フジの数え歌

小烏屋三休

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五十

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 やってしまえば、とてもあっけないことだった。ロディオンはその後首尾よく歯の箱を持ち出し、物売りの大船にいるフジにそれを鍵ごと渡した。フジはどうにかロディオンの死角で箱を開け、花に姿を変えていたバダンスキーをそっと取り出した。それからまたロディオンに歯の箱を返し、自分も変身を解くと人目を忍んで納戸に帰った。
さんざん買い物をした海賊たちは皆、布袋(ほてい)のようなほくほく顔でサローチカ号に戻り、船は再び秋の谷目指して進み始めた。お互いに買ったものを自慢しあったりしながら、風と潮に乗ってゆったりと船を進ませるため、割合にのんきな旅だった。
 ある夕方の、じきに晩御飯のスープが配られ始める時間だった。小人三人は、いつもならスープのおこぼれをもらいに厨房に陣取るのだが、この日は茫然自失の体で縄梯子に磔にされたフジを見上げていた。見るからに痛そうにきつく締め上げられた手足の先は、すでに赤黒く変色している。
 この少し前、フジたちは皆、納戸でくつろいでいた。与えられた修繕作業も一区切りし、お茶を飲みながら雑談をしていた。ターパチキンがおもしろおかしくおしゃべりをするのを、マチャルコフとフジが時折まぜっかえしながら聞き、バダンスキーは少し離れたところで聞きながら、ヤガーの水の石もどきを検分していた。そのとき、納戸の扉が乱暴に開いた。
 ターパチキンとマチャルコフは慌てて壁の穴に飛び込んだ。バダンスキーだけはヤガーの石をどうにか隠そうと奮闘していたが、とうとう屈強な男二人がフジのすぐ後ろまで来ると、その場でナデシコの花に姿を変えた。男たちは中腰になって立ち上がろうとしていたフジの細い腕をとって、動きを封じた。フジとも割合に仲のいい男たちで、フジが抵抗もしないまま、ただただ驚いた顔をしているのを見つけると、気まずげに口を曲げた。しかし手加減はしてくれなかった。腕を掴む力は、みかんくらいなら握りつぶしてしまえるのではないかと思えるほどだった。
「船長が呼んでるから、来い」
「痛い」
 抱えあげられて部屋を出ると、上甲板に投げ出された。転がっていた太いロープにアバラをしたたかに打ちつけてしまった。甲板に手をつき、しかめた顔を上げると、ポウが仁王立ちになっている。
「お前、ヤガーの石にどうやって近づいた」
 言いながら、ポウはフジが押さえていたアバラを、腕ごと蹴り飛ばした。
「あ、今そこ、ほんとだめ」
 痛みで声がかすれる。ポウは額に血管を浮き上がらせて、フジを見下ろしている。ポウの後ろにロディオンがいて、こちらも目を血走らせているのが分かる。その後ろにサリーがいるが、これは妙に無表情だった。
 フジは次第に落ち着いてきた。ロディオンが相変わらずポウの背後に立っているのだから、彼が歯の箱の開閉に関わったことは知られていないらしい。彼はフジがカリオペ女史に化けていたことに気づいているのだろうか。
「おい、答えろ。どうやって石に近づいたんだ。他に誰か手伝った奴がいるのか」
 ポウが甲板に膝をついて、フジの小指をひねった。
「鉄てこを持ってきて、爪を引っこ抜かせろ。全部だ」
 乾ききっているはずのロディオンから、じんわり、と脂汗がにじみ出る音をフジは聞いた気がした。
「緑の人魚の仕業じゃあないの」
 フジが押し詰まった声を出した直後、ポウは手近にあった木切れ拾った。それをつまらなさそうに振り上げ、フジの角に打ちおろした。木切れはまず片方の角を砕き飛ばし、フジの頭を甲板に叩きつけてからもう一方の角に当たった。二本目の角も、鈍い音を立てて折れたものの、皮一枚でつながり、ぶらりと額にぶら下がった。
 ポウはそれ以上フジに構うことをよしたようだった。縄梯子の高い所にこの小鬼をくくり付けるように言いつけると、ロディオンや他の幹部たちと今後のことを相談するため船長室に戻って行った。
 なぜであろうか、誰もフジの爪を引っこ抜こうとはしなかった。半ば意識を飛ばしている間に、手際よく縄梯子にくくりつけられただけだった。だが、その縄の縛り方のなんと手荒で、容赦のないこと。フジは時節、痛みで意識を取り戻しては、頭や四肢がちぎれるのではないかという感覚に耳鳴りを感じて、また意識をもうろうとさせる、というのを繰り返していた。折れた角からは、青黒い血のようなものが流れている。
