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八 幸福度の上昇と、あだ名が決まること

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 それからというもの、あたしはリューダと時折言葉を交わすようになった。彼女はあたしのことをフジさん、と呼ぶ。あだ名ではないものの、一歩前進である。否、一歩どころではない。あたしの社交面での幸福度は飛躍的に上昇した。授業中、教師の指名を受けてへどもどしていると、リューダがこっそり助けてくれることもあったし、親から送られてきたおやつを、休み時間に分けてくれたりもした。
 その日もリューダはあたしに珍しい焼き菓子をくれたので、あたしは一人、昼休憩の際に中庭でそれをもそもそと食べていた。
 すると同じ教室の男子がめざとくそれを見つけて、はやし立ててきた。あたしはお菓子を食べているだけなので、特にはやし立てる要素もなかろうものの、そこは十歳の童子、それに女子よりも幼稚度の高い男子である。道理なき理屈でなんやかやと、あたしを遠巻きにして笑いものにしてきた。
 あたしも大人の余裕で無視すればよいものの、やたらかわいいクッキーの意匠やら、それを包む布巾の無邪気な可愛らしさがなんとなく気恥ずかしく、それらと自分の口の中のものをこそこそと隠そうとして、卑屈な体勢をとっているものだから、男子たちは余計に調子に乗ってしまった。
 悪乗りが高じてくると、彼らはあたしの髪や衣服をひっぱったりし始めた。しかしあたしは前髪の小童どもに向ける刃は持っていない。恥辱に震えようとする顎を抑え、まずは口中のものを腹に納めなければならない。ところがこの焼き菓子、やたら口の中の水分を持っていく。おいしいことにはおいしいが、少しずつ噛みとりながら食べる傍ら、必ず飲み物を用意すべきお菓子である。その知識を持ち合わせていなかったあたしは、水など持っていない。さらに男子たちにはやし立てられた際、噛みかけの一枚を無理やり口に押し込んだため、咀嚼そしゃくするのも一苦労だった。口中のものは一向に飲み下せず、その嵩を減らさない。一度噛み合わせた顎を、もう一度持ち上げて、さらに嚙み合わせる、というのがひどく億劫になってきた。
 そのとき、園芸部の部長であるアンがつつつとあたしに寄ってきて、水の入ったコップをあたしに差し出してくれた。後から考えると、彼女はじょうろにはいっていた水を、花瓶がわりにしている空き瓶(藻がくっつきまくっている)に注いでくれていたのだが、あたしはそのときは助かった、と思うやら彼女のやさしさに感じ入るやらで、夢中でその空き瓶をつかんだ。あたしが水を口に含むのと、とある小童があたしに向かってカエルを放ったのは、ほぼ同時だった。すべての女子はカエルを忌み嫌い、それを見せられれば「きゃあ」などとかわいい声を上げると思っているのだろうが、浅はかなことだ。あたしはカエルが大好きだ。カエルが許してくれるなら、毎日肩に乗せて暮らしていたいくらいだ。
 ところが、少年はあたしにカエルを思い切り投げつけたのだ。だからあたしはそれがカエルであることに気づけなかった。何か黒い大きなもの、馬糞のようなものが、ぴょいとこちらに投げられたものだから、あたしも女子らしい反応、すなわち悲鳴を上げて逃げてしまった。
 女子らしい悲鳴となるはずだったが、口の中一杯に焼き菓子とそれを飲み下すためのじょうろ水があるので、一部のもそもそは噴出され、一部は喉の奥の器官に入り込み、あたしはぶっほぶっほぎゃぷぷ、と咽た。男子たちはその惨状にますます狂喜乱舞した。終わりである。明日からあたしのあだ名はロケットエンジンノズルに決まりだ。なんの、人生は短い。そのあだ名とあたしが付き合うのも、神々にとっては束の間の時間と言える。でも、墓石に彫られたらどうしよう。
 目を白黒させて地面に手をつくあたしの視界に、こじゃれた皮靴の先っぽがうつった。顔を上げると、すぐそこにアリフレートが立っていて、あたしの惨状を眉根を寄せて見下ろしていた。
 アリフレートは長身を屈めて落ちていたカエルを拾うと、それを無造作にごみ箱に捨てた。
 この学院は国内随一の富裕層が通う魔女育成校で資金が唸っているはずだが、色々なところをけちってもいる。学院内の設備、黒板や机を始めとして、魔法の実験器具や冷暖房器具はやたら旧式だ。そのくせ寮の各部屋に高価そうな置物や絵画、調度をそろえたりもしてくれている。学業を行う施設を充実させて生活の場である寮はまあ住めればいいくらいの状態にしておく、という方が学校という場の主旨に合いそうだが、なんとも不思議である。敷地内のいたるところに設置されているごみ箱は、これは生活の場というくくりなのか、最新のシステムを搭載している。ごみ箱にごみを入れると、すぐに敷地の隅にある焼却炉に転移することになっているのだ。つまり、カエルは燃え盛る炎の中に転移されてしまった。
「なんてことを!」
 あたしは急いでごみ箱を覗き込んだが、中は真っ暗で見えない。
「なんてことすんだよ!」
 あたしはもう一度言うと、今度はアリフレート目指して猛突進した。幸い、アリフレートは体格も優れた十六歳の男子である。手加減も情けもするものか。あたしは持てる力のすべてを使って、彼に殴りかかった。最初はつかみかかろうと手を伸ばして走っていたが、相手の体格がいいことから、すぐに形勢逆転される可能性も考えて、最初から殴ることにした。殴れるときに一発でも殴っておいたほうがいい。
 突然の奇襲にアリフレートも虚を突かれ、尻もちをついて数発殴られるままとなった。殴ったほうのあたしは、もう怒りというよりは、日ごろのうっぷんを晴らせる機会にうっとりとなっていた。
 へっへっへ、逃げられると思いなさんなよ、カエルの恨みを思い知るがいい、とあたしは舌なめずりをしたい気分で彼にまたがって見下ろした。姫なので、本当の舌なめずりはさすがにしないけれど。
 ところが彼は落ち着いて、ひょうっと口笛を鳴らしてこちらを見返してきた。
「女の子にまたがられるなんて、光栄だね」
 彼はそう言いながら、あたしのスカートの裾がめくれあがって腿があらわになっているのを、さりげなく直した。
「喧嘩の最中に女の子扱いされたくないね」
 あたしは彼の頬をもう一度叩いた。ほらよ、バシーン、だ。でもちょっと、やりすぎたかな?すると、
「女の子扱いはいらないんだな?」
 アリフレートはそういうや否や、あたしからするりと抜け出して立ち上がった。それからあたしの腕をとると、くるりと体を反転させてあたしを背中に乗せるようにし、そのまま投げ飛ばした。投げられた先は幸い、石畳ではなく芝生の方だったので、やはりあたしが女だから手加減したのかもしれない。良かった、手加減してもらえて。こっちの石畳の方だったら正直、保健室行きだったよ。保健室にある人体模型は苦手なんだ。そう思いながらもあたしは、地面にたたきつけられた衝撃で息もできず、四肢を投げ出して中庭に転がっていた。
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