界に来て色んな事が有った、とも思っていたが、この世界に居た時間は短いのだ。
まだ季節すら変わっていない。
それに不安は有る。でもそれ以上に、充実していると思った。
こんな感情は、前の世界では感じた事が無い。
そういう思いが、記憶が、ちらちらと蘇っていた。


しん、とした空気。
小鳥の囀りすら聴こえない。
いつもと違う朝な気がした。
「…おはよう」
その青年を見て、正直驚いた。
白い髪に猫の耳が乗っている。
大きな眼は空色で、長い睫毛も白い。
陶器の様な肌で、体は華奢に見えた。
美青年、という言葉が合う。僕にもわかった。
「…ユキ?」
僕は恐る恐る尋ねる。
「そうだけど」
気怠げな白猫人は欠伸をした。
「キューはもう訓練に行ったよ。ストローは徹夜して今寝てる。今日の朝食はスクランブルエッグとパン。じゃ」
そう言ってユキは部屋を出て行く。僕は唖然としてベッドに居た。
少しして僕も一階に降りる。リビングに入ると、ケリストスがおはようと言ってくれた。
「びっくりした?」
何に、と言われなくてもわかる。首を縦に振ると、ケリストスは小さく笑った。
「そのユキなら子供部屋に戻ったよ。今は寝てるんじゃないかな?」
「そっか…」
そこから言葉が続かない。無言で朝食を食べた。
「…あの子、僕の事嫌いなのかな」
独り言の様に呟くと、ケリストスは首を横に振った。
「そんな事ないと思うよ。子供が母親を嫌いになる事は無い」
断言され、僕は少し安心する。
「ユキは、反抗期ってやつだね。あ、案外シャイなだけかな?」
そんな態度なのだろうか。
ユキは確かに前から何事にも我関さずで良く寝ているような子だったけど、あの態度は心配してしまう。
人の事は言えないが、他人との交流が上手く出来ないとなるとそれは生き辛いものだ。
そんな事を思ったら、また頭痛がした。
ビキ、と頭が割れそうになる。僕が頭を抱えると、ケリストスは大丈夫?と駆け寄って来てくれた。
「無理しないで。寝てようか?」
大丈夫、と言いたかったが痛みで何も言えない。ケリストスは僕をお姫様抱っこして自室のベッドに運んでくれた。
ベッドで目を閉じていると、メイソーンの優しい香りがしてくる。
僕は頭痛で唸り、ベッドに横になってる事しか出来なかった。
「あんまり酷いなら医者に診てもらった方がいいけど」
ケリストスがそう言うので、僕は大丈夫、と小さく唸る。
きっと診てもらっても同じだと思った。原因に心当たりがある。
これは、脳の奥に封じられた″記憶″が戻る時の痛みだった。
断片的に、でも最近多くなった事だ。
なんとなくその事は誰にも言ってない。
前の世界の記憶が戻るのは、きっと喜ばしい事ではない、と思うから。
記憶が封印されたのにはそれなりの理由が有るのだろう。
そう思っていた。

教室の空気。
それは良い記憶ではない。


今日も僕は起きたい時間に起き、ゆったりとした日を送っていた。
朝から鳥達は囀り、窓から外を見れば荷車や人々が道を行くのが観察出来る。
キューは一日訓練に励み、ストローも図書館に本を借りに行った。
ユキもずっと子供部屋に居て、ケリストスは家の掃除をしていたようだ。
僕はベッドに横になり本を読んだりしていた。夕方辺りからうとうととしていたが、目を閉じても浅い眠りしか出来ない。
意識が遠くなる毎に、声が聞こえたからだ。
それは女性の声だった。聞いた事が有るようで、誰の声でもないような、声。
それが夢に出てくる声だとすぐわかった。
しかし、その声が何を言っていたは思い出せなかった。