 作業をしている男が、
「お前、なんでこんなことしたんだよ」
 とフジに言った。
「ことが済んだら、お前は誰かに殺されちまうよ。皆、頭に来てるどころじゃないんだ。ここまで来て、無駄足になったらと思うとさ。ただ、お前にとって幸運だったことは、ヤガーから今回もらった石は一つじゃないことさ。一番いいやつはお前がだめにしたが、他にも木箱一杯分あるからな。全部だめにしてたら、帰るまでの道のり、死にたくなるほど折檻されるぜ。まだ打つ手がないわけじゃない、とサリーが言ってるから、作戦会議や準備で船長も手がいっぱいで、お前は地獄を見ないで済んでるわけだ。ああ、なんとか、秋の谷が浮かび上がるといいんだがな。ここまできて、もう手ぶらでは帰れんぜ」
 なんと、他の石に影響が出ないよう、魔力の最も強い石だけが歯の箱にいれてあったのだが、他にもたくさんのヤガーの石があって、それを使って秋の谷の引き上げ作業は続行されるらしい。道理で、島から積んだあの箱はやたらと大きかったわけだ。フジは自分のうかつさに歯がみした。
「だけど、俺は船長にむしろ腹を立ててるぜ。甘いんだよ、やり方が。こんな胡散臭い小鬼、最初から海に捨てちまえばよかったのに」
 もう一人の男が言った。
「まぁまぁ。ほら、もう秋の谷につくよ。最後の景色になるかもしれないから、よく見ときな」
 本当に考えが甘かったのだ。
 ヤガーの石が複数あったこともそうだが、ことが発覚したときの対応を考えてなかった。こんなに早くばれるとは思わなかったのだ。秋の谷の水上に到着し、水の石もどきがうまく働かないと手間取っている間に、国連の船が追いついてくれるかもしれない、と淡い期待をしていた。
 それに、徐々にポウと親しくなって、分かり合えるかもしれないとも考えていた。だって、なんだかんだ言って、ポウは面倒見がいいじゃないか。ヒューと自分がいさかっているとヒューの方の首を掴んで二人を遠ざけるし、とげの実の島でも優しかった。自分を抱きしめ、はちみつだって分けてくれた。嫁だか恋人だかにしてくれるようなことも言った。
 しかし仕方がない。フジだってもう後戻りはできなかった。自分は秋の谷を守るため、魔女の島から抜け出し、再びサローチカ号に乗った。考えてみると、こうして今その勤めを果たすために、三年前の水没から一人助かったのかもしれない。
「船を引き返して」
 低い声で呟くと、二人の男は困ったように顔を見合わせた。
「あのなぁ。この海を死人の血で汚すと精霊たちが怒るから、お前はまだ生きてるんだぞ。殊勝にしとけよ。反省してるって顔しとけば、すべてが上首尾に終わった時に、見逃してくれるかもしれないぜ。望みは薄いけど」
「そうそう、気を強く持つことだ」
 男たちはそう言い残して、縄梯子を降りていった。
 蹴られた額も、縛られている手足も、顔に当たる海風もすべてが痛い。暑さと吹き付ける風でからからに干されて、紐になっていくような気分だった。すっかり縄梯子に同化しようとしていたころ、船長室から一度ポウが出てきて、こちらを見上げた。その顔はもう冷静になっていて、いつも通り、眉を片方だけあげていた。磔の首尾を確かめているようだった。その冷たい瞳は、時折見せる楽し気な光もたたえていないし、以前抱きすくめられたときに見せた射抜くような瞳でも、もちろんなかった。
 すると情けないほどにフジの顎がわなわなし始めたので、もうポウの目について考えることはよした。
 フジが縄の上で頑張っていると、ポウは軽く片手をあげて、彼女に挨拶をしたようだった。何気ないしぐさにふとこわばった頬を緩ませようとしたフジは、すぐにそれを再び固まらせた。
 ポウの手には、ニンニクのようなものが握られていた。台所に吊るしておくときのように、一連に縄で縛ってあるやつだ。フジは目が良いので、それがニンニクではなくて、三人の小人たちであることがわかった。そしてそれをポウが船の縁までもってきて、ぽいと、いともたやすく海に落とすのを見た。見た気がした。しかし、すぐに見間違いに決まっていると思い直した。だってあんまりではないか。ポウは、もっと優しい人のはずだ。こんな鬼のような所業を、するはずがない。。
 それからポウはさっさと船室に戻ったが、ポウのすぐ横でモップを握って掃除をして一部始終を見ていたヒューが、慌てた様子で船縁に身を乗り出した。
