フジの数え歌

小烏屋三休

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四十九

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 ロディオンはそのころ、姿をナメクジに変えられたばかりだった。そして、海水に弱く、筋肉もぶにゃぶにゃのこの体では今後の航海は無理だと、ポウに言い渡された。しかし物心ついてから海賊船で暮らしてきたロディオンにとって、陸の上で生きる術はなかった。なんとか乗船させてくれと船長に食らいつく間も、体中がじゅうじゅうと音をたてて脱水症状を起こしていた。
「荷物を担げるやつしか船には乗せない」
 ポウは冷たくあしらった。
「誰のせいでこんな姿になったと思っているんだ!」
「女みたいなことを言うやつだ」
 途端にぎろりと目を光らせて、ポウが懐に手を入れた。銃を出すつもりか、とロディオンは体を緊張させた。しまった、自分の銃はベルトごと尻の方に移動してしまっていて、簡単に抜けそうもない。それに、もっと逃げ場のあるところでこの話を持ち出すんだった。
 ロディオンがじりじりと後退していると、年寄の海賊が、慌ててポウを止めた。
「船長、待ってくださいよ。あんまりひどい仕打ちじゃありませんか。船に乗ってもどうせ潮風で死ぬだけですが、こう言ってるんだ、望み通り、船で死なせてやりましょうよ」
 じじい、俺はまだ死ぬつもりはないぜ、とロディオンは思った。ポウは黙って懐に手をしまったままだ。
「船長は、もっと仲間を大切にしなけりゃいけませんよ。それに、力がなくたって、こいつもこれでなかなか使える男じゃないですか。口も達者だし、抜け目もない。生きている間は、もっと交渉事を任せてみたらどうでしょうかね」
 老いた海賊に諭され、ポウも考えるそぶりになり、ようやっと懐から手を抜いた。
「じゃあ、ヨロヨロ岬の沖合の海図を手に入れてこい。手に入れたら、乗船を許可する」
 ロディオンはこれを必死で調査した。そうしてとうとう海図の所在をつかんだが、国連にあわや先を越されそうな気配だった。というのは、国連もこの海図を追って、情報官じきじきにンバラマの港町までやってきていたのだ。お偉方が来ているということで、通常よりところどころの警備も篤く、少しでも海賊とにおわすようなことをすれば、簡単に警察に拘束されそうだった。それはとても緊迫した探索であった。しかも季節は夏だった。ロディオンの体力は限界、干からびる寸前だった。海図まであと一歩というところで、卒倒よろしく倒れてしまった。
 そこは人気のない路地だった。見るからに胡散臭い様相のロディオンを見て、路地の脇に建っている家のおかみさんが彼に向かって塩を撒いた。しゅー、と音を立てながら体から最後の水が抜けていった。もう終わりだ、とロディオンは目を閉じた。そこへ、底光りする黒曜石のペンダントを胸に下げたカリオペ女史が通りがかったのだ。そのころのはパイナップル型ではなく、猫の形をしたウエストポーチから、華奢な霧吹きを出して、彼に吹きかけた。
「この霧吹きはいいよ。肌を乾燥から守る、いい魔法がかかっている。お前さんにあげよう。なぁに、また似たのをデパートで買うからいいさ。最近はデパートの品も馬鹿にならないからね」
 ロディオンは生き返った心地がしたが、まだ声を出せるほどの力はなかった。それでも必死に顔を上げて相手の顔を見た。女史は黒曜石のペンダントを目のところにあてて、ロディオンを観察した。
「ふむ。素人がかけた魔法だが、解くのはなかなか厄介だね。霧の国の王立病院にエミューン教授というのがいるがね、この人なら何か力になれるかもしれないよ。ま、お前さんは見たところ気質かたぎじゃないね。エミューン教授は気質の人しか診ないから、まっとうな仕事に変えてから行くんだね。他でもない命のためだ、転職しなさい」
 たちまちロディオンにかけられたナメクジの魔法を分析すると、そのまま去っていったのだった。
 ロディオンはあの冬の日の出来事を、片時も忘れることはなかった。