翼を広げるその姿は、神秘的だ。
睫毛の一本一本が分かるくらい顔を寄せられ、嘴が鼻に触れそうだった。
その鳥に覗かれて、僕は動けないでいる。鳥はケンと鳴き、僕が起きたのを確認してからやっと顔を上げた。
上半身を起こす。僕を見下ろしていたその生き物は、鳥の様だった。
しかし、異様に足が長い。
「い、痛いよ」
見た事の無いその鳥は、やたら服の裾を引っ張ったり足を突いてきた。僕が立ち上がると、どこかへ誘導しようとうろちょろする。
仕方なく、僕の胸辺りまであるその大きな鳥についていった。
記憶は、夜にベッドで横になった所で無くなっている。空が青いと言うことは、今は昼だろう。
しん、とした森の中は、春のはずなのに薄ら寒い。空気が薄いので、結構高い場所に居るのだと思った。
その鳥を追い草の獣道を登っていくと、拓けた場所へ出た。
僕はその建物を見て、圧される。
白よりも白い、神殿が建っていた。
それは昔教科書でちらりと見た建物に似ている。ギリシャの観光地になっている、一言で言うとまさに神殿と称される建物の様だった。
鳥は躊躇無く歩いて行くので、僕も恐る恐る中に入る。
室内は、外から見るよりも広かった。
床も柱も白く、目を細めればただただ純白だけの空間に視える。
鳥の爪の音がつくつくと響き、僕の白靴の音も鳴った。
鳥は急に翼を広げ、バサバサと飛ぶ。
神殿の奥に有る大きな椅子の天辺に停まった。
その長く豪華な椅子に、人が座っている。
銀、と認識したその人は、足を組み右肘を椅子についていた。
「やっと来たか」
揺さぶる様に、脳に声が響く。
咄嗟に頭を押さえてしまったが、それが言葉だと認識すると、その感覚も薄らいだ。
「貴方は…?」
「頭が高いぞ」
小声の質問はかき消される。体が勝手に膝を着いた。
「お前が新しい母親か」
その高圧的な声に、唾を飲んで頷く。
「我はファーラーン」
その名前を聞いて冷や汗をかいた。
やっと此処が聖なる神殿なのだと理解する。

ファーラーン

それは、この一帯を統治する神の名だった。

「何故直ぐに来ない」
その一言で、自分が失礼だったのを実感した。
賃貸に入居したのに大家に挨拶をしに行かなかったようなものだ。前の世界で実家を出た記憶は無いけど。
「すっ、すみませんでした…」
震える声で謝罪すると、銀は溜息を吐いた。
「だから人間は嫌いなんだ、しかも異世界の餓鬼など…。全く、フェリアは何故母親の仕組みを採用したのか…」
カツ、と爪が石畳に当たる音がする。そして何かに頭を突かれた。
痛い、と顔を上げると、さっきの鳥とかち合う。
「エンシュ、ケリストスはどうした」
玉座に座ったままファーラーンは呼んだ。反応したので、それがこの鳥の名前だと知る。
エンシュが首を傾げると、ファーラーンは鼻で笑った。
僕はまた石畳を見る。
この張り詰めた緊張感の所為で、だんだん胃酸が上がってくるのがわかった。
とうとう口に手を当てて、なんとかそれを飲み込んだ。
「ファーラーン!!!!!!」
その時、怒声にも聞こえる大声が響いた。
振り向くと、ケリストスがカツカツと石畳を走って来る。
「やっと来たか、ケリストス」
銀の神は蒼い眼を少し薄めた。
「遅い」
その一言は低く響いて、僕の背中にビリビリと何かが走る。
「貴方がその態度だから挨拶を少し待ったんだ」
神の圧にケリストスは負けなかった。
フン、とファーラーンは鼻を鳴らす。
「まあいい。顔は見た。連れて帰れ」
ファーラーンの命令に、ケリストスは何も言わなかった。
立ち上がる力さえ無い僕は、ふわりとした羽で包まれ、ケリストスにお姫様抱っこをされる。
「じゃあ、帰らせてもらうよ」
ケリストスはそれだけ言い残し、僕を抱えて神殿を後にした。