 フジはもう何も見たくなくて、瞼を力いっぱい閉じた。熱い涙が、両目から流れた。涙は燃えたぎっているのではないかと思われるほど熱かった。
 どれくらいそうしていただろうか。そんなに長くはなかっただろう。上甲板で、ざわざわと海賊たちが集まって歌をうたうのが聞こえてきた。いつも作業時に口ずさむ歌ではない。厳かな祈りの歌のようだった。
 ゆっくりと目を開けると、海賊たちは皆、銀色のとんがり帽子のようなものをかぶって、輪になって手をつないでいる。輪から外れたところに、ポウと、サリーが立っていて、真っ暗な海の中を覗き込んでいた。サリーは腕にヤガーの石を大量に抱え込んでいる。
 ではとうとう、秋の谷についたのだ。彼らは今まさに、何らかの儀式を行い、谷を浮上させようとしている。魔法使いを毛嫌いする海賊が多い中、皆がとんがり帽子をかぶって魔法の儀式をするなんて、滑稽だった。大きくとぐろを巻いた黒雲が空を覆い、強く吹いていた風が、やわやわとまとわりつく微風に変わった。
 フジは鼻から、深く空気を吸い込んだ。懐かしい故郷の風の匂いがするかと思ったが、今までと変わらない、淀んだ生暖かい海風だ。次いで、海の中に故郷の小道や建物が見えるかと目を凝らす。住んでいた城や、よく通った小道、よじのぼって遊んだ廃屋の柱が見えはしまいか。しかし見えるのは鈍く銀色に濁った海面ばかりで、何ものも透かして見ることはできなかった。
 ポウが光る石をサリーから慎重に受け取った。船首の船べりに戸板が張り出している。不安定な足場を、ポウは身軽に歩いていった。どうやら、板の先っちょから石を海に落とそうとしているのだ。暗い水では、何かがうごめく気配がする。水の精霊が、何が起こるのかと水面まで上がってきているのだ。
 フジは再び目を閉じた。瞼の裏には、五歳年上の、穏やかな兄がいた。湿った手をした姉や妹がいた。ウォリウォリの家の門番をしてくれているトム爺さん、小言を言おうとして目を三角にしているニッキがいた。物言いたげに自分を見つめる捨助、犬に棒を投げ続けるニタカ、大口を開けて笑うテン、フジの仕事を黙って引き受けてくれるナマメッキが、次々と浮かんでは消えた。自分は色々な人に会うことができた。海賊に浮かび上がらせられることで谷の人間は死ぬが、それで救われる人もいるのだ。正解のなさそうな策に悩むことなく、ただ流れに任されていればいいじゃないか。
 待て、考えることをやめてはならない。自分にできることはまだあるだろうか。自分は秋の谷の姫なのだ。谷の人々に十分に愛され、大切にしてもらった。谷がなくなってからも、谷のことを思うだけで、苦痛と隣り合わせに幸せをもらった。どうしたって、自分の寄る辺は秋の谷である。ならば、谷の人間として何かを為してもいいかもしれない。
 でもできることってなさそうだ。手も足も動かないし、ここではそよ風を吹かせる魔法しか使えないのだ。やはりもう終わりだ。
 発想を変えてみようかしら。自分に何かができない理由はあるのだろうか。なんといっても、自分は神霊やどる秋の谷は魔女王の九番目の子だ。そして今、鬼の力も持っている。秋の谷の無念を込めた水の石も持っている。この船の誰よりも、強い力を持っているのではあるまいか。海賊たちに勝手なことは許さないと決めたら、それを阻止することくらいできるはずだ。フジは折れてなくなった鬼の角が熱を持ってくる錯覚に陥った。
 手始めに、この汚い船ごと洗濯でもしてみようか。
 フジは大きく息を吸い込んだ。折れた角から、びゅぅ、と短い音を立てて青い血が噴き出した。
 やがて帆という帆がばたばたと風をはらみ膨らんだ。フジは低い声で呪文のような歌を口ずさみ始めた。一つ、百歳、人身御供、二つ、深く降りし封、霊結び……。海賊たちは一心に歌を歌っているので、フジの様子には気が付かない。一人、サリーだけが素早くフジを見上げ、すぐにまたポウに視線を戻した。
 どこから湧いてきたか灰茶色の雲が黒雲の下に広がり、放電を始めた。すぐにそこから細い稲妻が落ちてきて、ポウの立っている戸板に当たった。稲妻の割には、小ぶりな、間の抜けた音だった。それは戸板を割り、その先に目をまん丸くしたポウを乗せたままポトンと海に落ちていった。
