フジの数え歌

小烏屋三休

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五十一

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 気づいた時には、フジは再び水面に出ていた。誰かの胸に抱えられた状態で浮いていると分かるまでに、ずいぶんと時間がかかった。ようやく目の焦点を合わせて見ると、それはサリーだった。葡萄酒色の髪が濡れ、血のように赤くなっている。いや、本当に頭を負傷しているらしく、血がべったりついているのだった。
「気づいたね。いい子だ」
 サリーは軽くため息をついた。魔法を使ってフジの正気がもどるようにしてくれていたらしい。ため息とともにその魔法を止めたのか、フジの体は急速に冷えていった。
 サリーはぐったりしたフジを抱えながら泳ぎ、少し離れた場所に浮かんでいた、人が一人乗れるくらいの板切れにフジを押し上げた。
「やれやれ。やっぱり船を壊してしまったね、このお姫様は」
 フジは大量の水を飲み込んだらしく、苦しくてたまらなかった。サリーは水を吐きやすいよう、フジの頭を横に向けてくれた。急き込みながら水を吐いたが、苦しさは増すばかりで簡単には楽になれなかった。
 自分はあのまま、沈んでしまっても良かったように思う。目が覚めてみれば、息は苦しいし、体のあちこちは痛むし、とても寒い。別に助けてくれなくてもよかったのに。何で助けたんだ、と文句を言いたかったが、それも億劫で、ごぶごぶと水を吐きながら、短く、
「谷は」
 と訊いた。サリーは今度は、背を撫ぜてくれた。フジはそんな風に優しくされるのは嫌だったが、それを振り払う力も残っていなかった。
 視界が霞んでいて、何も見えない。もう雷は止んでいて、海も凪いでいた。ただ霧の中に自分の乗った戸板と、水をかぶったサリーがいるだけ、静かな波が二人をゆする音がするだけだった。
「谷は浮かび上がってこないよ。ポウの儀式は、君の魔法に上塗りされたみたいだね。秋の谷は眠り込んだ精霊と一緒に、深いところまで沈んでしまったようだ。ここもどんどん水嵩が増している。それにしても、腰袋に妙なものが入っているとは思っていたけれど、本物の水の石が入っていたとはね。一体、君はどうやってそんなにほいほい水の石を手に入れるんだろう」
 では、小人から手順を聞いただけで試してみたフジの魔法は成功したのか。それで一体、よかったのだろうか。どさくさにまぎれて実施していい魔法ではなかった。それでも、ニタカや皆が自分に実施を求めていた魔法だったはずだ。でもいったい、皆って誰だ?
 フジはこれから続く毎日の長さを思い、瞳を静かに閉じた。
「二つ降りし封霊結び、とは、とりあえずその場つなぎみたいな状態だ」
 サリーの声が遠くから聞こえてくるように感じた。フジが再び気を失わないよう、根気強く話しかけてくれているようだ。
「君のところの数え歌だよ。一つ百歳、人身御供、であれば、百年後に浮かび上がるのを待つしかないが、二つだったら、精霊はそこまで沈み込んではいない。手の届かないところまで沈む一歩手前で、霊結んであるという意味だ。さすがに一介の海賊には手は出せないが、三つ目、四つ目の水の石を使えば、土地は蘇る。四つで元通り土地が浮かび上がるなんて、巷で言われる百個という数より、随分と少なくていいものだね」
 フジがようやく目を開けてサリーを見ると、サリーは肩を竦めた。
「わたしはオフニ山の向こうの、雪深い国の出身でね。今は沈んでしまったけれど、秋の谷としては、唯一昔から交流のあった国だよ。わたしの国にも、わたしの国の言葉ではあったけれど、その数え歌と同じ魔法があった。国が沈んだのは、三つ目の石の実験の途中のときだった。だからまだ確かな方法はわからないが、理論上は四つで国が復活するはずなんだ。わたしは石を集めながら、その魔法の秘密を探している。もう、ずっと探している。君とわたしは境遇が少し似ているよ。自分の故郷が他の国を巻き添えにして沈んだところは全く同じだ。それから、二つ目の石を投げ入れるところまで、終わらせたことも」
 フジはもう一度水底を覗き込んだ。しかし水はもう金色ではなく、墨汁のように黒い水に戻っていた。
「君も残り二つの石を手に入れ、魔法の秘密を探るんだ。谷の人間として、君はそのように生きなければいけない」
 サリーはもう一度フジの背中に手を乗せて、体を温める魔法をかけた。それから、フジの乗っている戸板に長い腕を乗せ、海の向こうを指さした。指の先の水平線には、船の影が見える。
「国連の船がようやく来た。ずいぶん時間がかかったね。あの人たちが助けに来るまで、この板に乗っているといい。わたしは、捕まるのはごめんだからここでさよならだ」
「ま、待って!」
 フジはサリーの指先を両手でつかんだ。
「海賊の人たちは。皆は、どうなっちゃったの?あたし、夢中で船を壊しちゃったみたいだけれど」
 フジの乗っている板切れは、最下甲板の床だ。水とゴミがたまっていて、とても臭かったあの床と、同じ臭いがするので分かる。船は、まったくもって分解されてしまったのだろうか。フジは最後に見た、ポウの顔を思い出した。水に落ちる寸前に空を見上げたあの視線と、沈んだときに見た、水の中で固く結んでいた口が、瞼の裏に焼き付いているようだった。
「海賊は、あそこに見える大きな残骸の影でボートに乗っているよ。皆無事だ。わたしもそこに行く」
 しかしフジにはそれが本当だとはどうしても考えられなかった。
「嘘じゃない。君の目は海水でやられて、見えにくくなっているからわからないだけだ。心配ないよ。誰も死んでいない」
 サリーはなおも言ったが、フジは納得できなかった。あのどさくさの中、いったいどうして彼が皆の無事を確認できたのだろうか。
「ああ、ボートが遠ざかってしまう。とにかく、全員無事だから。大丈夫だから、必要でないことは忘れなさい」
 しがみつくフジの手を振りほどくと、サリーは泳いで行ってしまった。彼の言う通り、フジの視力はとても弱っていて、体一つ分も離れるとサリーの姿は見えなくなってしまった。
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