「ケリストス…ごめん…」
僕は目を瞑ったまま言う。
「ううん。ボクの方が悪い。ケイゴが攫われる可能性を見落としていた」
ケリストスの声はいつもと変わらず、優しく冷静だった。
「…ファーラーンは、“人間”が嫌いなんだ」
語り始めるケリストスを見るために、僕は黒眼を開ける。
「人獣は好きだよ。獣人は普通。でも、人間は大嫌いでいる」
「人間…」
「そう。生き物を殺し食い潰した人間」
ケイゴはもう、竜人なのに。と言われ、複雑な気持ちになった。
もう、僕は人間じゃない。この竜の耳が証拠だ。
でも、ファーラーンは見た目の話をしたんじゃないのだろう。実際、僕自身に実感が無かった。
僕は、このチケルに馴染みきってないのかもしれない。
「気にしないでね」
ケリストスはそう言ったが、到底その言葉通りにはならなかった。
ケリストスは森の中を歩いていたのに、いつの間にか見慣れた風景になっている。
僕達の豪邸に着くと、素っっ頓狂な声を上げるキューに出迎えられた。


その後の記憶が無いのは眠っていたからだろう。
次に目を開けたのは、痛みの所為だった。
ギリギリとした頭痛と腹痛。胃の奥から出るのではないかという程の咳に、僕は体を起こした。
「お母さん大丈夫?」
キューの赤い手が僕の背中を摩る。
その気遣いに答える事が出来ないくらい、僕は咳をしていた。
お母さん起きた、と叫ぶキューの声がやけに頭に響く。誰かが階段を上がる足音さえ頭痛を酷くさせる。
誰かが部屋に入ってくる気配がした。ふわり、と羽が頭を撫でる感覚に、少しだけほっとする。
「深呼吸して」
ケリストスの優しい声に呼吸を合わせようとすると、少しだけ楽になった。
その途端、何かが喉に迫り上がる。
酷い音を立て、僕はそれを吐いた。
ぐちゃ、という音と、小さな悲鳴。
いつもだったらケリストスが労ってくれるのに、その時はその言葉が無かった。
「こ、れは、」
狼狽えた声に、僕は目を開ける。
其れを見て、僕も言葉を失った。

黒い、ぶよぶよとした塊が、目の前に有った。

「な…に…?」
それはこの場に居合わせた全員が思った事だ。
いつもの展開と違うと、人はこんなにも狼狽えるのか。
その黒い塊は、ぶるりと揺れた。
「これは子供だよ」
ケリストスは呟く。僕はその言葉が信じられなかった。
「母親は人の子しか産まない。だからこれは子供なんだ」
ケリストスの白い羽がその塊を掬い上げる。でも、と僕はやっと声を出せた。
ケリストスの羽の中で、ぐじゅ、と黒いぶよぶよは破れた。その中から、微かにぴいと鳴き声がする。
その声に誘われ、僕は割れ目に手を入れた。
そして、その中から小さな生き物をずるりと出す。
それは、黒い雛だった。
「ほん、とう、だ…」
僕はいつもの様にその雛を両手に包み温める。
その小さく速い鼓動を感じ、やっと実感出来た。

キューが持ってきたバケツに、その黒い残骸を捨てた。
黒雛は籠の中で眠っている。もう毛も乾き、ふわふわとした雛らしい姿だった。
僕は少しずつコップから水を飲みつつ、口の中に残った塊の感覚を消そうと頑張る。
「お母さん、大丈夫?」
キューに訊かれ、頭痛はまだあるが腹痛も治ったので小さく頷いた。
「これは、何なんだ」
ユキは固い声で問う。ストローも無言だった。
「…この憶測は正しいか分からないけど、これは呪いかもしれない」
ケリストスは顎に手をやり、真顔に見える難しい顔で言う。
のろい?とその場の者は声を揃えた。
ただ、僕は何となくわかった様な気がする。
何かがずっと、頭の隅に居た。
そのモノが、この小さな子にまとわりついたのかもしれない。
僕は、震える声でそう考えを呟いた。
「取り敢えず、医者を呼ぶよ」
ケリストスはそう言って、ついっと宙に文字を書き、それを息で飛ばす。
それは、前の世界で言うところのメールの様なものだ。
「キューとストローはケイゴにごはんを持って来て。キッチンに有るから。医者も直ぐ来るだろうからユキは玄関見張って」
ケリストスが指示し、三人はそれに従い部屋を出た。