 強い風が吹き、ポウが落ちたところを中心にして、海が大きくうねった。ロディオンを始め、海賊たちが喚きながら船縁に駆け寄り、海を覗き込んだが、船長はみつからない。海を覗き込んだほとんどの海賊たちは、何かおぞましいものでも見たかのように船縁から飛びのき、胸元でまじないを切ったり、祈りの言葉を口にしたりしていた。ロディオンと数人の海賊たちは浮き輪を投げ入れたり、海に落ちたものを拾い上げるときに使う網のついた長い竿を持ってきて、それを海に向かって何度も、何度も突いている。
 海賊たちはもう、それぞれに自分の作業に夢中で、フジが一層声を張り上げて歌を唱えだしたのに気づくものは、サリーを除いていなかった
 その時にはフジの短い頭髪は燃えるように逆立ち、折れた角からは青い血しぶきが絶え間なく噴き出ていた。サリーはフジをぼんやりした顔で仰ぎ見ているが、フジの様子を特に誰かに伝えようとは思いついていないようだった。サリーはそれから、転がってきた桶に肋(あばら)を打たれ、くの字に体を折り曲げた。
 フジはもうじき十まで歌い終える。再び細い稲妻が幾筋も走り、サローチカ号を痛めつけた。自分たちめがけて落ちてくる雷に、海賊たちは驚愕した。我を失ってやたらと騒ぐ者もいたが、ロディオンは大振りに揺れる船上で頑張り、相変わらずやっきとなって水面を竿でつついている。もしかすると船長を助けようとしているのではなく、突き沈めようとしているのかもしれない。
 やがて稲妻は、フジが縛られている縄梯子のかかっているマストにも落ちてきた。海賊たちの怒号の中、マストは折れ、船体に当たって船を大きく破壊した後、海に落ちていった。フジはその間、振ってくる索具や桶、木の破片を免れ、奇跡的に体を痛めずに済んだが、縄梯子から逃れることもできなかった。
 数回水面に出たり、また波に飲まれて沈んだりを繰り返していたうちは、切れ切れに聞こえる怒声や物が落ちる音でてんやわんやな感じだった。途中、突如として湧き出たように現れたサリーに、何か叫ばれて握らされたが、怒号や水しぶきで聞き取れなかった。じきに一定して下の方に沈むにつれ、静かになっていった。上から見ると真っ暗だった海は、中に来ると不思議に黄色く輝いていた。フジの腰袋にしまってあった、兄から送られてきた水の石が、自ら出てきて、泡に包まれてフジより一足早く落ちていった。それから、手のひらを開くと、もう一つ石が出てきた。サリーに握らされたのは、一度ポウの手に渡ったはずの、ウォリウォリで作った水の石だった。なんで彼はこれを自分にくれたのだろう。考えたが、わからなかった。
 水の石は、きちんとフジの魔法に従って谷を百年がとこ沈めてくれるだろうか。バダンスキーにやり方を聞いただけの、ぶっつけ本番の魔法だったが、どうだろうか。
 やがてフジは自分の住んでいた城の真上にサローチカ号が来ていたのだと知った。灰色の瓦屋根が、昔と変わらずそこにある。風呂場の煙突から、魚が一匹顔を覗かせている。
 では、あの瓦屋根の真下に、兄妹が身をひしめきあわせて沈んでいるのだろうか。船で脱出しようとしていた谷の人々は、どこに行ったのだろうか。生き物は、先ほど見かけた魚一匹以外はてんで見当たらない。いや、先ほどから水が笑うように揺れるような感覚がしているが、もしかすると精霊たちが辺りを泳いでいるのかもしれない。
 マストが瓦屋根のところまで到着した。辺りはきらきらと金色に輝き、美しかった。いろいろと沈んでくる物の影にポウの姿があった気がした。とても遠くだったが、目を開いてこちらを睨みつけているように見えた。
 水中にいるので本当のため息はつけないが、フジの心からは、細くて深い、深いため息がするりと抜け出ていった。
 故郷を離れてから三年、自分にとっては途方もなく長い年月だった。いつまでもいつまでも、毎日はどうしてこうも続くのだろうと思っていた。救いようもなく青く輝く朝の空を、何度見上げただろう。霧の国に来てからは朝靄にさえぎられてその空を見ずに済んだものの、その分、夕方の雲に目が焼かれるような思いだった。
 限界を超えたのか、息苦しさが次第に薄れてきた。屋根の下の窓が開いていて、カーテンが屋根の上まで翻っているのが見える。びらびらと動くその陰に、妹がよく着ていた、黄色い着物の端が見えたような気がする。視界がだんだん暗くなっていく。
 それから手首の辺りが突如軽くなった。続いて、足首の辺りもふわりと、浮くように軽くなった。意識が遠のくと同時に、懐かしい景色も遠のいていってしまった。妹の声が、聞こえたような気がした。
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