「あなたのことを、あの後調べさせていただいたんです。国連の情報官を務めてらっしゃるカリオーピー様。御覧の通り、わたしはまだ海賊業を続けているので、あなたとは真反対の立場だ。エミューン教授にも診察してはもらえません。しかし、海賊を続けていれば、敵同士ではあっても、いずれ再会できるだろうと信じておりました。わたしはあなたのおかげで、船上生活が続けられた。それは魔法の霧吹きの力だけではないのです。何よりも、あなたの笑顔を思うだけで、誰からも見捨てられる生活に、光がさしたのです」
 ロディオンはカリオペ女史に化けたフジの手をはっしと取った。
「こんな敵陣の危険なところに!わたしがこの物売りの大船に乗ってあなたを護衛したいのだが、どうもしてあげることはできない。重大な航海が控えていますのでね。なんとも、なんともタイミングが悪い!本当だったら」
 ロディオンはフジの手を撫でさすりながら、言葉を募らせ、止まる気配がなかった。
「わたしが思っていたような再会ができていたなら、すぐにでもあなたをさらって、わたしだけが知っている無人島に押し込めてしまうのに!なぜって?そこでならあなたとわたしはただの男と女になり、敵同士ではなくなるのです。そこであなたを大切に大切にしてあげる。もうほとんど準備はできているのです」
 ナメクジなりに片眉を器用に持ち上げて、フジの表情を伺ってくる。
「もちろん、あなたがそれでよければですが」
 何言ってんだ、ほぼ初対面の相手に、そんなのいいわけないじゃないか。そのぺたぺたした手をさっさと放せ。とフジは叫びたかったし、カリオペ女史でも似たようなことを言うだろうと思うが、どうにかこらえた。
「まあ返事はまだいいです。あなたも下界でやり残したことがあるでしょう。それに、申し上げた通り、今すぐにはできないのです。わたしが次の航海から戻ってきたら、必ずあなたを迎えにいきましょう。目下、あなたは無事に陸に帰らなければならない。何か、手助けできることはありますか」
 チャンスが向こうからこちらに転がり込んできた。フジは高鳴る胸の鼓動を抑えきれず、頬を紅潮させた。
「ある。あるったら、ある!」
 あまりの勢いに、ロディオンも少したじろいだが、こちらも興奮気味にさらにフジの手に力を加えた。
「よしきた、おっしゃってください」
 こほん、とフジは咳払いをしてから言った。
「では、水の石もどきが入っている、歯の箱を持ってきなさい」
 あれ、歯の箱の鍵をもらうんだっただろうか。ま、どちらでもいいか、と考えながら、フジは気持ちを落ち着かせるために深呼吸をした。
「それはできませんな、残念ながら」
 しかし返ってきたのは、取り付く島もない、即答だった。
「なんでだよ」
 口先では護衛したいだの、手助けしたいだのと言うが、結局のところ、自分の都合ばかりを優先させて手を貸す気配はない。口で言うほどカリオペ女史に思い入れはないのかもしれない。言葉が軽い。あれだ。ニッキがよく言っていた、信用してはダメな男だ。フジが不快げにロディオンを見ると、相手は軽く目を細めた。
「そんな顔をなさらないでください。断る方も心が裂かれそうなのです。そんなことをしたらわたしの命はありません。あなたもわたしの命まで危険に晒してほしいとは思っていないでしょうよ。そうでしょうとも。他の事ならなんでもやってみせましょう。しかしあなたも、わたしが容認できないような要求をするなんて、やはり相当な女性ですね」
 ロディオンはフジに片眼をつぶって見せた。フジは心底、ロディオンが嫌になった。この男の近くで仕事をするのも苦痛だったが、無人島などにいって二人きりで暮らすなんて、到着したその日に憤死してしまうかもしれない。ポウだったら、こんなことはない。勝手に恋人を無人島に押し込めることもしないだろうし、もっと一言一言に重みがあるだろう。フジはこの場にいないポウにしばし思いを馳せ、遠い目をした。
「美しい。両方の瞳の色が違う。こんな色は、初めて見ます」
 ロディオンが距離をさらに縮めて、瓶底眼鏡の奥のフジの瞳に目を凝らした。本物の女史の瞳の色は、確か両目とも薄い茶色だった気がする。フジはできるだけロディオンから離れようと、その胸に手をついて押しのけようとした。そこではたと思い出した。