少しして、玄関のチャイムが鳴った。
はい、とユキが対応する声も聞こえる。
扉が開いて閉まる音。階段を上がり、誰かが僕の部屋に入ってきた。
「こんにちは」
黒いローブにペストマスクを付けた人鴉。
その者は、見覚えが有った。
「こんにちは、ローウさん」
ケリストスも挨拶をする。僕もベッドに横になりつつも、会釈をした。
「まずは、ご出産有難う御座います」
頭を下げさせてしまったが、その台詞は前の世界のものと比べると少し違和感が有る。
子を産むという事は、この街では感謝の対象なのか。
「少し診させてもらいます」
看護師の人鴉は僕の目の前にペンダントをかざす。ついその翠色を見つめると、宝石からパチパチと白い光が溢れた。
「うん、貴方は大丈夫そうだ」
ローウが頷き、僕はほっとする。
ローウは黒雛にもペンダントをかざした。また光が溢れたが、それは紫色をしていた。
ちょっと失礼、と産まれたての雛を羽に乗せ、色んな角度から眺める。黒雛がぴいと鳴いて転がると、うん。と頷いた。
「この子も異常は無い」
場に居た全員がほっと溜息を吐く。
「で、これが例の物ですね」
彼はバケツを覗き込む。ペストマスクの先で匂いを嗅ぎ、咳き込んだ。
「…多分ですが、これはよくない物ですね」
看護師は黒ローブの腰ポケットから白いガーゼと紐を出す。
「検査する為に持って帰っても?」
「うん。お願いするよ」
ケリストスとそんな会話をし、黒い看護師はバケツにガーゼを掛け紐で括り、それを持ち上げた。
「大丈夫、母子共に健康です。ただ異変が有ったら直ぐに連絡を」
わかった、とケリストスが頷くと、ペストマスクの人鴉はバケツを手にドアをくぐる。
「では、“これ”の検査結果が出たらまた知らせます」
会釈をし、ローウは帰っていった。
その様子の音を聞き終え、僕はほっと息を吐く。
黒雛はすやすやと眠っていた。





誰かが居る。

おかあさん

その人は震えた声で呟いた。
それが自分に向けたものだと気づかないまま、また現実へ還帰る。





僕は目を開けた。
しかし違和感を感じ、無意識に擦る。
おかあさんおきた、という声は正常に聞こえた。それはキューの声だろう。
お腹が少し痛かった。
「おはよう」
宝石の様な水色の眼が覗き込む。白髪と耳にそれがユキだとわかった。
「…あの子は」
日の光は眩しい。部屋が暖かくて、今の時間が昼で有るのを実感していた。
「元気だよ」
ユキが指差す方を見る。
サイドチェストに置いた籠の中に、黒い雛は居た。
赤い眼の雛は、見つめると、ぴい、と鳴く。
僕は昨日産まれたばかりの雛を手で掬った。
「おかあさん」
雛は流暢に僕をそう呼ぶ。何故か、僕はそれが愛おしかった。
ユキの視線に顔を上げると、アクアマリンの眼とかち合う。
その整った顔が無表情だったので、不安になってきた。
「おかあさん」
小さな声がまたそう呼ぶ。しかし、その赤い眼は窓を見ていた。
「その子はお袋の子じゃない」
ユキは、きっぱりと言う。
え、と、僕は零した。
ユキは答えず部屋を出て行ってしまう。僕は黒い雛に目を戻した。
「…君、名前は?」
昨日産まれたばかりの子に問う事では無い。
しかし、僕はそう訊く。
「ユリイカ」
黒い雛は窓の外を見たまま、はっきりとそう答えた。

ユリイカは、今までの子とは違った。
一日が経ち、鴉の姿になっても、窓から外を見ているだけだ。
声を掛けても、返事をしない。その姿を見てキューも咎めるが、黒い鳥は見向きもしなかった。
「お母さんの恩を感じないの!?」
キューは叱る。しかし、ユリイカは視線をこちらに向けなかった。
「その人は、おかあさんじゃない」
その声に哀しさを読み取れて、僕は何も言えずにいる。
キューが怒鳴っても、鴉の態度は変わらなかった。
僕は、よくわからない気持ちで居る。
怒りではない。心配に近いのだと思う。
どうしてもその黒い姿を見てしまい、何よりも気になってしまう。
この感情は、何なのだろう。
「ねえユリイカ、ごはん食べよう」
自分自身がそんなに食べられないのだけれど、そう提案した。
ベッドの上でも食べやすい果物をサイドテーブルに置いてもらっている。
ユリイカは、赤い眼でこちらを見た。
何も言わなかったけれど、掛け布団の上にちょいちょいと跳んでくる。
僕がキキンゴを齧ると、赤い葡萄をついとつつきだした。
「僕は、君のお母さんにはなれないのかな?」
そっと聞いてみる。ユリイカは葡萄を飲み込んでから、小さく頷いた。
「ユリイカのお母さんは…誰なの?」
ユリイカは俯く。もしかしたら、自分でもわからないのかもしれない。
この世界の定義は、前の世界とは違う。
それでも、キュー達は物理的に産んだ人を母親だと認識していた。
そう、このチケルは、思ったより現実主義だ。
「僕はお母さんじゃないなら、君にとって何になるの?」
これは純粋な疑問だったのだが、鴉が言葉を返さないのを見て、意地悪な質問だと感じさせてしまったかもしれない。
相変わらず、僕は人との距離を測るのが下手だった。
それから一日、ユリイカは言葉を発さなかった。


目を開けると、ベッドの縁に人鴉の少女が居る。
水色スカートのその子がユリイカで有るのは、赤い眼を見てわかった。
「おはようございます」
ユリイカは少女らしい、可愛い声で言った。
僕がおはよう、と返すと、ベッドから降り立つ。
「今日の朝ごはんは肉入りおかゆだって」
「…そう…なんだ」
正直、昨日の態度から僕の事を嫌いなのだと思っていた。
しかし、その赤眼に負の感情を読み取れず、安心する。
1日ぶりに床に立ってみると、少しふらつくが異常は無かった。
この生活に体が慣れてきたのかもしれない、と思う。
歩くのも支障が無かったし、少し時間が掛かったが階段も降りれた。
「おはようございます!!!!!」
人鶏のつんざく挨拶に目と瞑ると、後ろから少女が、うるさい!!と怒鳴る。
僕も苦笑しつつ、おはようとストローに返した。

入っている肉のタレが濃く、淡白なお粥に染み込み美味しい。
隣に座ったユリイカが肉を避けるので、ユキが食べていい?と訊いたら無言で差し出していた。
「羊の肉は嫌いかい?」
ケリストスが問うとユリイカは頷く。
「肉は嫌いなの」
もったいねえな、とユキは呟いて奪った肉を頬張った。
「何か思い出せたかい?」
朝食後にケリストスは訊く。ユリイカは控えめに頷いた。
「でも、ちょっとだけ」
三日前に産まれたばかりの少女が言うのも矛盾しているのだが、前世や霊である間の記憶も残る事が有るのはこの世界では珍しい事ではない。
「何でもいいから教えて?」
ケリストスの優しくも少し突き離す様な声にユリイカは視線を落とした。
「…お母さんは、黒くて長い髪をしてたの」
優しい人だった、と人鴉の少女は言う。
「でも、それしか覚えてない」
ユリイカが黙ると、そうかい。とケリストスは言った。
その見透かす様な黒眼は、何を見ているのだろうか。
「まあそのうち思い出す事もあるよ。…それは、魂に刻まれるものだからね」
魂。
チケルの生き物は、それが循環していた。
生きて、死んで、また新しい生を得る。
そのサイクルの基盤は魂だ。
虫にも草にも、魂が有る。
その魂の大きさは皆一緒だ。
ただ、直ぐに死ぬ生き物は導かれなくても空へと還れる。
幻獣や人は、知性が邪魔をするらしかった。
「そんな生き物の魂を導くのが、“死神”だよ」
ケリストスはいつもと同じ声でそう教えてくれた。
「ねえケリストス、図書館に行きたいんだけど」
僕が外出をしたいと言い出すのは初めてかもしれない。
漆黒の眼は瞬きをした。
「ユリイカを連れて行きたいのかい?」
思考を当てられ、心を読まれた気分になる。
「うん。ユリイカに絵本をよんでほしい」
そう言うと、うーん…とケリストスは珍しく唸った。
「研究所に用事が有るからボクはついていけない。読み聞かせができないけど…それでも大丈夫?」
僕は、うん。と答える。
「ストローとユキも一緒じゃダメかな」
ケリストスは首を横に振る、
「それならいいよ。ただ夕方には帰って来るんだよ」
太陽で計算された門限を条件に、ケリストスは外出許可をくれた。
ストローは丁度行こうと思ってた、とお供を快諾してくれ、ユキも眉間に皺を寄せたがついてきてくれた。
キューは早朝に訓練へ行っている。あの子は元気だな、と思った。