 たしか、こうして相手の胸に手を置くと、たいていのお願い事は通ると、小人は言っていなかっただろうか。だが、自分や、カリオペ女史にその力があるだろうか。
 フジは意を決して、ロディオンに自分から身を寄せた。ナメクジのロディオンはとっさに身を固くした。
「無理を承知で、お願いしております。あなたにしか、お頼み申せないのでございます」
 いつもはだみ声を発するカリオペ女史の喉は、このとき小鳥のさえずりのような声を発した。
「別にあなた方の石に危害を加えようと考えているのではございませぬ。ただ、国連側の人間として、使用前のその石を、生で確認したい。どんな色してんだとか、重さだとか。将来的にはそれは、まあ、その、取り締まるって言うの?そういうことをするわけでございますけれども、もにょもにょ、ただいまはそんなことはしませんとも。ただどんなものか見る、それだけでございます。ご覧の通り、わたしはもう乙女という年ではございませぬ。よしんば涙やら唾やらが垂れたところで、まったく問題ございませんもの。ほほほ」
 笑い声をあげながら、ロディオンの胸を指ですーっと撫で上げてみた。ロディオンはふっと短く鼻息を出した。
「な、な、何をおっしゃいますか」
 ロディオンがどこまで本気だかはわからないし、信用もできないが、とりあえずやれることだけをやるのみだ。
「わたしは、乙女では、ありませんの。ですから、お願い」
 自分の口元に手をやって、小首をかしげて相手を見上げる。こういった動作がいちいちロディオンに劇的に作用しているのが伺えた。
「むはー。あ、あなたはこれ以上ないくらいに可憐な乙女です。むしろ世界中に乙女という存在はあなたしかいないのだ。男を惑わすために香水だなんだのをつけている女たちは、魔性です。あなたのように、なんの計算もなく、深い森の奥の湿った大地の混然たる香りをさせてこそ、母なる性を備える純真な乙女なのです。だからこそ、わたしだって出し渋ってしまうのです。乙女の唾がかかることは、なんとしても避けねばならないのですからな。石が無力になれば、船長は不機嫌になってわたしをなぶり殺すでしょう。ですが、そんなにおっしゃるなら、あなたを信用して、あなたが言う水の石もどきを持ってきてあげてもいい。そう、そうしてあげましょう。あなたが、わたしと無人島で暮らす覚悟を決めてくださると、そう約束していただけるなら。だって、わたしはとても危ない橋を渡るんですよ」
 ロディオンは血走った眼を隠そうともせずに、ぎろぎろとフジをねめつける。
「おー。感謝いたします。それに、もちろん約束しますとも、ロディオン様」
「あれ?わたしの名前をご存じなのですね?」
「もちろん、これでも国連の情報官ですもの。へほほ」
 おっと、あまりしゃべりすぎてはぼろが出るぞ、フジは背中に一筋の汗をかいた。ロディオンはごそごそとたすき掛けにしていた鞄をまさぐると、古びたノートを出してきた。
「さ、ここに誓約してください。わたしの言う通り、無人島で暮らすと」
 おそらく、魔法の制約力を持つノートなのだろう。こんなものに署名しては大変なことになる。
「そんなの、恋人同士らしくございませんわな」
 フジはロディオンの手からノートを奪うと、そそくさと彼の鞄に戻した。それから長身のロディオンに向かって背伸びをすると、ナメクジの顔の中でも頬と思しき箇所に口づけた。
「さあ、これでわたしの心がわからなければ、とんだ野暮作ですわよ。早く、歯の箱とそれを開ける鍵を持ってきてくださいな。でも、ご自分で開けたりしてはいけませんわよ。急いでいるんですもの。船長に見つからないよう、さっさ、さっさと持ってきてくださいね」
「わ、わかりました。あなたのためなら、なんだって!」
 ロディオンはナメクジの体をぶにゃぶにゃにさせながら渡し板を通り、サローチカ号に戻っていった。
 フジはあんまりにも簡単に航海長が騙されたことに、安堵するというよりむしろ背筋が冷えた。そして、人を簡単に騙した自分自身を、少し遠くに感じた。
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