図書館に通ずる転送装置の建物に入ると、すれ違う人々は挨拶をしてくれた。
通い慣れたストローについていく。ユリイカは僕のシャツの端を握っていた。
転送装置の乗り心地はいつも不思議だ。足は床から離れないのに、体が浮く感覚があった。
一瞬で視界が変わるのも慣れない。仕方がない事だけれど。
ストローを先頭に僕達は館内を歩いた。
広い敷地の図書館は、シャミ市一の娯楽施設だ。
膨大な量の書籍は、全部読もうとしたら一生じゃ済まないだろう。
その上に定期的に新刊が入書した。この世界の敷地物理は一定では無いので、この広い図書館で読みたい本を探すのは難しい。
だから司書は普通の人はなれなかった。給料も良い、憧れる人の多い職業だ。

シャミ市の人々が初めて読む本は、絵本だ。
読み聞かせるのも母親の仕事なのだが、僕はまだ上手に読めない。
それでもいい、とケリストスは言った。彼は読み聞かせが上手いから、今度コツを教えて貰おう。
僕達は絵本の部屋へ入った。色々と棚を見て、僕が初めて読んだ物を見つける。
魚と人の食物連鎖の絵本。ケリストスが読んでくれたのは、割と最近の話だ。
僕はユリイカにその本を読み聞かせた。
魚がどんどん食べられていく。
そして、魚を食べる人も、大きな魚に食べられてしまう。
僕が元居た世界なら、こんな話は禁書になったかもしれない。
でも、この世界の強者の頂点は人じゃなかった。
ユリイカは僕の隣で絵本に夢中になっている。なんだか嬉しかった。
空の赤い光が窓から入ってくる。
ユリイカと絵本を読んでいたら、だいぶ時間が経っていたらしい。
そろそろ帰ろうか、とその黒い羽を手に取り絵本室から出ると、その赤い眼がどこか一点を凝視していた。
ユリイカ?と声を掛けると、急に僕の手を振り解き走り出す。
慌ててその後を追い掛けたが、運動不足の体はそれに追いつけなかった。
限界になって足を止め、固まってしまう。
必死に走っていたから、周りが見えなかった。
灯りの無い、薄暗い道。
その圧に、覚えがあった。
ユリイカがもし迷い込んでいたら、大変な事だ。

此処は、記憶の間だった。

ユリイカ!!と叫んでも返事があるわけが無い。
空間の寒さに、冷や汗が出た。
黒の中にある赤を捜して僕は走る。だんだん、声が出なくなってきた。
しかしある一つの扉の前で、僕は止まった。
ユリイカの気配を感じる。そして、それ以上に禍々しい圧も感じた。
それは、知ってる圧だ。
その部屋の中に、黒い少女は居た。
白く一つだけの机しかない空間で、その机の上にあった黒い本を今にも開こうとしていた。
だめ、と叫ぼうとして、音が出なかった。
手を伸ばしたが、遅かった。
封印は解かれ、黒い魔霧が部屋を満たす。
強い悲鳴と魔力の風圧に、僕は煽られた。
尻餅を着き、見上げる。
奇声と共に、僕は飲まれた。


誰かが泣いている。
黒い、長い髪の女性が座り込んで泣いている。
その姿に見覚えがある。
しかしそれに気付いたのは、今だった。

ねえ、

話しかけたが、これは本当に自分の声だろうか。
女性は、こちらを見た。
自分と同じ黒い眼の、女性。
それでわかった。
ああ、彼女も、僕と同じだ。
地球から連れられた、母親の荷を負った人間。
僕の前の母親、マキだ。

赦さない

僕の声を遮り、彼女は言った。
聞いたことのある声。
夢で、いつも泣いていた。

私を還して

そうだ、彼女は、この世界を怨んだ。
僕と違って。

「ねえ」

僕は、話し掛ける。

「ねえ、あなたはユリイカのお母さんなんだよね」

だんだん、声が出る様になる。

「沢山子供を産んで、育てたんだよね」

「あなたは、なんでそんなに悲しいの」

辛かった

「うん。辛いよね」

「でも、必要とされたんだよね」

黒い眼が僕の眼に映る。

「あなたは、愛された」

「少なくとも、ユリイカはあなたを愛した」

ゆりいか、と泣き声は呟いた。

「覚えてるでしょ。今もあなたを解き放とうとした」
「ずっとあなたを愛してた。ずっと、あなただけをお母さんと呼んだ」

「愛されるのは、尊いことだ」

あいされてた…?

「そう、あなたは沢山の子に愛されてた」

マキは、僕に手を伸ばした。
僕も、手を伸ばした。


それは、マキじゃないよ


第三者の声に、はっとした。
伸ばした手首を優しく掴まれ、引き戻される。
白い人鷺が、僕を現実に連れ戻した。


意識が戻った時、僕はケリストスの羽の中に居た。
黒い魔霧が取り囲んでいる。その強風の中に赤い眼を見て、ユリイカ、と叫んだ。
ばさり、と白い羽腕が広がると、その風で魔霧が薄くなった。
ケリストスは僕を後ろへ追いやり走り出す。直ぐに黒霧の中に消え、僕はまた名を叫んだ。

大丈夫

真っ直ぐで穏やかな声が頭に響く。
それはケリストスの声だ。

静まれ

その言葉で、魔霧は止まった。
徐々に視界は明るくなる。白い影の向こうで、机に乗った本が黒いぶよに包まれていた。
だめ、という言葉は届かなかった。本はぶよの中で溶けていき、一体化して白くなった。
それを見たユリイカは絶叫し、ケリストスの背中を殴っていた。
白人鷺はそれに怒るでもなく、黒い彼女を撫でた。

「これは、マキじゃない」

優しく宥める声に、僕は、はっとする。

「マキは、星の中で輝いているよ」

そうだ。
死んだ生き物の魂は空へ昇り、星となり転生を待つ。
それが、この世界の理だった。
だから、本に閉じ込められている筈がないのだ。
じゃあ、この本の魔は一体、
「これはマキが遺した呪いに過ぎない」
呪い。
そうならば、僕らは何にこんなに。
「それが呪い」
黒い眼が僕を見てそう言った。
その眼に、悲しみを感じない。
白くなったその物体を、ケリストスは大事そうに抱えた。
「ありがとう、ユリイカ」
泣き喚いていた人鴉の少女は、急な言葉に叫ぶのをやめる。
「君を護っていたこれは、愛から出来ていた」
それがユリイカが産まれた時に纏わりついていた物体の事だと気付くのに、僕は時間が掛かった。
「これはユリイカの愛。そして、マキの愛」
お母さんの…?とユリイカは掠れた声で言う。
「この呪いを解く為に授けた物だと、研究者は突き止めてくれたよ」
ユリイカは、そん、な、と、赤い眼から雫を落としながら狼狽えた。

ケリストスに導かれ、記憶の間から出る。
歩いている間、ユリイカは無言だった。
時々鼻を啜るその顔から、色んな感情を感じる。
いつの間にか辿り着いていたエントランスには、客ではないとわかる人達が居た。
色々な制服の人が居るが、その中からローブの人蜥蜴が僕達に駆け寄る。
その人に白い物体を手渡しした直後、ケリストスは崩れ落ちた。


ケリストスが目覚めたと聞いて、僕は病室のドアを開ける。
白い部屋、という感想が出た。でも、窓に掛けられたカーテンは揺れている。
「ケイゴ」
沢山あるベッドの一つにケリストスは寝ていた。
「大丈夫…?」
そんな訊き方しか出来ない。
ケリストスは頷いた。
「大丈夫なのに一日入院を言い渡された」
「妥当だと思うよ」
闇空との境目のカーテンが煽られる。
「ユリイカは?」
「ユリイカは休憩室に居るよ。今はストローが側に居てくれてる」
怪我も無かった、と話すと、ケリストスは良かったと言った。
「…あれは、」
訊きたい事があるのに言葉にならない。
でも、ケリストスは把握してくれた。
「呪い、というものは長年研究されてるけど、わからない事が多い」
僕はベッド横の丸椅子に座る。
「“感情”の魔力化したものだと思われてるが、それの発生条件も明白になってないんだ」
「…そうだろうね」
ケリストスの黒い眼を見ながら言った。
「多分、ここの皆は優しいから、そういう苦しみもわからないと思う」
含んだ言い方になってしまったが、シャミ市を見てしみじみ思う。
「嫌な気持ちを書いたら、それは呪いになってもおかしくないよ」
「負の感情を発散する為の裏の日記なんだけどな」
「発散出来てるからわからないんだよ」
そう言うと、なるほどね、とケリストスは相槌を打った。
「平和だから、わからない事って有るんだと思う」
シャミ市に溢れる人々の笑顔を思い出す。
ケリストスは考える様に嘴を撫でた。
「まあ、今回は無事に収まったわけだけど」
そうだね、と僕も頷く。
「負の感情と、愛、か」
ケリストスはぽつりと呟いて、それきり黙った。
「僕、ユリイカの様子見に行くね」
気まずくなって立ち上がると、お願いね、とケリストスは声掛ける。
僕は病室を出て、バタンと扉を閉めた。

待合室のソファで、ユリイカは泣いていた。
キューは隣に座り背中を撫でている。
お母さん、と声を掛けてくれたから、僕もユリイカの隣に座れた。
おかあさん、おかあさん、とユリイカは羽で涙を拭きながらしゃくり泣いている。
「ユリイカ」
僕は頑張って優しい声で、ユリイカの黒い頭を撫でた。
「あれは、マキさんじゃないんだよ」
「おかあさんだもん!!!!!!」
ユリイカは駄々をこねる様に言い切る。
「だって、おかあさんだったもん!!!!!!」
「見た目はそうだったかもしれないけど
「おかあさんだもん!!!!!!」
それはもう金切り声の様だった。
僕は深呼吸をしてから、なるべく優しくユリイカの頭を撫で続ける。
「マキさんの魂は、ちゃんと星になってるよ」
死んだ生き物の魂は、大小関係無く夜空へと昇り、星になる。
「あれはマキさんじゃない。あれは、ただのマキさんの魔力なんだよ」
そう。だから。
「だから、ユリイカは悪くない」
ユリイカはやっと赤い眼をこちらへ向けた。黒い羽根に覆われていても、目下の皮膚が赤くなっているのがわかる。
「ユリイカが産まれてくれて、…あのぶよぶよを僕らにくれたから、マキさんが残した呪いを浄化出来たんだよ」
それは、良かったこと、と念を押した。
「…私は、悪くないの…?」
震える声に、僕は頷く。
ユリイカはまた泣き出した。
それはさっきとは違う、安堵からの涙だとわかる。
僕は何も言わずユリイカの頭を撫で続けた。


大鴉の馬車に運ばれ家に着いた頃には、もう空は黒かった。
キューに頼み、ユリイカを僕のベッドに運んでもらう。
「本当にお母さんのベッドで寝かせるの?」
泣き疲れ熟睡したユリイカに掛け布団を掛けた。
「うん。何かあったらすぐ対応できるし…なんだか心配で」
そう言うとキューは小さく笑う。
「お母さん、ユリイカに過保護だよね」
そんなつもりが無かったので、きょとんとしてしまった。
「でも、ボクもお母さんの子だからね」
当たり前の事を言われ、僕は首を傾げる。
その真意は言わず、おやすみと残しキューは部屋を出ていった。

僕は窓から空を見上げる。
黒い世界に、星が瞬いていた。
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